刀装具の楽しみ記(後藤家編)
所蔵品の鑑賞のページ
オタクの鑑賞日記です。ボリュームが大きくなったので2023年8月より「後藤家編」と「町彫編」に分けました。最近、「刀和」誌上で、各刀装具を従来に無い視点から、深く突っ込んで調べて発表していますから、それもお読みください。
                                    
後藤光乗 三疋獅子…国盗り…目貫 2024/9/5
後藤徳乗 馬具図小柄 2024/11/29
後藤栄乗 二疋獅子目貫 2024/10/3
後藤顕乗(
程乗)
網針図小柄 2024/12/20
後藤光侶 枝菊小柄 2024/8/16
後藤廉乗 蝋燭図目貫 2024/12/15
後藤光寿 波泳ぎ龍(水龍)図小柄 2024/10/19
後藤光寿 韋駄天・捷疾鬼図小柄 2024/11/5

後藤光侶(廉乗)小柄



 
上段:全体、下段:枝菊アップ
24/8/12
銀(白)と金(黄)で色分けされた菊、現実にはこのような菊は無いと思うが、園芸が発達した江戸時代のことであり、実際に存在したのかもしれないとも思わせる。またここで使用している金の色絵(花やいくつかの蕾)も、金の含有量を変えて、色合いの違うもので利用している。

24/8/8
葉に露を置くという発想。生き生きとさせる工夫か。

24/8/3
公家文化と武家文化の融合だ。

24/7/30
真ん中の菊花。金と銀に分けられているのだが、金が段々薄くなって銀になるような象嵌であり、どうして、このような技法ができるのであろうか。

24/7/26
気高いと感じさせる作品である。後藤家、あるいは他流派の金工にも枝菊の彫りは多いが、これ以上の作は無いのではなかろうか。

24/7/22
枝菊の枝が、図全体の下に舟のように据えられている。その舟に大輪の菊2輪や蕾、葉が乗り、舟の舳先にあたる部分は金の蕾だ。途中に檣(帆柱)のように、蕾が立っている。

24/7/18
この廉乗も名作だ。中程の菊の蕾(薄い金色絵)が斜め上にスクッと立っている様子は潔い。

24/4/8
菊花における金と銀の使い分けだけでなく、地板を赤銅ではなく、四分一の魚子地にして、赤銅で彫った菊の枝葉を浮かび上がらせている。

24/3/31
菊の図柄は蝦夷拵や、古いと思われている刀装具に見られ、古くから愛好されている。ただ、これだけ品良く作られたのは無いと私は思っている(あくまで私見である)。菊一輪の花弁に金と銀で色分けしているが、現実にはこのような菊は無いだろう。廉乗の美意識で創造したのであろう。

24/3/27
この目貫も廉乗の卓越したセンスが出ている作品だ。品の良さ、センスの良さ、武家としての矜持、こんな要素に満ちている。

23/11/9
真ん中に据えてある金と銀に分けられた花弁の菊の花、実際にはこんな花は無いと思うが、このような発想が湧いているのは凄い。途中まで金の色絵を施した時に、このまま、金と銀に分けたら面白いと感じたのであろうか。

23/11/5
頭が下がる作品だ。小堀遠州の説いた「きれいさび」よりも、深い美の境地と思える。

23/11/1
菊の季節である。この彫は何度観ても、その度ごとに心が洗われるような気がする。

23/6/15
葉に露を置くのは、後藤の定番スタイルであるが、対象となる植物のみずみずしさを示すことだと思うが、考えてみると不思議な発想である。

23/6/13
これまでも”益荒男ぶりの品の良さ”と書いてきたが、何とも言えない”強さ”を感じる。古人が評した”気格抜群”と同じことかもしれないが、これが廉乗なのだと思う。

23/6/11
光侶は安土桃山時代の次の寛永文化の担い手の一人だと思う。寛永文化の一つ桂離宮は17世紀前半にかけて整備されてきたが、光侶の働き盛りとほぼ同時代である。小堀遠州の美意識に、強さ(武の要素)が加わる感じであろうか。

23/6/9
咲き誇っている2輪の菊。その右側の菊の花色を金と銀に分けているのはどうしてなのだろうか。現実には、こんな2色の花色の菊花は無い。もちろん精査しても、色が剥げた痕跡は無い。だから光侶が意図的に創り上げたのだろう。では、その意図とは何だろう。カラリストのセンスなんだろうか。

23/6/7
配色のセンスも凄いものだと思う。左側の戸口の方の菊の蕾(つぼみ)の金色、真ん中に花開いた菊の右側の金色、それらの間にある菊花の銀色、右側の蕾は銀色が強いが、金も混じっているような不思議な色合いである。枝と茎は赤銅だが、地板を四分一にすることで、赤銅の漆黒を浮かび上がらせている。

22/5/6
地が四分一なのも、枝菊の赤銅の漆黒を際立たせ、みずみずしさを一層強調するのに効果的である。

22/5/4
葉に銀の粒を、露(つゆ)として置いている。これも、菊の瑞々しさを一層強調している。

22/5/2
真ん中の菊の花びらは、写真だと左半分の花びらは金色絵が剥がれたように見えるが、そうではなく、右半分は金色絵、そして、2枚の花弁は金色絵を薄める(剥がす)ように敢えてして、左半分の銀色絵に移行していっているのだ。このように凝った細工をしているのだ。

22/4/30
本当に気品のある作品だ。こういうのは彫りの技術から出てくるのだろうか。色金の使い方(色遣い)で生まれてくるのだろうか。枝の向き、花・蕾の配置から生まれてくるのだろうか。あるいは作者そのものの人格・人間性から生まれてくるのだろうか。

21/2/23
今朝は魚子が細かい感じがした。開花している菊が2輪、銀と金と銀が混じり合った2輪、蕾の大きめなのが2輪。尖端の金のと、より小さい蕾の側の銀の蕾である。そして、より小さく丸い蕾で少し金を入れているものが1輪で、合計5輪である。

21/2/21
野田敬明は『金工鑑定秘訣』の中で廉乗の作風を「気格抜群にして面白く、見所ある作なり」と記す。広辞苑で「気格」をひくと「品格、気品」のことで、品格とは「①物のよしあしの程度。しながら。②品位。気品」とある。そして気品とは「どことなく感じられる上品さ。けだかい品位」とある。
ともかく強さのある品の良さだ。昔から私が「益荒男ぶりの上品さ」と言ってきたことだが、観るたびに思う。

21/2/18
本当に位が高い彫りだ。彫技に加えて、作者の体力、気力が充実している時の作品なのだ。

20/4/2
「みずみずしい」は「瑞々しい」で「光沢があって若々しい。新鮮で美しい」と広辞苑に語釈がある。この小柄を評する言葉にふさわしい。この枝の愛でるに良い時期に伐ったばかりの枝だ。葉に露もあり、朝一番で伐ったのか。

20/3/31
以前にも書いたが、枝菊全体が船のような構図に据えられている。

20/3/30
枝菊を切った切り口も余韻があるような、一方で潔(いさぎよ)いような彫りで好きである。

20/3/28
横長の小柄の画面に入れる為に、菊花を平たく押しつぶしたように彫っている。円形ではなく楕円に近い花である。これが効果を上げているように見える。

20/3/27
蝋燭目貫と同じ廉乗作の気格抜群(品格、気品が抜群)の小柄である。金の色を左の蕾(つぼみ)は濃く、真ん中の菊花は半分の花弁に金を使用して、しかも銀の花弁に近い方は薄く使い、右の堅い蕾はもっと薄く使って焼き付けている。このグラデーションも凄いものだと思う。

19/5/21
枝に使用している赤銅(しゃくどう)は、素銅に5%ほどの金を加えたもの(他派では3%程度と言われている)で「烏の濡れ羽色」と称せられる色である。我々が常に思い浮かべる「赤」からは想像ができないから、この趣味以外の人は誤解している人も多い。
日本では赤色は白川静の『常用字解』によると「丹」「朱」(鉱物で染めた赤)と「紅」を使っていて、「赤」は(はだか、あるがまま)の意味だったようだ。『角川漢和中辞典』では「赤」は「大と火から成り、火がかがやくから火の色となる」と記されている。いずれにしても赤銅が真っ黒に輝く色になった理由はわからない。なお赤色には「緋」もある。

19/5/11
先日、静嘉堂に出向くと、後藤歴代と一乗の小道具が陳列されていた。この時、一乗のは”軽い”という感想を持った。もちろん一乗も名工で若い時の作品で後藤風に彫ったものもあり、そういうものと比較すれば違った感想を持つと思う。では後藤歴代の持つ相対的な”重さ”は何かと尋ねられると、それが”伝統”なのだろうか。具体的に言えないが、言えなくても感じるものは理解できるはずだ。

19/4/30
後藤本家は光侶(廉乗)の時代に江戸に出る。江戸に出なかった埋忠家は衰退し、吉岡家に替わられる。芸術的価値とは違うが、家業の発展に資した光侶の決断は大したものである。

19/4/24
枝菊を彫ったのだが、題材を彫る前に、この小柄を身に付ける貴人の御道具(持ち物)を後藤宗家を代表して彫り上げるという気構えがしっかり出来ていた人物だったのだと思う。後藤光侶という人は。

19/4/22
後藤家のお家芸である赤銅の漆黒の美しさを生かすために、地板と縁を四分一にしているのも工夫だろう。

19/4/19
色のセンスだけでなく、造形感覚も素晴らしい。菊の花を横長の画面に合うように、横長の花にしている。何でもないようなことだが、自信が無いと出来ないことだ。茎を船の形に据文して、船首(舳先)に菊花の蕾を前向きにし、船のやや後ろの蕾を持つ枝は帆柱のようだ。

19/4/18
金を各所に象嵌しているが、右側の蕾の金は少し黒みを感じる金、菊花の金は右側の濃い金色を上下ともに左に移るに連れて薄くしている。そして右側の銀は全体的に金色が残る。それにひき替え右側の菊花はより銀色らしい銀だ。銀は葉の露として8カ所置いているが大小があって、小さくなると葉の赤銅に紛れるようだ。そういう変化を付けている。一番左側の菊の蕾は少し開花が始まる。鮮やかな金色だ。
枝葉の赤銅は彫の変化で材質は変わらなくても、光が陰翳を附けてくれて表情に変化が出ている。

19/4/16
画家でも色遣いは天性のもので学んで到達できるものではないと聞いたことがある。彫金は限られた色しか使えないが、廉乗は天性のカラリストだと思う。金銀の使い方(配置、組合わせ、各色の各場所における面積など)の妙に感心する。

17/7/26
切ったばかりのみずみずしさだ。

17/7/1
この感覚は廉乗の一時代前の小堀遠州の「綺麗さび」という美意識を体現したものなのかもしれないとも思う。

17/6/27
この菊花にもあるが、花弁を金色から銀色へ移行させるべく、金の色を徐々に薄めていくように象嵌しているのは凄いと思う。詳しくは思い出せないのだが、筆を高彫りした栄乗か誰かの作品にも、このようなグラデーション象嵌を見たことがある。高く評価したい。

17/6/26
今の刀装具数寄者の中で、後藤物の大名品を御持ちで、後藤に特に詳しい方から「廉乗は馬鹿にできないですよ。自分が今まで拝見した廉乗作の中では光侶銘で『小柄百選』(長谷川赳夫・藤井正宣 著)の9頁にも掲載の佐藤嗣信最後図の小柄は凄かったです。夏雄が推賞したものですが」とのことであった。本でもわざわざカラー頁にしてあるが、この写真だけでは凄さはわからない。

また廉乗、後藤の銀について、別のこれまた有名な刀装具数寄者から「後藤家の銀に関する情報は聞いていないが、純度の高い銀の可能性はあるかもしれない。ただ別府の愛好家が御所持されている後藤作品における銀は真っ黒になっていた」とのことでした。別府は温泉=硫黄の地です。

17/6/24
(廉乗の後藤宗家の八代としての自負は、蝋燭図目貫の6/24のコメント参照)

17/6/21
(廉乗が”銀の名人”なのではとの論は、蝋燭図目貫の6/21のコメント参照)

17/6/19
私が感じた「ますらおぶりの品の良さ」と言うことは、江戸期の鑑定家野田敬明が著書『金工鑑定秘訣』の中で述べた「気格抜群にして面白く、見所ある作なり。ー中略ー上彫荒く、濶達(闊達に同じ)の気象見ゆる」と同様である。
”気格”とは広辞苑に「品格。気品」とある。”闊達”とは「度量がひろく、物事にこだわらぬこと。こせこせしないこと」とある。
私だけでなく、先人も、光侶廉乗の正作を観た人が感じる印象なのだ。

17/6/16
小柄の裏板と縁(小縁、棟方、戸尻、小口)は四分一である。この為に、枝菊の赤銅の黒が引き立つのだ。光侶はこういう効果も狙ったのに違いない。普通の後藤の小柄のように、周りも全部赤銅の真っ黒ならば枝菊の彫りは埋没し、全体が重たい感じとなる。

17/6/12
私は、日本刀柴田の「刀和」における「刀装具の鑑賞」欄で、この作品を紹介した時は「強さのある品の良さ」あるいは「ますらおぶりの品の良さ」と表した。この感想は変わらない。

後藤家の作品というと、上三代、上六代と遡る方がいいとか、祐光顕、あるいは祐光即、祐光通として、祐乗に光乗、それに顕乗、あるいは即乗、通乗というのが世評であるが、世評をなぞるだけではつまらない。自分の高いお金を出して購入したものだ。

私は”品の良さ”という視点では廉乗光侶が一番ではないかと思っている。私の論を納得していただくには、この作品を観てもらえばいいのだが。

ちなみに、これは『刀装金工 後藤家十七代』(島田貞良、福士繁雄、関戸健吾 著)に所載されている。

どう彫れば、このように品良くなるのかは、私のような品のレベルが低い人間にはわからないが、わからないなりに少し分析する。

周りは四分一である。四分一だから少し黒の色調が薄い。そして枝菊の彫物は後藤家特有の見事な漆黒の赤銅である。
これに金銀を使って、花と蕾と露を表現している。真ん中の菊花の花弁は金と銀を使い、金から銀へ移る様子を少し薄い金色絵で表現している。
また右上の蕾の金色も少しくすんだような金を使っている。逆に左に伸びた咲きかけた菊の蕾は鮮やかな金である。

「漆黒の赤銅の色自体に格調の高さ」は存在している。これが品の良さの一つの要因である。

もう一つは、「金銀、色絵の使い方に節度」があることだろう。金があまりに多いと成金趣味と言われることもある。ただ、金の多用も、使う人が使えば下品にならないと思うから、留意して欲しい。

彫物の形態把握にも品の良さは出ると思う。観ていただくとわかるように、「詰まった感じではないし、一方で拡散している感じでもない」。

こういう図柄は、花が主役になるが、ここでは枝葉もほどよく彫っている。だから枝菊図なのだ。その葉も広がっているものもあれば、縮まって丸まっているものもある。また虫喰い葉もあるが、「それぞれに過ぎたところは無い」。

