刀装具の楽しみ記(町彫り編)
所蔵品の鑑賞のページ
オタクの鑑賞日記ですが、分量が膨大になったので「後藤家編」と「町彫り編」に分けました。今後は(江戸金工)と(その他金工)などに分けることも考える必要がありそうです。なお最近「刀和」誌上で、各刀装具について製作された背景とかを、さらに突っ込んで調べたものを発表していますので、そちらもお読みください。。
                                    
古美濃 柳鷺図目貫 2024/5/5
横谷宗珉 雨下竹虎図→虎嘯風生図 2024/1/15
横谷宗與 仁王図縁頭 2024/3/14
一宮長常 筍図目貫 2024/3/30
遅塚久則 玩具図目貫 2023/9/20
大森英秀 張果老図縁頭 2023/8/5
柳川直光 狗児図大小目貫 2023/10/23
鉄元堂尚茂 小人国図目貫 2023/12/14
浜野矩随 漢楚軍談-張良・樊噲図→(三国志:劉備・張飛) 2023/10/19
村上如竹 八駿馬図 2023/8/13
村上如竹 富士残映図小柄 2023/8/21
岩本昆寛 大森彦七図縁頭 2023/9/30
岩本昆寛 馬図縁頭 2023/12/6
三宅英充 根曳き松図小柄 2024/3/6
石黒政常 鵲(かささぎ)に秋草図 2023/11/24
皆山応起 一つ葉葵図鐔 2023/7/22
大月光興 月下飢狼図目貫 2024/2/15
東龍斎清寿 鬼図鐔 2023/9/16
六世安親(昌親) 宝尽くし図大小縁頭2023/10/31
無銘(作者不明) 笹売り(煤払い)図目貫2023/6/24
無銘(如竹一派?) 蜂図目貫2023/8/30

一宮長常

表目貫と裏目貫のそれぞれの写真の縮尺は異なる。
2024/3/30
今、気が付いたが、長常は”鮮度”まで彫り上げたのだ。

2024/3/26
長常の作品には、この筍図目貫のように生写し(しょううつし)で長常らしいものと、普通の金工が上手に彫った程度のものがあり、世上に出回る作品は後者のものが多い。名声を得て、慢心したところがあると思う。

2024/3/22
今でも観るたびに思うが、初見の時は驚愕したものだ。100万円を超える高いものだったが、思わず購入した。驚きを伴うものは、やはり違う。

2024/3/18
絵でも彫金でも、対象物が何かをわかってもらう為に、写実的に画いたり、彫ったりすることは当然なのだが、円山応挙出現の影響を受けた長常はリアルさを出す為に、対象物(筍というジャンルでとらえるのではなく、目の前に置かれている筍)の皮の筋、皮や身の汚れ、形態を寸分違わず彫り上げたのだ。これが生写しだ。「筍」を彫ったのではないのだ。「今、目の前にある筍」を彫ったのだ。

2023/3/31
筍全体の肉置きも見事なのだ。神経を使って彫り上げたのであろう。

2023/3/29
どの金工も写実的の彫る。何を彫ったかわからないようでは売れない。そして対象物に似ているか似ていないかは彫った人間も購入した人間もすぐにわかる。だから、どれも写実的なのだが、長常の写実は「生写し」と古人が称したように、一境地を抜けた写実、一格上の写実だ。大変な手間もかかっているだろうし、技術も半端ではない。巷に出る長常作品には手を抜いた(この作品に比べれば)ものが大半だ。晩年には名声に安住して、奢りが出たのではなかろうか。

2023/3/27
裏目貫の少し成長した筍を彫った目貫の竹の皮目の細かい彫り、その曲線、各部の太さ、一枚ずつの竹の皮の先端部の彫り、全てが巧みで精緻で感心する。成長力の早さ、逞しさを優雅に彫る。

2023/3/25
東の宗珉の次は西の長常だ。太った筍は美味しそうである。泥まで象嵌で表現するような生写し(なまうつし)も見事であるが、「美味しそう」という味の想像まで広がる作品を彫れるのが長常だ。長常の作品の中でも、ここまでの傑作はほとんどないと思う。

2022/5/22
筍の皮の筋彫、緻密で根を詰める仕事だったのだと思う。これも下職に任せずに自身で彫ったのだと思う。魚子(ななこ)職人は、いつも同じ調子でいいのかもしれないが、筍の皮の筋彫はそうはいかない。

2022/5/20
長常の作品は、刀屋さんでまま見かけるが、この目貫のように感動するものは見ない。昔のことだが、『鐔 小道具鑑定入門』(若山泡沫・飯田一雄著)に所載の蝦蟇の目貫が出たとの話を聞き、出向いたが、すでに売れていて拝見すらできなかった記憶がある。仕事で来店された骨董商の方が、たまたまお金を持っておられたのか、その場で購入されて帰られたようなことを、刀屋さんは話されていた。

2022/5/18
筍の旨さに関心がいっていたが、竹の生命力は強く、雑木林を竹林に変貌させてしまう。そういう点も、この目貫を購入した人は意識したのかもしれない。これから伸びるのだ。

2022/5/16
タケノコの季節も終わりだが、こういうものも食べようと考えた人-必要に迫られてだと思うが-は偉いと思う。どこかで書いた記憶もあるが、長常が絶賛を博した写実の極み=「生写」は、モノの触感まで表現したことにあると思う。単なる写実は後藤家もやっている。この目貫における筍の皮、見事である。

2021/7/24
四分一の筍は根元を金で巻いているだけでなく、金の皮をもう一段上まで巻いて、筍の皮らしく斜めに金を貼り付けている。写真でもわずかに、その部分が見られる。何か、この斜めの金使用にも長常の意図が感じられるのだが、はっきりとはわからない。

2021/7/25
長常の「生写」時代は金工として名を上げた初期に多く作られたと思うが、この作品は、その「生写」時代の中でも円熟期の作品だと思う。そう思うのは金の使用法である。根を金で彫り、根元の筍の皮を金で巻いているところに名声を博した長常の自信と誇りが感じられる。花押はその金に正面からではないものの目立つように入れている。(長常は素銅の筍の切り口=側面)

2021/7/23
「驚き」で購入したものの方が芸術的価値は高いと思う。この目貫もその一つの「ワオー」組である。「ワオー」組は高い。刀屋さんもやはりプロであり、それなりの価格を付ける。刀装具はデザインを彫ったものは別だが、何でも写実的と言えば写実的である。そうでなければ絵にならない。そういう一般の写実作品とは違うレベルでの驚きである。「ワオー」の驚きは写実だから生まれるのではない。最近、購入したものでは又七の枯木置縄象嵌鐔も「ワオー」組の一枚だが、これは写実ではない。

2021/7/21
筍の皮がパリッと音がして剥けそうな感じで彫っている。これは凄いことだ。

2021/7/19
肉置きのリアルさも見事である。将来の竹の節になる部分が、この筍の時点から、かすかな膨らみとなって表現されている。

2021/7/17
成長時期の違いの筍を選んだのは、色彩の対比(素銅と四分一)の面白さ、姿態の違いの面白さを絵にしたかったのであろう。

2021/7/15
大月光興、鉄元堂尚茂と改めて観てきたから、京の三名工のもう一人、一宮長常の作品だ。金工界に名を知らしめたのは、筍(たけのこ)、蝦蟇蛙(がまかえる)、蝸牛(かたつもり)、土筆(つくし)などの形態ばかりか、表面の質感まで写した”生写”と言われる作品なのだ。名声を得た後は、このような手間のかかる彫をせずに、人物、虎などのよくある作品が多くなる。片切彫に平象嵌という作品も増える。
円山応挙が長常の越前大掾から始まる麗々しい長銘を揶揄しとの伝承もあるが、何か名声を得た後に慢心したような感じもする。
この筍のような作品が、長常の真価が発揮された作品なのだ。

2020/11/24
「写実」と「生写し」の違いがわかった気がする。「生写し」は単なる写実ーモノの姿をあるがままに写すーではなく、加えて、そのモノの質感まで写したところにあるのだ。「生」とはその意味だと思う。
だから筍の皮の乾いてはいないがパリッとしたもの、蛙の表皮、かたつむりの殻と中のナメクジのような質感を選んだのだ。

2020/11/23
生写しの中で、装飾的に彫った部分が細長い筍の元の方の金着せである。ここに花押を切っている。花押を上部(正面)に彫らず、ややずらして切っているのはどうしてなのであろうか。

2020/11/21
後藤の彫りにも虫喰いを入れているが、慣例で入れていて、実際とは違うと思う。長常は筍の成長の過程できた斑点や、採った時に付いてきた泥なども、そのまま写した。そんな感じである。

2020/11/19
長常の作品はまま見るが、このような写実を極めた生写しの作品はほとんど見ない。このような生写しの作品で名声を極めてからは、「売り絵」(画家が自分の描きたいものでなく、万人受けして売れる画を描いたもの)的な細工が多くなったのではなかろうか。もちろん一流工だから、そこにおいても技術の閃き(ひらめき)は見せているが。

2020/4/16
素銅の筍の元の方で、土中の汚れのように黒っぽくしているのはに、象嵌とは別の色づけ(漆なのか、何らかの薬品なのか)によるものか。筍の皮に点々とある黒の点は赤銅の平象嵌かと考えていたが、同様に色づけなのだろうか。

2020/4/13
逞しい生命力だけなら、真っ直ぐに造形するだろうが、1本の筍を真っ直ぐでは単純になる。そこで少し曲げたのだろう。

2020/4/12
タケノコは一日で何十㎝も伸びる。成長時に地上にある構築物を突き破って出てくることもある。そのような生命力も表現できている。そして、この筍の目貫を求める人も、そのような逞しい生命力にもあやかりたいと思った

2020/4/11
筍の皮、一枚ごとの先端における突起。これの形状、突起先端の上向き加減も上手い。

2020/4/9
昔は江戸時代の文化として、元禄文化と化政文化を習ったが、今は化政文化の前に宝天文化と呼ぶべき時代があったと唱えられている。宝暦(1751~1763)、明和(1764~1771)、安永(1772~1780)、天明(1781~1788)の40年で、田沼時代である。京都では若冲、蕪村、長常、大雅、応挙であり、江戸では春信である。

2020/4/8
後藤家も金工諸家も、家祖の造り出した作品を真似る作品が多いが、ここまで真に迫り、またマネをするにも恐ろしく手間がかかり、その一方で世人から喜ばれる画題ではないものは、後世にマネされることは少ない。
この筍の皮の先端-尖っていて食べる側からすれば剥きやすいもの-の表現も本当にうまいと思う。

2020/4/7
筍や蝦蟇、蝸牛という画題の新鮮さということも、当時の人を驚かした一因と思う。昔から踏襲されてきた画題、縁起の良い画題などを離れたのだ。

2020/4/6
筍の皮一枚ずつが重なり合っている様子が、表裏の目貫に出ていて、その皮が剥けそうに彫っている。

2020/4/5
この作品では素銅の筍の根元に施した金が効果的だ。土中にしがみついていた名残が表現できている。新鮮さも表現している。

2020/4/4
東急Bunkamuraザ・ミュージアムでホキ美術館所蔵作品の「超写実絵画の襲来」展を観たが、刀装具の世界で、これをはじめて行ったのが長常である。長常は対象物の持つ材質感を表現できないかと考えた。堅いが1枚づつ剥ける筍の皮は、毛彫も加え、1枚づつの重なりも表現した。この時代に彫った蝸牛(かたつむり)では堅い殻とヌメヌメした体、蝦蟇(がま)もその皮の材質感だ。
この作品は筍の皮一枚ずつの毛彫だって大変だ。そこに象嵌している作業も神経を使う。恐ろしく手間のかかった作品だ。

2019/4/13
裏目貫は写真が鮮明で無いので、わかりにくいが、四分一に毛彫をした中程の皮の上に、素赤を薄く象嵌し、そこに微少な金象嵌、そしてわずかに毛彫を乱れさせている。生写しであり、筍皮の傷を表現したのであろうか。

2019/4/10
対象物の材質感・質感までの表現を鏨と象嵌技法で表現できるんだ。

2019/4/8
筍の美味しい季節だ。それにしても、長常の筍の彫技には感嘆する。皮が剥けそうだぞ。そして中から白くみずみずしい、美味しそうなタケノコの身が出てくることまで想像ができてしまう。

