御刀を購入したのは元平以来だから、20年ぶりとなる。兼光からだと30年ぶりだ。この国広は、何か御刀の方から、私との御縁を求めてきたような感じもしている。
重要図譜を元に、刃文は私が採り直す。拙いが、ご容赦を。 |
1.国広との会話
購入以来約半年、油も付けずに折りに触れて、作者である国広との会話を楽しんでいる。それをご紹介していきたい。国広の言葉は茶色の字にしている。
(1)姿・長さ・体配
「御刀は少し区送りですが、この姿、長さが私が所蔵する大磨上げ無銘の備前長船兼光-私は後世の鑑定家の竹中公鑒(こうかん)という人の鞘書があることから公鑒(こうかん)兼光と呼んでいる刀-と、うり二つと言っていいほど、似てるんですよ。わずかに反りが違いますが」
上:兼光(2尺2寸2分)、下:国廣(2尺1寸6分)(一つの枕に一振が原則だが、比較の為) |
「姿、手持ちの要素を考慮して刀を入手されているのか?」
「今の時代は刀を実用に使うわけではないですから、一切、気にしていないのですが、たまたま一致したと言うわけです。後世の人が、この御刀(国広)と公鑒兼光は同じ人物が所有していたことを知ると、所有者(伊藤)は、自分の身長、自分の技量などから、この長さと体配を好んだのかなどと推測されるかもしれませんね。姿、反り、長さにもこだわった愛刀家と誤解されるのも、楽しいです」
「変な男だが、わかる気もする。男はこだわるところも必要だ」
「今の時代の刀剣鑑定の見所として、慶長時代の刀の姿は、南北朝時代の刀を磨り上げた姿と教えているのですが、なるほどと思います」
「拙者が作刀していた時代の名のある武将は、南北朝時代の刀の磨り上げを好む風潮はあった。磨り上げを頼まれたことがあるし、山姥切り長義もそうだ。また刀の姿も、そのような姿の注文が多かった」
「こういう南北朝時代の磨り上げの身幅も広めの豪壮な体配の刀が好みなのか?」
「常日頃は意識しないから、改まって聞かれると困ります。身幅については、広めと言っても元幅は1寸も無く、ただ元幅に比して先幅がそれほど落ちていないから全体としては広めと言うことですね。今は実用を離れた時代で、鑑賞の時代ですので、地鉄の景色や刃中の働きを楽しむためには、身幅の広い御刀の方を私に限らず好む人が多いと思います。元幅はともかくとして、先の方の身幅が広ければ、結果として、姿は豪壮となりますね。身幅に関して、細かく比較すると、兼光は大磨上げだからという面もありますが、元から切っ先部分までの身幅がほぼ一定(先幅÷元幅=87%)なのに対して、あなたの御刀は区送りになってますが、元の方に比べて切っ先部分の身幅が少し狭いです(先幅÷元幅=80%)。元の方の身幅そのものは、兼光に比してあなたの方がわずかに広いです」
「なるほど。長さは少し短くてもいいのか」
「室町時代末期の2尺そこそこの御刀は短い感じがしますが、それでも、あまりこだわりは無いです。余談になりますが、あなたの御刀と公鑒兼光も、ともに比較的健全だから重量もある。歳を取ってくると、あまりに重たいのもつらくなります。私は「末広がり元平」と呼んでいる、あなたの時代よりも177年ほど後の時代に出来た脇差も所持しているのですが、この脇差も健全だから、公鑒兼光を一緒に持って歩くと、本当に重たくて、よく昔の人は、こんな重たいものを大小として腰に差していたのかと、感心しますよ」
「貴殿は鍛え方が足らんと思うが、老人が自分の体力に合わせて差料を替えるのは当然だ」
「今は腰に大小など差さない時代ですからね」
「兼光とは切っ先の長さが違うな」
「確かに、公鑒兼光は大切っ先で、あなたの御刀は切っ先が伸び心ではありますが、公鑒兼光ほどは大きくはないですね」
「重ねはどうだ」
「重ねは公鑒兼光の方が厚いです。兼光は、その分、樋を彫って重量を軽減してますが。南北朝時代の刀にしては兼光は重ねがある方だと思います。もっとも、兼光の中でも大平造りの水神切り兼光という異称のある刀の重ねは薄かったです。大平造りですから特殊ではありますが」
(2)全体の印象
「出来はどうだ。気に入ったか?」
「全体的な印象は”とらわれない気宇(きう…気構え)の大きさ”ということで気に入ってます。さすがに”堀川一門の創始者であり、棟梁の作品”という印象です」
「気に入ってくれて良かったが、わかりにくい評だ。もう少しわかりやすく説明すると、どうなのだ?」
「刃文は、今の鑑賞用語で説明すると、わずかにのたれ調の刃文に互の目刃が交じると言うことなのですが、それが”何とも言えない自然な感じの刃取り”です。語弊がありますが、”適当に刃取りしたら、出来てしまったような感じで、チマチマと技巧を凝らしていない”ところが好きです」
「適当な刃取りとは、ひっかかる評だが、あまり細かいことまで考えていないことは確かだ。慶長7、8年頃は、私も十分な経験を積んで、歳も60を過ぎていたからなあ。手は勝手に動いたのだ」
「直刃調の刃の部分は実に明るく冴えていて、また乱れた暴れている刃の部分は匂口が深いと言うか、刃部の全面が沸でボーとしている。この対比もいいです」
「この刀は特に明るい刃に仕上がっている」
「あなたの若い時、例えば足利学校に行かれていた時期の作品なども、もちろん評価されていますが、このような相州正宗や志津兼氏に似た作風では慶長7、8年頃の作品が、総体に一番高く評価されていますよ」
「そうか、400年後にも評価されているのか。以降の400年間に数多生まれた刀鍛冶の中でも、私は評価されているのか?」