露の置き方、これを程よいと言うのか、私には判断できない。

なお、「魚子も後藤家特有に細かく」、それも品の良さに関係していると感じる。

ともかく、この人が構図を決めて、描き、それを彫り上げると、自然に品が良くなるのだろう。「後藤家の伝統」であり、「京都の伝統」なのだろう。

”強さのある品の良さ”、”益荒男ぶりの品の良さ”と書いたが、”強さ”はどうして生み出せるのだろうか。

絵でわかりやすいのは、「枝菊の枝を切った先の切り口の潔(いさぎよ)さ」である。一方で「先端の蕾の伸びる力強さ」も大きい。
開花した花の右上の2つの蕾(一つはくすんだ金色を使った丸いもの、隣のは銀である)も、共に「上に向かっていく姿」で描いているのも関係があるのかもしれない。

そして、「江戸寛文新刀の最盛期、山野家の切断銘が隆盛の時代」に過ごしたことも、大きいのではなかろうか。廉乗光侶も時代の子だったのだ。

<益荒男ぶりで品の良い光侶廉乗の生涯>
”廉乗も時代の子”と書いたから、ここで廉乗の生涯を記しておく。

後藤家十代廉乗は、八代即乗の子(四男)として、寛永五年(1628)十一月二日に京都に生まれる。父の即乗が寛永八年(1631)の四歳の時に逝去した為に、その後、宗家を預かった理兵衛家の顕乗、程乗に技術を習い、生活の面倒をみてもらったと考えられる。
正保二年(1645)の十八歳時に四郎兵衛光侶を名乗る。そして承応元年(1652)の二十五歳時に宗家十代目を相続する。
明暦二年(1656)の二十九歳に江戸に呼ばれる。万治二年(1659)の三十二歳時に程乗とともに金分銅吹替の命を受ける。

そして寛文二年(1662)の三十五歳時に江戸定府を命じられ、本白銀町三丁目に住す。

そして寛文五年(1665)の三十八歳時に諸国分銅改を仰せ付けられ、天和三年(1683)五月(五十六歳)に法体となり廉乗となる。
元禄八年(1695)の68歳時に大判吹替を仰せ付けられ、大判三万枚(元禄大判)を製造したという。
そして元禄十年(七十歳)の七月二十八日に隠居する。そして宝永五年(1708)十二月二十三日に八十一歳で没する。

子の乗賢光嘉が天和三年(1683)に四郎兵衛となるが、貞享元年(1684)に二十五歳で没した為に、仙乗家光清の三男の光寿(通乗)を貞享元年(1687)に養子とし、元禄十年(1697)に家督を継がせる。なお光寿の最初の妻は廉乗の娘である。なお晩年に隠居後に実子光保を得ている。

栄乗、即乗も江戸でも仕事をしたが、江戸定府ではない。
製作年代は約45年の長期にわたるから作品も多い。

後藤光侶(廉乗)目貫

2024/12/15
円筒形が主だから簡単の彫りに見えるが、銀の板を裏から叩き出し、下の4本の概略の形を整えるまでは理解できるが、それらの上に乗っている1本はどうして彫ったのであろうか。

2024/12/11
『金工鑑定秘訣』(野田敬明著)で「気格抜群にして面白く、見所ある作なり。ー中略ー上彫荒く、濶達(闊達に同じ)の気象見ゆる」と評している。
「気格」とは『広辞苑』を引くと「品格、気品」とある。「闊達」とは「度量がひろく、物事にこだわらぬこと。こせこせしないこと」と語釈がある。この通りである。

2024/12/7
注文が元だと思うが、こういう題材を彫金の対象にして、自分なりの画を作り上げた廉乗は大したものだと思う。

2024/12/3
整然と並べられた蝋燭のちょっとした乱れ、そこに蝋燭の使用という行為が隠されている。

2024/7/14
廉乗が活躍した時代は、寛文新刀の時代であり、この時代に刀装具界でも、このような名品が生まれていたのだ。最近は寛永文化という言葉を時々見かけるが、寛文文化は聞かない。ただ寛文小袖、寛文模様という着物の言葉が存在する。片側を余白にした大胆な模様が特色である。私が寛文新刀誕生のきっかけに明暦の大火があると論じたが、寛文小袖も、明暦の大火で着物が失われ、その需要をまかなうために、手間を省くために片側だけに刺繍などを施したという説もある。この蝋燭目貫とは関係が無いが。

2024/7/10
こういう題材の彫だが、力強い。この辺が廉乗なのだと思う。

2024/7/6
ちょっとした乱れが生み出す美。こういう美意識はどうして育まれるのだろうか。

2024/7/2
この目貫について折紙のこと、同封されている再鑑の紙札(しおり)には言及したが、箱については触れてこなかった。箱は折紙も収納できるサイズで、箱の深く、表に金泥で「廉乗作 銀ニ金色繪蝋燭目貫 一具 代金壱枚五両光孝折紙附」と書かれている。そして、これは近代の紙札だが「第貳百貳拾七號」と貼ってある。紙札は後楽園スタジアム、よみうりランドの社長としても、日本ボクシングコミッションの初代コミッショナーとしても名高い、刀装具のコレクターの田邊宗英氏の蔵品整理番号であろう。

2024/6/28
後藤の器物の彫には、このように面白い名品がある。ありふれた器物の彫よりも、変わったものを彫ったものに名品があるのは、注文作だからであろうか。

2024/6/24
裏目貫における4本並んだ上にある蝋燭は、結び目の位置が真ん中ではなくズレている。これから包装紙を取り除いて使用しようとしているところだろうか。静物の一部を変化させて動きを作っているようだ。

2024/6/20
美的センスの優れた人だったのだと改めて思う。顕乗の網針図小柄の崩しは、少し斜めに据えることと、糸のほどき口だが、廉乗は配置を崩している。

2024/3/23
蝋燭の並びの崩し方に廉乗のセンスが出ている。簡単なようで難しいと思う。

2024/3/19
この斜めに据えた配置も良い。斜めに配置と言っても、表目貫と裏目貫でわずかに斜めの角度を変えている。顕乗の網針図も斜めに据えているが、小柄の場合は画面に制約がある。目貫は、そのような制約無しでの配置であり、センスである。

2024/3/15
後藤家の彫物は上三代、あるいは上六代、あるいは祐・光と並んで七代顕乗、八代即乗が古来から評価されている。もちろん、これは否定しないが、私は十代廉乗の作品に強く惹かれる。もっとも所持した作品は、この蝋燭目貫と枝菊図小柄だけである。野田敬明は『金工鑑定秘訣』で「気格抜群にして面白く、見所ある作なり。ー中略ー上彫荒く、濶達(闊達に同じ)の気象見ゆる」と評しているが、素晴らしい美的センスがあると感じる。

2024/3/11
この目貫は折り紙付きであり、その極めが廉乗だから、廉乗としているが、折り紙が無ければ廉乗と私が極められるかである。一見した感じで町彫ではなく家彫だなと感じる。そして後藤の上六代までは上がらないと思う。そこから8代即乗は作品が少ないから除外すると、7代顕乗と9代程乗の加賀後藤に縁のある作者。それから10代廉乗、11代通乗までで、それ以降では無いと感じる。ただ通乗の作風ではないと思う。残った中では銀中心の素材の多いと言われている程乗かとなる。無銘は一格落とすということで廉乗となるか。

2024/3/7
「蝋燭の図柄で」と注文を受けたのであろうか。廉乗は、どのように表現すればいいかと悩んだと思う。結果として、このような図にした才能、センスは凄い。

2024/3/3
蝋燭を横に4本並べ、その上に一本の蝋燭。4本並べること=幅を取ることであり、この構図は小柄、笄では取ることが難しいから、目貫特有の構図だろう。見事な図取り(構図)である。

2023/10/28
この目貫も三所物だったのだろうか。そう考えると小柄と笄には、どのような絵が彫られていたのだろうと想像してしまう。蝋燭をばらけた図だったのだろうか。あるいは包紙を外した蝋燭だったのであろうか。あるいはそれに火を灯した絵だったのであろうか。
折紙が発行されたのは明和4(1767)年であり、この時には目貫だけだったことは確実である。後藤光侶(廉乗)は寛永五年(1628)~宝永五年(1708)と長寿であったが、晩年は仕事をしていないだろう。だから、この目貫は1660~1680年頃の制作だろう。すると折紙発行年から百年程度であり、当初から目貫だけだったとも考えられる。

2023/10/24
表目貫における蝋燭のずらし方と、裏目貫の方のずらし方に違いがあり、表目貫の方が少し崩し方が大きい。何気ない違いだが、こういうセンスも大したものだと感心する。

2023/10/20
4本の蝋燭の並んでいる方向は表目貫はやや右下向き、各蝋燭を縛っている紐の線は左下に深く入る。上に置いた蝋燭、その下のズレた蝋燭はの紐が変化を付けている。
裏目貫では4本の蝋燭はほぼ平行。1箇所だけ縛っている紐の線はわずかに右下に向かい、大きく外した1本の蝋燭は左下に向き、それを縛っている紐は蝋燭の上部にズレている。
こういう線の面白さも、センスの良い廉乗は考えたのであろうか。

2023/10/16
蝋燭を整然と並べるのではなく、ずらすことで絵にするセンス、簡単なようだが容易ではない。

2023/10/12
昔は、現在では想像できないような夜の暗さだ。陽が昇ると起き、陽が沈むと寝る生活に、月が現在以上に目立つ夜だ。その夜に明かりを灯す蝋燭は貴重品だ。油も灯火で照らすこともできるが携帯に難がある。蝋燭を商っていた蝋燭問屋からの注文品だと思うが、出来映えに満足したことだろう。

2023/10/8
気持ちがすっきりする作品である。光侶という人物の美意識、感性が存分に発揮された作品と感じる。

2023/10/4
銀の良さを活かした作品だ。蝋燭を結んでいる紐は金色絵だ。表目貫は結び目が2箇所、裏目貫は真ん中に1箇所の結び目だが、蝋燭の種類が違うのであろうか。

2023/2/13
蝋燭を包んでいる紙の先端を摘まんでクルッと捻って包装しているが、この箇所の彫りも簡単なようで難しいのではと思う。もちろん蝋燭の円筒形の彫りも滑らかな筒の彫りにはそれなりの神経を使うと思う。

2023/2/11
私は、この目貫を高く評価するが、世間一般では画題が画題であり、評価されないのだと思う。ズラすセンス、組み合わせの乱れのセンスなど抜群の感覚である。

2023/2/9
このような器物の図柄の刀装具を注文し・買う人として、蝋燭の製造者、流通の過程で扱う問屋、小売商が思い浮かぶ。あるいは蝋燭をよく使用する学者も考えられる。あるいは蝋燭に象徴する意味を持たせて、それを自戒の為に扱う者も考えられる。例えば”夜を照らす”という意味である。素直に考えれば蝋燭問屋あたりの注文であろうか。
有名な勧進帳拵は日本橋本町の蝋燭問屋の大坂屋孫右衛門の注文と伝わるが、関係はあるのだろうか。

2023/2/7
私は、この蝋燭目貫は大した作品だと思うのだが、普通の人は画題が和蝋燭であり、興味を持たないのであろう。この5本の蝋燭の組み合わせ方、ずらし方など、抜群のセンスと思う。

2022/5/14
後藤の器物の彫り。後藤家の代付けでは、人物が一番で次いで龍・獅子、それから動物、植物、最後が器物だが、私は後藤家の器物の彫りを高く評価する。所蔵の徳乗の馬具図小柄もそうだが、独創的で、絵にしにくいものを絵にするセンスは凄い。

2022/5/12
何度、拝見しても、表裏それぞれの5本の蝋燭の配置の仕方、凄いセンスだと感心する。この配置として決まるまでに、何度も試行錯誤したのかもしれないが、廉乗は意外と簡単に決めたのかもしれないと思う。そういう人物である光侶廉乗は。

2022/5/10
世の中に光を灯すというような意味で施政にあたる武士の注文の可能性もあるが、大きな蝋燭問屋である豪商が注文したのであろう。絵になりにくい題材だが、廉乗は工夫して、このような魅力ある作品を作り上げた。蝋燭問屋の主人も、できばえに満足し、愛蔵の短刀の出し目貫として、愛用したのであろう。

2022/5/8
ほかの人は画題がロウソクであり、大して興味を示さないと思うが、私はこの目貫を拝見するたびに、廉乗の人物の凄さを実感する。画題はロウソクですぞ。それをこのように組み合わせて絵にする。そして彫り上げる。自分のセンスに絶対の自信を持っている。

2021/3/3
気迫に充ちた作品。こんな画題でも、自分が彫ればこんなものだという自負が出た作品。

2021/3/2
表目貫の蝋燭は1本(包)につき2箇所で縛ってある。裏目貫の蝋燭は真ん中1箇所である。品質、形状、産地などが違ったのであろうか。

2021/2/28
表裏、各5本の蝋燭を絵にする時のずらし方、天才だ。

2021/2/25
ちょっと身震いするような目貫である。存在感の強さ、彫った対象が蝋燭ということへの戸惑い、変哲も無い蝋燭を絵にしてしまうデザイン力、銀と金の光沢が強い金属をうまくまとめたセンスなどに感心するからだ。

2020/3/26
丸い形体(筒状)は光の反射が多くなる。それを表裏とも各5本を組合わせている。そして素材は銀で。一部が金と光るものである。だから出し目貫の短刀拵では、よく目立ったのではなかろうか。

2020/3/24
廉乗は銀という素材が好きだったのではなかろうか。

2020/3/22
宗珉に発注した人物に蝋燭問屋の大坂屋某の名を見たことがある。この刀装具愛好家:大坂屋が廉乗に蝋燭目貫を発注したのではなかろうか。

2020/3/20
昨日は古折紙の代付けを田沼時代になって高く見直した可能性を考えたが、明和4年紀の新しい折紙の代付けも一枚五両である。見直したにしては低い代付けである。『刀装小道具講座2後藤家編』に後藤家の代付けの古記録として、作者での格(祐乗50枚、光乗20枚、栄乗10枚など)と、彫物による格(祐乗作として七夕の目貫50枚、龍獅子は10枚、草花・魚貝などは5枚など)の代付けの違いが所載されている。
廉乗の作で、しかも蝋燭という代付けが低いものであるから大判1枚くらいが妥当のところを1枚5両に見直したのであろうか。
それとも、明和4年以降に12年ごとに廻ってくる亥年のいつかに、再度、鑑定し直したということでいいのであろうか。