2019/4/6
長常は、晩年は越前大掾を受領したり、名声に安住したのではなかろうか。正真とされている作品にも、感動するような作品は少ない。

2019/1/26
生々しいのだ。だから稲葉通龍が『装剣奇賞』の中で”生写”の言葉を使ったのだ。この2017/7/4において、生写の意味を”生きているように写す”と「写生」で「写実」と違うと書いたが、何か生々しいのだ。だから称賛されても需要には結びつかないから、作風を穏やかなものに変えていったのであろうか。

2018/12/11
彫技も恐ろしいほどの冴えである。筍の皮に描く筋、根元では膨らみをつけた毛彫で筋を入れる。皮の先端の尖った所などピンと上向いているから鮮度を感じるのだ。全体の肉置きを整える技、凄いものである。

2018/12/3
長常の作品は刀屋さんの店頭に出てくるが、このような写実の作品は見ない。片切彫に平象嵌、あるいは簡単な高彫程度のものであり、私はあまり魅力を感じない。この筍のような写実の粋を極め”生写”とも称される彫物は少ない。手間が非常にかかるのだろう。だけど、このような作品を造り出したことによって”東の宗珉、西の長常”という言葉が生まれ、喧伝されたのだ。

2018/4/1
上の筍の茎には泥まで表現している。こういうことが許されると言うかできる時代になったわけだ。

2017/9/21
近代の啓蒙主義思想ー「旧弊打破、ものを自分の眼で正しく見る経験主義、科学的合理主義」の思潮が日本の江戸時代後期にも生まれていたが、それが芸術分野にも出ていたことが、この作品からわかる。

2017/7/11
長常は享保6年(1721)~天明6年(1786)であり、円山応挙は享保18年(1733)~寛政7年(1795)、伊藤若冲は正徳6年(1716)~寛政12年(1800)、与謝蕪村は享保元年(1716)~天明3年(1784)である。池大雅は享保8年(1723)~安永5年(1776)である。長常、応挙、若冲は写実。蕪村、大雅は文人画・南画という作風であるが、蕪村は俳句でもそうだが写実という面でも素晴らしい。「夜色楼台図」など出色である。安永頃(1772~1780)の京都に出向いてみたいものだ。
ちなみに京都では天明8年(1788)に天明の大火がある。

2017/7/9
材質感まで生写したと書いたが、その為の技法も凄い。私ごときでは明確に説明できないのだが、上部写真の筍、素銅でも皮部分と根元の方では色合いが違う。それに根元の方では泥のような汚れを赤銅(烏銅)でぼやーんと象嵌しているのか色付けしているのかわからない。そこに質の良い赤銅(烏銅)で突起(これから根が出てくる所か)を象嵌している。根元は切り取った白い根を金を象嵌している。上方の皮の部分も少しくすんだ素銅(これも色付けしているのかもしれない)に細かいが緻密な毛彫(葉脈)を施す。そうだ毛彫をする前に、赤銅(烏銅)で適当に斑点を象嵌しているのだ。そして各皮の先端は銀の含有量が高い四分一(この材質も正確かは不明)を芋継ぎして突起をつけている。その突起も勢いがある。実際の筍もこうなのだ。
長い方の下の筍も四分一に細かい金象嵌(赤銅象嵌もあるのか)などをした上で細かい毛彫りだ。ここの根元に花押を彫っているが、ここは厚い金で巻いて遊んでいるというか、技を誇っている感じだ。
筍の皮に施した毛彫を観ているだけでクラクラしてくる。

2017/7/4
今回、再観して世に喧伝される長常の写生の意味がわかった気がした。単にモノの姿を写実的に彫ったのならば、他の刀装金工と同じである。これまでは絵における円山応挙が粉本(ふんぽん=お手本)を写すだけでなく、自ら対称を写生して絵にしたように、従来は画題とされなかった(=粉本が無い)タケノコ(筍)、カエル(蛙)、カタツムリ(蝸牛)などを生き生きと彫り上げたから高く評価されたからと考えていた。もちろん、これも正しい。
今回、気が付いたのは、長常の真価は、そのモノの材質感まで写したことなのだということだ。この目貫で言うと、タケノコの皮の質感だ。そしてタケノコの根元部分の質感だ。ここまで写したから「写生」なのだ。このタケノコ、皮が一枚ずつ剥けそうだ。(雑誌「刀和」に掲載した「鑑賞記」や「手元に置いての鑑賞」では、このような意味づけは出来ていないが、この目貫における皮の質感、触感の素晴らしさは鑑賞している)
カタツムリを彫った目貫の正作では、カタツムリのネバネバの体とカタツムリの殻の質感を彫り分けているのだ。
稲葉通龍が評した「生写」の意味は”生きているように写す”「写生」だからであろうか。「写実」とも違うのだ。

岩本昆寛(大森彦七図縁頭)

2023/9/30
表面的の写実だけでも抜群に上手いのだが、加えて昆寛は対象物の、この場面での気持ちまで汲んで彫り上げているようだ。馬だって主君の異変に気が付いているし、松樹でさえも、異変を感じているようだ。

2023/9/27
各種の彫りだけでなく、地の仕立て方も凝っていて、凄い金工だと感じる。地は四分一に全体に槌目を打ち込んでいる。この槌目は大きすぎず、細か過ぎず、深からず、浅からずで見事である。下地工ではなく、昆寛の細工と感じる。

2023/9/24
昆寛は本当に上手な金工と思う。彦七と鬼女の彫り、鞍付き馬の彫り、松樹の彫り、どれを取ってもうまい。松樹にしても、幹肌、洞、幹の立体感など真に迫る。これは浜野風の彫りだが、横谷風の彫りもうまい。私は所持していないが奈良安親風の叙情的な作品、若い時の魚類の写実的な作品、すべてに達者である。

2023/1/16
荒唐無稽の物語のことだから、そこの劇中の人物の気持ちなどを推し量っても意味はないのだが、大森彦七にとってのこの時=(背負っている美女が鬼に変化した時)の彦七の戸惑う気持ち、若干の恐れ、異常な気配を察知した時の気持ち、次に備える心の動きなど、色々と想像できる表情になっている。

2023/1/14
四分一の地の仕立ても工夫していると思う。槌目地なのだが、細かいのだが、それほど細かくも無く、もちろん無く粗い。年月の為なのか、何か処理をしたのかはわからないが、微妙に黒ずんでいるところもあり、出来事の不思議さをバックアップしている。

2023/1/12
鬼女の顔は、同じ四分一で彫っている。大森彦七と同様に素銅で彫る手もあったと思うが、彦七との違いを出す為、また鬼女が人間ではなく魔物であることを示す為に、地と同じ四分一で彫ったのだと思う。有名な奈良利寿の同図では彦七と鬼女は同じ赤銅で彫っている。

2023/1/10
頭の大森彦七の顔、表情は抜群だ。力強く、そして異変を感じた一瞬の表情、この時の気持ちの戸惑いが全て表現されている。

2023/1/8
馬の鞍も、この鞍の前部(前橋)と後部(後橋)は木製に皮でも貼ったものなのであろうか、黒の赤銅に打ち込み模様のようなものを付けている。黒漆ではない。その間の座る部分(居木)は滑らかであり、ここにも皮を貼っているようだ。馬の背に合わせた微妙な形状は上手である。鞍を固定させている革紐の彫も手を抜いていない。

2023/1/6
馬は立体感もよく表現されていて、しかも顔付きも異変に気づき緊張している様子がわかる。馬の鬣(たてがみ)も毛彫を背中側に行くほど浅く彫って立体感を出している。

2023/1/4
松の幹に大きな洞を彫っている。これがある為に松が大樹であることが表現できている。昆寛の見事なセンスである。

2023/1/2
何から何まで上手な作者だ。縁の裏に彫られている松の大樹も、実に巧みである。右側の松の幹を広く深めに削り込んで立体感を出している。樹皮に様々な鏨を使って、古びた大樹の趣を表現している。

2022/1/16
大森彦七の顔の表情、目が異変に気づき、背負っている女性の方に集中する。口は真一文字に結び、次の備えのために力が入る。それによって頬も引きつる。本来、動かない鼻腔も異常を感じたようだ。天才の鏨使いだ。観ているこちらまで、この場面に引き込まれ、緊張する。

2022/1/16
鬼女の顔も実にいい。立体感も顎、口の中、左右の目、鼻、額それぞれに的確に表現されていて、統一されている。眼光、大きく開けた口、眉間の皺などで恐ろしい表情がよく表現されている。そして全体に整った顔貌(がんぼう)で、元は美女だったことを彷彿(ほうふつ)とさせる。

2022/1/14
大森彦七の太刀の鐔は木瓜形ではなく、木瓜輪の4つの頭を尖らせたような形状である。何と言う形なのだろうか。太刀鐔にはまま見る形状だ。これらは枝葉末節のことで、メインは大森彦七の顔貌・表情と美女千早姫が鬼に変化したばかりの時の顔貌・表情だ。この時の一瞬の妖気漂う空気まで表現できている。

2022/1/12
頭(かしら)の大森彦七の太刀には目貫が素銅(すあか)で入れてあるぞ。さすがに目貫に図まで彫ってはいないが、素銅を据えて、その上を赤銅で柄巻を彫っている。

2022/1/10
同じ毛彫でも、馬の鬣(たてがみ)と、尻尾では鏨の太さ、深浅が違う。さらにルーペを動かすと、馬体に微かな毛彫が施してあることを発見。馬の顔、前脚、後ろの臀部(でんぶ)など、細かい毛彫で皮膚の張りを表現しているようだ。長年、愛玩していて始めての発見だ。

2022/1/8
縁の馬も見事。馬はもう一つ横谷風高彫の馬の縁頭を所蔵しているが、ともに上手である。西洋美術史家の山田五郎氏は「馬の絵が上手な画家はうまい」とダジャレ風に述べているが、その通りだと思う。こちらは薄肉彫だが、馬体の肉取りは自然で、鬣(たてがみ)の彫りは細かく、そして質感も見事だ。

2022/1/6
この作品は本当に上手だと思う。縁の裏側にある松の老樹の彫りでさえ、立体感があって、大木・老樹の風格が出て、松の枝葉も、ある意味で定型的な表現にも関わらず生き生きしている。

2021/8/26
今回は馬シリーズで観てきたが、昆寛のこの馬は、大森彦七の乗馬として、主君のこの時の気持ちと一体になったような緊張感を漲らせている。同じ昆寛が彫った群馬の家族愛的な馬とはまったく違う。

2021/8/24
この図のメインは言うまでもなく、頭(かしら)の大森彦七と鬼に変じた直後の千早姫だが、縁(ふち)の鞍置き馬と、松樹の彫りも実に見事に丁寧に彫っている。昆寛は偉大だ。

2021/8/22
所蔵品の中で馬が彫られているものを観てきたが、同じく昆寛の大森彦七の馬だ。これは薄肉彫で鞍置き馬の上体を彫ったものだが、鬣(たてがみ)の彫は精密で、しかも毛の質感も出ていて、実に巧みである。目の配り、馬体の質感。名人だ。

2021/1/7
この図の刀装具を色々と観るが、この昆寛の作が利寿の鐔とともに双璧だと思う。拝見するたびに感心する。頭のメインの図はもちろんのこと、縁の馬と松樹も見事であり、他の鞍付き馬の図や、松樹の図のものと比較しても優ると思う。

2021/1/5
地の仕立ては何て言うのだろうか。2017/7/21にも記したが、槌目地にした上で、その槌目をなるめていったのであろう。怪異が生じた場の空気を現しているのだろうか。磨地よりも効果的だと思う。魚子地は薄肉彫であり、地との関係を出す上でふさわしくないのだろう。

2021/1/3
薄肉彫の各部の肉取りが実に巧みである。鬼女の袖の襞は彦七の肩に近い方から鬼女の身体の方に遠ざかるほど低くなっているように見える。鬼女、彦七、馬それぞれの顔の立体感の出し方にも感心する。馬の臀部も柔らかい。松の幹も丸い幹の中で、松皮のごつごつ感が出ている。

2020/6/14
大森彦七盛長の表情もいいし、鬼女に変身しても千早姫の美しさが出ている。馬も駿馬で気性も強い名馬、松の樹も堂々としている。

2020/6/9
金の使い方が効果的である。頭の方では彦七の目、烏帽子の紐に使い、衣服の衣紋(純度の低い金)、太刀鐔の覆輪と縁も軽いアクセントだ。鬼女では角、目、牙と着物の袖口に使い、馬では目と馬具、手綱、鞍の紐などに使用してアクセントになっている。

