はじめに
この鐔は鉄味が良く、透かしの模様も簡素で左右・上下対称の金山鐔らしいものだ。大きさが約8㎝あり、地の方には塊状鉄骨をつぶして槌目を整えた跡もあるが、耳には長めの線状鉄骨が2箇所に出現している。俗に尾張骨と称せられる鉄骨であり興味深い。厚さは耳が5ミリで切羽台が気持ち薄い感じだが、計測すると同様である。
ここでは①透かしの文様と、その特色から見た傾向、②塊状鉄骨が見られるのと同時に見事な線状鉄骨があること、③これは約8㎝と大きいが、同図で小型(約7.5㎝)のものがある点、④裏を少し磨っていることの考察などを書いてみたい。
縦79.7×横79.5×耳厚5.0、切羽台5.0、角耳 |
1.透かしの文様
(1)「笠」でも「海鼠」でも「笈(おい)」でも「湯湧文」でもなく「山道文」
同図で小型のものが諸書に金山鐔の代表作の一枚として掲載されている。
『透し鐔』(小窪健一、益本千一郎、笹野大行、柴田光男 著)及び『刀装小道具講座 第一巻鐔工編』(若山泡沫 著)では「笠透し」として掲載されている。「刀装・刀装具初学教室(14)」(福士繁雄著『刀剣美術』463号)にも掲載され、ここでは「笈(おい)の図透し」とされている。各書とも法量(大きさ)は未記載であるが、写真が原寸だと考えると、縦75ミリ弱、横75ミリ弱である。
『透し鐔』(小窪、益本、笹野、柴田著)より 縦75弱×横75弱、耳厚5、切羽台5、角耳小肉 |
『透し鐔』の192頁の解説では、「笠透し鐔 無銘 金山 室町時代 鉄槌目地 角耳小肉 切羽台4.0ミリ 耳5.0ミリ」として解説に「鉄味は黒く艶があり、耳に鉄骨がはげしく出ている。左右に笠とも海鼠(なまこ)ともみえるものを透している。金山鐔には意味のわからぬものを透したものが多い。昔の人はこれを無意味透しとよんだ」と記している。
『刀装小道具講座 第一巻鐔工編』の114頁では「金山鐔 鉄地 丸形 角耳小肉 鉄骨 両櫃孔 槌目地 笠透」とし、「鉄味は黒く艶があり、耳に鉄骨がはげしく出ている。左右に笠とも海鼠ともみえるものを透している」と説明されている。
「刀装・刀装具初学教室(14)」(福士繁雄著『刀剣美術』463号)では「何を透かしたのか、よく分かりませんが、笈を図案化したのではないかと思います。写真でも分かりますが、粒状の鉄骨と塊状の鉄骨と、それに平地の変化が見事なコントラストを描き出しています。それに耳ですが、角耳小肉のところ、丸耳に近いところ、幅の広いところ、狭いところ、というように絶妙な変化は、見る人の心を引きつけてやみません」と褒めている。
インターネット上の陶器販売サイト 「宙(そら)」で見つけた萌窯作の 湯湧文のそば猪口 |
俗に温泉マークと呼ばれる文様も、湯気が立ち上る様子を図案化しているが、この文様は確かに伊藤満氏のご指摘の通りに「湯湧文」と称した方が妥当かなと考え2015年10月に当サイトにアップした。
2019年7月に『戦国武器甲冑事典』(中西豪・大山格監修)の「旗」の章を観ていたら、福島正則の軍旗が掲載されており、その山道文が湯湧文と同様のものであることを知る。鐔も武器の刀に付属するものであり、軍旗にも使われた山道文を透かしたものとすることが妥当と判断している。
「福島正則の軍旗は、黒地に白で二本の 波線が引かれ、旗の上には赤の招きが たなびく「黒地に山道、赤の招き」。 文献ではどのような軍旗を用いていたのか の確認はできないが『関ヶ原合戦図屏風』 では比較的詳細に描かれた軍旗を確認 することができた。」 |
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『戦国武器甲冑事典』(中西豪・大山格監修) |