2020/3/19
明和4年(1767)12月7日の光孝の折紙がある。田沼意次が破格の勢いで出世し、側用人になった年である。田沼意次は明和6年(1769)に老中格となり、安永元年(1772)に老中となって権勢を振るう。
折紙とは別に、〇の中に「亥」の黒印が押され「改」と表書きのある札があり、そこには「古折紙之通相違無き御座候」(崩し字であり正確では無い)とある。これは明和4年よりも後の時代の亥年に、別の後藤家当主が書いたものと思ってきたが、明和4年が亥年であることを今朝確認した。だから、これは後藤光孝以前に発行された古折紙が存在していて、明和4年亥年に光孝が改めて自身の折紙を発行したことを物語っているのではと思い始めている。その理由はいくつか考えられるが、古折紙の代付けが低かったので、光孝が時代の風潮に合わせて「一枚五両」に変更したのかもしれないとも思っている。

2020/3/16
稲葉通龍は『装剣奇賞』の中で「おとなしく大様なる所あり」と評し、野田敬明は『金工鑑定秘訣』で「気格抜群にして面白く、見所ある作なり。ー中略ー上彫荒く、濶達(闊達に同じ)の気象見ゆる」と評している。
「大様」と「濶達(闊達)」は”こせこせしないさま”であり、「気格」とは”品格。気品”であり、それが抜群だということである。私がこれまで感じていたこと同様だが、それに加えて天性のデザイン感覚を持っているわけだ。

2020/3/15
小さい目貫なのだが、大きくも見える。もちろん気のせいであるのだが。
蝋燭は表裏それぞれに1本だけを上にずらしているが、目貫全体の山(高さ)はそれほどでもない。また裏を見ると薄く延ばしてはおらず、厚手である。

2020/3/13
対象物をありのままに彫り上げると言うことも凄いことだが、この目貫のように配置をズラして、更に魅力的に見せるようなセンスは天性のものだと感じる。絵画では色のセンスも天性のものと言われているようだが、色は対象物の色が魅力的であれば、それを忠実に写すことも可能だ。

2020/3/11
図柄の堅さを1本の蝋燭をズラすことで緩和させているが、何とも言えない緊張感も感じる。

2020/3/10
後藤廉乗は寛永五年(1628)~宝永五年(1708)と長寿である。宗家を相続したのが承応元年(1652)二十五歳時、江戸定府になったのは寛文二年(1662)三十五歳時である。まさに江戸新刀の華の寛文新刀期の刀装金工の第一人者である。刀剣が多く製作された時期であり、刀装具の需要も多かったと考えられる。
ただし脇差の需要は多くても短刀の需要は少なく、出し目貫で使う後藤家の作品はそれほどの需要がなかった可能性もある。また馴染み、住み慣れて、腕の良い下職も多かった京都から離れて殺風景な江戸での暮らしは寂しかったのかもしれない。何か、そんなことを感じた。

2017/9/17
一本、一本の蝋燭を縛ってある金の紐が、表は2箇所、裏は真ん中に一箇所と違う。これは何か意味があるのだろうか。それとも廉乗のセンスで、このように変化を付けたのであろうか。共に同じよりも感じはいい。

2017/6/28
後藤家の折紙における代付けは、人物の図柄(七夕、源平合戦など)が一番高く、次いで龍、獅子、それから植物、そして器物となっているようで、器物は鑑賞家から低く見られているが、今の芸術基準で見ると、むしろ独創的なものが多く、面白いと思う。人物、龍、獅子など同じような図柄ばかりだ。それに対してこの蝋燭は、この題材を、このような形で作品にしてしまうのは凄いと観るたびに感心する。

2017/6/26
(廉乗の最高傑作と後藤の銀についての、2名の数寄者からの意見は枝菊図小柄に掲載)

2017/6/24
この無銘の目貫、光孝が廉乗と極めた折紙を出しているから、それで問題は無いのだが、伊藤自身が廉乗と極められるのか?と投げかけられたら、私は後藤家各代の作品を精査していないから難しいとしか、答えようがない。感覚である。

では、その感覚とは何かというと、最近思うのは光侶廉乗の作品が醸し出す”自信”が一つの鍵ではないかと感じている。技術を習った後藤程乗とその父後藤顕乗は理兵衛家の人間で、宗家の四郎兵衛家の人間ではないのである。これに対して、光侶廉乗は歴とした宗家の八代(今は宗家を預かった顕乗、程乗を八代、九代として十代とされているが)なのである。その”自負”が”自信”に変わって、この作には出ている。「私が宗家の八代目です」これが感じられるかどうかだ。

2017/6/21
後藤家で銀を多く使いはじめたのは程乗とされているが、先人が光乗と極めている作品にも銀は使われており、この通説には疑問がある。それはさておき、廉乗は銀の良さを十分に発揮した”銀の名人”と思う。この作品は銀の地を彫り込んだ蝋燭に、金の結び目を付けている。また枝菊図における花では銀の方を多く使っている。
銀は通常、空気中にあると黒く変色するものだ。これは空気中の硫黄分(硫化水素)に反応する為だ。私が所有する志水初代の牛図における牛の斑も変色している。ところが、廉乗(後藤家)の銀は変色しない。政権の金銀貨幣の流通に携わった後藤家の秘伝が施されているのではなかろうか。

2017/6/20
こちらの廉乗も「刀装具の鑑賞」、「手元に置いての鑑賞」に鑑賞記を記しているが再掲する。無銘だが後藤光孝の明和四年十二月七日付けの折紙「銀金色絵蝋燭目貫 作廉乗 代金一枚五両」が付いている。また『刀装小道具講座2-後藤家-』(若山泡沫著)の口絵写真に掲載され、『趣味の目貫』(若山猛 竹之内博 著)にも所載されている。

後藤家の図柄は定型的なものが多いと言う人が多いが、これは独創的で変わった図柄で、意欲的である。
むしろ町彫り金工・流派創設者以外の門流の作品、例えば石黒派、菊岡派などの方が定型的である。(流派創設者の石黒政常や菊岡光行などは独創的なところがあり、流派の創設とは、そういうことだと改めて思うと同時に、これら創設者と門流はもっと差を付けて評価すべきなのだろう。芸術はそういうものだ。)

後藤徳乗「馬具図」小柄




狩野永徳の作風”恠恠奇奇”(かいかいきき)に通じる後藤徳乗の作品ー徳乗「馬具図」小柄ー
2024/11/29
縄をこのように立体的に彫り上げ、その上に轡(くつわ)と馬櫛をどのように嵌めていったのであろうか。不思議な作品である。

2024/11/25
徳乗の作品とされている他の作品の中に、このように狩野永徳の作風に通じるものは手元の資料の中からは見つけることができない。『刀装金工 後藤家十七代』の中に「大鯰図小柄」が一乗の折紙で掲載されているが、拝見してみたい。この馬具ではないが、武士の道具を彫ったものには「鞭に弓懸」「下鞘に播磨燧袋」「軍配図」などがある。ちなみに徳乗の名作は「猩々舞図三所物」が有名である。

2024/11/21
乱雑に置いておきながら、絵にすることを徳乗は考えたのだと思うが、一つの挑戦だと感じる。

2024/11/17
実際の馬具をこのように配置して、どのような構図にすれば良いかを決め、その配置図を写生し、それから各種色金を使う場所を考えて、彫り上げたのであろう。

2024/11/13
後藤の伝統的な図柄でないだけに、意欲作であり、また面白い。

2024/11/9
この欄にも、「刀和」9月号の小論「狩野永徳の作風”恠恠奇奇”(かいかいきき)に通じる後藤徳乗の作品ー徳乗「馬具図」小柄ー」をリンクしておきます。永徳と徳乗の交友、作風の共通性が理解できる。

2024/4/20
馬具のそれぞれの色に合わせて、色金を使ったのだと思う。木製品や繊維からなるものは黄色=金、金属を使ったもの=銀、漆を塗ったもの=赤銅だ。結果として、感じの良い色の組み合わせになっている。

2024/4/16
普通は馬具を整理・整頓してから写生し、彫りにかかると思うが、この乱雑な状態から彫り上げる趣向には感心する。

2024/4/12
この小柄が三所物であったのならば、笄(この小柄が笄直しの可能性もあるが)と目貫はどんな模様だったのであろうか。他の馬具(鞍、鐙など)だったのであろうか。

2023/12/7
この密な感覚、これも時代の空気だと感じる。安土桃山時代の建築は東山時代の簡素な建築から飾り立てる。同様だ。

2023/12/3
曲線、円弧でごちゃごちゃの中に、鞭の長い線、馬櫛の平面と細かい線(櫛の目)の醸し出す効果は巧(たくみ)だと思う。

2023/11/29
色金の使い方が非常に巧である。地板は魚子を撒いて艶を消した赤銅地、そこに艶のある本来の赤銅(烏の濡れ羽色の漆黒)の鞭、その黒に対比する金の使い方。金も縄で柔らかく見せ、馬櫛で金地そのものを大きく見せる。そして、その上に銀の轡である。

2023/11/25
いつ拝見しても凄い作品と思う。何もここまで縄(手綱(たづな)ではなく、差縄(さしなわ)か)を密に複雑に絡めて彫らなくてもいいと思うが、彫り上げて、その密、乱雑な効果を高めている。

2023/2/23
曲線(円弧)を中心に、それを際立たせる為に、直線を配した図である。

2023/2/21
後藤家として、器財を彫った図の中では、最高位の作品だと思う。

2023/2/19
小柄は短刀の合口拵ならば、鐔の櫃孔がないから、紋がある程度、高くなっても実用に問題は無いが、通常は鐔の小柄櫃を通して出し入れされる。だから小柄の紋には高さの制約がつきまとう。そのような制約の中で、これだけの立体感を表現できるのは凄い。

2023/2/17
小柄の全面を使った彫は、この時代の特色なのではなかろうか。大画面の障壁画の時代だ。

2023/2/15
乱雑は普通は美しくないのだが、その乱雑を絵にして美を感じさせる。凄いものだと思う。

2022/7/22
まだ、この場で紹介していないので恐縮だが、後藤顕乗の図と比較すると、徳乗の縄の彫は、まだ完全には天下統一されていない時代の気分を表している。一方、顕乗の方は天下統一されての崩しというものを感じる。

2022/7/20
縄の乱雑な重なり具合の彫も凄いが、轡(くつわ)金具の重なりの彫も、縄と違って、少しのごまかしも効かない中で見事である。

2022/7/18
元々の馬具の色、例えば縄→茶色→金、馬櫛→木製→茶→金、轡(くつわ)→鉄→銀、鞭(むち)→黒漆塗り→赤銅に即した色金を使用しているのだと思うが、色の配置、重なり具合は見事だと思う。真ん中の銀が目立つ。

2022/7/16
何度観ても凄い彫である。また事前の構図作りにおいても、相当な苦心を重ねたことと思う。

2022/7/14
この小柄の裏は15代光美が極銘を入れて、縁も含めて仕立て直してあるが、表の彫りがある地板は生ぶのままである。彫りがどうなっているかわからないが、据紋を外すと縄の形も変わりやすくなり、外せなかったのだろう。

2022/7/12
こうして金、銀の金属と一緒に赤銅が使われていると、祐乗が創出した赤銅(漆黒)の価値がわかる。

2022/7/10
山高く彫り上げ、小柄の横幅一杯に彫りを入れての意欲作。縄は差縄(さしなわ)か引き綱か、私にはわからないが、乱雑・自在・自由奔放にまとめているが、このセンスはいつ観ても感動する。

2022/7/7
図柄は馬具というものだが、華やかさ、絢爛豪華さを感じる。

2022/7/5
後藤顕乗の器具の図の小柄を新たに購入したので、この小柄を観る。比較すると、この徳乗の作は安土桃山時代の作と明確にわかる。図の秩序感が違う。徳乗のこの小柄は、秩序を作り上げるという感のまとめ方だ。顕乗のは出来た秩序にわずかな変化という感だ。

2021/10/8
下地の魚子地の手擦れ感、触ることで剥がれた金銀の象嵌が、時代を物語ると同時に、この小柄への愛着の強さを想像させる。大事に大事に使っていたのだろう。

2021/10/6
この小柄、極め銘が無ければ、どの作者に鑑するかということだが、後藤、それも上六代の名品であることに異存は無いだろう。図取りの大きさだと三代乗真だが、銀の使用と、密な彫りでどうかなとなる。図全体の華やかさと堂々たるさまだと、安土桃山時代の四代光乗、五代徳乗である。

2021/10/4
大きな据文だ。這龍を彫ったものも横に長くなるが、それ以上ではなかろうか。各種馬具を組み合わせて絵にする意匠力(デザイン力)、色の取り合わせのセンス、正確・緻密な彫技。もの凄い作品だが、トータルの印象としての堂々たるさまは後藤の徳乗だ。

2021/10/2
丸い形の組み合わせ。デザイン力(意匠力)の卓抜さ、色金の種類は限られているが、その色の組み合わせ力というカラリストの真骨頂、複雑な文様を狂い無く彫り上げる彫技、丸を構成する形を正確に、かつ立体感を持って彫っている。

2021/9/30
それにしても意欲作だ。よくこんなデザインを考えたものだ。若い時というか壮年期の挑戦だ。価格で購入をためらうとか、値切るとか、しばらく頭を冷やしてとかの間を置くこともなく、購入を決断したことを覚えている。いつ拝見しても凄さにワォーだ。

2021/3/18
重ね彫りという言葉は、今、思いついたが、徳乗はこのように重ねて、重ねて表現する彫技を編み出したかったのかもしれない。小柄の右側は、鞭の上に馬櫛、その上に縄を少なくとも2重に重ね、その上に轡が乗っている。こうしても、小柄全体の山の高さは拵に収まる。

2021/3/16
色合いが多くなるのは光乗からと思うが、徳乗の色使いに加えて、長年月を経たことによる手擦れ、汚れや埃だけではないと思うが古色も色合いを多様にしている。

2021/3/14
この銀の轡(くつわ)の下をルーペで見ると、綱(縄)が手抜きすることなくキチンと彫ってある。轡左上部の菊花模様の下には5本の綱が、右側の馬櫛の先には4本の綱の彫が丁寧になされている。恐ろしい手間だ。
そして左から出ている鞭は無地と思ったが、ルーペで観ると、毛彫で模様が彫ってある。右の鞭の毛彫模様とは別のものだ。

2021/3/12
言うまでも無く、絢爛豪華な小柄である。しかし、その絢爛豪華の印象は馬具の轡、それに縄から生まれているのだ。単に轡を見せられたり、綱を見せられたら、こんな印象を持たないと思う。それを小柄に彫り上げることで、このような印象を創出する。徳乗は凄いと思う。

2021/3/10
真ん中の轡の下に絡まる縄は、金象嵌が古色で汚れているようにみえる。そうかもしれないが、象嵌時に味を狙ったのかもしれない。

2021/3/9
眼の錯覚を利用しているのだと思うが、縄は何重にも重なっているように彫られている。右側の馬櫛の方では縄は6~7段の重なりに見える。左側の2本の鞭の方では7~8段に重ねているようだ。、もの凄い手間をかけた彫りである。

2021/3/7
各道具の後ろに、横に貫いている大きな鞭(むち)は1本が貫いているように見えるが、左端に出ている鞭と、右端から覗いている鞭は別のものだ。
左側の鞭の表面は滑らかだが、右側の鞭の表面には杢目のような毛彫が施されている。手緒部分の結び方が、円弧になっている2本と、ただ結んでいるものの1本は違う種類の可能性もある。