「刀は、古刀、新刀、新々刀と大きく時代区分されていて、あなたは新刀期のはじまりの名工として評価されています。埋忠明寿とともに新刀の祖とされ、その新刀期の刀で、国が指定している重要文化財には、あなたが12振、次いで明寿が5振、虎徹が5振、繁慶が3振、国路、真改、康継がそれぞれ2振で、あとは国安、正弘、助広、国包、安代、重国が各1振と、あなたの作品が群を抜いています」
「明寿と私の弟子の鍛冶以外は、知らない鍛冶の名前が多いが、私より後の鍛冶だな。ところで重要文化財が一番高い評価なのか?」
「この上に国宝があるんですが、新刀では指定されていません。国の指定ではないが、昔に国が認定した制度としては、この下には重要美術品があります。海外流出防止の為にできた制度で玉石混淆ともいわれてますが、ここでは一番数多く認定されているのが康継が15振、次にあなたが12振、それから虎徹が10振、その後、助広、重国が8振、7振が忠吉、繁慶が6振、明寿と真改が5振、もっとも明寿は鐔が別に5枚認定されています。あと4振が認定されているのが国安、国路、正俊、国貞、国包です」
「貴殿のいる時代は刀を実用としていない時代だが、刀を常時佩刀していた時代の評価とは違うと思うが?」
「やはり評価は高いです。江戸時代と呼んでいるのですが、その時代でも徳川8代将軍の時代に本阿弥が選定したという”新刀六工”では助広、国広、真改、虎徹、繁慶、忠綱とされ、鑑定家神田白龍子が選定した”新刀四作”は国広、忠吉、虎徹、繁慶です。刀工水心子正秀による”新刀七上工”では国広、助広、忠吉、真改、重国、繁慶、虎徹となってます。本阿弥長根の”新刀五工”は正俊、国包、忠吉、重国、国広です。鎌田魚妙の『新刀弁疑』でも最高の評価の上々作二十七工選ばれ、順位としては助広、真改、国広と三番目に掲載されています」
「よく調べたな。実用の有無にかかわらず、昔も今も、評価は同じようなものだな」
「そうですね。私などは、御刀を拝見するのに、光源の選定は大事とか言っているのですが、昔は今とは比べものにならない明るさのロウソクの灯りですが、観る人は観ているわけで頭が下がります。やはり、昔から名刀と言われている御刀は、各時代の刀剣愛好家による選別、これは時代の選別と言ってもいいですが、それを経ているからでしょうね。今、拝見してもいいです」
「そのように評価が高いと、私の刀の価もそれなりなのだろう」
「もちろん、高価です。私も苦労しました。ただ、今の時代は人気という要素があり、有名人物が持っていたとか、刀工の人生が劇的だとか言う要素が加わり、新刀では甲冑師から50歳で刀鍛冶に転じたという伝説のある虎徹という鍛冶が人気が高いです。あなたも日向に生まれ、諸国を転々とされて功成り名を遂げた物語があるのですが、物語が伝説になり過ぎていますね。秀吉公の朝鮮出兵の時にも、一緒に渡海されたという伝説もありますが、もっとも今は否定されていますが」
「当時の朝鮮の役の時も、戦いでは鉄炮が主で、次は槍だからな」
「そう言えば”とらわれない気宇の大きさ”という私の評ですが、この御刀は今の時代の目利きと言われた本間薫山という人物がまとめた『鑑刀日々抄 続二』という書籍の中で取り上げられているのですが、そこでは”銘字も含めて、刃文とともに屈託がない”と評しています。」
「”屈託がない”とは評価している言葉なのか?」
「評価している言葉ですよ。屈託と「一つのことばかり気にかかり、心配していることとか、退屈や疲労などで精気を失っていること」ですから、屈託がないとは「とらわれることもなく、伸び伸びとしている」と言う意味ですよ。この御刀の白鞘には本間薫山氏の鞘書がありますが、「佳作重刀」と書き入れています。重刀とは、今の時代に、ある刀剣愛好団体が指定している重要刀剣という格付けの略ですが、その25回に指定されていて、佳作だと言うことです。佳作を優・良・可の可作と誤解するといけないのですが、佳き作という意味で、本間薫山氏は、鞘書に、このような評を書くことは少ないです。特に新刀に賞め言葉は少ないと刀に詳しい友人は言ってました」
「そうか、今の時代の高名な鑑定家が、佳作で、屈託がないと褒めているのか」
「この人は、この手の相州正宗を代表とする相州伝を高く評価している人で、その評価基準の中で”刃文が狂っている”などの言葉も使っています」
「”狂っている”も褒め言葉か」
「褒め言葉です。定まった刃文、すなわち整然としている刃文、決まり切って、想像できるような初心手の刃文とは違うということです。私も、この御刀の暴れた互の目の箇所で、全面が沸の中に互の目刃を焼いている箇所、こういうのを鑑定・鑑賞用語で島刃というのですが、どうしたら、こんなのが焼けるのか信じがたい思いです。まさに”狂ってる”と言う状態です。こういう刃も含めて、この御刀の特に差裏の刃紋全体が”狂っている”状態で、私は好きです。”暴れていると言うか放胆な感じなのですが、激しい感じではなく、穏やかで品がいい”印象なのが不思議です。差表の方は、中程にある湯走り(地沸が凝固している箇所)が放埒に沸が飛び散る中に、一部が凝固している状況で”狂ってる”感じで楽しいです」
「狂っているには抵抗もあるが、褒めていただいているのはわかる。銘字も”屈託がない”と評価されているのはうれしい。拙者は銘字には少し自信がある」
「堂々として、立派な銘字ですね。私も感心しています。同じ時代に鉄鐔を製作した信家という鐔工をご存知でしょう。私は信家の鐔も所持していますが、やはり二字銘で、堂々と銘を切っています。そして作風も、あなたの作刀とほぼ同時代の作品の鐔は、鍛え傷、ふくれ破れなどを気にしないで、放胆に、自然に造っています。そして、またこの言葉を使いますが”適当に、伸びやかに”造っている感じでスケールが大きいのです」