なお、山道文については、鑑賞日記「刀装具の楽しみ記」の「肥後御家拵写し」の中で、ここに装着されている縁頭の波山道文について、次のような記述をしていた。ここに転載する。この時には、縁頭の波山道文、特に波と山道という不思議な組合わせだけしか関心が無く、この鐔の模様までは思いが及ばなかった。またここにも『戦国武将の合戦図』という本を読み、福島正則の軍旗を関ヶ原合戦屏風から識別もしていることを記しているのだが、粗見であった。
2017/9/9
細川護貞氏が永青文庫の季刊誌NO17(昭和61年発行)の中で寄稿された「肥後の金工」から、これまで「王者又七の2017/9/8」や「小道具の楽しみ記」の「彦三・二引き両透かし2017/9/2」などで引用・紹介したが、ここには、この御家拵(写し)にも付けられている波山道紋の頭について、次のような興味深い内容を紹介したい。
「(千利休と)更に三斎は仙台の伊達政宗公とも交渉があった。ー中略ー刀装の金具に於いて、肥後と仙台に区別しがたい程にかよったものがあるのは二人の友情がしからしめたものと云ってよいのではなかろうか。特に縁頭に於て然りで、一例を挙げれば、三斎の佩刀として有名な信長拵の波に山道の頭は、伊達政宗考案のデザインであり、三斎によってその形が肥後に定着したものである。つまり利休の「わび・さび」と仙台物の小粋な華やかさ、いわゆる「伊達さ」とが三斎を通じて、渾然と一体化したもの、それが肥後物の良さである。」
この拵の鑑賞記における「6.慶長期の拵と肥後拵えの共通性(波山道紋の不思議)」で、私はこの模様の起源について疑問を呈しておいたが、「伊達好み」という伝承もあるのですね。でも何で波に山道なのだろう?
2017/9/10
波山道紋が伊達政宗の好みという細川護貞氏の文に関して、伊藤満氏に確認すると、長岡恒喜氏の『仙臺金工之研究』(1935年刊)にも同様の記事があると教えていただく。長岡氏は熊本で生まれ、熊本五高で夏目漱石に学び、東大でも漱石が移った哲学科・美学を一期生として習った人物である。以降は教育者として福島、広島、山形で旧制中学の校長を勤め、刀剣、刀装具に詳しく、『荘内金工之研究』(1933年刊)も上梓された。細川護立氏にも講釈されているので、細川護貞氏の文の根拠は、ここにあろうとのことであった。
長岡姓であり、細川家の一門の生まれとも推測できる。
2017/10/12
先日、『戦国武将の合戦図』という本で福島正則の旗が山道文であることを知る。古い時代の関ヶ原合戦屏風には、縦棒がクネクネとなる山道文の旗が描かれており、時代が新しい関ヶ原合戦屏風には、横にギザギザの山道文の旗である。縦棒がクネクネの方が正しいようだ。
縁頭の頭の山道文とは違う形だが、この時代に山道文は旗印に使うほど、流行していたことがわかる。
湯湧文と考えていた時に「この文様が、いつの時代から使われはじめたのかを知ると、この鐔の時代判定の考証になるが、それは今後の研究課題としておきたい」としてきたが、福島正則の軍旗にも使われた文様、戦国武将が愛好した波山道模様と考えると戦国時代と考えるのが妥当であろう。
もっと限定して福島正則に結びつけると、福島正則が一軍の将として活躍した時代(天正15年(1587)9月に伊豫今治11万石の大名となり、元和5年(1619)に芸州広島の約50万石を改易されるまで)の時代に製作されて使用された鐔であると大胆に推測することも可能である。
ともかく、この鐔を室町時代のものと考えていたが、桃山時代のものと考えるべきなのだろう。
この鐔の地鉄は、「3.この鐔の製作時代」「(1)鐔の大きさ、耳の形状による判定」に記しているように、所蔵品の信家(太字銘)「戦争と平和図」鐔とよく似ているのである。そして信家(太字銘)には晩年に芸州銘があり、芸州とは福島家の抱え工なのである。(2019.7.12追記)