2020/6/8
金工としての技術が全て出た作品、金工としての実力が全て出た作品。地金は実際はもっと黒っぽいが、槌目地をわずかに残して磨いたような地で不思議と感じが良い。

2020/6/7
大森彦七の目、鬼女の目、馬の目のそれぞれが生きている。

2020/6/5
自然に上手い。

2020/6/3
この名品、縁頭の造形、頭は中高で周囲が下がる形態、縁は円筒の形態を生かして、それを絵の立体感に織り込んでいることに気が付く。頭の鬼女の姿態などでも立体感は理解できよう。縁の松の樹などは円筒の立体感で幹の立体感を出すと同時に、幹の右側を削いで、さらに立体感を高めている。

2019/1/10
この縁頭の彫物は、頭の彦七と鬼がメインの画題である。しかし昆寛は縁の鞍置き馬、老松の大樹というサブの画題の彫物も並みの金工では彫れないほどに巧みなものばかりである。老松の樹皮、洞(うろ)、松の葉や樹全体の立体感など頭が下がる。馬にしても、鬣(たてがみ)だけでも凄いが、馬具の立体感・質感の写実も見事だし、馬の身体の皮はコードバンの質感だ。

2019/1/9
町彫で名工とされている人は皆上手だが、昆寛のこの作品を観ると、鏨の線の綺麗なこと、潔いこと、丁寧なこと、勢いがあることに驚く。

2019/1/8
この写真でも地金の色は黄色味を帯びているが、四分一地に何か黄銅に近いものを入れているのではなかろうか。そして、この地に槌目を打ち込んで変化を出している。写真でも槌目の状況がわかると思う。鬼の顔、着物、彦七の着物、馬体は四分一であるが、地の四分一とは違って見えるが、槌目だけの違いで変化させているのだろう。同様に松の樹皮、松の葉、馬体、たてがみ、尾も同じ四分一だが、彫り方で素材感を異なるように見せている。

2017/8/8
川を渡れずに困った若い娘を、背負った彦七には慈悲の心のほかに、助平心もあったのだろう。その心が恐怖の瞬間に変わる一瞬だ。まだ鬼女の腕の力に変化がない。気が付いたのは川面に映った娘の顔貌の変化だ。修羅場はこれからだ。

2017/8/6
重要文化財の利寿鐔の鬼女は、鬼の面を写したようだが、昆寛の鬼女は野性的でダイナミックかつ鋭い。

2017/8/5
7/23に馬のたてがみの彫りについて記したが、鬼女の髪の毛の彫りも見事だ。この写真ではわからないと思うが、柔らかなカーブでフワッとさせるだけでなく、額にかかる髪の毛などは剛毛のように見えるように強く彫っている。馬の尻尾の毛で彫った方法を応用したのだろう。

2017/8/2
鬼女の姿全体は猫のような姿態を感じる。可愛らしく背中にしだれかかっていた若い女性だ。彦七の肩に手をかけている腕はまだ若い女性の面影が残っている。肩も撫で肩で、そこから薄肉彫で着物の袖の襞(ひだ)を柔らかく彫っている。重要文化財の奈良利寿の鐔では、袖に象嵌を入れているが、腕が横になり過ぎて不自然であり、私は昆寛の方が上手いと思う。

2017/7/31
さてメインの頭の彫りだ。有名で重要文化財の利寿鐔の図では鬼女も彦七の顔も同じ赤銅一色だが、昆寛は彦七の顔を素銅を使って彫り上げるという変化をつけており、一層興趣を高めている。加えて烏帽子を赤銅で、これも効果的だ。金で象嵌した烏帽子の紐は確実に固く、烏帽子を顔に縛り付けている紐だ。
色金の使い方はこれだけではない。彦七の眼に金を入れ、そこに赤銅の目玉として注目が集まるようにしている。そして、その眼は驚いて大きく見開き、目玉は背中の異変を把握しようと思って緊張感に満ちている。

色金の使い方が巧いだけではない。彦七の顔は額、鼻、頬、顎と平面に微妙な変化を付けて、実に立体感に満ちている。そこに口、鼻、眼、耳の輪郭を力強く彫り込む。眉毛の毛彫も柔らかく、先の方はまたタガネの向きを変えている。

2017/7/29
岩本昆寛は明和7年(1770)に27歳、安永9年(1780)に37歳、そして享和元年(1801)に58歳で作品がある。延享元年(1744)の生まれである。
長常の項で記したが、長常は享保6年(1721)~天明6年(1786)、円山応挙は享保18年(1733)~寛政7年(1795)、伊藤若冲は正徳6年(1716)~寛政12年(1800)、与謝蕪村は享保元年(1716)~天明3年(1784)、池大雅は享保8年(1723)~安永5年(1776)であるから、京都写実より約20年遅れの江戸写実だ。

2017/7/27
そして、この馬の顔だ。特に眼は、主人の異変に気づいた一瞬だ。また前脚を突然に上げたような動き。こうして精密に彫った馬に生気を宿すことに成功した。ここに大森彦七の馬を出現させた。

2017/7/25
鞍の腹帯や手綱は金で象嵌している。馬の尻の方の帯は素銅の象嵌だ。「凄いな」と思うのは、尻の帯や鞍の腹帯は強く締まっているが、手綱は柔らかく、たわんでいるように象嵌している。そのよじれ具合も、どうしてここまで上手に手をかけて仕事が出来るものかと感嘆する。

2017/7/24
馬の身体を形取る線は柔らかく強い。鞍の部分は平滑に彫っているが、馬の皮膚の部分は平滑に見えるが、細かく浅い線を引っ掻くように彫っている。顔は立体的に彫り、鼻の穴は力強い。
鞍の前輪と後輪は赤銅(烏銅)を用い、丸く柔らかく遠近感を出して彫る。前輪と後輪の縁を線で形取るように彫り、その線の内側には細かいタガネを打ち込んでいる。馬の立体感と、各馬具の材質感が出ていて見事である。

2017/7/23
今度は脇役の馬の彫りを観よう。まず、馬のたてがみの彫りだ。地を柔らかく薄肉彫りで仕上げ、そこに非常に細かい毛彫だ。毛の一本、一本を彫り上げているように柔らかく、細かい彫りだ。フワッとした毛が見事に表現されている。首筋の線も何とも言えないカーブだ。たてがみの中から耳が緊張感を持って突き出ている。
馬の尻尾の方は薄肉彫のタガネを入れて、そこから毛彫で同様な彫りをしている。毛彫はたてがみよりも深く入れており、それは尻尾の毛がたてがみの毛より固いからだろうか。

2017/7/22
この松、全体を御覧いただきたい。「大」の字に手を広げた化け物みたいだ。洞(うろ)は一つ目だ。背負った美女が鬼に変身した異様な空間だが、松の大樹まで化け物に変化したのだ。

2017/7/21
地金は、脇役どころか舞台そのものだが、その処理もさすがである。銅に銀の四分一だと思うが、亜鉛も入っているのだろうか、真鍮的な色だ。何度も言うが実際はもう少し黒い。その地を軽く叩いて凸凹を出したのであろうか。あるいは粗い石目地に造ってから、その上を擦って滑らかにしているのだろうか。よくわからないが地にも気を使っている。その結果、陰翳(より真鍮的色と黒い四分一的色)が出来て、この場面・空間に漂う異様さを表現している。

2017/7/20
松の幹の右側は片切りタガネ的に右際は地に垂直近くにタガネを入れ、そこからなだらか・幅広く彫り、大樹の陰翳部を表現して、立体感を出している。なだらか部分は平滑で、上部の枝が入った部分の上にだけ三角タガネで幹の傷を表現している。影の部分だから樹皮の模様などなくてもいいのだ。

2017/7/19
縁の松葉の彫は、毛彫ではなく、松葉の上部が少し広がるように深くタガネを入れる。それを松葉らしく扇状に正しく細かく彫る。重なって交叉するところもあるが、その場合は片方を浅く彫る。ともかく力強い松葉だ。
枝の金象嵌部分は真ん中を少し高くしている。正面だけでなく幹を挟んで右側にも金象嵌の枝があるが、こちらの金色は少し赤みがあるぞ。褪色というより色を変えているのかもしれない。
幹には浅く細かい毛彫で樹皮の皺を彫り、上部の窪みは三角タガネを力強く打ち付けている。
幹が下部で右に流れている部分も同様な打ち込みタガネがあるが、ここは幹を彫り上げてから三角タガネを入れている。幹の彫り上げと書いたが、幹そのものも薄肉彫(表面より低く彫る過程で高低の立体的彫りをする)で立体感のある大樹を表現している。
洞(うろ)を彫る時は深く彫ると同時に際を柔らかく彫り上げているような感じで、より立体感を強めている。洞の中は汚れかもしれないが、黒っぽく色上げをし、深さを強調している。

2017/7/18
この写真の色は違う。全体に黄色が強くなり真鍮地のように見えるが、実際は四分一だから黒っぽいのである。彦七の烏帽子、馬の鞍の両端(前輪と後輪)は真っ黒な赤銅であり、その色を想像してもらえれば色調のズレは理解されよう。ただし明るく撮っているから彫技はよくわかる。大森彦七の表情などヤンヤヤンヤである。枝を金で象嵌し、その上の松葉は不思議なタガネ線だ。このタガネの勢いと精密さだけでただ者では無いことがわかる。

浜野矩随(漢楚軍談-張良・樊噲図)→(三国志:劉備・張飛図)

2023/10/19
指は描くのも彫るのも難しいのだが、矩随の指の表現は見事である。

2023/10/15
薄肉彫にも関わらず、人物それぞれの立体感がほぼ完全に表現が出来ている。

2023/10/11
人物彫の名手で、遠近感の表現にも巧である。色の使い方も上手い。

2023/10/7
この小柄の構図は下部にメインの画題が彫られ、中程から上部は、上部に毛彫で松の枝と雲が彫られているだけで、寂しいが、実際に手に取って、使用すると、濃密な彫物は手に包まれて、当たることは無く、力を入れる指は中程から上部の何もない磨地に置かれ、実用面からは理に適っていると感じる。矩随は、このような実用性も意識していたのだと思う。

2023/10/3
昆寛の大森彦七図縁頭と同様な彫り(薄肉彫)で人物を彫って達者なのは、浜野矩随である。昆寛も講談になっているが、矩随も落語になっている。矩随の落語は、この名人である初代の矩随の息子の二代矩随を取り上げたものだが。
矩随の名人ぶりも江戸で大評判だったのだ。

2022/3/27
落語に浜野矩随の話があるが、それは初代に似合わずに下手だった2代が母の支えもあって、心を入れ替えて初代矩随と同様な名工に大成する話である。2代矩随の作品では一度、有名な新巻鮭図小柄を拝見したことがある。高い価格が付けられており手が出なかった。浜野政随には「凄いな」と感動する作品があるが、それほどでも無い作品も良いとされて、流通している。政随、矩随は証書が付いていても「こんなものかな」と思うような作品は買わないで、心動く作品を購入した方がいい。

2022/3/25
この小柄の大きな空間について述べたが、武器の槍(三尖両刃刀…さんせんりょうじんとう)が、この先の広い空間を突き刺すようだ。この槍先だけで絵にしているような感じも持つ。

2022/3/23
薄肉彫の絵は小柄の下部にある。そして絵は少し上から2人を覗き込むような構図である。その上には、彫が無く、もう一つ上に松の毛彫がある。だから空間がうまく配置されていて、大きな空間における遠近感の絵となっている。雄大な感じも持つ。

2021/6/9
今、知人から別の中国風人物の図について、「この図は何の図か?」との問い合わせを受けているが、わからない。当時に江戸で流行った中国の物語などを理解していないとわからない。
それはさておき、左の張良あるいは劉備の人物の右手の袖の描き方(彫り方)は上手であり、自然である。劉備が孔明から来た手紙を読み、それを張飛が「何と書いてあるのか?孔明は来るのか?」と尋ねている様子とみるのが無理がない感じである。すなわち、図は三国志の「草廬三願(そうろさんこ)」で2度目に孔明に断られた後に来た孔明の手紙を劉備が読んで、それを張飛が確認しているところではなかろうか。

