古赤坂鐔は「四方松皮菱透かし鐔」を所有しているが、この鐔はそれとは少し鉄味が異なり、勉強の為に入手したものである。
縦78.8×横77.2×厚さ5.7 切羽台長43.0、丸耳 |
1.赤坂鐔の地鉄
この鐔は鉄色が魅力的である。ねっとりして艶のある黒が美しい。田中一賀は『金工鐔寄綴』に「赤坂鍔の鍛ひ地鉄にっとりとうるをひ有」と書いているようだが、”にっとり”とは”ねっとり”という感じと同義であろうと考える。ともかくしっとりとした湿り気のあるような地鉄である。
四方松皮菱透かし鐔と並べて、一緒に撮った写真で比較して欲しい。
この鐔の切羽台を斜めから撮り、鐔の切り立て部分がわかるような写真を、下図に提示する。茎孔の切り立て部分に三枚鍛えの痕跡、茎孔の下部(写真では右上)に長めの鏨打ち込みが見られる。
茎孔の横面は真ん中が凹んでいる。ここが一枚と考 えると、上下に別の鉄で三枚鍛えとなる。 この写真で右上(茎孔下右部)に鏨が入っている。 |
四方松皮菱 透かし鐔の 鏨 |
雪持ち竹 透かし鐔 の鏨 |
四方松皮菱透かし鐔の茎孔に、2筋の線(鍛接跡)が見られる すなわち、三枚合わせ鍛え |
これから、古赤坂鐔の三枚鍛え、切羽台の茎孔際の鏨などは、特色として言えると考える。
4.この図柄は何か?
透かしのデザイン面では、本来は大樹となる松を小柄櫃の孔を形取るのに用い、また同じく高くなる竹を笄櫃の孔に使用している。もちろん、縁起の良い松・竹である。
松は「松樹千年翠」という禅語もあり、竹も「松は千年、竹は万年」として常緑=長寿を愛でる言葉もあると聞く。
上下に、横向きの花弁を各3枚透かして、そこから内輪状の透かしも施している。松と竹と来たから、これを梅の花ととらえるのが常識的である。そこから、松も竹も冬でも葉が落ちずに、冬に花咲く梅とあわせて「歳寒三友」と言う画題になる。
同様の透かし鐔は、『粋な透かし 赤坂鐔』(佐野美術館)に掲載(図版27)されており、そこには伝二代忠正として「松竹梅透」と説明されている。また同作だと思われるが『赤坂鍔』(丸山栄一著)では、二代忠正の図版のNo3に所載されて「松竹梅」とされており、識者は当然のように歳寒三友としている。
『粋な透かし 赤坂鐔』(佐野美術館) に掲載(図版27)より 縦80.5、横80.5、耳5.9 |
梅とした横向きの花の花弁の一枚は、花弁の先に入隅 (いりすみ)があり、このような花は唐花とされている。だから私は梅と断定するのにためらっている。
では何の花か?
『新版 鐔・小道具画題事典』(沼田鎌次著)には「歳寒二雅」は梅と竹、「歳寒二友」は梅と寒菊とある。「四愛」は梅、蘭、蓮、菊で、「四花」は梅、水仙、菊、蝋梅、「四友」は梅、松、竹、蘭、「四君子」は梅、竹、蘭、菊、「五清」は梅、竹、蘭、松、石または梅、竹、蘭、芭蕉、石、「七香」は梅、百合、菊、水仙、桂花、茉莉、梔子とある。
上下各3枚の花弁から耳に沿って造られている円弧から、蘭の花弁の一部が垂れているようにも見えるが、松、竹、蘭だけの組み合わせの画題は無い。
『新版 鐔・小道具画題事典』(沼田鎌次著)の「歳寒三友」の項には「正月の松飾りに松と竹、梅の小枝とするが、梅は代わりに縄をもって梅の花をかたどり、結びつけたものがある」と記されている。縄で梅の花をかたどった現物を見ていないが、この鐔のような形もあるのかなと思い、この鐔の画題を歳寒三友(松竹梅)透かしとしておく。
さて、この鐔をA図として、上掲した透かし鐔(『粋な透かし 赤坂鐔』(佐野美術館)、『赤坂鍔』(丸山栄一著)所載)をB図として、比較すると次図の通りである(本来はB図の方が大きい)。
A図:所蔵品 縦78.8×横77.2×厚さ5.7 切羽台長43.0、丸耳 |
B図: 『粋な透かし 赤坂鐔』(佐野美術館) に掲載(図版27)より 縦80.5、横80.5、耳5.9 |
違いは以下の点である。ちなみにB図は上述してきたように二代忠正と極められている。
①横向きに花を透かした上部を、B図は更に透かしているのに対してA図は透かしていない。
②小柄櫃を構成している松の形態にちょっとした差異がある。
③笄櫃を構成している竹の形態に少しの差異がある。A図の方が竹に主幹は細く、形状は複雑である。
④大きさはB図の鐔の方が大きく、厚みもある。
これらの図柄の違いだけで、代別を区分することは難しい。同一作者による製作年代の違いとも、製作者の気分の変化に過ぎないとも考えられる。①に記した花の上部の透かしの有無を、透かしの手間を省いたと考えるとA図が後になる。一方、透かしをより巧緻にしたと考えるとB図が後となる。
おわりに-古赤坂鐔デザインの独創性-
古赤坂鐔は、大きな呉服商の雁金屋の彦兵衛がデザインしたと伝承されているように、デザインに自信を持っている感じがする。この鐔も平凡ではないデザイン感覚でまとめている。
しかし雁金屋彦兵衛のデザインは一時の時流には乗って流行したかもしれないが、独特過ぎて、あまり長い期間に流行はしなかったのではあるまいか。
四代忠時以降は肥後風のデザインが多くなるし、この図柄は後代の赤坂では製作されなかったのではなかろうか。現代の私も、このデザインには感情移入しがたい。具体的には、櫃孔を構成している松樹、竹幹がわずらわしい。これを普通の櫃孔形状にすると、すっきりした良いデザインになると思う。
こう書くと、雁金屋彦兵衛は「好き好きどすなぁ」と京都弁で答えてくれるだろうが、彼は自分の感覚に自信があるから意に介さずに作り続けるだろう。そういう自信を感じる鐔だ。この自信が鐔の強さにも出ている感じだ。