(2)金山鐔の文様から考えていること
伊藤満氏との会話の中でも出たが、鐔を製造・販売する時に、その時点で、鐔のデザインについて説明できないものを造ることはありえないと思う。販売する方も、「これは○○を写したもんで、縁起がいいですよ」、「今、都で流行っているんです」などの売り口上を使うものである。注文で造る場合は、注文者がデザインに意図を持って指定してくるのだと思う。
しかし金山鐔と分類されている鐔では、現時点で、そのデザインの意図がわからなくなっているものも多い。『透鐔 武士道の美』(笹野大行著)における金山鐔の特徴紹介の冒頭に「角耳・厚手、意味のわからぬ透しが多く、耳に鉄骨が出て、申し合わせたように小形の鐔である」という世評を紹介している。
ただし、金山鐔の中でも時代が下がる桃山期の金山鐔の図柄は所蔵の「松皮菱透かし」もそうだが、「釣鐘透かし」、「射光透かし(時計鐔)」、「稲妻透かし」、「雷文透かし」、「影鱗透かし」、「定規透かし」などで、狙いはわからないまでも図案はわかりやすい面もある。
現代では”意味のわからぬ透かし”だが、当時はわかっていた図柄と思うが、古刀匠鐔、古甲冑師鐔や鎌倉鐔、平安城象眼鐔や、尾張透かし鐔、古正阿弥鐔など、古い時代とされている他流派の鐔の図に比べると、金山鐔の図柄は特異な方である。
このように一般的でない図柄なのは、広く市場で販売することを考えずに、ある組織内(例えば、柳生鐔のような特定の剣術の流派、あるいは特定の寺院の僧兵向けなど)で使用されるのを前提にしていたのではとも考えているが、今後も研究していきたい。
しかし、なかなかに近代的なセンスなのである。ちなみに下図の「松葉透かし」鐔は、「山道文透かし」と同作者・同工房ではないかと思う。図柄の感覚が似ており、切羽台の形状が同様である。(写真がカラーでライティングの方法も違っているが)
すなわち、この作者・工房の特色は、①左右の櫃孔を模様の一部に取り込んで構成すること、②簡素な模様を透かすこと、③少し優しいというか、品の良い透かしと言うことだ。なお笹野大行氏は『透鐔 武士道の美』において、この「松葉透かし」を「左右升透かし」と同作者と観られており、そうなると、所蔵の鐔と「左右升透かし」とも同作となる。
縦79.7×横79.5×耳厚5.0、切羽台5.0、角耳 | 松葉透かし 『透鐔 武士道の美』より 80.5×78.8 耳5.5、切羽台5.0 |
左右升透かし 『透鐔 武士道の美』より 74.0×75.0 耳6.2、切羽台5.0 |
2.金山鐔の極めと合致しない点
この鐔は、同図の鐔が諸書に金山鐔の代表作例として掲載されており、金山鐔でいいのだが、尾張透かし鐔のようなところもある。ここで”尾張透かし鐔”と言う分類名を使っているが、これは現在の刀装具界で、このように称されているから使用している。私自身は尾張国で生まれたとの伝承に疑問を持っているから、この名称に反対であるが、鐔の分類としては認めている。(「三好一門との関係?「桐・三階菱透かし鐔」」で論述)
(1)耳の鉄骨は線状鉄骨
この鐔は、鐔の表面に塊状鉄骨をつぶした跡が数カ所ある。これは金山鐔らしい特徴だが、耳の横には、見事な線状の鉄骨が2カ所出ている。それも短い線ではなく、長めの線状鉄骨(右横は塊状から流れるような線状で、線の長さは約17ミリ、左側は15ミリ程度)が現れている。
耳の線状鉄骨 |
金山鐔は、鉄骨が特徴であり、「松皮菱透かし」鐔には、米粒よりやや小さい程度の粒状鉄骨と、もう少し大きくて不定形が塊状鉄骨の2種類が、共に現れている。
一方、線状の鉄骨は、尾張透かし鐔、赤坂鐔などにあるとされている。古赤坂「四方松皮菱透かし」鐔にも左下部に長めの線状鉄骨はあるが、丸耳の仕上げに際して磨かれて長さは測定しにくい。