2021/6/6
銘は棟の下部に4字銘(壮年期とされている銘振り)があり、裏は彫りの深い、強さを感じる猫掻き鑢が見事である。色金の使い方も吟味しており、金、銀、赤銅、素銅、それに色の薄い(やや黄がかかる)四分一である。地板の四分一はところどころに黒ずんだところがあるが、これは意図的ではなく、永年の変化であろう。

2021/6/4
張良あるいは劉備と考えている人物はルーペで観ると頬に僅かに髭のようなものが見えるが、確たるものではない。それはさておき、ルーペで観ると、目の上、眉の下を凹ませて彫り、目の下をわずかに膨らませて彫っていることに気が付く。こういうところが、より生き生きと表現しているところだと思う。

2021/6/2
樊噲あるいは張飛と考える人物の兜の上部は左に棚引いている。その人物の持つ武器に付いている房は右に棚引いている。状況における天候として風向きを考えるとおかしいが、絵としてのバランスを取ったのだと思う。
樊噲あるいは張飛と考える人物の顎髭は左に流れている。顔は右に傾けているから、顎髭も右に流れるとも考えられるが、ここも絵としてのバランスを考えたのだろう。

2021/5/31
この図について色々と悩んで考察してきたが、もう一つ本当のところはわからない。三国志の張飛と考えたが、彼の武器として有名な蛇矛(だぼう…刃が蛇のようにクネクネ)とは違う。図に近い武器は三尖両刃刀(さんせんりょうじんとう…二郎刀とも言う)とも考えられるが、この武器と有名人物が結びつかない。
画題はともかくとして、この小柄の彫りは、手指の彫りを観ても実に巧みである。髭の彫りも美しい。衣服、冠、兜の地の彫りも丁寧、かつ上手である。

2020/6/25
浜野派の中では、私は矩随が好きである。政随は多く見かけるが、作品の出来に大きく差があると感じる。それらの中には偽物も含まれているのだろうが。

2020/6/23
昆寛と矩随の薄肉彫を比較すると、色金の使い方は昆寛の方が控え目で品がいい。矩随は金の使う箇所が少し多すぎる。外連味(けれんみ…俗受けを狙う)があると言うと矩随に失礼になるが、その分、迫力は感じる。矩随の方は薄肉彫に命を懸けているようなところがあるのに対して、昆寛は薄肉彫もできますよという感じ(これとて大変な努力をしていると思う)である。ちょっと軽妙に感じるところが昆寛なのだろう。ともかく2人とも薄肉彫の名人である。

2020/6/21
薄肉彫(平面の素地を鋤下げて高彫に対して肉取りの薄いもの)と肉合彫(薄肉彫の一種で、図柄の輪郭に線を入れず、際から彫り起こして地より高くせず、図柄を浮き立たせる)の違いがわかりにくいが、加えて矩随はそこに各種色金の象嵌(高彫色絵)を施している。こういう所が矩随の独創性で高く評価されるところである。
肉合彫だけのところは上部の松の枝の彫である。松の葉は鏨の太い毛彫であろう。薄肉彫だけがわかるのは、下の三国志で見れば劉備(漢楚軍談では張良)の顔や衣服の彫である。

2020/6/19
矩随は薄肉彫の名人である。昆寛はこの技術を目標としたのであろう。高彫と薄肉彫が融合している様は見事である。

2017/9/28
この8/16の記に、この画題は「漢楚軍談 張良・樊噲」としてきたが、違うのではないかとの疑問を呈した。その検討過程を「図は「張良・樊噲」か、それとも三国志か-所蔵の矩随作品の画題-」とまとめた。十分に検討はできていないが、現時点では三国志の劉備・張飛の図だと思う。
こうなると、これまで以下の日記に樊噲として書いてきたことは張飛であり、張良として書いたのは劉備のこととなる。

2017/8/30
生き生きとした人物表現、各人物の性格までわかるような表現、細部にも行き届いた彫りの技法、そして小柄を手に取って使用した時に邪魔にならず掌(たなごころ)に収まる人物像の位置、小柄を抑える親指の位置には彫りは入れない。そして間延びした空間を生かして上部に毛彫を施して絵にする。これが矩随初代だ。

2017/8/29
樊噲の顎髭の彫りは、顎の下が前面に見え、頬・耳の下に行くに連れて、後ろに見え、顎髭全体の立体感も出ている。また顎の下から胸にかけて、奥にいくような立体感もある。こういう彫りも見事だと思う。

2017/8/26
初代浜野矩随は天明7年(1787)に52歳で没したから、生年は元文元年(1736)である。だから岩本昆寛の延享元年(1744)よりも8年前である。長常の享保6年(1721)より、15年遅い。円山応挙の享保18年(1733)と同じくらいである。京都写実と同時代の江戸写実ということになる。大事な位置づけの金工だ。後藤では宗家13代の光孝が享保6年(1721)生まれである。柳川直光の享保18年(1732)生まれとほぼ同時代である。

2017/8/23
上部の松の木と雲の毛彫だが、タガネの太さを細かく替えて彫っている。タガネの種類を替えているのか、あるいはタガネを入れる深さを調節しているのか、私にはわからない。その中でも強く彫っている松の葉だが、この中心には深く点を打っている。
今回再観して、樊噲の目玉は赤銅を入れているのではなく、タガネを深く打ち込んでいることに気づいた。また張良の目玉も深い打ち込みであり、矩随のタガネ使いの特色の一つが、深い打ち込みタガネではないかとも思いはじめている。

2017/8/19
張良の顔の彫りは、各部位ごとに細かく、キチンと彫る、耳をこれほどリアルに彫った作品は他にも少ないだろう。目は深く彫り込み、眼球だけは彫り残し、形を整えている。鼻の立体感も出て、小鼻を形取るタガネも力強い。人相学に私は疎いが、それに詳しい人なら、以上の各部位の形から性格・運勢を占えるのではなかろうか。
全体の印象は理知的であることに加えて、胆力もある感じである。

2017/8/17
画題への疑問はひとまず置いておきたい。さて張良の彫りである。画面の左下に展開する肩から腕の彫りは自然である。肩から肘(上腕=二の腕)が手前に出ているように見え、その先の腕(前腕)は、奥側にいって手指に至り、文書(手紙)を前で持つ体型が自然である。衣服の皺の彫りが上腕部ではやや右上から左下に入れ、前腕部は上部から下への彫りを少しずつ変化させることで腕の膨らみを表現する。
以前の 「鑑賞記」において樊噲の手指の彫りとともに、張良の手指の彫りも褒めたが、改めて観ると、張良の手指は不自然である。軽い文書(手紙)類だから力が入っていないのかもしれないが、今一つである。ともかく手指の表現は難しいのだ。

2017/8/16
鑑賞記」においては、「漢祖劉邦の危機を救った鴻門の会における相談の場面か」と書いたが、鴻門の会の時は、もっと緊急を要する事態だったようで、こんな文書で相談というような状況ではなかったようだ。
この図は保存の証書では「三国志」の図としてあったが、私が戦前の本から漢楚軍談の張良・樊噲図と平成6年9月の「刀和」誌上に発表した。その後出版された『刀装具鑑賞画題事典』(福士繁雄著)でも76頁に「張良・樊噲」として同図の説明がされている。
今回、改めて「違うのでは?」との疑問も湧いてきた。江戸時代に流布した『漢楚軍談』や『三国志』の物語を精読する必要がある。

2017/8/15
改めて観ると、豪傑樊噲の視線と、指し示す左手の人差し指の方向が少しずれている。人差し指は張良の持つ文書を差しているが、目は右下の方向を見ている。
一方、張良の視線も、自分が広げた文書ではなく、横目でこちらの方(それは樊噲の見ている方向)に泳がせている。
2人が文書を読んだ後に、右手前に控えている者(座って待機している者)に指示を出しているように見える。「これ(文書)には、○○が書いてあるが、どういうことか?」と尋ねているような様子だ。『漢楚軍談』を読んでいれば、その場面が具体的にわかるのだが。
ともかく、当初は張良が読んでいる文書を、樊噲が指さして「何が書いてある?」と聞いたか、「ここに書いてある通りにやるか?」とでも打ち合わせていると思ったが、ちょっと違うのかもしれない。

2017/8/13
この小柄の「鑑賞記」は、よく書けた文章であり、付け加える点はないのだが、桐箱の中から、改めて観ろと言っているので手に取る。
薄肉彫と高彫を組み合わせた矩随ワールドである。そこに的確な色金を施す。豪傑樊噲は素銅だが、眉、口ひげを毛彫で表し、鼻、口、唇、眉間のしわなどは彫りで高低をつけて立体的に彫る。毛彫や眉間などの凹んだところは黒くなっているが、これは汚れではなく、何か色を入れているようだ。そして眼は金を入れ、眼球は深く彫り込んで赤銅を入れたように見せている。どのくらい深く彫っているのだろうか。
長い顎ひげは、地板の四分一をタガネを深く、細く入れることで表現しているのだろうか。自然である。顎ひげの彫りは顔の素銅の上から彫りは始まっているのだが、下の四分一部分と同じような色合いだ。どうなっているのだろうか。

岩本昆寛(馬図縁頭)

2023/12/6
昆寛は優しい。

2023/12/2
画中の馬たちの気持ちまで彫れる金工だ。

2023/11/28
昆寛は、ともかく上手で、それをこれ見よがしに見せない金工である。

2023/1/26
私は奈良三作や夏雄は所持したことがないが、昆寛も金工山脈のかなり高い頂(いただき)の一つという感がする。上手な金工だなという感じを抱く。私は、この馬図縁頭の横谷風(高彫り)のもの、大森彦七の奈良風(薄肉彫り)のものを所持しているが、もう一つの叙情的な作風(例えば月下釜洗い図)のものに御縁があればと願っている。なおもう一つ、写実的(魚尽くし)な作風もある。

2023/1/24
馬に托した家族愛のような情感を表現していると同時に、馬の”動き”に注目して彫り上げている。

2023/1/22
所持している刀装具の中では、一番、ほのぼの感がある。気持ちが安らぐ。馬図ではなく、馬の家族図の方がふさわしい。

2023/1/20
この立体感も見事である。一頭の馬自体も身体の前後、身幅もきちんと彫り分けており、2頭の馬の前後感、距離感もきちんと理解できる。

2023/1/18
こちらの昆寛は横谷風であり、大森彦七の奈良・浜野風の彫とは違うが、巧(たくみ)なものである。宗珉の同様の馬の高彫りは威厳があるが、昆寛は威厳ではなく、情愛あふれる楽しさを彫り上げている。人柄なのであろうか。時代なのであろうか。

2022/1/24
この縁頭の図を拝見していると江戸時代、戦乱が無い時代の所産と改めて思う。昆寛には明和7年(1770)に27歳、安永9年(1780)に37歳、そして享和元年(1801)に58歳で作品があり、延享元年(1744)の生まれである。田沼意次の時代から松平定信の時代である。文化史で言えば宝暦~明和~安永~天明の「宝天文化」と、次の文化~文政の「化政文化」までの時代である。

2022/1/22
西洋美術史家の山田五郎氏が「馬を上手に描く画家は上手い画家」と言うことは以前に紹介したが、昆寛など最たるものであろう。大森彦七縁頭の馬も、この縁頭も天下一品である。馬の姿態だけでなく馬の気持ちまで彫っている。

2022/1/20
もう一つ、こちらの昆寛も名作である。こちらは横谷風の彫技である。横谷宗珉の威厳のある馬に比べて、情愛溢れる馬の家族を生き生きと彫っている。観ていて楽しくなる彫りである。大森彦七の緊迫した画面との対比が面白い。

2021/8/20
馬=上士の乗り物と論じてきたが、だからと言って馬が町人、百姓の人たちと無縁のものということではない。町中に輸送の為の馬は通っており、馬喰町という地名もある。高田馬場もある。田畑では農耕に馬を使う。「西日本では牛、東日本では馬」という農耕の傾向があった。また江戸から1日行程でも行けないことはない千葉県の北総台地(鎌ケ谷、臼井など)では幕府の広大な牧(御料牧場)が広がっていた。

2021/8/18
如竹の八駿馬の鐔は、馬乗り身分の上士クラスの武士が求めたものではないかと推測したが、この馬の縁頭も同様の上士クラスが求めたとも思われるが、馬という動物に借りた家族愛というテーマとも思える。