2021/3/6
いつ観ても凄いと思う。綱、縄、紐の絡んだ様を彫ろうと発想しただけで凄い。彫るだけで嫌になるような文様に取り組んでいるのだ。

2021/3/5
廉乗の蝋燭目貫は銀を主役にしたが、この徳乗の小柄も中心には銀象嵌の轡(くつわ)を据えている。今、気が付いたが、轡中央の模様は菊花であり、光侶の枝菊図小柄の花と共通する。

2020/2/14
これは三所物ではなく、小柄だけを彫ったのであろうか。獅子などは小柄の据文よりも目貫の方が大きい。この小柄の据文の大きさを考えると、これ以上大きい目貫は考え難い。しかし目貫としてこれら馬具の一部だけを彫ったのであれば可能性はある。あるいは小柄に彫った馬具以外の、たとえば鞍などを目貫として彫ったのであろうか。

2020/2/13
芸術では作品に作者の心、思いが籠められているものは人の心を打つ。この作品は中央に置かれた轡を観ていると、これは実際の愛馬の轡だったのではなかろうかと感じられる。徳乗の愛馬は考えにくいから、注文主の愛馬のものだったのではなかろうか。華やかな作品なのだが、鎮魂の念も生じてくる作品である。

2020/2/12
もう一つのデザイン力とは、いくつか対象物を組合わせて絵として構成する力である。花、動物などは、対象自体が魅力的だからそれを写せば絵になるが、縄などはどうにもならない。そのような各種の馬具を絵として構成する力があるのが徳乗なのだ。

2020/2/11
描写力(デッサン力)の素晴らしさは、具体的に書くまでもないと思うが、銀の轡(くつわ)の中の菊花文様を立体的に彫ったところ、またその金具の重なり具合などを見れば、それは理解できるだろう。また縄の複雑ながら、いかにも自然の縄のような彫、見事である。

2020/2/10
これまで記していなかったが、この作品は『新版 日本刀講座6 小道具鑑定編(上)』(雄山閣)の380頁の白黒写真の図版に掲載されている。
卓越した色彩感覚と記したが、それを具体的に書くと、地の魚子地のくすんだ赤銅(魚子を打つことで漆黒の輝きが薄れグレー調に見える)、鞭の真っ黒(烏の濡れ羽色)の赤銅、それに金色絵の縄や馬櫛、その上に銀の轡が層になって迫ってくる。

2020/2/9
描写(デッサン)力、デザイン力、色金の組合わせに見る色彩感覚、それに彫技、卓越している。注文した方は想像以上の出来映えに驚嘆したと思う。

2019/1/7
この馬具図は豪華で格調高いが、これをお手本にして彫技をふるうには、あまりにも複雑・巧緻であり、後代の後藤家当主も匙を投げたのではないか。だから乗真などの馬具図を写していったのであろう。

2019/1/5
乱雑に置かれている縄に対して、轡の円形、鞭の先端の紐は整った円形であり、これが絵を締めているような感じもする。もう一つ絵に締まり、まとまりを与えているのは鞭の柔らかな曲線だ。うまいと思う。

2019/1/4
この画題(馬具)を、このように絵にして彫れるとは。この画題を、このように豪華に彫れるのは。この画題を、このように格調高く彫れるのは。
後藤家は当時の狩野家(狩野永徳、狩野山楽、狩野探幽)に匹敵する家である。

2018/1/29
古田織部との交流を書いたが、狩野永徳(天文12年(1543)~天正18年(1590))が元亀2年(1571)に大友宗麟の招きで、久我晴通、怡雲宗悦、後藤徳乗、吉田牧庵らと共に土佐国を経由し豊後国に下向(『中江周琳宛宗固書状』)し、臼杵丹生島城の障壁画を描いた(『大友興廃記』)という史実があるとの情報を得る。徳乗が22歳で永徳が29歳である。
永徳は晩年には豪壮な巨樹の表現などが「怪々奇々」(かいかいきき)の作風と評されている。過労死したとも言われるが、あまりに膨大な仕事の為に粗く慌ただしい筆法で大画面を描いていったとも言われる。知己でもあった永徳の「怪々奇々」の一側面”豪壮”に影響を受けて刀装具に取り入れたのが後藤徳乗ではなかろうか。
獅子の彫物では、頭部が大きめで獰猛な感じを出して体躯は筋肉質に彫る。そういう作風を稲葉通龍は「むっくり(肉付きよく肥えたさま)」と評した。この馬具図でも思い切り馬具を画面に広げて、一見乱雑に見せながらも大胆、緻密に彫り上げた。

2018/1/28
徳乗は天文19年(1550)生まれで、寛永8年(1631)に死去している。古田織部は天文12年か13年の生まれであり、織部より7~6歳年下である。慶長6~9年頃(1601~1604)というと、徳乗が52~55歳ころとなる。

2018/1/23
古田織部』(諏訪勝則著)に、古田織部が慶長6~9年に行った茶会に、多くの武将の中に茶人や曲直瀬道三らと交じって後藤徳乗がいることが記載されている。当時の文化人の一人なのだ。

2018/1/21
栄乗の二疋獅子目貫に関して徳乗の獅子も比較した。そして徳乗の獅子は頭部が大きめで獰猛な感じを持ち、体躯は筋肉質と感じた。獰猛という言い方にマイナスイメージを感じるならば強く逞しいと言い換えても良い。
この徳乗馬具図小柄の「手元に置いての鑑賞」において「非常に細かく彫っているにもかかわらず、繊細な印象はせずに、むしろ逞しい印象を持つ」と書いているが、感想は今でも変わらない。
稲葉通龍は「むっくり(肉付きよく肥えたさま)」と評したが、器物の彫りに肉付きをよくしたら絵にならない。しかし器物においても”逞しい”感じ、”強さ”を感じさせるのが徳乗なのではなかろうか。比較研究の結果、少しわかってきた感じがする。

2017/12/24
徳乗の作風として古伝にある「むっくり」(肉付きよく肥えたさま)という特徴だが、有名な尾張徳川家伝来の能の猩々舞図における人物などは、まさに「むっくり」という感じである。牽牛織女図や布袋図もそうだ。ただ後藤の人物は全体に「むっくり」だから徳乗の特徴でいいのかはもう少し研究したい。
また徳乗桐として名高い桐紋も、すっきりはしておらず何か華やかで全体に「むっくり」している感じはする。だから古伝はそれなりに正しいと感じる。
この小柄に「むっくり」感を強いて探すと、縄(手綱、差縄、引綱かは不明だが)の盛り上げ方に感じる。

2017/12/23
後藤栄乗の二疋獅子目貫に絡んで、栄乗の作風として本に書かれていることを記したが、それでは徳乗の作風はどう書かれているかを改めて確認する。
徳乗の人柄を褒めた言葉(①容直にして威あり、②豊かにして人に誇らず、③彫物細工に妙、④勇にして虚談を言わず。この4つの徳から四郎兵衛と名乗り、徳乗になった)があるが、作風への言及は光乗と同様で穏やかで金象嵌の名人という感じで、明確ではない。
『日本装剣金工史』(桑原羊次郎著)から抜き出すと、「むっくりという彫りで、光乗の作に見紛う」(稲葉通龍の言を現代語訳)、「光乗をよく守りて位ある作なり、光乗作の少し紋低くなる方に見ゆるものなり、(中略)細き金象嵌の名人なり。」(野田敬明の言を現代語訳)、「穏和なる風、模様高からず低からず良い加減、肉合豊満にして痩せず、味わうべき彫刻風なり。金象嵌の名人なり。」(夏雄の言を現代語訳)である。
この小柄においては鞭にわずかに金象嵌があるが、技量を云々するほどのものではない。金色絵と銀、赤銅の使い分けは見事であるが。
また光乗と同様とか、穏やか、穏和という感じはしない。光美が何をもって徳乗と極めたかは、上記の作風解説からは理解できない。
ただ、人柄から滲み出る「威」「豊か」「細工に妙」「勇」という印象は、この小柄から感じられる。

2017/9/6
命の無い器物を彫ると当然に変化の無いものになる。変化は配置、構成で付けるが、その中でも縄は自由度が高い。それを徳乗は最大限に使う。馬櫛の上方の縄の置き方など面白い。

2017/7/13
命の無い器物だが、それを生あるがごとくに、生き生きと躍動感のある彫物にする。凄いことだと思う。

2017/7/12
中央の銀の轡(くつわ)は、赤銅の上に銀を焼き付けたものだ。また金色の部分も赤銅地の上に金を焼き付けたものだ。この小柄における金銀の色絵を取り除いたら、全部真っ黒な赤銅ということだ。
その赤銅の各種彫り物で生み出す立体感(縄の重なり、左側では鞭の上に縄、その縄が別の鞭の下を通るなど複雑)はどうして彫っていくのだろうか。

2017/7/3
この乱雑な配置を絵にした徳乗は怖ろしい。私であれば縄の下絵を描いている段階で混乱するに違いない。それを立体的に彫り上げるのだ。何が何だかわからなくなる。それを徳乗はまとめ上げている。

2017/6/30
中央の銀は轡(くつわ)である。轡の中に菊花の模様があるのが鏡(かがみ:別名が杏葉(ぎょうよう)で、2つの菊花模様の鏡を結んで繋がっているのが喰(はみ)で、それぞれの鏡から出て先端が丸いのが立聞(たちぎき)、少し長く出ている棒状のが八寸(みずつき:別名が引手(ひきて)と言うことだ。
縄は長くて細いから手綱(たづな)ではなく、差縄(さしなわ)というものだろうか。それとも引き綱だろうか。それに金の馬櫛、赤銅で彫られた鞭(むち)のようなものが3つなのか、2つなのかわからない。
何で、こんな図柄を彫ったのだろうか。どうして、こんな構図にしたのであろうか。誰が注文したのであろうか。どんな人物が購入したのであろうか。想像を絶する。

2017/6/29
後藤家の器物の彫りを廉乗の蝋燭図目貫の鑑賞で褒めたから、この小柄が登場することを予想された人もいるだろう。後藤家において、器物を彫った小柄の中でも屈指のものと思っている。
これまでも「手元に置いての鑑賞」や刀和の鑑賞記で紹介しているが、観るたびに「ワォー」と驚きを感じるものだ。
この頁で廉乗の作品を改めて鑑賞し、”銀の名人”と書いたが、この徳乗の作品も銀を主役にしているのを改めて認識する。ただこの作品は金の役割も大きい。

後藤光乗目貫(三疋獅子…国盗り)

2024/9/5
顔貌もいいが、手脚(指、爪も含めて)の表現もいい。

2024/9/1
桃山時代は覇者の時代であり、獅子の時代でもあったと思う。永徳の有名な唐獅子図よりも、この小さい作品の唐獅子の方が良いと私は思う。

2024/8/28
眼福(がんぷく)だ。表の3匹、裏の3匹の計6匹がそれぞれに魅力的である。

2024/8/24
この目貫を拝見していると、光乗は天才だと感じる。技量に自分の思い、時代の空気を乗せて彫ることができる人物だ。

2024/8/20
「刀和」で、7月号に「安土桃山時代の名作「柳鷺図」目貫ー躰阿弥永勝の作品では?ー」と近刊9月号で「狩野永徳の作風”恠恠奇奇”に通じる後藤徳乗の作品ー徳乗「馬具図」小柄ー」と安土桃山時代の金工を書いた。この時代の総帥光乗のことはこれからだ。

2024/8/16
今日は京都の大文字だ。異常に暑い日が続いたが、関東地方には台風が近づいている。桐箱の中は安土桃山時代の世界だ。この目貫の背景にも作者や身に付けてきた人々の歴史があるが、時代の空気を伝えている。

2024/4/4
美術品の楽しみは、美術品を通して、それが誕生した時の時代の空気を感じられる点にある。これなどは天下統一の時代である。

2023/11/21
獅子は顔の彫りが大切なことは言うまでもないが、手足の彫りも一つのポイントなのだと感じる。自然な力強さとでも言おうか。

2023/11/17
後藤家は祐乗の時代から獅子の彫り物があるが、狩野派は永徳の「唐獅子図」が有名だが、室町時代の狩野正信、その子元信にもあるのだろうか。現存していなくても、当然に存在したと考えた方が自然である。ただし、襖、屏風の絵よりも、武士の腰間を飾る刀装具に獅子は好まれたのであろう。

2023/11/13
拝見するたびに頭が下がる作品である。力強い。表裏ともに、外側の獅子は口も思い切り開けている。こう書いた途端に、3匹がそれぞれに口の開け方が違うことに気がついた。内側の獅子は口を結び、真ん中の獅子は適度に口を開けている。

2023/2/5
光乗は父の戦死で、34歳の時に、一時、母の実家(異説あり)の筑前大友家の一族の茨木丹後守の縁で豊後国丹羽村に逃れて10年過ごすという。他の後藤家当主に比べて苦労している人物である。政治の世界が実力主義の時代であり、芸術の世界でも、その風潮は及んでいたはずである。そういう中で地歩を築いてきた人物である。

2023/2/3
目貫という小さなスペースに、これだけの細かい彫技をふるえるのは日本人の誇りである。イタリア・ルネサンスのミケランジェロ(1475~1564)とほぼ同時代(光乗1529~1620)だ。気概が後押ししてくれる。

2023/2/1
上の写真ではよくわからないが、表裏それぞれにいる外側にいて口を開けて真ん中の獅子を見上げている獅子の後ろ脚のトモが立体感を持って膨らんでいる。これも全体の立体感醸成に寄与していると感じる。

2023/1/30
獅子に托した戦国覇者の思い。

2023/1/28
威厳。狩野永徳の唐獅子は大きくて見栄えがいいが、光乗の獅子は小さい作品だが、負けていない。今回は前肢に目が行く。強く踏み出している。強く蹴りだしている。強く踏みしめている。自然に出している。次の動作に備えている。

2022/2/21
躍動感でいいのだと思うが、今日は「動きの軽やかさ」を感じる。

2022/2/19
絵画の狩野派は室町期の狩野元信から、桃山期に松栄(直信)、永徳、永徳の弟の宗秀、長信がいて光信がいる。そして江戸期の探幽に至る。金工後藤家も室町期の祐乗から桃山期の光乗、徳乗と、親戚の長乗などがいて、江戸期の栄乗、顕乗だ。

2022/2/17
この目貫は、周囲の光が強くないところで観る方が立体感が際立つ感があるのに気が付く。ギュッと締まって躍動的である。

2022/2/15
今年、新たに古美濃の金無垢目貫を購入したから、所持している金無垢目貫を観ている。
金の色は後藤物であり、この光乗と栄乗は同様で、光乗の方が山が高い分、谷の部分に僅かに金錆びのような黄が出る。立体感は三匹の為という理由もあるが、光乗の方がある。