尾張骨は短い線状鉄骨が多いといわれているので、これだけ長いのがあるのかわからないが興味深い。ちなみに所蔵の「桐・三階菱透かし」鐔には明瞭な鉄骨は見られず、鉄骨心があるだけである。
(2)鐔の大きさによる判定
金山鐔は小振りなものが多く、8㎝近い大ぶりなものは少ない。このように8㎝前後の大きい金山鐔は時代が上がると言う。『透し鐔』の金山鐔の作風解説に「形 丸形。足利期のものは大きく、桃山期から小形になる。」とある。『透鐔 武士道の美』(笹野大行著)にも「室町期のものは錆色が紫錆で大形のものが多いが、桃山期からのものは少し赤味を帯びて小形となる。」と解説されている。
この鐔は約8㎝弱と金山鐔にしては大型だが、前述したように同図で、やや小振りなもの(本に法量は記されていないが写真が原寸と考えると7.5㎝前後)も同時に存在している。
ちなみに、秋山久作の押形集にも、同図であるが、大きさが異なる「七宝透かし」が採拓されている。ただし、これは尾張透かし鐔の分類である。『透鐔』(笹野大行著)の図版165の「七宝透」と同図・同作と思われる。
秋山久作押形集より 上下で同じ図だが、下の方が大きい。 |
山道文(所載品約75弱×約75弱) | 山道文(所蔵品79.7×79.5) |
同図で、大きさを変えて大小拵用に作成したと考える方が合理的である。
尾張透かし鐔と金山鐔の分類も、明確に分けられないものも多いから、この鐔などは尾張透かし鐔に分類する考え方もあると思う。
3.この鐔の作り込みと、裏を摺ったような跡
この鐔は角耳である。前掲の各書所載の同図の鐔は角耳小肉とある。福士氏が所載の鐔で説明で「角耳小肉のところ、丸耳に近いところ、幅の広いところ、狭いところ、というように絶妙な変化」と書かれているが、この鐔の耳も、幅に微妙な広狭がある。
また所蔵品の耳厚は5ミリ、切羽台は気持ち薄いが5ミリと、変化がないが、所載の鐔は耳厚5ミリだが、切羽台厚4ミリとある。
この鐔の裏面を観ると、摺ったような跡がある。後から手を入れた可能性もあるが、錆色を観ると、表面と同様であり、当初から摺っていたような気もしている。鐔の表面に鉄骨などが繁く出たのを摺ってなめらかにしたような感じでもある。槌目地を磨地にする途中過程で製品にしたような感じも持つ。
「刀装・刀装具初学教室14」(福士繁雄著)で、福士氏は、鉄骨は自然に出たものではなく、意図的に出して、耳にだけ鉄骨を残したとの論を展開し、その過程で「表面に出た鉄骨は邪魔になるものですから、それを鑢(やすり)で磨ったり、槌で叩いたりして除いたものだと思います」と表現されている。
『透鐔 武士道の美』(笹野大行 著)にも、金山鐔の2枚(作品番号57の「四方輪透かし」鐔と、59の「銀杏に蓮の葉透かし」鐔)の解説に「裏を摺ったような跡がある」と記されている。
笹野氏は後からの加工として注記されたのだと思うが、金山鐔には、当初から、このように加工したものがあるのではなかろうか。あるいは同一工房の作品で、工房の手癖なのであろうか。(もちろん、現代の鑑賞の立場からは、摺っておらず、鎚目が残っている方が良いのは言うまでもない。またこの鐔は切り立て部分も手入れをし過ぎており、その分、風情に欠けるところもある)
四方輪透鐔 『透鐔 武士道の美』NO57 77.2×77.0 耳6.5、切羽台5.0 |
3.この鐔の製作時代
以前に、ここで紹介した金山鐔の松皮菱透し鐔は、切羽台の大きさ(長さ)、形状と、桃山期に流行した松皮菱文様から桃山期の金山鐔と思うが、この鐔はこれまでは室町期のものと考えていたが、前述したように福島家の軍旗の文様を透かし、福島軍団が活躍した時代と考えると桃山期なのだと思う。全体に金山鐔の製作年代を下げた方がいいように考えている。