「鐔工の信家は知っている。同時代の名鐔工で人気があった」
「御刀を鑑賞する時は、上身の鑑賞中心だったのですが、この御刀においては、ちょくちょくと銘字を拝見して、あなたの精神、時代の風を感じております。ありがとうございます」
「こちらこそ、かたじけない」
「あなたに褒めてもらいたいことがあります。それは、茶道具を鑑賞する言葉として”ザングリしている”という誉め言葉があったのですが、それをいつの頃からか、刀剣愛好家は、あなたの地鉄の特徴を表す言葉として誤って使いはじめてしまっていたのを指摘したことです」
「ザングリとはどういう意味だ」
「元は京言葉で”自然な感じで風味がある”とか”風雅に垢抜けていて、自然な感じ”という意味で、それを茶道具の鑑賞において”大まかであるために、かえって趣きが感じられる”という意味に転用していたのです。先ほど、私があなたの作風を評した”とらわれない気宇の大きさ”とか”屈託がない”にも共通する感覚です。だから、この評は、これで的確なのですが、後世の刀剣関係者は茶道に縁がなかったために、その言葉をあなたの地鉄を評する言葉と誤解したのです。ザックリとかザクザクの言葉のイメージに引きずられたのだと思いますが、あなたの地鉄が肌立っていることにからめて、色々と苦労して定義を作って用いてきたのです。このことは「ざんぐり考」(平成25年8月30日)として、発表しています」
「そんなこともあったのか。訂正していただき、感謝したい」
「こういう感覚がわかったのも、自分の大事な金をはたいて、あなたの御刀を購入したからです。自分のものにして、何度も何度も拝見している中で、ここに述べたような”とらわれない気宇の大きさ”を感じ、それは茶道具鑑賞における”大まかであるために、かえって趣きが感じられる”、すなわちザングリであると同じ意味だと思い至ったということです」
「貴殿に世話になった甲斐がある。これが縁というものだ」
「縁ということですが、私も何か感じます。あなたの作品は高価で、私ごときが購入できるものではないのですが、本当に巡り合わせです。もっとも御縁があっても、代価としてのお金の介在が必要ですから、つらいところもありますが」
「金のことなど、武士であれば言葉にするな」
「今の時代は武士などいませんよ。家に家禄もあるわけでなく、会社は自分で創業して、社員も3人ほど使っていたことがありますが、自宅には家来も召使いもいないです。今は仕事から退いていますが、自ら働いて稼いできた身です」
「会社とは何だ?」
「昔で言えば商家みたいなもんです」
(3)刃文の印象
「もう少し、作品の出来について、感じたところを、聞かせてもらおう」
「まず、刃ですが、刃の沸は、細かくて見事です。サラサラしている感じも私は受けます。沸の粒に大小があるという感じはしないのですが、強いて言うと、差裏の沸の粒の方が、差表の沸の粒よりもわずかに大きめだと感じます。また表裏の刃ともに、刃の箇所によって、沸の粒の集まり具合が、色々と変化している感じです。焼きが高く、大きく乱れた互の目部分は全面が沸ていると先ほど述べましたが、沸の粒が拡散している感じで、匂口が深く、ボーとしています。逆に直刃調のところは、沸の粒が凝縮していて匂出来のような感じにも見えます。沸の粒が凝縮している分、刃の冴えが非常に強いです」
「確かに刃の冴えは、そういうところがあると思う」
「私は、刀は地刃冴えるものの方が好きで、その意味で、この御刀は直刃調のところなど左文字のように明るく冴えていて、大好きです。逆に匂口が広く拡散している焼きの高い互の目は、沸の粒が一粒ずつわかり、全体に砂を撒いたようで面白いです。これがサラサラと感じる理由なのかもしれません」
上:差裏、下:差表 |
「表裏の刃紋の調子は違うだろう?」
「そうですね、差表は直ぐ調にわずかにのたれた刃に不規則な互の目刃が3~4つ程集まった箇所が3箇所ほどある刃ですね。差裏は互の目刃と言うより乱れ刃ですが、さらに種々の変化を持って連なり、また大きく乱れています。”暴れているのですが、穏やかで品がいい”印象を受けるのが不思議です。”放胆な感じですが、力んで放埒になっているのではなく、本当に適当にやって出来た”ような刃文です。後世に大坂の鍛冶津田助広が波が打ち寄せるような大胆な刃文を濤濫刃と名付けて工夫しましたが、それを先取るような穏やかな豪快さがあり、好きです」
「先ほどの全体の印象のところでも聞いたが、”穏やかな豪快さ”とか”暴れているが穏やかで品がいい”とか”放胆な感じだが、力んで放埒になっているのではなく、適当にやって出来た”は、なかなか良い表現だと思うようになった。ありがたく思う」
「互の目で乱れた刃文ですが、”大きく乱れると、大きく沸崩れ、小さく乱れると、沸もそれなりに崩れ、直刃調のところは沸が凝縮している”というメリハリが面白いです。繰り返しになりますが、直刃調で沸が凝固しているところは実に明るい匂口で好きです。そして、このメリハリが本当に自然なんですよね」
「面白い表現だ」
「刃の方の評としては、そんなところか?」
「刃中の働きとしては、小足が入り、葉も飛んでいるところも、それなりの変化です。また細かい金筋、あるいは稲妻一歩手前の働きがある箇所も、細かく見ていくとあります。地景の出方を反映しているのか、金筋は縦に小さくという感じですね」
「これからお話する内容も、先ほど触れましたザングリの言葉の見直しとともに、あなたに縁があった一因かもしれないのですが、私は、あなたと同時代の絵師:俵屋宗達などの絵画技法と、あなたが主導し、本阿弥も評価した相州伝の作風との共通性を指摘しています」