2021/10/18
覇気横溢、勇気満々。

2021/10/16
彫り物は、どの部分も大切なのだが、手足の指の彫り(各指の太さ、メリハリ、地を踏ん張る力強さ、地を蹴る軽やかさ、これからの動きに備えての気配など)に感動する。裏目貫(右側)の上部の獅子は左下の獅子の上に手指を乗せているが、ここの指は踏ん張っていない。

2021/10/14
山・谷のメリハリに通ずるが、この目貫は頭部と胴体部がくっきりと分かれて見える。「当たり前だろう」とのご指摘もあると思うが、そうでない獅子の彫り物も多い。

2021/10/12
山と谷のメリハリが付いているとも言える。これが彫技の正確性、彫った対象物の力強さなどにつながっているのだろう。

2021/10/10
目玉の向き(視線)はキチンと対象をとらえており、体躯の筋力は漲(みなぎ)り、生命力の溢(あふ)れる大きな口だ。手足の指も逞(たくま)しく大地を掴(つか)み、蹴り上げる。

2021/6/21
口の大きさ、鼻腔の大きさ、手足の先端(手首、足首の先)の逞しさ、腕・肩の筋肉の力強さが肉体的な生命力の強さ、眼は心の動きを反映している感じだ。

2021/6/19
作者光乗の力、安土桃山時代の時代の力、時代の力に含まれるのか注文した武将の力などが結晶したものだ。

2021/6/17
まず平面(2次元)の下絵をつくるのだろう。そして立体(3次元)の構想を考える。下絵に高さの指示を記していくのだろうか。それとも粘土のようなもので立体模型を作るのだろうか。金の板を用意して、裏から高くするところは深くと、部位ごとにたたき出していくのだろうが、想像を絶する作業である。金属の伸展性を考えると金の方が他の金属よりも容易なのであろうか。

2021/6/15
生気と躍動感がある。

2021/6/13
口の開け方が、一段と大きい感じもする。また口が深いと言うか、口の際が深い感じである。

2021/6/10
箱を開けて拝見した途端に「山高く 谷深し」を実感する。そして各獅子の相貌に打たれる。この目貫を拝見して、隣りに又七の鐔。そして公鍳兼光の御刀、眼福極まれり。

2020/9/20
栄乗の二疋獅子に比較すると、この光乗の作品は「畏れ多い」という感じである。栄乗の方は「親しみやすい」感がする。作品の位(くらい)の差なのだと思う。

2020/9/17
目貫は、地金を台に乗せ、裏になる面を鏨でたたき(打ちだし)、表に山(凸)となる部分の概略を造り、次ぎにその地板を裏返して、表になる面から、鏨で凹ませる(圧し込み)ように叩いて概略の形を作ることで「山高く、谷深し」になる。そして次ぎに細かい部分の彫りをしていくと言うが、当初から出来上がりの形に対する構想力が無いと難しい作業だと想像する。

2020/9/12
今日は横の獅子の口が、大きく開けられていることに改めて気がつく。

2020/9/6
これは上掲の写真ではわからないが、裏の根、特に陰根は立派である。こういうところなどは本歌の良いものとそうでないものの差などであろう。似せようとする者も、こういうところまでは気がまわらない。

2020/9/3
どの獅子の頭部も、出っ張っている。すなわち頭部らしい立体感がある。ちょっとした差異だが、こういうところが名人なのだろう。

2020/8/31
彫技の卓越さに加えて、絵としての構成力が秀でており、各獅子の連携が見事、さらにその彫物に託して籠める思いなどわかる作品である。

2020/8/29
山高く、谷深し。立体感の表出。

2020/8/27
手脚の力強さ。

2020/8/26
上の写真は悪い写真だ。この目貫の獅子は、狩野永徳の「唐獅子図屏風」の獅子に優るとも劣らないと自負している。唐獅子図屏風のような大作と違って、小さい作品だが迫力は負けない。

2018/1/26
ライオン研究会(獅子目貫を持ち寄っての勉強会)でも、この目貫の出来の良さには感嘆の声が上がる。小ぶりだが、それぞれの獅子の姿態の自然さ、伸びやかさと、それぞれの獅子の表情を違えながらも、いずれも見事な顔つきの目貫は外にない。芸術的価値だけで言えば重要文化財級だと私は思っている。

2017/12/25
栄乗、徳乗の作風に関する先人の言を紹介したから、光乗についても記しておこう。『日本装剣金工史』(桑原羊次郎著)から適宜現代語に直して引用する。笄の棹の特徴などは除いて、主として目貫や作風に関してである。
「彫物の手際はいずれも乗真の手際より細かにみえ、七子も粒揃い、いかにも見事なり」(後藤光信の談)
「元祖の心持ちにて上品に位ある彫なり。強からず弱からず」(稲葉通龍の「装剣奇賞」より)
「すぐれたる上工。彫刻のさま祐乗の掟を守り、元祖と見紛う物多し。(中略)すべて祐乗の風ありて、元祖よりとりしまりたる(?)丁寧綿密なる彫りかたなり」(野田敬明の「金工鑑定秘訣」より)
「目貫の紋柄格好ともに宗乗・乗真時代より小ぶりなり、目貫の格好少し横長なり。金目貫は薄金にて色絵目貫は厚金なり。(中略)陰陽根もあり、しからざるもあり、一体に大きくなし、目貫の山谷の肉合い頃合いなり。」
「技術もっとも優絶にして、その鏨行き祐乗に似て、肉強く、綿密周到なる仕方なり。細かく締まりて品格あり。後藤累代中屈指の技量家にして祐乗、即乗と並び称されて三作と仰がれたり」(加納夏雄の談)
ともかく褒めているが、似ているとされる祐乗の作風も12/17に書いたように幅があり、具体的にはわからないのが実態である。
ともかく上手で、小ぶりなのが光乗であれば、この目貫など、最たるものだ。

2017/12/19
購入した二疋獅子(栄乗)についてアップした。そこで、いずれも先人の極めであるが四代光乗、六代栄乗(一疋獅子)、七代顕乗(2組)、八代即乗、十代廉乗に覚乗の二疋獅子目貫の写真を掲示した。詳細に観ると、それぞれの違いがあって興味深い。

2017/12/17
後藤の古いところは在銘品が無いから、極めも感覚的である。祐乗作品について夏雄は「鏨数がいたって少なく、荒くおおらか」と評し、確かにそれにあてはまるような作品(信長所持という金の鞍置馬目貫や、銀と赤銅の狗児目貫など)があるが、もっと精密な作品もある。それは初代信仰(初代が一番偉い=だから初代が一番上手い)からの極めではなかろうか。古折紙も記述内容は簡単であり、合わせ折紙が存在することも否定できない。陰陽根と切り欠きなどの形式を言う人もいるが、根は代えられていると言う主張もある。価値=金額に関係するから所有者も黙っていない。東京芸大の後藤家文書の解明や、削ることなく材質分析ができるようになるなどの新しい鑑定技法などに期待したい。

2017/12/13
新たに購入した目貫が二疋獅子なので、各種本から、後藤家代々の写真を拝見する。その中で『刀装金工 後藤家十七代』にカラーで所載されている祐乗と極めの名物「薩摩守」と同「山の手」と名付けられている二疋獅子の顔に、この目貫の獅子の表情が似ていることに気が付き、なるほどと思う。

2017/12/12
日本刀柴田の「刀和」において鑑賞記を連載していた時、原稿と同時に現品を持参して掲載用の写真を撮る。これを持参した時、柴田和夫氏がしみじみと拝見された後に、ご子息に箱を渡されて「和光、よく拝見しておきなさい」と言われたのが印象に残っている。

2017/12/11
この目貫は銀座の盛光堂の先代斎藤光興氏から求めたものだ。平成12年4月に、お店に出向くと、この目貫を見せられる。感激するものの重要刀装だから非常に高い。そしたら「ともかく買っておきなさいよ」と強引に勧められる。それまで盛光堂さんからは通乗の波游ぎ龍の小柄を求めただけだ。その強引さによって、その場で決断したが、何であんなに強力に勧められたのだろう。
今ではこのご縁に感謝している。箱に付属の紐がボロボロになっていたから、その場で今の紐に替えてくれたのも覚えている。

2017/12/9
目貫は刀を佩用した時に目立つから、「目貫(目抜き)通り」という言葉が生まれたとの説もあるが、目貫は人に見せるものではなく、佩刀している自分が観て楽しむものだと気が付いた。合口拵だけを佩用して、城中に座している時に、楽しめるのは自分の目貫だけなのだ。

2017/12/7
絵の狩野家は永徳は信長から300石を賜るというが、狩野宗家の中橋家は江戸時代は時代によって小異があるが山城国戸寺村で120石程度である。幕府御用の狩野探幽(鍛冶橋狩野家)は河内國客坊村で200石余(後に分家し百石)である。この点、後藤本家は栄乗は250石で、江戸詰め料として20人扶持(百石相当)である。当時の評価が推し量れる。
最近読んだ日本美術史の本における桃山美術に後藤光乗が取り上げられていたが、こういうのはもっと刀剣・刀装具界の方からアピールすべきと思う。ただ前代の祐乗も含めて無銘というのは弱い点である。

2017/12/6
金無垢目貫は、主として合口拵で鮫皮を着せただけで柄糸を巻かない柄(出し鮫柄)において使用されたのであろう。常に腰間にあって眼にした小道具である。三所物の中でも一番大きく、また出来も良いのが普通である。そして目立つだけに、使用出来たのは大名や、大藩の高級武士だけだろう。風紀の取締が弱い時期には豪商が吉原通い時に使用したかもしれないが。
江戸中期以降になると、出し目貫(柄糸の上につけて太い糸で2箇所ほど縛る)として使用した武士もいるかもしれないが、糸が切れやすく、怖い使用方法だ。
私などは、こういう目貫を拝見していると、身分は高くないが合口拵の目貫にして常時帯用したいと思う。勇気が湧いてくるではないか。

2017/12/5
この目貫はもちろん無銘であるが、重要刀装具として光乗と極められている。「刀装具の鑑賞」、「手元に置いての鑑賞」に鑑賞記を記しているから参考にして欲しい。「国盗り」の異銘は、覇気横溢した獅子たちの表情・姿態から私が付けたものである。司馬遼太郎の『国盗り物語』のイメージである。

この目貫を拝見すると、後藤の獅子の極め所として伝わっている箇所の違いなどはどうでもいいと思えるが、ここで説明しておきたい。
写真ではわからないが、獅子の「耳のこべり」に入っている鏨が無い。伝書には、これは祐乗だけの特色としている。
斑はどちらかと言えば木瓜である。伝書に上六代は洲浜とあるが、他の目貫を観ても、これは誤りであり、上六代に木瓜斑も多い。
額の八文字は表目貫の一番左側の獅子と裏目貫の中央の獅子のように横向きが強い獅子には不明確である。また表目貫中央の獅子の下部の八文字はつながって「へ」の字になっている。他の三疋には八文字が存在する。このように全部が揃っていないところも古い時代的である。
そして、まさに「山高く、谷深し」の彫りである。
裏の目貫の根は陰陽根である。光乗までに多いとされている。

この雰囲気は安土桃山時代だ。画で言えば狩野永徳の「唐獅子図屏風」である。その絵より躍動感があると思っている。

後藤栄乗目貫(二疋獅子)

2024/10/3
この栄乗作の二匹獅子は優しさがある。愛らしさがある。これを稲葉通龍は「ぼっとり」(ういういしく愛敬のあるさま)と評したのだろう。

2024/9/29
獅子は当時の日本(中国も含めて)では、龍とともに想像上の動物。ライオンに似ているがライオンとも違う。魔除けに用いられたとの説もある。またその姿態から王者の象徴にもなる。ともかく龍とともに当時(後代までも)の武将に愛好された動物であるのは「強さ」のイメージからなのであろう。

2024/9/25
栄乗は天正5(1577)年に生まれ、文禄3(1594)年の六代目となり、豊臣家に仕える。豊臣家が元和元(1615)年に滅亡すると蟄居したが、叔父長乗の取りなしで元和2(1616)年に徳川秀忠から、分銅大判改め役と彫物役に任じられるが、元和3(1617)年に41歳で死去している。すなわち豊臣家の治世に活躍した金工である。

2024/9/21
光乗の三匹獅子目貫は、畏れ多い感じもするが、この目貫は身近な差料(腰刀=短刀)の出し目貫として装着したいものだ。

2024/9/17
これは二匹獅子だが、三匹獅子とか、一匹獅子とか、獅子の数は何か意味を持つのだろうか。数が多いほど、彫物代が高いとかもあるのだろうか。

2024/9/13
溌剌としている。楽しげである。

2024/9/9
栄乗は獅子の彫りが得意だったのではなかろうか。一匹獅子の名品の写真を見たことがあり、写真だけだが良いものだなと感心したことを覚えている。今、それが所載されている本を探しているのだが、見つからない。名の知られた鑑定家の愛蔵品だった記憶しているのだが。

2024/5/10
狩野永徳の「唐獅子図屏風」は桃山美術の代表作であるが、室町後期の戦国時代から江戸初期にかけて、当時の武将に好まれた画題だったのであろう。ただ栄乗のこの獅子は猛々しさとは違った楽しさ、明るさがある。

2024/5/6
ここに掲示した写真では、目貫の裏はわからないが、「手元においての鑑賞」でこの目貫を取り上げた解説した箇所では裏の写真を掲載している。見ていただいてわかるように、「薄い金地を叩き出している」のである。これも栄乗の特徴の一つである。技術に自信があったのだと思う。

2024/5/2
表裏、それぞれの2頭、睦み合っている。

2024/4/28
良い目貫、名作である。短刀に装着して、もちろん出し目貫にして、常に身近にあって欲しい目貫である。

2024/4/24
栄乗は獅子の彫物が得意だったと感じる。拝見すると楽しくなるから、栄乗本人も楽しんで製作していたのではなかろうか。

2023/12/31
表目貫の前の獅子だけが姿態に違和感があるが、これは前脚を伸ばし、後ろ脚を揃えて跳び上がるところを彫ったのであろうか。他の獅子も含めて躍動感がある名作だ。

2023/12/27
代々のお家芸として伝わった彫物を彫るということは、プレッシャーのかかることだと思う。先祖の彫技を学び、そこに自身の見方、考え方、彫技の革新などを入れていったのだと思う。そして栄乗は獅子の彫物を得意とした。栄乗の製作する喜びを感じる作品である。

2023/12/23
薄い金地で、これだけの作品を打ち出せるのは技術が高いのだと思う。

2023/12/19
この目貫は心が和む。実に明るい雰囲気のあるものだ。

2023/12/15
表裏のそれぞれの後方にいて、前の獅子に振り向いている獅子の前脚は力強い。

2023/12/11
獅子の数に何か謂われはあるのだろうか。一匹、二匹、三匹に、もっと多くの獅子を彫ったものも見たことがあるが。また獅子に彫り物として彫られる獅子に雌雄の別があるのだろうか。こんなことも考えた。