2021/8/16
馬たちの少し上方からの視点で絵は統一されている。色々な下絵を集めて彫り上げたのとは違う感じだ。昆寛自身が写生したのか、ある画家が写生したものを昆寛が使用したかはわからないが、昆寛にも同様の絵心がないと、ここまでは彫れないと思う。

2021/8/14
英秀、如竹の馬を観てきたから、今度は昆寛の馬だ。この馬は横谷宗珉の馬を意識していると思うが、宗珉が威厳のある馬を彫り上げたのに対して、昆寛は情愛あふれる馬の家族を彫っている。威厳のある馬ではなくても、拝見すると誰でも画ワォーと驚く存在感のある馬たちである。
それぞれの馬の姿態も上手である。不自然さを感じるのは縁(ふち)の金色絵の馬の曲げた前足であるが、それは金色絵の馬が手前の斑(ぶち)がある馬の方へ、方向を転じようとしている為なのだ。

2020/11/15
宗珉は対象物の中から威厳のある所の本質を絵にするような感じだが、、昆寛は対象物の中にある情緒(心の通いあい)を絵にするような感じとも思う。

2020/11/12
頭(かしら)の馬は手前の馬は前に顔を向けるような姿態にして、後ろの馬は後ろ側に顔を向けさせるような構図を取り、それぞれの馬を斜め上から写実的に彫り上げることで、自然と遠近感が出るような構図にしている。一点透視法とかの西洋の遠近感の技法を知らなくても、構図の工夫と描写力で遠近感を表現したのが昆寛だ。
縁は逆に二頭それぞれの頭・顔を近づけるようにして、頭の構図と対比させている。

2020/11/11
馬の姿態が写実的に良く彫れているというだけでなく、彫り上げた馬それぞれの気持ちまでわかるような気がするし、一頭ずつではなく、馬が集う情景としての絵にしている昆寛は名人だとしみじみと思う。

2020/11/9
変化のある馬の姿態を、見事な肉取りの巧みさで彫り上げたから、そこに施された金が光の変化で光彩が変化していて華麗である。

2020/1/28
色々と「昆寛」の名前の読み方(訓読み)を考えたが、史料も無いし、宗珉が音読みの「そうみん」だから「こんかん」にしておいて良いのであろう。
この馬は、今のサラブレッドと違い、脚は短い日本在来馬だ。

2020/1/27
昆寛の魅力として彫り物の肉取りの巧みさがある。例えば頭の前の馬では、腰のところはふっくらとした肉取りにし、腹部は高さを抑えた肉取りにしている。このふっくらとさせるところに何とも言えない優しさが出ている。

2020/1/25
『岩本昆寛』(神谷紋一郎著)には36頁の第17図に「四つ手網に芦の図」鐔の写真が掲載されていて、その銘は平仮名で「こんかん」である。川口陟氏が認め、神谷氏も是認している。これが正真なら「こんかん」でいいことになる。
なお岩本昆寛の前名は浅井良云である。これも「りょううん」と音読みの方がしっくりくる。「云」は人名に使った時は「おき」「これ」「とも」「ひと」の読みがあるとのことであり、「よしおき」「よしとも」「よしひと」の可能性はあるのだが。

2020/1/23
ところで昆寛は「こんかん」と読んでいるが本当はどう読むのだろうか。『角川漢和中辞典』を引くと「昆」には「あに」との訓読みがあるとのこと。人名名乗りでは「ひで」「やす」があると記されている。「寛」は「ひろ」だろう。そうすると「あにひろ」「ひでひろ」「やすひろ」が候補となるが、語感からは「やすひろ」かなとも思う。
ちなみに「昆」の付く有名人にはサツマイモを関東に広めたとの言い伝えで有名な青木昆陽(1698~1769)が享保の頃に活躍している。延享元年(1744)生まれの昆寛にとって先人である。青木昆陽は通称は文蔵、名は敦書(あつのり、あつぶみの両説がある)、字(あざな)は厚甫(原甫としたものがある)で、号が昆陽である。号だから「こんよう」で良いと思う。
しかし昆寛は、他の江戸金工を見ると号とは考えられないのだが。

2020/1/19
昆寛における宗珉風からの脱却を書いたが、言い換えると宗珉はそれほど偉大だったということになる。宗珉が後藤の図柄を脱して堂々とした馬図を彫り上げたから、後進はさらに工夫できたわけである。

2020/1/17
はじめは写実に徹し、できるだけ対象物を忠実に写すことに注力するだろう。魚尽くしの彫りものなどに、それを感じる。その後、昆寛は対象物の動きにも関心を寄せ、さらに対象物の心の動きからくる表情の変化に心を配る。そして、昆寛自身の心を対象物の動作に移し替えて表現するようになったのではなかろうか。「釜洗い」の鐔などは、そんな境地ではなかろうか。

2020/1/16
昆寛は岩本家6代となるが、師は5代良寛である。良寛も名工で、私は牡丹を高彫りした縁頭の名品を拝見したことがある。宗珉の牡丹をさらに華やかにしたような作品であった。良寛から技術を学び、昆寛は作品に物語風というか叙情詩(自分の感情を述べ、あらわす詩)風な作風に変化した。その時々の自分の感情と言っても、穏やかなものだ。

2020/1/15
今回、再観して、何か眼が一格進んだような気がする。縁表側の2頭の馬、金の馬は背中部分を敢えて画面の外に出しているが、これも工夫だと思う。手前の馬の遠近の表し方、頭の2頭の遠近表現もさすがである。そして、全体を物語にしている。

2020/1/14
この縁頭もそうだが、大森彦七図縁頭も同様に、昆寛は単なる写実の名手だけではなく、彫った対象(ここでは馬)の、その時々の気持ちも一緒に表現できるような金工である。もっとも、こう書くと、それは他の金工でも同じではないかとの反論もあると思う。だから付言すると、彫った対象の気持ちに即した情景も一緒に彫れる名手とでも述べておきたい。この縁頭に関しては縁の裏の奔る仔馬である。
もう少し的確な表現ができるといいのだが、今後の宿題としておきたい。宿題がある方が、今後も鑑賞を楽しめるのだ。

2020/1/13
頭の2匹、縁表側の2匹の馬は夫婦のような感じである。そして縁裏側の跳ねるように躍動する馬は仔馬だ。家族情愛の図とでもした方が的確に思える。

2020/1/11
頭(かしら)に彫られた2匹の馬は、正面を向いていない。威圧するような馬ではなく、和やかな馬である。

2020/1/9
昆寛のこの馬たちは実にリアルな姿態であり、優しく、穏やかである。

2017/9/4
縁(ふち)の2頭は頭(かしら)とは反対に、それぞれの馬が顔を寄せ合って、お互いの親近感を醸し出している。連銭葦毛の馬は仔馬かもしれない。ここでも馬の重なり具合をやや上方の視点で彫ってうまく表現している。後ろの金色の馬が首を大きく曲げているところも遠近感の強調だ。
そして縁の裏側の仔馬(表の仔馬よりも幼い仔馬か)は母馬の方に駆け寄ってくるところだ。裏の真ん中ではなく、やや前側に彫物の位置を持ってきている。湾曲部であり、自ずと前(表側)の母馬の方に駆け寄る感情が表現できている。

2017/9/3
この縁頭作成に当たって、昆寛の彫金のテーマは「遠近感の表現」だ。そして画題のテーマは「馬を通した家族愛」だ。そして町彫りの偉大な先駆者の宗珉の馬の彫りを意識して、自分なりの彫りを実現しようとした。成功していると230年後の鑑賞者である伊藤は認めるし、他の方も同様に思われるだろう。
頭(かしら)の2頭は反対向きに彫り、それぞれの馬体の長さを、手前の馬を下部に彫ることで視点を上にして、それぞれの馬の姿態を上下に据えて、奥行きすなわち遠近感を出した。
尻を突き合わせているようだが、向こうを向いている馬は顔を少し後ろに傾けて、その目は金色の馬を気遣うように彫り挙げている。遠近感と家族愛だ。

2017/9/2
いずれの馬の目は、馬の目らしく澄んで美しい。そして姿態の観察も的確で、昆寛は自分で下絵も画いてから彫り上げたに違いない。姿態を絵でなく、彫金で表現するが、その肉置きは素晴らしい。

2017/9/1
この縁頭の「鑑賞記」も、よく書けているが、作品そのものも傑作である。昆寛は宗珉の馬(縁頭は「鑑賞記」の中に写真を掲載したが、他にも頭に正面を向いた馬の縁頭や、小柄の縦図で向き合う二匹馬の図もある)の彫りを意識したと思うが、写真で見る限りだが、優るとも劣らない出来である。宗珉の向き合う構図を、互いに尻を付き合わせるような構図に替えて、より立体感、遠近感を出すのに成功している。

大森英秀(張果老図縁頭)

2023/8/5
大森派は、初代が小田原藩士で剣道の達人の四郎兵衛だが彫金はない。次が重光で奈良派に学び、安親にも学ぶが30歳で逝去。三代は二代の甥で英昌として宗珉の門人である。四代はその子で英一だが夭折。そして五代英秀は英昌の甥である。彫りに勢いがあり、波の彫りや武者物に優れ、絵に新味があり、梨子地象嵌を得意とする。「勢いがある」「絵に新味」という特色が良く出た作品である。

2023/8/3
瓢箪から飛び出した馬、脚の短い馬だが、この馬の表現は上手である。西洋美術に詳しい山田五郎氏は「馬を上手に画く人は、絵がうまい」と述べているが、この英秀も、私の昆寛もうまい。如竹については付け加えるところがある。

2023/8/1
張果老は仙人だから、色々な人物に変装(顔付き、態度まで変えるから変装という言葉は?)するが頭(かしら)の顔は、どこかにモデルがあったのであろうか。それとも英秀が自分なりに考えた張果老なのであろうか。色々と資料に当たってみるか。

2023/7/30
頭(かしら)の張果老は実にリアル。縁(ふち)の張果老は後ろ向き・上向きであり、宗珉の画を元にしている。馬は足が短いが、肉置きなど上手。脚が短いのは瓢箪から出たばかりで伸びきっていないのを表しているか?松の木肌は写実的だが、松の葉は丸く描く伝統的文様だ。いずれにしても手が込んだ名作である。

2023/7/28
頭(かしら)の平象嵌で五角形か六角形の紙(馬が畳まれていたと言う)、その上にも張果老の口から吹き出した酒の金霰象嵌、もちろん着物の柄の象嵌など、大森派の象嵌の妙を発揮している。

2023/7/26
この欄の2019/3/8で明の呉元泰が『八仙東遊記』が日本で紹介されて、その一人の張果老が知られるようになったかと書いたが、八仙人とは張果老の外には、呂洞賓、李鉄拐、漢鍾離、藍采和、曹国舅、韓湘子、何仙姑とのことである。他で知られているのは鉄拐だけであるから、八仙人とは別の「瓢箪から駒」のことわざから人気になったのであろう。

2023/7/24
こういう縁頭は、どのような人物が所持し、拵に付けたのであろうか。酒好きな人物だろう。そして、やはり年配の人物だと思う。もっとも張果老の故事や画に意味を求めて愛好するというよりも、大森英秀の彫技に感心して買い求めた可能性も高い。私だって、そう感じて求めたのである。

2022/8/9
松の葉は類型的な表現であるが、松の木肌は、なかなかに凝った写実的な彫である。昆寛の大森彦七図縁頭の松の木も上手いが、英秀の松も劣らない。

2022/8/7
曲線得意な英秀は、誇張の一歩手前でやめている。名工である。

2022/8/5
縁の老婆に変身した張果老、後ろ向き、顔は上向きという構図は、横谷宗珉が布袋だと思うが、取り入れている。これを参考にしたのだろう。老婆の着物の柄の金平象嵌は手が混んでいる。瓢箪から馬を右側に出しているのだから、もう少し、顔を右に向けた方がいいと思う。

2022/8/3
頭の瓢箪、主役の付属品だが、遠近感が実にリアルに彫れている。背中の丸味に沿っての遠近感、瓢箪そのものの立体感など見事である。そして、くびれた部分から繋がった紐を、肩に掛けて引っ張れば、このような形で瓢箪は背中に張り付き、紐はこのようにぴーんと伸びることなど、本当にリアルである。