「俵屋宗達は知っている絵師で、扇子の絵も画いていた男だが、刀における相州伝との共通性とはどういうことだ?」
「俵屋宗達における絵画手法に”没骨(もっこつ)法”というのがあります。要は、輪郭を描かず、初めから画面に形と色を同時にあらわすという技法で、言い換えれば形を線で表現するのではなく、面で表現する方法です。これは、あなたの刃文において、乱れの山が高くなったところに見られる互の目刃の全面に沸が拡散した状態と同じです。”面の互の目”です」
「なるほど」
互の目の面全体 に沸 (没骨法) |
「また宗達は”たらしこみ”という技法も使っています。これは、先に塗った墨がまだ乾かぬ内に濃度の異なる墨を部分的に加え、両者が混ざりあって複雑な濃淡の墨面を造りだす手法です。あなたの御刀で見られる島刃(定義はいくつかあるが、私は刃の中に飛び焼がある状態を言う。刃に接して飛び焼がある状態を言う定義もある)は”たらしこみ”の技法と共通しています。ひとつの沸の平面で構成した刃文の上に、もう一つ別の刃文を沸で焼くという感じです。これらのことは、新刀初期の作風変化における美術的視点(平成24年10月11日)として発表しています。あなたの刃文はまさに没骨法であり、たらしこみを使った表現だと思います」
「独特の見方だが、首肯できる見方で面白い。時代が求めた作風であったと言える。お客である当時の武士の嗜好に、造る方も影響されたとは言える」
島刃…刃の中 に飛び焼き (たらしこみ) |
「今、気が付いたのですが、前述した論文の中で、桃山時代の絵画手法の”金泥、銀泥の多用”に関しては、肥前の忠吉の梨子地肌との共通性を指摘したのですが、今回、あなたの御刀を自分のものとして、拝見している中で、湯走り(沸が凝縮している箇所)にかけての沸や、飛び焼(沸で周りを囲んだ焼刃)の周りの沸や、刃縁の沸が細かくて、サラサラしているのを見ると、これも桃山時代の絵画手法の金泥、銀泥に共通するのかなとも感じ始めています。湯走りの箇所や、直刃調で沸が凝縮して輝きの強く冴えた所は金泥であり、面の互の目刃のように、少し拡散してボーとしている沸の所は銀泥です。いずれにしても、あなたは大したものだと思います。新刀の祖と言われるだけのことはあります。俵屋宗達などは本阿弥光悦から、あなたの作風や相州伝の作風から、教えられたのかもしれませんね」
「このような作風・技法が拙者が先か俵屋が先かは俵屋や光悦殿に聞いてみないとわからんが、貴殿とは仲良くなれそうな気がする」
「恐縮です。仲良くなどは恐れ多いことで、私はあなたを尊敬してます。この湯走り(沸が凝縮している箇所)、飛び焼(沸で周りを囲んだ焼刃)、島刃(刃の中に飛び焼がある状態または刃に接して飛び焼がある状態)、それに湯走りが鎬地にも散って棟焼きのようにもなっている状態は、下手な鍛冶だと品が無いものになりがちですが、あなたの作品では、そのような印象はなく、大したものだと思います」
「今の時代の人も、このような刃文や働きを好むのじゃな」
「そうでもないんですよ。今の人は派手な刃文は好きなのですが、ここまで暴れるのは好まない人が多いのかもしれません。棟焼きなどは汚いと感じて、熱したアカをかませて消すような処理を依頼する者もいるようです。あなたの弟子筋の国貞(親国貞)などは棟焼きが特色なのですが、消されている刀もあるようです。また地鉄などは傷・欠点があると極端に嫌う状況です」
「そういう時代なのか」
「深みがなく、表面的な時代なのかもしれませんね」
「お話をしている中で思ったのですが、あなたや鐔工:信家が生きた時代が、長い日本の歴史の中でも特別な時代だったのかもしれませんね」
「どういうことか」
「美術は、この時代に生まれた茶道を認識しないといかんと思うのですが、その茶道の美学で説明すると、千利休の”冷凍寂枯=何も削るものがないところまで無駄を省いて、緊張感を作り出す美”から、古田織部の”破調の美=「剽」、「個性の競合」、「自由」、「奔放」、「斬新」、「独創」、「バサラ」の美、そして小堀遠州の”自然な雅やかさ=季節感を大事にし、日本古来の「雅」「艶」を生かし、主観的な美ではなく客観性を持たせ、多くの人が共感できる美”に移り変わりますが、あなたの狂った作風や、太字銘信家のふくれ破れや鍛え割れのある作風は”破調の美”で古田織部の美ですね。この時期の特別な美学ですよ。この後の時代は、わかりやすく、きれいな小堀遠州の美から、尾形光琳に代表される、より装飾的な琳派の美、それから美しいものの写実の美などに移り変わるのですが、割れた茶碗を継いで喜ぶような美は、この時期だけに生まれたのです」
「なるほど」
「もっとも、貴殿の時代も、今、上げた3人の茶道家だけの美学だけで、全てが説明できるわけはないと思います。武将茶人で言えば細川三齋、上田宗固の残した美術品もなるほどと思うし、この時代の武将の拵は太閤にしても徳川家康にしても、皆、個性的でいいです」
「話は変わりますが、あなたの御刀は物打ちあたりが激しい刃紋になって、私は好きです。元が激しく、上に行くと寂しいのは美的に一格落ちると私は思ってます」
「自分で造ってみても、乱刃を焼いて、物打ちあたりが寂しいのは好まない」
「あなたとお話している過程で気が付きましたが、あなたの御刀は、”部分的なことよりも刃文全体の調子に目が行って、それがすばらしい”ですね。他の御刀では、部分的に、この刃文、あるいはここの部分の働きが好きだと言うことが多いのですが、この御刀は”全体の刃文の調子、具体的には刃文の広狭、沸の密度の差によるリズム感、放胆に暴れているが、全体には穏やかな調子、ゆったりした自然な調子”と言う全体が何とも言えないです」
「リズム感とは何だ?」