2023/4/10
獅子は後藤家のお家芸だが、とりわけ栄乗は得意としたと思う。実に溌剌とした獅子達である。以前のことになり、記憶も曖昧だが、写真で高名な刀装具研究家(神谷紋一郎氏か日野松庵氏か)が所持されていたという一匹獅子の名品に感心したことを覚えている。

2023/4/8
栄乗が造る喜びを感じながら、制作した目貫。そういう気持ちが伝わってくるものである。

2023/4/6
この目貫は私が短刀拵を作成する時に、装着したい目貫である。何となく親しみを感じるのである。気持ちが明るくなるような気もする。その一方で格式は保持できる。

2023/4/4
この目貫の裏もいいのだ。「手元に置いての鑑賞」に写真を掲載しているから確認してほしい。古人は目貫裏の叩きだしを鑑定のポイントに置き、重視しているが、数をある程度観ていないとわからないが、確かにこの通りである。名工の鏨の跡だ。薄いところは栄乗だ。

2023/4/2
金目貫は写真では金色の違いはわからないが、この目貫も良い金色だ。全体の造形は立体感・遠近感に優れ、表裏の各2匹の位置関係、距離感がうまく表現できている。

2022/2/5
稲葉通龍評する「ぼっとり」(ういういしく愛敬のあるさま)だ。若い女性が弾けるように笑い、恥じらう様子だ。それは溌剌に通じる。私が短刀の拵を製作する時には、目貫はこれにする。

2022/2/3
この目貫はもちろんフォーマルな装いに付けるものであり、フォーマルなものだが、そこからカジュアルを覗(うかが)っているような感じがする。栄乗の余裕というか遊びというか、そんなものを感じられる。

2022/2/1
動物(想像上の動物だが)を彫ったものだと、その動物の表情で、見ている側の感情が揺さぶられる。器財や植物を彫ったものとの違いはここにある。後藤の獅子の目貫などは最たるもので、想像上の動物だからゆえに、より表情が自由になる。その結果、このように楽しげな雰囲気が生まれるわけだ。そして、そこに観ている私は惹かれる。

2022/1/30
過去にも度々(直近は2021/10/24)、目貫の裏の感じの良さに言及しているが、この感じの良さは、薄さと、その薄さが均一な点にある。光乗の三匹獅子の方はもう少し彫が高く、その分、裏の打ち込みは深い。それに対して栄乗は、それほど深い打ち込みは無く、なだらかに広く展開されていて見やすいということもあると思う。

2022/1/28
表目貫、裏目貫ともに、前にいる獅子が後ろにいる獅子よりも、明らかに前にいる。何を当たり前のことを言っているのかと叱られそうだが、この前後の距離感を、これだけの画面で彫れるのは、相当な技量だと思う。

2022/1/26
明るくのびのびとした印象、闊達(度量が広く、ものにこだわらない)な感じがして観ていて気分が良くなる。

2021/10/24
この目貫は裏の様子が実に良い。裏の写真は「手元に置いての鑑賞」にアップしているので確認してほしい。表からヤニ台の上で叩いてメリハリを付けて、金の伸ばして全体に均一に薄く仕上げており、その山、谷の感じがなんとも言えずに味がある。そして巧みだと感じる。裏の各所についた古色まで味がある。こういう楽しみはオタク的であるが、美に敏感な人ならば誰でも感じると思う。

2021/10/22
この目貫の出来が特に良いことに影響された意見とも感じられると思うが、栄乗は獅子の彫りが得意だったのだと思う。昔、一匹獅子の伸びやかな金無垢目貫を拝見したことがある。当時はどこの見所で栄乗に極まっているともわからずに拝見したが、良い目貫だったとの印象は残っている。

2021/10/20
光乗の獅子の次に、この栄乗の作品を拝見すると、明るい感じ、のびのび感を感じる。

2021/3/23
今朝は金色が美しい。往時も、腰刀のこの目貫を見て、そう思って登城したのだろう。元気溌剌な様(さま)にも活力を感じたことであろう。

2021/3/22
顔の立体感を丁寧に彫っている。

2021/3/21
上五代の父祖が作り続けた二疋獅子を作るというのも大変なプレッシャーだと思う。同じ姿態のものだけに技量の差が出る。また自分の個性を発揮しにくい。そういう中で、このように楽しく見える獅子を彫り上げるのも大したものである。

2020/1/4
光乗の三匹獅子を”国盗り”と名付けたが、この栄乗の二匹獅子は”溌剌”(はつらつ)がふさわしい。溌剌は広辞苑によると「魚が元気よくとびはねるさま、元気のよいさま、生き生きしているさま」とある。
私のこれまでの感想「健康的」「動きが感じられる」「伸び伸びと育っている」「生き生きと動いている」「躍動する」「明るく、無邪気に遊ぶ」「生死に関する会話というより、娯楽に関する会話」「伸びやかで溌剌」「ぼっとり((初々しく愛嬌のある)」「気品もある」「お互いに信頼している様子に安心感、愛情」「元気が良く、楽しく」「互いに信頼している様子」「穏やかな感じ」「創業者の覇業の時代の次ぎの守成の時代」「伝統に素直な、伸び伸びとした姿態で楽しく彫っている」はこの通りであり、そこから一言を選べばということだ。

2020/1/1
金一色で、このように細かい立体のものは”写真の撮り方=光のあてかた”で印象が変わることにも留意する必要がある

2019/12/29
識者はよく「金色がいい」と言うが、この目貫などは最たるものである。要は金色らしい金色が出ているかである。

2019/12/28
「動き」が感じられるところが、この目貫の魅力の一つ。

2019/12/26
今日は「健康的」という印象を持つ。健やかに伸び伸びと育っている。

2019/12/25
ある刀屋さんで、出来の良い金無垢二匹獅子を拝見。証書は「後藤」だけで、値段もそれなりにしていた。一見して顕乗、程乗、即乗、廉乗あたりの作品と思うがショーケースの上から見ただけで帰る。昨日、手に取って拝見しようと出向くと、中国人が買っていったとのこと。こういう時代になったということ。

2019/12/21
それぞれの獅子が生き生きと動いていて、うまいと思う。伸びるべき四肢は伸び、縮めるべき四肢は縮まり、胴体は動きに合わせて躍動する。

2019/12/19
この獅子を観ていると、明るく、無邪気に遊んでいるような感じもしてくる。戦国の創業大名の次代にマッチしたところがあるのかなとも感じる。

2019/12/17
薄く打ち出している技術だが、「手元に置いての鑑賞」で裏の写真を掲載しているので観ていただきたいが、裏を観て感心したのはこの目貫だ。金だからこその伸展性を生かしたのだ。

2019/12/16
薄く打ち出している目貫だが、立体感を感じる。相当な技倆だと思う。

2019/1/15
後ろの獅子の前脚の開き加減と伸びている様子、その前脚の長さ、それに前脚に付いている手指の彫りなどが溌剌さのポイントと感じる。

2019/1/13
会話の内容だが、表目貫(写真左)では口を開いている(阿形)後ろの獅子が「これから○○に行こうか?」と話しかけ、前の獅子(口を閉じている吽形)が快諾しているような会話だろうか。裏目貫では前の獅子が、後ろの獅子に呼びかける。「そっちではなく△△の方が面白くないですか?」とでも話かけているのだろうか。いずれも狩りなどの生死に関することではなく娯楽のような感じの会話と感じるのが時代なのであろうか。
二疋の獅子間の上下関係も前の獅子の方が可愛らしい感じで後ろの獅子より若い感じを持つが、それだけの関係ではなかろうか。

2019/1/12
同じようなことを書いているが、この獅子は元気が良く、楽しく、溌剌という感がする。視線のことを書いたが、二疋同士が楽しげに会話をしている。

2018/7/19
光乗の三匹獅子は畏れ多い感じがするが、この栄乗の獅子目貫は愛玩できる。出し目貫の合口短刀拵に付けていれば、殿中の退屈な評定(江戸時代の会議)の時でも楽しめる。四匹を観ていると、伸びやかで溌剌だし、ぼっとり(初々しく愛嬌のある)しているし、気品もあるし、お互いに信頼している様子に安心感も、愛情も感じる。
上役が「伊藤、お主の意見は?」と聴いてきた。

2018/6/4
佐渡に旅行に行き、佐渡金山を見学した。江戸時代初期は1トンの鉱石に金が100グラムも含有される優れた鉱山だったようだ。この目貫の重さは量っていないが、片側8グラム、両方で16グラム(純金ではないからもう少し少ない)と推定すると、160㎏程度の岩石から取り出したことになる。金鉱石は固く、鏨で砕くだけでも大変な作業だったのだ。こんなことを考えた。

2018/3/20
この二疋獅子は各代に類品があり、それが昔の後藤家の折紙等で極められており、しかも市販の本等に写真が掲載されているから比較の上、極めることもできるが、変わった図柄、珍しい図柄となると、私ごときには明確には比較できない。「乗真だ」「いや栄乗だ」とか印象では言えるが、難しいものである。「良いもの」「魅力のあるもの」「上手なもの」ということはわかるが。

2018/2/1
各代の写真比較をすると、特に裏目貫の前側の獅子の姿態が屈曲が少なく、伸びやかであることに気づく。この結果、この獅子の視線は、後ろ側の振り向いた獅子の視線の上に行っている。後藤の獅子は互いに視線を交わしているのが良いとされているが、この目貫は、その掟を破っている。
同時代より、少し後の狩野探幽の弟子(子どもたちの不祥事で破門されたとも伝わる)の久隅守景の有名な絵「納涼図屏風」(田舎家で百姓の家族が夕涼みをしているる絵)において、家族互いの視線が一致しない様子を着目する批評家がいる。近代では印象派のマネが、このような視線の絵を描き、近代人の意識(家族といえども疎外感を抱えて自立している)を描いたと評価されている。
後ろの獅子は心配しているが、前の獅子は構わずに駆け出す。これが溌剌さを感じさせるのだろう。
芸術家も伝統に囚われているだけではダメだ。同時に鑑賞者も伝統的な見方に固執してはダメだ。良さを素直に観なければ。

2018/1/20
栄乗の作風を評した『装剣奇賞』にある「少しぼっとり」だが、「ぼっとり」を広辞苑でひくと「女のふっくらとして愛敬のあるさま。また、ういういしく愛敬のあるさま」とある。「後藤栄乗「二疋獅子」」で実施した写真比較では”ふっくら”は息子の即乗の方がふさわしい感じだが、”ういういしく愛敬のあるさま”という感じは、私が感じる溌剌とか、伸び伸びと楽しく彫っているという感想に通じる。また表、裏それぞれの目貫における前側の獅子の表情はういういしく愛嬌があると感じる。
徳乗の作風を評した「むっくり」は「肉付きよく肥えたさま」であり、徳乗の獅子の頭が大きく堂々として獰猛にして筋肉質である様と通じる。

2018/1/18
栄乗、顕乗の兄弟は守成の時代と述べたが、守成と言っても安定した穏やかな時代ではない。内部の足場固めの時代である。各地の大名家でも御家騒動(長男相続を確立し、藩内を統一し、初代の功臣…軍臣を組織…官僚として動くようにする軋轢)もある。
光乗の獅子は所蔵の三疋獅子を「国盗り」と称しているように覇気横溢したもの、徳乗は頭が大きく堂々として獰猛にして筋肉質、作風で「むっくり」と称される。それに対して栄乗は、この目貫のように伸び伸びと彫って、溌剌として互いに信頼している様子を彫っている。穏やかな感じもするから、作風を「ぼっとり」と表現したのであろうか。

2018/1/17
昨日にかけて、「後藤栄乗「二疋獅子」」に新たに徳乗、栄乗の折紙付き同種獅子の写真を5点アップして比較検討を加えたが、この目貫には勉強させてもらっている。勉強と同時に楽しませていただいているのだからありがたい。
光乗、徳乗の戦国創業初代の時代から、栄乗、弟顕乗の徳川2代秀忠を中心とする守成の時代に入ったことが何となく理解できた。

2018/1/16
後藤の獅子には、この表目貫後方の獅子のように、舌を出しているものも多い。阿吽(あうん)の表現として、口を開けた形状と閉じた形状の対が基本だが、口を開け、舌まで出しているのは人間の仏像ではありえない。舌を出しても下卑た感じにならないのは凄いと思う。この目貫、堂々と舌をだしているではないか。

2018/1/14
昨日、昔の大刀剣市のカタログを見ていたら、2010年のカタログ144頁に刀剣王野という店に、光理折紙・栄乗極めの這龍図三所物の写真が掲載されていた。金無垢の龍だが目貫の裏の写真まで掲載されており、この根の曲げ方が私の二疋獅子によく似ている。薄さも薄い。叩きだしの状況は写真であり、明確にはわからないが、わざわざ目貫の裏まで掲載しているのは、この裏行きに感じるところがあったのではなかろうか。

2018/1/12
「山高く、谷低く」と言われるが、この目貫は裏を見てもわかるように高低差も十分である。ここまで薄い地金を、叩いて叩いて伸ばして立体化していくわけだ。金という金属の展性を理解している豊臣家の大判・小判を製造した後藤家だから出来たことであろう。
また、特に裏目貫で認識できると思うが、獅子のたてがみが後ろに流れているところの彫りはキレがあり、上五代を写すだけの彫技ではない。

2018/1/11
手元に置いての鑑賞」で弟の顕乗、息子の即乗などの二疋獅子を紹介しているが、それらに比較しても伝統に素直な、伸び伸びとした姿態で楽しく彫っている感じがして好もしい。

2018/1/10
この目貫については、栄乗と極めた経緯を「手元に置いての鑑賞」で詳しく書いたばかりだが、鑑賞的なことはそれほど書いていないので、ここに記しておきたい。
祐乗以来、五代の先祖が同じ二疋獅子を彫っている中で、この題材で彫るのは重荷だと思うが、この目貫は、そういう重さは感じさせずに、慣れた鏨使いで伸び伸び彫っている感じがする。獅子が得意だったのではないかと先の鑑賞記に書いたのは、そういうことである。

後藤光寿:波泳ぎ龍(水龍)図小柄

2024/10/19
通乗(寛文3(1663)~享保6(1721)年)は元禄10(1697)年に家督を継ぐ。宗珉(寛文10(1670)~享保18(1733)とほぼ同時代であり、町彫の名工がどんどん生まれてくる時代であり、苦労したと思われる。この小柄は従来の後藤家の彫物から脱皮している作風であり、偉いものである。

2024/10/15
この小柄もそうだし、所有品の柳生鐔の波もそうだし、芸術の各分野で波の表現が生まれて、その一つが葛飾北斎の「神奈川沖波裏」の浮世絵の波だ。日本人は昔から波の表現に拘ってきたのだ。

2024/10/11
波の彫が実に上手いと感じる。本当に流動性のある水(海水)がうねっているようだ。

2024/10/7
後藤家に絵風を取り入れたとされる通乗らしい作である。波涛が荒れ狂う中を一角龍が泳いでいるのである。波は波、龍は龍として、それぞれを彫っているのではなく、両方が一つになって、荒波の中を獲った玉を持って泳いでいる龍なのである。もっとも龍は想像上の動物であり、その泳ぎ方などは空想上のものなのだが。