2022/8/1
頭の張果老の図は、一仕事を終えて、馬を畳んで瓢箪に入れるところであろう。一方、縁の張果老は老婆に化けて、瓢箪から馬をだしたところである。縁と頭で、張果老の幻術を表現しており、一つの趣向だと思う。

2022/7/30
意欲作である。頭の五角形の目立たない平象嵌。そこに金梨地象嵌をちりばめる。毛彫も入れる。そして身体は素銅の高彫象嵌に顔は赤銅の髭や髪、目には金象嵌。身体の方は素銅の上に四分一の高彫象嵌。そこに金の厚金を着物の縁に、着物の模様は金の平象嵌だ。その上に金の瓢箪だ。瓢箪には無数の打ち込みを入れている。
頭だけで、これだけの手間だ。

2021/8/6
この馬(縁に彫られた赤銅の馬)は、まさに「瓢箪から駒」で、瓢箪から出てきたばかりを表現しているのだろうか。胴体は丸々と太っているが、四肢は短い。これから伸びていくのだろうか。瓢箪から飛び出したばかりでは、四肢が短い方がリアルである。
ただ胴体の肉置きや頭部、顔、たてがみなどは生き生きとしていて見事である。

2021/8/4
縁(ふち)の松の彫り。松葉は定型的なのだが、老松の幹とその樹皮の彫りは、リアルで、樹木の育ってきた幾星霜の歴史を感じさせる力作である。

2021/8/2
地鉄(じがね)は四分一(しぶいち)の磨き地だが、明るい(白っぽい)感じの四分一である。そして頭(かしら)に、少し黒みのある四分一(よく見る四分一の色)を五角形の紙(これまで六角形とも書いてきたが五角形に改める。ここに馬が折りこまれている)として平象嵌している。
頭(かしら)の張果老の顔と肌と手は素銅(すあか)だが、この素銅も赤黒い素銅にしている。
こういうところに工夫するような時代になったのだ。

2021/7/31
この図柄の仙人である張果老の物語は「瓢箪から駒が出る」ということわざの語源にもなっている。ことわざの語意には「ふざけて言ったことが実現する」ということもある。この縁頭を購入して、佩刀に付けた人は、何か思いがけない幸運が実現したのではなかろうか。

2021/7/29
手が込んだ名品である。張果老が口から酒とともに五角形の紙のようなものを出す。この表現など実に工夫されている。噴霧状の酒を平地の蒔絵象嵌で放射状にちりばめる。そしてその下に五角形の紙のようなものを目立たないが、ほぼ同色で象嵌して嵌め込んでいる。
縁に六角形の紙から変じた立派な馬が空から飛んでくるように据えている。
いや、縁の馬は、縁の後ろに後ろ向き、上向きで老婆のように表現されている変身した張果老の持つ瓢箪に吸い込まれるところだろうか。仙術の妙を見事に絵にしている。

2020/11/7
張果老の画題は刀装具では金家からあるが、口からの酒を吹き出し、そこに五角形の包みを出すのを、金属加工技法で、このように独創的に創り出したのは英秀だけではなかろうか。後代の者がマネをしようと思っても、平象嵌技術が追いつかないだろう。また髙彫の巧みさも非常に優れている。英秀一世一代の力作であり、傑作だと思う。

2020/11/4
松の葉だけが、旧来の形通りの不自然で工夫の無いもの(だけど彫は全てを全くの円形にせず、中心から葉先にかけて浮かせるようなきちんとした彫)だが、松の幹は老木らしく、樹皮や洞(うろ)、幹全体の曲線、質量感など力作である。苔を金で象嵌してアクセントを付けている。

2020/11/1
英秀は曲線が巧みと、私は以前から書いているが、この高彫に見られる曲線が躍動感を生み出して、うまいなあと改めて思う。馬も実に魅力的だし、瓢箪も自然である。張果老の顔は仙人らしく、手指も実に上手い。ちょっと不自然に見えるのは縁で瓢箪を持っている親指だが、このような丸く、水が入って重たい物体を片手で持つと、このように親指に力が入るのだ。

2020/10/30
この縁は高さが高くて大きい。縁は宗珉や奈良三作、西垣勘四郎の時代は高さが低い。宗與になると普通の高さになってくる。この縁の高さはそれよりも高い。すなわち、この時代に縁頭が刀装具のメインの道具になってきたのだと思う。
確かに、拵に組み上げた時に、目立つのは縁頭なのである。目貫は出し目貫以外の拵では柄糸に巻き込まれている。鐔は横からは見えにくい。小柄は差した時に胴側になり見えない。笄は表側になるが、鐔の下で、下緒も邪魔して見えない。結局、他人様に見せるのは縁頭になる。

2020/10/29
地の四分一はやや黄色味も感じる白っぽい地である。元の色はもっと明るかったのだと推測する。その理由は、頭の張果老の口から吹き出された水(酒)の金梨地象嵌の下にある六角形の紙を描いた平象嵌が、もっとくっきりと見えたのではなかろうかということである。

2020/10/27
頭(かしら)では張果老の口から、吹きかける酒を、細かい線彫りと金梨地平象嵌で表現するように、技法の組合わせが独創的である。ここも彼が金工界で評価されているところだろう。

2019/3/13
この鑑賞記はよく書けている。人物、馬など丸味を帯びて豊かな立体感があり、躍動感がある。ゴテゴテしているようだが、嫌みはない。

2019/3/12
こういう作品を拝見すると、後藤の彫りで代付けが高いのは人物の彫りと言うことが理解できる。獅子、龍は象嵌することなく、鏨で表現できる。人物は衣服の表現で細かい象嵌が必要となる。顔の表情まで彫りで表現するのも難しい。また絵でもそうだと聞くが手指の表現は一段と難しい。これらを、この縁頭ではクリア-できており、大したものと思う。

2019/3/10
頭(かしら)の張果老が変身して縁(ふち)の老婆のようになる(仙人だから頭の人物も変身している可能性もある)。縁では後ろ姿にして顔貌を見せないようにしたのだろう。そして瓢箪からの水(酒)を頭では金の平象嵌を梨子地のように表現したが、縁では細かく浅い毛彫りで表現し、馬(白驢…はくろ)は六角形の紙から実物と同じ姿態に変身させるという場面の工夫にも凝った作品である。力を入れて作成したものだろう。

2019/3/9
頭の人物はそれぞれの部位(目、鼻、口、髭、頭部、毛髪、右手、左手とそれぞれの手指)も遠近感を持って巧みに表現されている。着物の襞は身体の形態、動きにあっているし、瓢箪はきちんと肩の後ろにぶら下がり、その重さは瓢箪の紐をピーンと張ることで表現できている。
立体感から外れているのは、瓢箪から呑んだ水(酒)を口からプーと吐き出し畳んだ白驢の六角形の薄い紙を出した平象嵌のところだけだ。だけど、これこそ英秀の新味である。目立たないような六角形を平象嵌し、その上に他の地と同様に水滴の平象嵌をしていく工夫は見事である。

2019/3/8
この時代、中国の八仙人の物語が日本で紹介されて人気になったのだろう。明の呉元泰が『八仙東遊記』と言う本が出版されている。これが新しい画題となったことで生まれた作品ではなかろうか。

2017/10/10
創意を心がけた芸術家志向のあった職人だったのであろう。曲線、丸みの表現は「大森波」と呼ばれる作品にも繋がっている。金梨地象嵌は、これを地一面に施した華麗な作品につながっている。

2017/10/8
この彫りを観ていると、曲線、丸みの表現が優れていると思う。あるいは作者自身が曲線表現・丸み表現が好きなのだと感じる。その分、頭の彫りにある瓢箪の肩にかけた紐の直線や、頭髪の先の鋭い線が生きている。

2017/10/6
この縁頭を自身の差料に付けた人は、どのような理由、気持ちで注文・購入したのだろう。酒が好きな人だろう。あるいは「瓢箪から馬」の故事から意外の幸運を願ったのではなかろうか。あるいは1日に白驢で数千里行く張果老の故事から旅の安全を祈願したのだろうか。
芸術品は作者の狙い・意図の解明に力を注がれるが、需要側の要望(芸術とは今の我々が言うことで、当時は実用品であり、作者は需要側の要望も無視できない)にも目を向けることも大事だろう。

2017/10/4
縁の張果老の顔は後ろ向きでわずかに上を向いているだけだから表情はわからないが、頭の張果老の顔、髪の毛、髭は特異であり、魅力的である。ただ者ではない風貌である。畳んだ白驢の六角形の薄い紙を気に掛けているのだろう。ご苦労さんとでも労っているのだろうか。

2017/10/1
松の幹は手をかけて樹皮の様子、そこに生える草(苔)類を金で象嵌したり、洞(うろ)を彫ったりして老大木として彫っている。一方、松の枝葉は丸く彫って模様的に済ませている。いずれにしても背景のアクセントだ。
縁の張果老は白髪の老人か老婆のようだ。後ろから上を向いているところを彫る構図は、大黒様が大きな袋を背にして上を向いている図でも見たことがあるが、それを応用したのであろう。衣服の模様の象嵌は英秀らしい。また瓢箪は頭のと違って、表面に細かい凹凸を付けたものだ。瓢箪まで変身させているのだ。

2017/9/30
独特の技法としては、頭における五角形の平象嵌に、その上に毛彫をしたり、金梨地象嵌をしていることだ。張果老の方術をいかに見せるかを工夫したに違いない。意欲的な作である。

2017/9/27
縁の馬(白驢)の肉置きは大したものである。胴体はコロッとして太り気味の肉置きだが、手足が短い。これは瓢箪から出てきたばかりで変身の途中だからであろうか。「瓢箪から駒」の語源だが、「意外なものから、意表をつくものが出て実現してしまう」という意味に解釈すれば、持ち主に想定外の幸運が来ることを祈ったのであろうか。

2017/9/25
この縁頭の鑑賞記も参照していただきたい。大森英秀は享保15年(1730)生まれであり、長常の享保6年(1721)より後だが、矩随の元文元年(1736)、昆寛の延享元年(1744)よりも前である。先代の大森英昌は宝永2年(1705)である。英秀の時代になると、縁の高さがこのように高くなる。
画題は唐の玄宗皇帝時に脚光を浴びた仙人の張果である。通常、親愛の敬称の「老」を付けて張果老と賞されている。方術(霊妙な術)を使い、愛馬の白驢(はくろ)に乗って1日に数千里を行くこともあり、休む時は白驢を五角形の紙にたたみ、乗る時は水を吹きかけて元に戻したという。酒を愛し、自分自身も自在に変装したと伝わる。

頭(かしら)では白驢をたたみ込んだ五角形の薄い紙を少し黒い四分一で平象嵌し、そこに得意の”金梨子地象嵌”と毛彫りで水滴のようなものを表現している。こういうところが大森英秀らしい。
縁(ふち)では、この写真では目立たないが毛彫りで瓢箪から水を彫っているのである。そして、その先に白驢を元気よく出現している。
白驢は白いロバとされているが、この縁の馬は赤銅で黒い。白驢とは、これで馬の愛称ではなかろうか。

石黒政常(鵲(かささぎ)に秋草図小柄)

2023/11/24
オミナエシの花の彫りは政常の以前に、同種の彫りを工夫した金工がいるかは確認していないが、独創的である。この小柄では、花に当たりがあり潰れている箇所もあるが、面白い彫りである。

2023/11/20
オミナエシを摑む脚は力強い。一方でカササギそのものは軽やかであり、見事なものと思う。

2023/11/16
裏の金地の鑢目は政常自身が仕立てたのではないと考えるが、実に丁寧である。またこの金地は小柄の横から観ると、薄い金の板を張ったようにも見える。そうだとしたら実に贅沢なものだが。

2023/11/12
オミナエシを、このように彫金で彫るのは政常の独創だったのではなかろうか?(幅広く調べていないから仮説)キキョウは赤銅と銀の取り合わせが、政常の工夫のように見える。

2023/11/8
花鳥という題材を、鳥は従来に無かったような様々な姿態で彫り上げ、花も従来の菊、桜、牡丹などの華やかな花でない花を写実的に取り上げたことが新鮮で人気が出たのではなかろうか。