「音の強弱が周期的に繰り返されることですが、私は刃文のメリハリがある調子が観ている者に気持ちの良い印象を与えるという感じで、使っています」
「拙者の作刀には、このように匂口の明るいのではなく、匂口の沈んだものもあるがどう思う」
「名刀とは”地刃冴える”もんで、刃の冴えは明るさにつながります。沈んでいる方が切れ味は良いとか言う人もいます。私は、そうは思っておりません。あなたの後の時代に、試し斬りの専門家が生まれ、その人と門下の者が、実際に各作者の刀で試し斬りをして、斬れ味の評価を書物にしています。最上大業物、大業物、良業物、業物に分けているのですが、あなたより後世の鍛冶になりますが、先ほど述べた人気のある虎徹は切れ味の良さでも評価されているのですが、それは本当に明るく冴えてます。肥前忠吉も明るい刃ですし、私の愛刀:兼光も最上大業物として切れ味に高評価を得ていますが、匂口は明るい方で水神切兼光と言う上杉家に伝わった刀と同様です。もっとも波泳ぎ兼光は匂口は沈み心です。好みかもしれませんが、”地刃明るく冴える”ものがいいです」
「今の話の中で知ったが、そのように刀を斬れ味だけで評価している者もいたのか。実戦では鎧・甲も装着しているし、裸の罪人を斬るのは違うし、一人斬るだけで良ければ重ねは薄くした方がいいし、刀工としてはひっかかるところもあるな。ところで、私の斬れ味の評価はどうなのだ」
「あなたは大業物です」
「鋩子はどうだ?ここは難しいのだ」
「表は乱れ込み、先は匂口締まり心に小丸に返ってますね。裏も同様ですが、小丸に返るところが少し崩れてますが、全体の刃文の暴れ具合、狂い加減からすると、物足りないところがあります」
「鋩子は褒めてくれずに、物足りないか」
「私は、公鑒兼光のロウソク鋩子で、鋩子の楽しさを知ったからかもしれませんが、鋩子にはうるさいのです。小丸だから品がいいわけではないですし。折れやすい切っ先の強度を増すとか刺突を鋭利にするいう鋩子の本来の機能を満たすことが第一ですが、刃文の先が鋩子であることから、刃文との関係が大切です。また切っ先全体の形状との関連が大切です。刃文がこういう調子で狂っているのだから、鋩子ももっと暴れて狂って欲しいです。ここまでの刃文の調子なら、塩川来国光や日向正宗の鋩子のように、鋩子で玉を造るほどの調子でもいいと思うのです」
「なるほど、一理ある意見で、加えて面白い。鋩子で玉を造っても面白かったかもしれない。言い訳になるが、この頃は志津三郎兼氏の作風を研究していたから、志津の鋩子の影響を受けた面もある」
「丸く返る鋩子は、確かに、志津の影響かもしれませんね。あなたの御刀も含めて、国広一門の大変な愛好家だった伊勢寅彦氏という人が愛蔵していた国広が現存しているのですが、これも慶長7、8年頃のもので、彫りが減ったところまで、本歌の志津を写したと言われているものですが、この御刀とよく似ているのです」
「覚えている」
「それも、含めて、現存している慶長7、8年頃の作刀の押形を並べてみます。加藤清正所持の御刀や、あなたの主筋の伊東家に伝わった御刀もこの時期の作刀なのですが、昔の押形しか入手できず、それは墨で書いていて、ちょっと感じが違うので控えます」
伊勢氏遺愛『鑑刀日々抄』の補遺。佐野美術館「正宗」展カタログより、刀剣美術497号口絵もある。 |
重要文化財で、石田三成の所持銘を消したとも言われている。『鑑刀日々抄 続』 279頁より |
津島氏遺愛 『鑑刀日々抄 続』 609頁、206頁より |
三矢氏遺愛 刀剣柴田「現存の優品76」より |
「御刀を自分の所有にすると、鑑賞力だけでなく、鑑定的な研究も自然に進みますが、慶長7、8年頃のあなたの御刀における鋩子の手癖として、乱れ込む際に互の目2つが入るところがありますね」
「そうか自分では意識してないが、上記の刃文は、そうなっているな」
(4)地鉄の印象
「刃の評価はわかったが、地鉄はどうか?」
「地鉄については、私は求めるところは高く、あなたの地鉄には満足していません」
「きついことを言うな」
「どうしても公鑒兼光の地鉄と比較してしまいますが、これは実に感度が良いと感じる鉄で、かつ潤いのある感じの鉄です。そこに地沸が細かくついて、ふっくらした柔らかみを感じます。そこに全面に乱れ映りで、昔から”備前の鉄は春霞”と言われているのがわかる感じです。鉄の感度が良すぎるせいか、乱れ映りが刃中に入り込み、染みたようになっています。そして、この地鉄に美しい銀の鉱脈のような地景がウネウネと入ってます。地景となるような種類の違った鉄の筋が、それぞれよじり合って地鉄に入っているようで強靱な感じもします。地景が地鉄の表面に現れるだけでなく、刀身を縦、横、斜めに貫いているような気もしています。公鑒兼光は地は板目肌に杢目肌が交じるのですが、地景も杢目状になった箇所があるんですよ。その地景の杢目を花芯と見なして、周りの乱れ映りがボタンの花びらのように見えているのです。これが牡丹映りです。この兼光の地鉄と、あなたの地鉄を比較すると、潤いのある強靱さと言う感じでモノ足らなさを感じてしまい、この御刀を購入にためらったのですが、畏友のH氏や先生方から、古刀の地鉄と新刀の地鉄を比較してはかわいそうですとの声もあり、確かに新刀は新刀の良さを評価すべきだと思い、購入しました」
「厳しい評だな。地鉄は私も悩み、工夫したが、昔の良い鉄は入手できなかった。備前長船のいいところの地金は夢だった。そういう時代に生きた一人の刀匠であり、時代の制約は受ける」