2024/5/22
荒天で、海が荒れているのかもしれないが、大きな龍が泳ぐことで、このような波涛が生まれているのかもしれないが、この小柄の波涛は生き生きしていて天下一品である。

2024/5/18
元禄時代の雰囲気(豪華、絵風)がよく出た小柄である。絵風とは、龍が本当に波の上を泳いでいるように彫っているということである。それまで、例えばこのような図では、龍は龍、背景の波は波というものであった。

2024/5/14
この波涛、波飛沫がいい。これが通乗光寿の真骨頂だと思う。波涛の肉取りのせいか、彫った波がうねっている。

2024/1/20
龍の尻尾の末端部分が波から出ているのだが、これは遠近感を出すのに失敗している。手前に見えてしまう。

2024/1/16
想像上の動物の龍が泳ぐ姿も想像である。こうした画題に挑戦した気合いも感じる。

2024/1/12
町彫の宗珉に対抗する気合いに満ちた力作である。「世の荒波」という言葉があるが、町彫台頭の世の中(荒波で表現)をものともせずに乗り越える(龍=本人)という意味もあると感じる。

2024/1/8
豪華な小柄である。町彫の横谷宗珉が出現し、人気を博す中で、後藤家の彫物の対抗する方向で変えていったのが通乗光寿である。龍そのものは変えようがないから、背景をこのように豪華にしたのだ。

2024/1/4
今年(令和6(2024)年)は辰年である。手持ちの小道具で、龍の作品はこの小柄である。龍の彫りは後藤家らしく達者だが、通乗は波の彫りがいい。水が表情を持っているような彫りだ。この図で言うと、龍が泳いでいると言うよりは、水が龍を運んでいるという感じだ。

2023/5/8
龍は金色絵なのだが、金色がやや赤みを帯びている。一方、小柄の裏板などの金は厚い金地である。

2023/5/6
この波は銀地に毛彫りをして、寄せては引く波のうねりに飛び散る波頭の様子を彫っているのだが、この写真でもわかるように、銀地に濃淡が出来て、色が付いているようにも見える。もちろん色ではなく、毛彫りの深浅や波の重なり、波の大きさなどの波形による綾だと思うが、これも華やかさを益している。

2023/5/4
この人は波の表現が上手だ。龍は後藤家のお家芸の一つであり、、後藤の当主であれば一通りの彫りはできると思うが、この波の彫りは通乗光寿の独擅場である。動きも自然で、写実的に見せるが、装飾的である。

2022/4/28
波の肉置きが良い。波は高く、荒れている。気候で荒れているのか、龍の泳ぎで荒れているのか、わからない。龍の前方に立波2つが描かれているから、気候も荒れているのだろう。ともかく波の表現が柔らかく、波は海水から成っているという当たり前のことも感じられる。またうねりの感じが龍が浮かんでいる=泳いでいる感じを表現している。

2022/4/26
後藤家は龍と獅子という権力者に好まれやすい画題を磨き上げることで、命脈を保ってきたのかなとも感じる。龍の姿態を剣と併せた倶利伽羅龍、這龍、雲龍、丸龍、水龍として波泳ぎ龍などだ。

2022/4/24
今日は、龍という動物は、この当時、どこまで存在が信じられていたのだろうかということを考えた。西洋にもドラゴンの伝説があり、興味を惹く。もちろん光寿は後藤家に伝わる龍の各種彫を手本に彫っただけであるが、泳ぐ龍を彫るに当たって、龍の泳ぎ方を考えた様子は窺える。もっとも、波の方をダイナミックに動かすことで龍の泳ぎを表現することにも力を注ぐ。

2022/4/22
波の通乗(毎朝食事前に鏨をとって青海波を彫り、その後に食事)らしく、見事な波だ。後の世で葛飾北斎が「神奈川沖波裏」の浮世絵を発表し、世界で「グレートウェーブ」と評価されている大波も、通乗のような仕事の上に花開いたのではなかろうか。

2021/5/1
波には、その形に合わせて、細かい線彫りが正確かつ緻密に施されている。これによって波にボリューム(質感)が出てきて、ダイナミックな感じが生み出せている。

2021/5/9
下に掲示した水龍における赤銅の波と、この波泳ぎ龍の銀の波の色彩効果を比較すると、赤銅(黒)の波は龍の金色を映えさす効果があることがわかる。銀の波だと、金の龍が目立たなくなる。しかし、波らしさは銀の波の方が優れている。そして、この波の躍動感は優れていることを改めて認識する。

2021/5/7
このページの2018/3/22において触れた通乗の「水龍図」の三所物(第24回重要刀装)における小柄の写真は以下の通りである。(
薄い冊子であり、紛れていたのが出てきたのでスキャナーでとる)
「サムライ美術」日本刀剣(1992年発行)より
こうして比較すると、かなり違う。こちらは目の前の玉をこれから掴むところで、波も穏やかであり、泳いでいるというより、浮かんでいる感が強い。画題に「水龍」とされたのがわかる。一方、私の所持品の方は、やはり「波泳ぎ龍」の方が良いと思う。(もちろん、後藤家の当時の画題は確認していない。折紙や留帳で確認する必要がある。)

2020/3/7
これから先への希望と気概と同時に、待ち受けるであろう荒波を覚悟しているような心境を彫り込んでいる。

2020/3/6
波の細かい彫り、龍の体躯の鱗の彫りなど、彫りの手数を多く費やしている作品であり、ともかく力作である。

2020/3/3
波頭から飛んだ波飛沫(彫りだと銀の丸)は波中も含めて15ある。飛んだのが7、波中が8である。波が重なっている箇所では龍の胴体部分で4つの波が重なっている箇所がある。立っている波も右に開いているのが6、立つ波で左に開いているのは2である。右に開いて、龍の進路を邪魔するようなのが多いから、龍の苦心というか、急いでいる様子が強調されるのか。

2020/3/2
通乗の人柄を褒めた言葉に、「平生の行儀も正しく毎朝食事前に鏨をとって青海波を彫り、その後に食事をした」と古書に記載があるようだが、波を同じ間隔できちんと彫ることで律していたのだと思うと同時に、波に拘りがあった人物だと思う。

2020/2/29
主役は龍だが、波も負けず劣らず彫り上げている。凄い波だ。生物みたいだ。波に彫り込んでいる毛彫もきちんと波の形に遇わせて細かく掘っている。

2020/2/27
世の中はコロナウィルス騒ぎである。それはさておき、この小柄を観ていると、光寿が自分に課せられた使命を全うすべく、世の中の荒波に向かっていくような若さを感じる。後藤本家の養子となり、横谷宗珉などが台頭している中で、後藤家の伝統を守り、時代に合致していくような作品を造り出していくことを思う気概である。

2018/4/9
龍の身体の金色絵は頭部から尻尾に到るまでに徐々に色を薄くしていると感じる。これは光寿なりの遠近感ではないかと思う。

2018/4/4
龍の顔はともかくとして、波間に見え隠れする身体の方は連続性が感じられない。これは欠点である。

2018/4/3
この龍は少し変わっている。まず角が1本である。普通は2本角である。それから眉の上には額(ひたい)があり、そこに八文字の皺が2つあるが、それから頭部にかけて毛で覆われている。
龍の顔面は威厳よりも溌剌感が強いが生気が溢れていてうまいと思う。

2018/3/30
通乗光寿は寛文3年(1663)~享保6年(1721)の生涯である。横谷宗珉(寛文10年(1670)~享保18年(1733))にやや先んずるが同時代である。後藤仙乗の三男で、貞享二年(1685)に宗家の養嗣子となり、元禄10年(1697)に家督を継ぐ。仙乗は顕乗の四男で程乗の弟であるから、通乗は顕乗の孫、程乗は伯父である。
通乗は視点を下(横)にして彫ることで、波の水しぶきを空中に上げるようにしている。同じ趣向の作品として「決河流水図小柄」がある。波の暴れ方がダイナミックである。

2018/3/28
銀の波は、かなり凝った彫りであり、力を入れて制作したことが理解できる。龍に立ち向かうような波頭、龍の動きに合わせるような山形の波。巧みで美しい。

2018/3/26
この龍は後藤家歴代の作とされる龍とは、上唇がそれほど上方にまくれ上がって見えないこと、額から毛のような流れが頭部の形に添って流れているところ、何となく表情が明るいことなどが違う。角は一本である。
龍の顔も、栄乗の二疋獅子を極める時に実施したように、歴代と比較するといいのだが、あれも手間のかかる作業であり、まだ行う気にはならない。

2018/3/25
玉を獲て、急いで泳いでいるのだろうが、龍が泳ぐ姿のイメージが掴まえられなかったのだろう。動いているのは波の方で、龍の方は浮かんでいる感じがしてしまう。

2018/3/24
この小柄の図を観ると、通乗光寿は龍を題材に”絵”にすることに苦心したのだと思う。それまでは龍単体=龍という想像上の動物を彫ることに注力し、そこにおいて威厳とか勢いなどを表現していたと思う。背景に波紋(定型的だが)を彫って、そこに龍を据えた小柄も程乗に観たが、それも波紋の上に這龍を据えただけに終わっている。
通乗光寿は、波の中を泳いでいく龍を描こうとしたのだ。3/22で紹介した三所物の「水龍」の龍は、まだ波に浮かんでいるような感があるが、これは波の中を泳がしている。ただ、不自然なところはある。それは時代というものだろう。

2018/3/22
この小柄の画題に「水龍」と括弧書きを入れたのは、本棚から1992年の日本刀剣の販売カタログ「サムライ美術」が出てきて、そこに通乗の同様な図で三所物が第24回重要小道具として「水龍図」として掲載されていたからである。そちらは波が赤銅であり、龍がもう少し波の上に現れている図である。通乗の図なのだろうか。
なお、この小柄も刀和の「鑑賞記」や、手元に置いての鑑賞において触れているので、参考にして欲しい。

後藤光寿:韋駄天・捷疾鬼(いだてん・しょうしつき)図小柄

2024/11/5
色金を多用している為か、あるいは鬼の表情・姿態の為か、全体に明るい感じがする。これも通乗の特色なのだと思う。

2024/10/31
韋駄天を少し上に、鬼を少し下に据え紋しているのも、何気ない通乗の工夫であろうか。

2024/10/27
この図柄は光乗の目貫にもあるし、図柄は目新しいものではない。色金の使い分けが絵風の通乗らしいが、これまでの後藤家当主の作品にもある可能性はある(当方が確認できていないだけとも考えられる)。韋駄天の姿を小さく、鬼を大きくという遠近感の工夫も同様にこれまでの後藤にあるかは確認できていない。

2024/10/23
当たり前だが、ルーペで観ると、韋駄天の鎧の毛彫り、冑の前立ち風の金象嵌なども細かい。

2024/5/31
通乗は動きのある対象物を彫るのが上手と思う。波もそうだが、この走る姿(逃げる、追いかける)もそうだ。

2024/5/27
この画題は上六代にもあるが、詳しくは調べていないが、通乗光寿の韋駄天は、早く走るだけに人物がスリムである。光乗の金無垢目貫(『後藤家十七代の刀装具』に所載)を例に比較すると、光乗の韋駄天は走力よりも、鬼をこらしめる力が強調されている感じである。光乗の韋駄天は雲に乗って追いかけている絵である。

2024/2/28
日本の遠近感表現の一つが、近くのものを大きく、遠くのものを小さくであることがわかる。

2024/2/24
この図柄は後藤家の古い時代からあるが、僧や伽藍の守護神の一人であり、特に仏舎利を奪った鬼を退治するところは絵になるから好まれたのであろう。面白い図柄、躍動感のある図柄、鬼と韋駄天の対比が面白い図柄である。

2024/2/20
図柄のせいでもあるが、軽やかである。

2023/7/4
韋駄天は健脚の象徴として、また盗難除けとしても大事にされたようだ。また本来の神の役割として少児を病気から守るとして信仰されたとある。そういう願いから所持されたのであろうか。もっとも状景としての面白さが、それにも増して楽しまれたのだと思う。

2023/7/2
このような画題の小柄は、画題の面白さ、出来の良さから所持されたのであろう。自身や家門の権威を上げる為とか、自身の戒めにするとか、自身を鼓舞するとかの目的では無いだろう。所持する人の気持ちまで考えると、またそれはそれで深い世界が広がる。

2023/6/30
箱を開けると、韋駄天の背から棚引く布と鬼のふんどしの金色が目立つ。金は韋駄天の脚の脚絆や鬼の足首の輪にもあるが、効果的に使用していると感じる。

2023/6/28
韋駄天は全速力だが、鬼は盗った宝珠を落とさないように逃げている。このように鬼なりに宝珠が大事だということを理解している態度は興味深い。

2023/6/26
保存している桐箱を開けると、鬼と韋駄天の遠近感がよく表現されていることに気が付く。鬼の大きさと韋駄天の大きさの対比から生まれてくるものだが、「逃げる鬼」と「追いかける韋駄天」の動作表現、それぞれの内面の気持ちの表現からもくみ取れるのだと思う。

2022/4/12
この小柄の裏は銀で大きく稲妻形に削継(「刀和」に連載した「刀装具の鑑賞」にアップ)して、そこに銘がある。このように小柄の裏側という見えない部分に凝る文化は、元禄あたりからと言われている。後藤家の作品の場合、先祖の作品の紋だけ外し、地板などは後補されることもあり、古いものに、削継があるからと言って、それがその時代から行われていたとは言いにくい。『刀装金工 後藤家十七代』の写真を見ていくと、無銘だが徳乗と極められている小柄に雲形の削継があり、斜めに削ぐのは栄乗、顕乗、程乗にあるが稲妻形削継は見つからない。『後藤家十七代の刀装具』には金で稲妻形削継をした「一路平安図小柄」が所載されている。
稲妻形削継は通乗光寿の時代なのではなかろうか。

2022/4/10
私は”動きの通乗”と称したことがあるが、通乗こと光寿は後藤家の伝統的な絵に”動き”を積極的に取り入れたことに新味があると感じる。所蔵品の波泳ぎ龍もそうである。もちろん、先代までの作品でもそれなりの”動き”はあるが、意識して、積極的に取り入れたということである。

2022/4/8
韋駄天・捷疾鬼の図柄、デザインは、誰が彫っても、このようになるのだと思うが、鬼の方をやや大きくし、韋駄天を鬼より少し高めに配置しての遠近感への配慮など、すっきりしていて好もしい。

2022/4/6
大別の色遣いは、鬼が素銅、韋駄天が赤銅であるが、実見すると、金の使い方が上手というか、うまいアクセントになっていると感じる。鬼は下着に、韋駄天の身体では脚の脚絆が目立つ。胴の鎧や兜は金のように見えるが、色が薄く、黄銅なのかとも思う。そして韋駄天の棚引く布の金が目立つ。下記の2021/1/22にも同様な記述をしている。