2023/11/4
鵲が茎を摑んでいる脚をしっかり彫っている。こういうところが一流金工なのだろう。

2022/9/8
この8/27に、石黒派の花鳥は沈南蘋→宋紫石などの画風ではと書いたが、江戸琳派(えどりんぱ)と称される酒井抱一(さかいほういつ)→鈴木其一(すずききいつ)などの方がふさわしいかと思うようになる。江戸琳派は幕末~明治にかけても活躍し、明治の超絶技巧と称せられる作風にもつながる。石黒一派の門流の活躍も幕末~明治に及んでおり、軌を一にする。

2022/8/31
『江戸の災害史』(倉地克直著)に、江戸期は還暦まで生きる人は少なく、「四二歳賀」(しじゅうにさいが)という数え42歳を祝うことが重視されたとのことである。その意味で64歳は、まさに「寿命」であった。

2022/8/29
政常は、それほど華美ではないが、弟子筋は、より一層華美の方向に向かう。世の人に、この方が喜ばれたのだと思う。

2022/8/27
石黒派の花鳥は、享保16年(1731)に長崎に来日した清の画家:沈南蘋(しんなんぴん)が伝え、その孫弟子にあたる宋紫石(そうしせき…日本人、天明6年(1786没)などが江戸で流行(はや)らした画風の影響を受けたのだと思う。政常は宝暦十年(1760)年に誕生で、文政6年には64歳(1823)である。中国伝統の花鳥画で、精密な写生風描写と濃彩を特色とする重厚な画風である。当時の狩野派絵画に物足りなく思っていた人に受けたのだ。

2022/8/25
鵲は首を高く上げて、口も大きく開けて、脚を「く」の字に曲げて、後部に伸ばした尾とのバランスをとるかのようにとまっている。この全体の姿態の表現は実に上手い。この後、すぐに飛び立てる体勢だ。

2022/8/23
鵲の鳴き声はどのようなものだろうか。この図は鵲が口を開けているところだ。今はインターネットで鳴き声の動画もある。言葉で表現しずらい声だ。また警戒する声とか、やはり局面ごとに違うようで、簡単には言えない。

2022/8/21
昨夜のブラタモリのTV番組で桜島の安永大噴火の話題が出て、同年の末広がり元平のことに触れたが、この小柄は文政6年は幕閣ではフェートン号事件を受けて、異国船に強硬策を採ろうかと模索していた時代である。文化面では化政文化として江戸の町人文化(浮世絵、滑稽本、歌舞伎、川柳など)が花開いた時期である。この作品は、滑稽、色の多用、風刺という側面は見られない。スッキリとしている。

2022/8/19
この小柄は、秋の情景である。床の間の御軸を、季節に合わせて掛け替えたように、小柄も季節に合わせて替えたのだと思う。夏に、春や秋の情景のものを差したりしていれば、野暮と笑われたのではなかろうか。

2021/9/16
ここでも2019/2/19や2020/9/14で、小柄の年紀銘における「夏」(寒山箱書)が、夏で良いのかの疑問を呈していたが、知人で書道の達人で今は審査員も務めている人に解読をお願いした。知人も「某日」かと思い、各字典を調べたが、下の木がこのように変化するのは無く、「夏」を当たるが上部が「甘」のように書くのは容易に見つからなかったのですが、中国・明(みん)の時代の祝允明(しゅくいんめい)が書いた「夏」に同字が存在したとのことでした。幅広く調べていただいた知人に感謝です。すっきりしました。
では文政6年に、石黒政常の周囲に、このような字を書く人に誰がいたのか?などにも関心が向きます。

2021/9/5
オミナエシの花の彫り、政常の独創かはわからないが、金の塊を象嵌し、その塊の上に鏨を打って黄色の小花が群状に咲いている様子を表現している。別の金属で、このような形にしてから、金を上にかぶせるのは難しいと思う。だから金を豊富に使用しないとできない彫りなのではなかろうか?当方は職人でないから、技法上のことは正しくコメントをできないのだが、ルーペで観ての印象からの推測である。

2021/9/3
この写真ではわからないが、地板は四分一の磨地ではなく、実に細かい槌目を軽く全面に打ってある。昆寛の大森彦七の縁頭の地金とは、また違った凝ったものである。実用では指の指紋の跡などが残らない工夫だ。

2021/9/1
文政6年に64歳と銘しているが、葛飾北斎がこの歳に63歳であることを知る。そして富岳三十六景の初版の制作が始まった年とのことである。江戸らしい文化が栄えた時期である。
化成文化の担い手として、刀装具の金工が表に出ないのは寂しいことである。

2021/8/30
対象物の形態の写実を超えて、対象物の生命まで表現するような切れのある彫技だ。これが石黒派初代政常だ。絢爛・豪華は後代の作風だろう。

2021/8/28
この小柄も棒小柄にして、絵の広がりを意識している。カササギはどこにも飛び立てるし、草花を揺らす風も小柄の画面を通り越して吹き渡る。

2020/9/14
『江戸の画家たち』(小林忠著)を読んだら、月ごとに、ふさわしい絵を画く絵暦に、よく取り上げられたものに藤原定家が選んだ12ヶ月の月ごとの花鳥の組合わせが出ていた。7月が「おみなえしとかささぎ」であった。旧暦の7月は秋であり、この小柄はこれに因んだものだろう。銘の夏日と読んでいる「夏」が違うのかもしれない。

2020/8/21
彫物に当り傷があるから、本来の彫りが損なわれているが、高彫の盛り上げ方(肉取りの良さ)はさすがである。ただし金工であれば、それくらいは出来るわけで、政常の場合は”鋭さ”のようなものを感じる。

2019/2/19
この小柄の年紀銘だが「文政六癸未」と「みずのとひつじ」までは明らかだが、次ぎの字を佐藤寒山氏の箱書は「夏」としているが、この字がわからない。「夏」の異体字、旧字と考えて調べても、現時点の調査では存在を確認できていない。では別の字として、同様な漢字を探してもピタリと合う漢字も無いのである。特別貴重の証書では小柄の銘と同じ形の漢字を書いているだけである。なお「夏日」(かじつ)という熟語は存在し、文字通り「①夏の日。夏。②転じて、恐ろしい人物。」と『角川漢和中辞典』にある。

2019/2/18
写実の彫りだが、カササギを実際に観て彫ったのかは疑問である。江戸にカササギはいなかったと思う。生きた鳥を扱う業者がいて、そこから購入して写生した可能性もあるが、沈南蘋(しんなんぴん)などの中国の花鳥画にカササギが画かれていて、それを写した可能性が高い。
カササギは中国の伝説に七夕の時にカササギが列なって天の川に橋を架けるという伝説があり、中国絵画が取り上げるのはおかしくない。日本では、この伝説を踏まえて『新古今和歌集』で大伴家持が「かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」が採られ、それを本歌とした寂蓮法師の「かささぎの雲のかけはし秋暮れて夜半には霜やさえわたるらむ」が詠まれている。寂蓮法師の歌の意を受けて秋野の絵として日本人画家が構成して描いた絵があったのではなかろうか。

2019/2/17
江戸琳派より少し前の時代(享保16年(1731)~享保18年(1733))に長崎に来た沈南蘋(しんなんぴん)の写実的な花鳥画が紹介されている。そしてこの画風も広く受け入れられていた。熊斐(ゆうひ)、宋紫石(そうしせき)(いずれも日本人)などが政常より前の時代に活躍していた。私の感想だが、これらは少しアクの強い写実花鳥画であり、むしろ政常の弟子筋の作風に近い。

2019/2/16
弟子筋は花鳥を彫る面積が鐔の全面になるとか、多くなりがちである。だから絢爛・華美の感じがするのだと思う。顧客へのサービスが多くなるのだ。後から世に出る者の一つの生き方である。それに対して政常は絵をコンパクトにまとめて、対象物を生気あふれるように彫りあげる。

2019/2/14
石黒派は絢爛、華美と称されるが、総帥の初代政常は絢爛、華美という感じよりも、鳥類はお家芸の鷹の彫りもそうだが、生気ある彫りで、生物らしい鋭いところと言うか厳しい感じをいだく。

2019/2/13
図は江戸琳派風な絵を彫っているが、地が四分一だから豪華ではない。しかし江戸っ子らしく、裏板は絢爛豪華な石黒派の総帥らしく金である。しかも金の板を張っているように見える。
”裏地に凝る”という江戸人の精神が現れている。

2019/2/11
文政六年に64歳だと、江戸琳派の酒井抱一より一つ上、浮世絵師の葛飾北斎と同年齢である。酒井抱一には四季花鳥図がいくつかあり、その内の1枚(京都国立博物館蔵の二曲屏風)にオミナエシと桔梗が描かれており、共通の時代背景の元に描かれ、彫られたことを認識する。
酒井抱一は尾形光琳の雅な画風を、俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案した江戸琳派の祖とされるが、この政常の作品も雅なところ、詩情を感じられるところはある。酒井抱一がまとめた『光琳百図』はヨーロッパに渡り、ジャポニズムに影響を与えたと伝わる。近年、石黒派の作品が欧米で評価されているのも当然だ。

2019/2/10
この図は秋草にカササギだが、冬になると野鳥が目につく。拙宅には椿が多いからヒヨドリ、メジロがよく来る。先日は神社でハクセキレイを観る。妻はジョウビタキを観たそうだ。水辺の地ではもっと多くの鳥が観察されるのだろう。今から約200年前の文政年間である。当時の江戸では鶴(名所江戸百景「蓑輪金杉三河しま」をリンク)もやってきていたのだ。

2017/10/23
政常が彫る鳥は、動物として生きている鳥という感じがする。生気あふれると表現すべきか。

2017/10/21
カササギがオミナエシの枝に止まり、その枝がたわむ。止まった瞬間にカササギは顔を上げ、仲間でも識別したのだろうか、大きく鳴く。そしてオミナエシの枝のたわみが戻る反動を利用するかのように、カササギは再度、飛び立たんとする一瞬だ。
秋の野原の植物、鳥の生命力溢れる情景だ。
こんなのを見せられた当時の画家たちは、金工に嫉妬したことだろう。画面の制約無しに、大きく描けること。色を金工作品よりも多く使えることで活路を見出すしかないと思ったに違いない。

2017/10/20
この写真は不鮮明でわかりにくいが、地板は四分一で非常に細かい石目地(縮緬地と言うべきか)である。そして裏は金の薄い地板(薄いと言っても、この銘を切っても地の四分一が出ない厚さ)を貼っている。裏の金板は相当の金額になると思う。
地板が四分一の色だから、鵲の赤銅がよく映える。

2017/10/19
この写真ではわからないが、羽の付け根と首にかけてメリハリのある段差(一度身体側に凹んでから首に向かうような感じ)をつけているのを今回、再観して気が付いた。実際の鳥(鵲)もこのようになっているのだと思うが、これも立体感強調に資する工夫だと思う。

2017/10/18
鵲の肉置きが豊かで、より立体感を強調している。このあたりも石黒政常は違うような感じである。

2017/10/16
刀友が石黒派の作品を購入されたので、この作品を取り出す。この作品には当たりがあり、保存の状態は良くないが、銘が貴重であり、求めたものである。文政六年(1823)に64歳と明記されており、宝暦十年(1760)年に誕生(数えで一歳)したことがわかる。
石黒派は大森派とよく比較されるが、大森英秀は享保15年(1730)生まれであり、一世代前である。このページでは金工の年代を明確にしようと心がけているので、長常:享保6年(1721)、矩随:元文元年(1736)、昆寛:延享元年(1744)よりも後に生まれた金工であることを明記しておきたい。
すなわち石黒政常は文化・文政に江戸で花開いた”化政文化”を代表する金工なのである。門流は幕末・明治に続く。

銘だけが貴重なのではなく、作品もさすがに初代政常というものだ。鵲がオミナエシの枝にとまって、枝が一瞬にたわんだところを生き生きと彫っている。動の一瞬を静に転化させた写真のような芸術だ。

遅塚久則(玩具図目貫

2023/9/20
この目貫のことを「刀和」通巻400号、令和5(2023)年9月号においてまとめた。「刀和」の読者に失礼だから、次号が出た頃に、このHPでアップするが、次の視点でまとめた。①刀装具は多彩な画題が彫られているが玩具は少ない。ただ寡作な久則にいくつか見られる、②江戸期の子供は欧米に比して大事にされていたのを江戸末期、明治初期に来日した欧米人の記述から明らかにする。この中で日本の玩具が多彩なことも記されている。③当時の同種の玩具の絵と久則の玩具を比較すると久則のは豪華で高位の家の玩具であることがわかる。④当時の子供の大敵は疱瘡(天然痘)であった。⑤当時、疱瘡には赤い色が効果があるとされていた。浮世絵にも赤一色で刷られた疱瘡絵というジャンルがある。⑥この目貫も素銅(赤)が中心であり、疱瘡除けを願ったのではなかろうか。⑦当時の久則の抱え主の守山藩松平家と津軽藩の事情を調べ、注文主と注文の背景を推測。