「そうですよね。芸術家は時代の子という面はありますね。あなたは時代における鉄資材に不満があり、それは、その通りだと思います。康継などは南蛮からの輸入した鉄を使ったりしています。しかし、慶長という時代の空気が、あなたの作品を素晴らしいものにしていると思いますよ。前述した”とらわれない気宇の大きさ”などは時代の力が相俟っていると思います」
「そんなもんかな」
「私は、もう一振、あなたよりも177年ほど後にできた薩摩の元平という鍛冶の脇差を所有しているのですが、この地鉄は、あなたより70年ほど後の時代に大坂で活躍した津田越前守助広や井上真改という鍛冶と同じような、高度に精錬された地鉄を使っていると思います。元平の若い時代の作品の地鉄は薩摩のではなく、大坂のだと感じています。この地鉄は鍛えると、よく詰んだ地鉄が出来、鎬地などは透明感の強い黒い感じに仕上がります。この頃になると、鉄精錬の専門業者も生まれ、技術も発達して、面白みは少ないですが、清澄・精良で感度の良い地鉄が生まれと感じます。当時の大坂は日本の各種物資の集積地でしたから、最高の鉄が集まっていたのです。薩摩の元平は、そのような良い地鉄を何かのツテで使えたのだと思います。交通網も発達して、大坂と薩摩も容易に商売が出来たのだと思います。私の元平の脇差は、この良い地鉄を感度の限界まで沸づかせた感じで、物打ちから上は、地沸に埋め尽くされていて、これはこれで面白いものです」
「確かに貴殿は地鉄にこだわって、御刀を購入していることがわかる」
「自分の想像で能書を語っているだけで、本当かどうかはわからないのですが、人様のモノではなく、自分のモノを語っているだけですし、他人に認めてもらおうと言っているわけではありませんから、ご容赦をお願いします」
「あなたの地鉄は、粘り気が少ない感じもしますね。それで鍛接面が眼に付いて”肌立つ”感じとなるのでしょうね。だから、前述したように茶道具鑑賞用語のザングリをザクザクとか、ザックリと誤解していたのかもしれません。人によってはサラサラしているというような印象を与えるのでしょうね」
「そういうことか」
「ただ、この御刀は、中程のところが肌立つ感がある程度で、全体には密に詰まった地鉄です。粘りけの少ない地鉄から生まれる沸が、細かい砂のような、一粒ずつを意識させる沸になっているのだと感じます。また、こういう粘り気の少ない地鉄だから”たらしこみ”である島刃などが焼けるのかもしれませんね。何でも「光あれば影あり」です。何度も拝見している中で、あなたの地鉄もだんだんと好きになってきてます」
「不満足な地鉄だが、そのように好きになっていただいてありがたい」
「地景はどうだ?」
「この御刀の地景は、チラチラと、それも比較的縦方向に多く、しかも長さが短い感じで目につきます。これが刃中に入ると、縦に短く見える金筋になってます。地景の短さが、地鉄が粘り気の少ない感じを表しているのかもしれませんね」
「地鉄にきついことも言いましたが、刃文のところで述べた湯走り(沸が凝縮している)は地鉄の働きに含めるべきでしょうね。湯走りとして、地沸が凝縮している様子は面白いです。どうして、こんなことが出来るのか不思議です。また湯走りのところの地沸は強い光の粒であり、それが散らばり、また凝固している様子は、金の粒をばらまき、集めた感じで楽しいです。地にこぼれた沸の光が強く、先ほどは桃山期の絵画技法の金泥に比しましたが、金泥というより、金の粒で、豊かな気分になります」
「地鉄の中でも、気に入ってくれて、評価してくれるところがあって良かった」
「差表の刃文は、それほど狂っていないのですが、中程の湯走りは狂ってます。地沸の範囲が広く拡散して、全体の景色が美しいわけではないのですが、変化に富んでいて、そこに見られる金の粒のごとき沸の輝きはいいです。湯走りは、物打ちにかけて鎬筋に沿って湯走りが続き、見ようによっては”沸映り”です。鎬筋から棟焼きにつながっているところもあります。こういうところが構わないところで、適当というか自然なんですが。物打ちの互の目の上にも湯走りがあります。差裏は、ハバキ元から7寸くらいのところに、金の沸が集まっています。湯走りまではいかないですが、映りのように白く見えます。さらに少し先に行くと、互の目からつながった湯走りがあります。それから物打ちにかけて湯走りまでいかない沸の集まりが続き、物打ちのところに湯走り、そして鎬地にも棟焼きという状況です」
(5)作風の変化
「先ほど、時代の話がでましたが、私が感心しているのは、あなたが、末古刀期の匂口が締まった刃文から、沸出来で、匂口の深い作風に変化させ、以降の新刀期の刀工の多くの先駆けを果たした点です。藤代松雄という現代における研ぎの名人の言葉として読んだ記憶があるのですが、「作風を変えられるのが名人の名人たるところ」という面はあると思います。兼光も、そういう点があります。現代ではあなたの作刀を「古屋打」「天正打」「慶長打」と区分しています。ともかく優れた芸術家は、自ら作風を変えて独創を試みてます」
「芸術家とは何だ。私は刀鍛冶だ」
「今は刀は実用で評価するのではなく、美術的観点からの評価なんですよ」
「言わんとするところはわかる。私の時代も、刀は実用だけで評価されていたわけではない。本阿弥の連中はそういう評価をしていたと思う」
「後世の名工の津田助広、井上真改、虎徹、清麿、正秀も作風を変化させています。名人は現状に安んずることなく、色々と工夫するからだと思います。正秀という鍛冶は、作風を変えてからの方が地味になり、今の時代の人からは評価されてませんが、時代を先取ったところは偉いです」
2.国広との会話を終えて