(1)鐔の大きさ、耳の形状による判定
『透鐔 武士道の美』(笹野大行著)に「室町期のものは錆色が紫錆で大形のものが多いが、桃山期からのものは少し赤味を帯びて小形となる」とあるように、形の大きさ、地鉄の紫錆の状態は、室町期のものと判断するのが妥当であるが、所蔵品の中で似ている錆色を探すと太字銘信家に似ている。信家は桃山時代であり、よくわからない。(こう記述した時は「よくわからない」と書いたが、ここに記したように地鉄の感じは太字銘信家(後の芸州信家)と共通するのである)
これまでは、耳が角耳で、より加工度合いが少なく、時代が上がって室町期のものと感じると観たが、今は太字銘信家と同じ桃山時代と考えている。
(2)切羽台の大きさ(長さ)による判定
鉄鐔の時代判定方法として、櫃孔の形状に注目する方法もある。左右同形が古い時代のもので、時代が新しくなると小柄櫃が半月型、笄櫃が洲浜型になる。あるいは櫃孔が縦長で大きいのが古いとも言われている。私の所蔵品は前述したように、この作者の特徴として、櫃孔を図柄の一部として構成しており、こういう面からは判定しにくい。
私が鐔の時代判定の尺度として使っているのは切羽台の大きさ(長さ)、形状である。これが正しいと認められているわけではない。あくまで私の目安である。
この山道文透かしは縦が46ミリである。
所蔵品で比較していくと、室町古鐔「車透かし」(47.8ミリ)よりは短いが、その次にこの「山道文透かし」(46.0ミリ)が位置する。次いで古萩鐔「枝菊透かし」(44.0ミリ)、尾張透かし鐔「桐・三蓋菱透かし」(43.0ミリ)、京透かし鐔「勝軍草透かし」(42.0ミリ)、そして金山鐔「松皮菱透かし」(41.6ミリ)と言う順である。
そして切羽台は上部が尖り気味ではないが、上部が狭く、下部が脹れ気味の形式である。山道文に挟まれた部分の切羽台の長さを直線上で計測すると上部が15ミリ、下部が18.6ミリである。
以前は、刀剣の時代に照らして言うと、室町古鐔「車透かし」を「永享・寛正備前」の時代とすれば、「山道文透かし」は「永正備前の前期」、古萩鐔は「永正備前の中期」、尾張透かし鐔「桐・三蓋菱透かし」、京透かし鐔「勝軍草透かし」が「天正備前」ではなかろうか。そして金山鐔「松皮菱透かし」が慶長新刀期であると思っていたが、今は室町古鐔だけが室町時代で、他は桃山期から江戸時代前期にかけてではないかと考えている。
おわりに
『刀装小道具講座 第一巻鐔工編』の114頁に金山鐔の参考図版として掲載されている頁が左下図の通りである。私は、この本と同図・同作者の「松皮菱透かし」鐔と、この「山道文透かし」鐔を所蔵することが出来たわけだ。
『刀装小道具講座』を購入した時、まだ私は若かった。当時から鉄の透かし鐔に惹かれており、金山鐔も憧れの透かし鐔であり、本に所載のものなどの入手は夢の夢だった。それが2枚とも所蔵品になっており、金山鐔にはご縁のある方なのかもしれない。
刀装小道具講座 第一巻114頁 | 所蔵の2枚 |
地鉄も良く、透かしのデザインも、ことさらの主張も無く、シンプルな造形である。前述したが、力強さと同時に品の良い、優しい感じがするから、作者の力量は相当なものと思う。
このHPにアップしてみて、写真を見ると、縦長の感じがする。計測すると縦79.7ミリに対して横79.5ミリである。縦に2本が立ち昇っているから、縦が長く感じるのだろうか。あるいは写真の撮り方がおかしいのであろうか。
縦79.7×横79.5×耳厚5.0、切羽台5.0、角耳 |
透かしの文様、金山鐔と線状鉄骨のこと、裏の摺ったような跡など、これからも研究して楽しんでいきたい。