2021/1/27
先代までの作品にも同図はあるが、顕乗の金目貫の作と比較すると、鬼の筋肉質の身体が優しくなり、韋駄天は腰の位置が少し上がり、スピード感が増したように感じる。韋駄天の顔は光乗(金目貫)は威厳があるが、顕乗とこの通乗は穏やかな顔である。

2021/1/24
これは「刀装具の鑑賞」で取り上げた時に記したが、小柄の外側の枠がない棒小柄にした為に、空間の広がりが生まれ、良い効果を上げている。棒小柄の狙い、意義が良く表現できた小柄である。

2021/1/22
色彩が豊かな感じがする。鬼は素銅と金、銀だと思うが、素銅の胴体には要所、要所にわずかに黒い模様(汚れとも思ったが、汚れではない。象嵌しているとも思えないが色が付いている)が付けられている。奪った宝珠から出る火焔のようなものには金やより鮮やかな銀も見える。鬼のふんどしには彫り込みの線の外に赤銅で模様も付いている。目玉は銀の縁取りに金色絵だと思うが判然とはしない。韋駄天も顔や手指の銀とは違う銀で、鎧、兜を構成しているようだ。肉置きが微妙な影を作っている面もあるかと思う。

2021/1/20
彫物のスッキリ感と、存在感が優れている。それぞれの彫物の対象物の状況がすぐにわかる。加えて余計なものを一切彫らずに絵の意味や狙いがわかる。

2021/1/18
近く(手前)の鬼に、遠くの韋駄天という遠近感が出来ている。鬼に比べて遠い分、韋駄天の身体は小ぶりである。そして韋駄天は少し上に据えている。足の下が空いている分、遠く感じる。

2019/12/14
鬼の目玉の金が効いている。鬼の姿態、顔の表情の彫りも相俟ってのことだと思うが、この目玉だけで鬼の気持ちが出ている。

2019/12/10
全体の品の良さ。これが後藤の格調の高さ。

2019/12/9
韋駄天の右手の開いた袖口の彫り、「待て~」と開いた左手の掌の向き、左手の肘の曲げ加減、胸の斜め具合などは立体感を意識して上手いものだ。また韋駄天の右脚、左脚の前後感、鬼も同様の右脚、左脚の前後感を出すのは難しいと思うが、それも表現できている。

2019/12/8
鬼は盗んだ仏舎利を大事に持ち運んでいる。両手で捧げるように平行に持ち、足は恐る恐る踏み出している。こういうところが、この鬼の可愛げなところなのだろう。

2019/12/6
韋駄天は真剣に追いかけているが、鬼は悪戯心で盗んだという表情だ。両者の心までわかるように彫っている。

2019/12/5
爽やか感じもする彫技だ。この印象は棒小柄という造り込みのスッキリ感からくるのか、各種色金の色遣いの調和からくるのか、繊細なところも感じる彫技からくるのかがわからない。

2019/12/3
小柄を棒小柄にして空間に広がりを意識させて遠近感を表現していることは刀和の「鑑賞記」で記したが、手前の鬼の方を大きく彫ることでの遠近法も取り入れている。

2019/12/2
後藤家11代通乗光寿(寛文3年(1663)~享保6年(1721))の作品である。後藤仙乗(顕乗の四男で程乗の弟)の三男で、貞享二年(1685)に宗家の養嗣子となって、元禄10年(1697)に家督を継ぐ。横谷宗珉(寛文10年(1670)~享保18年(1733))とほぼ同時代である。これまでの圧倒的な後藤家ブランドが脅かされてきた時代である。
だから従前の後藤家の作風を変化させて、より動的な表現に工夫が見られると感じる。刀和の「鑑賞記」の中で後藤正房(栄乗)の同図の作品を掲載しているが、光寿は韋駄天がたなびかせている布を身体の上方にもっていって、よりスピード感を出している。そして身体全体も、より前傾させて速さを表現している。

後藤顕乗(程乗):網針(あばり)図小柄

小刀の差入れ口に魚子
2024/12/19
この小柄は「狩野探幽の作風”瀟洒端麗”と後藤程乗の作風ー無銘 後藤程乗「網針図」小柄ー」として「刀和」407号(令和6年11月)で発表した。
この時、顕乗では無く程乗としたのは①銀の使い方が上手で、かつ多用、②立て図の棒小柄がある、③小柄の入念作には小刀の差入れ口に魚子を蒔くことがある。④顕乗から見られる裏板に金を貼る削継(斜めに入れる)、割継(縦に入れる)を、端でも、中心でも無い位置に割継を入れるという工夫をしていること、⑤網針という武士には馴染みの無い漁労道具や、船関係を題材にした程乗在銘の刀装具が見られること(櫂棹図の三所物が尾張徳川家に伝わり、磯舟図もあり、碇図(『刀装具鑑賞画題事典』)もあることからである。

2024/6/16
このような網針を作る名工がいて、その作品を顕乗が金工作品として写し取ったと考えられるが、網針製作の名工は、性質上、海・湖の無い京都ではなく、加賀にいたのだろうか。ともかく手間のかかる金工作品である。

2024/6/12
裏板の金削継も変わっているし、魅力のあるものだ。中心をずらし、斜めの板を使わずに、長方形の金を嵌め込んでいるわけだが、洒落ている。

2024/6/8
網針の先端の舟形の部分などは、どのように加工したのであろうか。滑らかに、ムラ無く先端にかけて自然に肉と落としている。こういう技術があっての肉置きの妙だ。

2024/6/4
それぞれの部位の肉置きの妙に感心する。

2024/2/16
文化の担い手(需要家層)も。この時代は高級武家から上層町人にも広がったのであろう。

2024/2/12
安土桃山(狩野永徳)の文化と、寛永(狩野探幽)の文化の違いを実感する。

2024/2/5
対象物の持つ肉置きの妙、形態の面白さ、使われている素材の違い、特に網糸(縄)の巻かれている状態などに興をそそられたのであろう。

2024/2/1
巻いている網糸(縄)はどうしてこのような加工ができたのであろうか。細い銀線を嵌め込んでいったように見えるが、銀の板に細かく均一な線状の彫り込みを入れていったのであろうか。緻密、正確な作業である。板状と書いたが、真ん中が高くなる(網糸が何重にも巻かれて盛り上がっている)ように作られている。恐ろしい技術であり、こだわりである。加えて上に網糸のはじまりと終わりをフワッと乗せているように彫っている。

2024/1/28
先に器物の彫りも武将に関する武具から、このような器物に及んできたと書いたが、すなわち顧客層の変化が起きているのだと思う。江戸時代の前期になると、網元のような金持ちが生まれたのであろうか。

2024/1/24
後藤家の作品における魚子地は当たり前のこととして、注意を払っていなかったが、後藤家の魚子地は粒が特に細かく整然としていて美しい。魚子師なる無名の工人の仕事であるが、大したものである。この小柄は網針の先端部が赤銅磨地であるから、魚子地との対比が際立つので記している。

2023/9/22
器物の彫りも、これまでは武将に関する武具(馬具も含めて)が中心だったのが、このような器物に及んできたのは時代なのであろう。こういう視点で考えると興味深い。

2023/9/18
何度、拝見しても凄い技術である。野田敬明が説くところの「別格の力」とは、こういうのを言うのだろうか。

2023/9/14
網針の先端の滑らかな肉取り、また均一に細い糸を、これだけ緻密に、また動き(3巻をフワッと)を付けて彫り上げることができるのは凄い。

2023/9/10
野田敬明は「龍獅子の類其外人物花鳥の類まで、模様のすへ方も風雅にしておもしろく、俗をはなれた別格の力ありて、すすどくはげしく見ゆる」と評しています。「すすどく」は「動作や態度、また、気性や性質などが勢い激しく、機敏である。するどい。」との意味ですが、この小柄は図柄が特異で世間に媚びを売るところがなく、しっかり彫り上げ、「どうだオレの作品は」という気概を感じます。

2023/9/6
稲葉通龍は「光乗の手つきによく似て、雪のふりつもれるに松と竹とのけじめをかしう、其色かはらざるが如く、操を守る心持あらわれたり」と評している。わかりにくい評である。雪が降って積もっても、松と竹の区別がつくような彫りという意味であろうか。

2023/9/3
網針のようなものを彫り上げた真意はわからないが、本当に不思議である。精魂込めて彫り上げている。製作に日数もかかっただろうし、一度、製作しても、次々と注文が来るものではないだろうし。

2023/8/29
「すすどし」とは「鋭い」のことで、気性、性質が機敏で、「はげしく」は文字通り激しいことであり、この彫、道具を彫っただけだが穏やかではなく、強さを感じる。

2023/6/5
『金工鑑定秘訣』の中で顕乗の作品を評した一節に「俗をはなれたる別格の力ありて、すすどくはげしく見ゆる」があるが、”別格の力”は、このような小柄作品を評したのではなかろうか。

2023/6/3
網針製作の名人の作品を元に、刀装金工の名工の後藤顕乗が小柄上に彫り上げた作品ということになる。日本民族の工芸技術の素晴らしさだ。

2023/6/1
『刀装小道具講座2 後藤家編』(若山泡沫著)の顕乗の項に、作品の図柄がリストアップされているが、そこに「漁夫」「舟人」「船板に蜘蛛」などがある。何か、漁をする人(顕乗に注文できる身分だから網元か?)が顧客にいたのではなかろうか。

2023/5/30
見えないところの小柄裏の仕立ても、後藤の上作らしい見所です。これは他に見ない継ぎ方です。

2023/5/28
後藤家の器財の彫りでは、紐、綱などの動的な表現が鍵になると思う。この図は網を補修する糸だが。これらで動的な変化を与えている。また作者の腕の見せ所でもある。
このページにおける後藤徳乗の馬具図でも、このことは理解されるだろう。

2023/5/26
網針の形状、肉置きもさることながら、補修する糸(紐)を巻いたことによる張りも表現している。

2023/5/24
彫りの技術、技巧は素晴らしいが、同時に「なんで網針なのか?」という思いが湧く。注文であれば、網針を使う職業に従事する人という素直な答えが出るが、このような高級な小柄は身分の高い人、町人でも大金持ちとなる。地味なものであり、財力を誇る人の注文ではないと思う。身分の高い人には趣味で釣りをする人もいるが、これらの人は網には関心があっても、その網を作る網針まで関心を持つであろうか。
小柄であり、他の目貫、笄も考える必要があるが、網針で統一されたものだったのであろうか。あるいは漁に関係する道具は目貫、笄に彫られていたのであろうか。後藤家の先祖の作に、網針があり、後藤家の画題として、この形状の面白さから顕乗が彫ったのであろうか。

2023/5/22
佐藤寒山氏の箱書には「最高の出来也」とある。「傑作」はたまに見るが、このような表現ははじめてである。漁業関係者以外には関心の無い道具だと思うが、恐ろしい技術の冴えを見せている。

2022/12/31
網針の各部位、それぞれの肉取りの妙が見事。

2022/12/29
網針を真横ではなく、少しずらして配置したのは、図の堅さをやわらげる為であろう。傾きの角度は顕乗のセンスだ。

2022/12/27
巻いてある糸の数は、先端の方で片側6本の計12本、中程の重なっている箇所(上に巻き付いている糸の3番目の下)は計16本になっている。最下部では12本である。網針の枠の幅は6.5ミリほどである。だから6.5ミリ÷16本=約0.4ミリ/本の細さである。いかに細かい仕事であるかがわかるであろう。

2022/12/25
網針を彫ってくれという注文主がいての作品なのであろうか、それとも顕乗自身が面白いと思った為に彫った作品なのであろうかはわからないが、顕乗が作る段階では、この網針の形状や材質に興味を持って、のめり込んで製作したことは間違いが無いだろう。よくある題材の手慣れた感覚ではなく、新規に挑む意欲・気合いを感じる作品だ。

2022/12/23
題材として本物の網針よりも、優れたものを彫り上げてしまった。これが顕乗だ。

2022/10/20
堅く巻かれた糸の上に、ラフに巻かれている糸の先端部は、赤銅の細い線を上から嵌め込んでいるのだろうか。それとも蝋付けでもしているのだろうか。不思議な技術である。この材質は赤銅と書いたが、堅く巻かれた糸の材質(銀が四分一)と同じものなのであろうか。こういうのもわからない。

2022/10/18
裏のこのような金板の嵌入方式は「削継」(そぎつぎ)ではなく「割継」(わりつぎ)と称した方が正しいようだ。修正しておきたい。「削継」は斜めに他金属を嵌入することで、このように縦に入れるのとは違う方式の言葉と知る。適当な位置に入れたのか、何度も考えた末にこの位置に入れたのはわからない。また金板の幅も、この幅がベストと考えたのか、適当に決めたのかもわからないが、顕乗のセンスは感じる。

2022/10/16
堅く巻かれた糸の先端は、その糸の束の上に柔らかくフワッと無造作に巻かれている。この糸は、糸らしく円筒形に彫り上げているように見える。細かなところにまで神経を使った作である。

2022/10/14
網針を、少し傾けて据える感覚、傾きの程度はともかくとして、これは私でも思いつく。裏の金板の嵌入。この位置、幅はちょっとマネできない感覚である。

2022/10/12
鑑賞記においては狩野探幽の”瀟洒・端麗”と同種の気分と書いたが、広く寛永文化(桂離宮、小堀遠州、狩野探幽など)を体現した作品と思う。小堀遠州の”綺麗さび”にも合致する感じである。

2022/10/10
キチンと巻かれている糸の緊張感、その上に糸の先端部分の糸がふんわりと柔らかく巻かれている様子など見事な対比である。この糸は銀かと思っていてが、銀の混入割合の高い四分一なのかなとも思うようになる。

2022/10/8
網を作り、補修する時の糸の彫、一本ずつの太さを変えずに、これだけの本数を彫り上げる技術と根気に脱帽する。手作業の時代なのだ。そして巻かれた糸の上に、先端部分の糸を出して、3重に軽く絡める彫の技術、センスに感嘆する。

2022/10/6
船の舳先のような先端は、見事な肉取りで仕上げている。顕乗は、糸が巻かれているところよりも、この先端部分に美を感じて、彫りたかったのではないかとも感じる。

2022/10/4
無銘であるが、後藤家7代顕乗の作品と鑑することができるものである。どのような点から、そのように鑑せられるかは鑑賞記を参考にしてほしい。顕乗は5代徳乗の次男として天正14年(1586)に生まれた。実兄の6代栄乗が元和3年(1617)に没し、長男(後の光重即乗)が年少の為に、後見として本家7代を継ぐ。ただし本家の通称四郎兵衛ではなく、理兵衛を名乗り、加賀前田家にも従兄弟の覚乗と隔年交替で出向くので加賀後藤の祖でもある。寛永2年(1625)に即乗に本家の家督を譲り、寛文3年(1663)に78歳で死去。
この図は網を作ったり、補修する針で珍しい。「どうだ!」と言わんばかりに細かく精密に彫っている。


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