この国広は、25回の重要刀剣で、『鑑刀日々抄 続二』395頁に所載されている。調書的な刀の評に興味があれば、参照していただきたい。もっとも調書だからと言って正しいかと言うとそうでもない。ただ伊藤の上記の鑑賞内容よりは客観的かもしれない。
上記会話の中で、いろいろと評してきたが、自分の言ったことを改めて整理してみたい。
(全体の印象)とらわれない気宇の大きさ(気宇(きう):気がまえ、心の広さ)
(全体の印象)堀川一門の創始者であり、棟梁の作品
(全体の印象)規則的ではなく、自然な感じの刃取りで、語弊があるが”適当に刃取りしたら、出来てしまったような感じで、チマチマと技巧を凝らしていない”
(全体の印象)鑑定家:本間薫山氏は本でこの刀を取り上げ「銘字とともに屈託がない」と評し、鞘書に「佳作重刀」と書いている。屈託がないとは「とらわれることもなく、伸び伸びとしている」と言う意味だ。
(全体の印象)「狂っている」感じだ。島刃はどうしたら、こんなのが焼けるのか信じがたい。差裏の刃紋全体が”暴れていると言うか放胆な感じなのだが、激しい感じではなく、穏やかで品がいい”印象なのが不思議だ。差表は、中程にある湯走りが放胆に沸が飛び散って、一部が固まっている状況で”狂ってる”感じで楽しい。
(銘字)堂々として、立派な銘字で、本間薫山氏は「屈託がない」と褒めているが、私も感心する。同時代の鐔工:信家の二字銘と印象が似ており、堂々と銘を切っている。信家も「放胆に、自然に造っている」というか「適当に、伸びやかに造っている」感じでスケールが大きい。
(全体の印象)正しい使い方のザングリ(茶道具の鑑賞における”大まかであるために、かえって趣きが感じられる”)という評は、”とらわれない気宇の大きさ”とか”屈託がない”にも共通する感覚で首肯できる。
(刃について)沸は、細かくて見事です。サラサラしている感じもする。沸の粒に大小があるという感じはしないが、強いて言うと、差裏の沸の粒の方が、差表の沸の粒よりも大きめと感じる。
(刃について)刃の箇所によって、沸の粒の集まり具合が、色々と変化。焼きが高く、大きく乱れた互の目部分は全面が沸ていると言うか、沸の粒が拡散している感じで、匂口が深く、ボーとしている。逆に直刃調のところは、沸の粒が凝縮していて匂出来のような感じで、沸の粒が凝縮している分、刃の冴えが非常に強い。
(刃文について)暴れているのですが、穏やかで品がいい印象。
(刃文について)放胆な感じですが、力んで放埒になっているのではなく、本当に適当にやって出来たような刃文。津田助広の濤濫刃を先取るような穏やかな豪快さがある
(刃文について)大きく乱れると、大きく沸崩れ、小さく乱れると、沸もそれなりに崩れ、直刃調のところは沸が凝縮しているというメリハリが面白い。
(刃文について)直刃調で沸が凝固しているところも、実に明るい匂口だ。
(刃中の働き)小足が入り、葉も飛んでいるところもある。また細かい金筋、あるいは稲妻一歩手前の働きがある箇所も、細かく見ていくとあります。地景の出方を反映しているのか、金筋は縦に小さくという感じ。
(桃山の絵画手法の共通性)没骨(もっこつ)法(輪郭を描かず、初めから画面に形と色を同時にあらわすという技法で、言い換えれば形を線で表現するのではなく、面で表現する方法)は、乱れの山が高くなったところに見られる互の目刃の全面に沸が拡散した状態=”面の互の目”そのものだ。
(桃山の絵画手法の共通性)たらしこみ(先の墨が乾かぬ内に新たな墨を使って複雑な濃淡を表す)は島刃(刃の中に飛び焼)だ。ひとつの沸の平面で構成した刃文の上に、もう一つ別の刃文を沸で焼くという感じ。
(桃山の絵画手法の共通性)”金泥、銀泥の多用”は、湯走り(沸が凝縮している箇所)の箇所や、直刃調で沸が凝縮して輝きの強く冴えた所は金泥、面の互の目刃のように、少し拡散してボーとしている沸の所は銀泥として表現されている。
(刃文について)湯走り、飛び焼、島刃、湯走りが鎬地にも散って棟焼きのようにもなっている状態は、下手な鍛冶だと品が無いが、この御刀ではそういう印象はない。
古田織部の”破調の美=「剽」、「個性の競合」、「自由」、「奔放」、「斬新」、「独創」、「バサラ」の美を刀剣で体現している。鐔工だと太字銘信家のある時期の作風だ。
(刃文について)物打ちあたりが激しい刃紋になるのは好きだ。元が激しく、上に行くと寂しいのは美的に一格落ちる
(刃文について)放胆に暴れているが、全体には穏やかな調子、ゆったりした自然な調子。
(刃文について)この御刀の刃文は、部分よりも刃文全体の調子に目を向けるべきで、それがすばらしい。具体的には刃文の広狭の取り方、その刃文の沸の密度の差によるリズム感(メリハリがある調子が観ている者に気持ちの良い印象を与える)がいい。
(鋩子について)全体の刃文の暴れ具合、狂い加減からすると、物足りない。志津写しだと思うが、この刃文の調子なら、塩川来国光や日向正宗の鋩子のように、鋩子で玉を造るほど狂ってほしい。
(鋩子について)慶長7、8年頃の鋩子の手癖として、乱れ込む際に互の目2つが入る。
(地鉄について)潤いのある強靱さと言う感じで兼光の地鉄と比較するとモノ足らない。粘りけの少ない地鉄という印象。その為、刀によっては鍛接面が目立ち、”肌立つ”感があるのか?粘りの少ない地鉄から生まれる沸が、細かい砂のような、一粒ずつを意識させる沸になっている。島刃のような刃が焼けるのも、この地鉄だからかもしれない。何でも「光あれば影あり」だ。
(地鉄について)この御刀は中程に肌立つ感がある程度で、全体には密に詰まった地鉄。
(地景について)チラチラと、それも比較的縦方向に多く、しかも長さが短い感じ。地景の短さが、地鉄が粘り気の少ない感じにつながっているか?
(湯走りについて)地沸の範囲が広く拡散して、凝固している湯走りの景色も変化に富んでいて、そこには金の粒のごとき沸が輝いています。
いろいろと書いてますが、堀川国広は「穏やかさ」とか「とらわれるところがなく自然」を、この暴れた刃から感じる感性が大事なのだと思います。本当の意味のザングリ(「大まかであるために、かえって趣きが感じられる」とか「自然な感じで風味がある」)を感じられる感性とも言えます。
御刀は、自分の手元において、何度も何度も拝見することが大切です。もっとも、この為には、命の次に大事と言われているものを使う必要があるのが難儀なところですが。
また、このような鑑賞と鑑定は違うことが、ご理解いただけるかと思います。上記の28項目の内、鑑定的なことは24項くらいです。基本的な鑑定知識は鑑賞するにも必要です。そして、鑑定力は刀剣・刀装具で商売をする人には決定的に大事なことですが、刀剣を鑑賞して楽しむ境地とは別種のものです。愛好家であれば鑑定会ゴロにならずに、購入して楽しんでください。
理想は鑑定眼の確かな親しい人、もちろん商売人の方でいいのですが、この人が良いと判断して、持ち込んで来られるものを、数日、お預かりして鑑賞して、気に入れば購入と言うパターンです。往古の大コレクターは、ほとんど、このパターンだと思います。もちろん、より良いものを持ち込んでもらえる為に、商売人の方には儲けてもらう必要があります。そして良いものは当然に高価だから、ある程度の財力も必要になり、私などは、この真似は無理です。でも、自分のできる範囲で、この方向を目指すべきです。良い刀屋さんや、優れた刀職の方、信頼できる愛刀家との交流を大切にしてください。
特に、”最上作の傑作”は、刀の方から未熟な私に教えてくれることがあります。今回も、この国広を購入したことで、誤って使われていたザングリの意味を私なりに解明したと思ってます。桃山美術との共通性もさらに深く教えてくれました。はじめは今一つと思っていた地鉄も「こういうことか」とわかる面も出てきました。
公鑒兼光は、「古刀の名刀とはいかなるものか」を教えてくれて、「刀は地鉄」という基本を教えてくれ、私の目にきちんとした判定機を据え付けてくれました。
最上作ではないですが、末広がり元平は「鉄の美しさ」を新たな視点で教えてくれました。同時に幕末の主役になるのは薩摩だという覇気を感じさせてくれました。
最上作は世の中には出てきます。だけど、その刀工の傑作などはなかなか出ないです。まして打ち盛りの傑作などは夢です。最上作の傑作で健全なものなど、国の指定になっていて、普通の人は手に入らないのです。公鑒兼光は大磨上げ無銘、この国広は区送りです。 こういう御刀を逃してはいけないし、大事にしないといけないです。
以前に、本間薫山氏の愛刀家に対する助言を紹介したが、ここに再掲します。
この御刀の 白鞘は、木目が粗く、きちんと柾が通っておらず、形もやや薄く、気に入らず、中に当たりもあるのですが、本間薫山氏の昭和53年の鞘書があり、この書は好きです。ですから、このままにしておこうと考えてます。もっとも、鞘を割って当たりをとることは考えないといけないでしょうが。
白鞘内部に当たりがあるから、刀身にも小錆があったり、抜くと必ず古い油が付くような箇所があります。ヒケもあります。購入した刀屋さんには部分研ぎを依頼することがあると言ってありますが、このままでしょうね。ちなみに、購入してから半年くらいになりますが、まだ御刀と会話中であり、油をつけて納めたことはありません。
今回、重要刀剣図譜をコピーしたのですが、薄くなってしまい、補筆と考えたのですが、実際と異なるところも多く、また『鑑刀日々抄 続二』にも押形があるのですが、それとも違うと思い、自分で鉛筆で押形をとりました。もう少し上手にとりたかったのですが、仕方ないです。もう少し工夫してみます。私なんぞの押形は人様にお見せするものではなく、自分の勉強用とするのがいいのでしょうが。