2022/7/28
玩具だが、目に力がある。これは久則が意識しているのだろうか。

2022/7/26
絵は本職では無くとも、それなりに上手な人は周りに見かけるが、彫金は、日常の中で嗜めるものではないから、難しいと思う。陶芸は、ある程度、習って素人も作陶する。それでも絵付けはともかく、手持ちの良さなどはなかなか難しい。当時の武士は家禄があるだけで、職に就いていない武士も多かった。いざ戦いという時に戦力になればいいのだから(例えば旗本の小普請組)。こういう武士の中で、天賦の才がある一人が遅塚久則だったのであろうか。

2022/7/24
ポッペンもでんでん太鼓も、素銅に金を象嵌し、そこに赤銅の象嵌をしている。特にポッペンの方は、その赤銅の象嵌が細かい。こういうところに凝るのが久則だ。一方、江戸のトトロの腹の銀象嵌は、子どもが遊んで、少し擦り切れたような雰囲気も出している。色遣いが巧み(カラリスト)なのと、変なところに凝る(オタク)ところが久則だ。

2021/6/29
赤銅の黒(でんでん太鼓の巴紋、ポッペンの鉄線花)が、金との対比の為か、目を惹く。

2021/6/27
画家で色の使い方が巧みな人をカラリストと称することがある。マティスや梅原龍三郎などが該当する。色のセンスは天性のものと聞いたことがあるが、久則は金工におけるカラリストと言えるのではなかろうか。金属は絵の具と違って、表現できる色は限定している。それを各金属素材ごとの使用面積、各素材間の配置などを工夫しながら作品にしている。

2021/6/25
久則は水戸金工の中には含まれないが、下の重要刀装具の玩具目貫には「水戸のやり過ぎ」の風が少し見える。もっとも、このような評も見る人や時代の評価で変化する。「やり過ぎ」は否定的な評だが、これを今の流行言葉の「超絶技巧」としてとらえると肯定的な高評価の言葉となる。
2021/6/23
今年の銀座盛光堂の年賀状には次の久則の目貫が印刷されていた。この目貫と揃い金具のような作品である。こちらは短冊銘であり、私の所蔵品は際端に切付け銘(ポッペン、でんでん太鼓の柄に銘と花押)と異なるから、揃い金具では無いと思う。獅子頭の衣類、首馬(この玩具はこういう名称だと思う)の手綱からの布における象嵌は同一の趣向、同一の技術である。

2020/8/24
ダルマの目は真ん中に目玉として赤銅を象嵌し、その下には金色が象嵌あるいは着色されている。瞼(まぶた)は銀色だが、これは象嵌ではなく、何かで着色しているのだろうか。不思議である。顔面全部を朧銀で作り、全体に黒漆を薄くかけ、瞼のところなどは黒漆を除去して本来の朧銀を出しているのだろうか。
江戸のトトロの目は周りに赤銅で隈取り、眼球には銀を入れ、その目玉に当たる部分を赤銅で平象嵌している。

2020/8/23
今の玩具は「かわいい」ということを強調するが、昔のにはそのような感覚はない。目が違うのだろうか。

2020/8/22
裏側まで彫るという立体感にこだわるから、目貫の裏をみると、深く叩き出している。

2020/8/18
津軽家伝来の件が記されている「刀装具優品図譜 第16集」(尚友会)によると、これら刀装具の伝来は、津軽家→本郷家(秋田の素封家)→昭和3年売立目録に約200点近→網屋小倉惣右衛門(刀剣商)→某家→戦後某家→刀屋を通して我々の手にというようだ。
ここには後藤一乗や幕末金工の作品も多く、江戸時代後期に飢饉で苦しめられた津軽家の財政事情を考えると、全てが津軽家伝来ではないのかなとも思うが、大名家のことであり、それはよくわからない。
津軽家は4代信政の元禄時代に藩勢が盛んになり、その時のものと考えられる後藤廉乗、通乗の名品が伝来品に多い。その後の5代信寿(藩主時代1710~1731)も優れた藩主だが、晩年は厳しい時代となり、以降は飢饉等で大変である。久則の製作時期は1756~1785である。天明の大飢饉は1782~1788である。

2020/8/16
疱瘡除けとして赤い鍾馗像なども江戸時代後期には喜ばれた。これは疱瘡神が犬や赤色を苦手とするという伝承があったためとも、疱瘡の時の赤い発疹は予後がいいこととか、生き血を捧げて悪魔の怒りを解く為とかの言い伝えがある。 だから疱瘡を患った患者の周りに赤い品物を置き、未患の子どもには赤い玩具を与え、赤い下着などを付けさして疱瘡除けとすることが行われた。
コロナウィルス騒動下、この目貫の秘密が明らかにされたのは一つの機縁である。

2020/8/14
『浮世絵のなかの江戸玩具』(藤岡摩里子著)という本を再読した(以前の感想https://mirakudokuraku.at.webry.info/201603/article_3.html)。この本は江戸時代に子どもが疱瘡(天然痘)にかかることが多く、そのまじないとして赤が取り上げられ、赤で彩色されたダルマと木菟(ミミズク)の玩具が流行したことを書いている。江戸のトトロのような玩具は紹介されておらず、またこれはミミズク(耳が長い)でもない。しかし、この玩具も疱瘡除けのお守りとして与えられたものかもしれない。

2020/2/25
所持している徳乗の馬具図小柄でも、各種馬具の組合わせによるデザイン力を高く評価したが、久則のこの目貫も2/23に記したように組合わせて対の目貫にしているデザイン力がある。器物の彫りの鑑賞のポイントはここにあるのかもしれない。廉乗の蝋燭図目貫も五本の蝋燭の組合わせ方と、向きで絵にしている。
この点で、六世安親(貞親)の宝尽くしは今一つの工夫が足りないのであろうか。

2020/2/23
玩具の中でダルマや江戸のトトロのような形状のもの、それに先端部と柄の棒部になるポッペンやでんでん太鼓という形状をそれぞれ組合わせて、目貫のセットをつくる発想も独特だ。目貫は機能上、少し横長の方がいいから、このように組合わせたのだろうが、工夫として評価すべきだろう。

2020/2/22
以前にも書いたかもしれないが、ポッペンは素銅地に金の象嵌、その上から赤銅の象嵌で、花と蔓の象嵌。でんでん太鼓も素銅地に金で歯車のような象嵌、その内側に赤銅で三つ巴の象嵌。その上に金で糸と太鼓を叩く重りを高彫したのを付けている。ともかく象嵌技巧が凄い。

2020/2/21
見えないところまで彫るというのも本職ではない余技のしからしむるところか。この目貫は江戸のトトロの顔は裏も彫ってあり、目も入っている。またでんでん太鼓の紐の端は太鼓上部の上に彫ってある。ポッペンの上部の筒の裏側(横側)も、赤銅象嵌で表の模様と続いている、ダルマの下部の鉛の重りは表からも微かに見える。

2020/2/20
色彩感覚の良さ、象嵌技術の巧みさに立体感演出のこだわりも凄い。ポッペンの先端の丸く開いたところを表現とした試みは拍手である。

2020/2/18
鐔の中根平八郎が武士の余技だが、遅塚久則も武士の余技だ。余技と書いたが、それぞれに水準は本職と遜色は無い。歌川広重だって武士の出身なのだから、作品そのもので評価すべきなのだろう。余技らしいところは、ぽっぺん、でんでん太鼓の柄の部分の金砂子象嵌だ。画題の中でもっとも重要で無い部分に手間をかけている。

2017/11/17
津軽家伝来で、その特集をした尚友会図録にも掲載されている。津軽家は五代信寿が宝永7年(1710)に藩主になる。小野派一刀流の達人で、書と画もよくし、漆芸家の小川破笠を援助したとされる。『”超絶技巧”の源流 刀装具』にも後藤通乗の作品の解説に津軽信寿は登場する。しかし、この久則は後の時代である。そして津軽家は信寿の晩年から財政が厳しくなる。そういう点で疑問もある。
そして津軽家は次代になると凶作、噴火などの自然災害も追い打ちをかける。さらに次の代だが天明の飢饉(1781~)で壊滅的となる。だから津軽家から早い段階で出たと思う。それをどこかの家(商人の家の可能性もある)にまとめて出したから、今も伝来が伝わるのだろうか。

2017/11/14
他(鉄鐔の愛鐔日記か?)でも書いた記憶があるが、このような再観をして良かったと思う。久則は色彩のセンスも素晴らしく、これに注意を向けなくては片手落ちだと気づく。全体の色の中で、柄の金梨地象嵌を観ると趣きが違う。画家において、マティスや梅原龍三郎などは色彩感覚が優れ、カラリストとも称されているが、金属という限られた色彩素材の中で、このような作品を生み出している久則に拍手を贈りたい。

2017/11/13
各素材の色の組み合わせ、配置なども美しい。10/30、11/2に記したように、同じ素銅でも、また同じ銀でも、やはり色合いを変化させているのだろうか。ダルマの顔の銀など、江戸のトトロの腹の銀とは違う。銀四分一という素材で少し黒めのものを使用しているのであろうか。

2017/11/12
今回、改めて精観したが、象嵌、肉置きの技術的な素晴らしさ、丁寧さばかりでなく、ポッペン、でんでん太鼓の直線的な柄と、ダルマ、江戸のトトロの丸まった造形との対比、加えてポッペンの尖端の広がり、でんでん太鼓そのものの円の対比も面白く、いい目貫だなぁと再認識している。

2017/11/11
江戸のトトロには白い和紙を貼って腹部を表現しているのだと思うが、この作品では白い和紙を銀象嵌で施し、和紙だから周囲がほつれるような様を、銀象嵌においても接点をキチンとしないことで表現しているような感じもする。
手の爪は赤銅で3本の指を象嵌しているが、手の素銅、腹の銀の上から象嵌している。ここでも素銅の上に銀、その上に赤銅の象嵌と重ねた象嵌技法だ。

2017/11/9
銘は「久則」とダルマのポッペンの柄の上部にダルマ側を上にして際端にあり、江戸のトトロのでんでん太鼓の柄の上部に「花押」だけが際端にある。
象嵌技術だけでなく、肉置きの上手さ、手間の掛け方も記しておく必要がある。裏の叩きだしは深い。叩きだした後のタガネの跡はあまり見えないできれいである。丸く空洞になっている感じだ。驚くのはダルマとポッペン、江戸のトトロとでんでん太鼓は共に同じ素銅を一緒に叩きだしていることだ。江戸のトトロとでんでん太鼓、ダルマとポッペン、共にこれほどの高低差があるのに同じ素銅からの叩きだして一体として整形しているのだ。ポッペン部分、太鼓部分はそれぞれをダルマ、トトロに芋継ぎをしていると思っていたが、その痕跡は見えない。
加えて、ダルマ自体も脇が凹んで、顔の部分も凹んでいるが、これらの肉置きも作り上げている。トトロの腹の膨らみ、首は凹ませ、顔も立体的に彫っている。
ポッペン、でんでん太鼓の柄は赤銅を芋継ぎしている。

2017/11/8
久則に赤銅魚子地に玩具を高彫りした小柄が、どこかの本に掲載されていたように記憶している。揃いだったのかもしれない。これは津軽家伝来だが、津軽藩主の子息あるいは守山藩主の子息の為に命じられて製作したのかもしれない。

2017/11/6
久則を抱えた守山藩三代頼寛も優れた藩主で、藩財政の改革に取り組み、後には本藩水戸藩の改革にも起用される。また家康の伝記を編纂したり、書に優れ、絵も描き、菊栽培も愛好した藩主である。パトロンとなった藩主頼寛のセンスも久則の作品の背景にあるのだろう。

2017/11/5
遅塚久則の属した守山藩は水戸藩と同様に江戸定府(国元ではなく江戸で勤務)である。当然に藩士の大半も江戸暮らしである。そして守山藩二代頼貞(家督は元禄6年~寛保3年まで50年)は土屋安親を抱え、大学形(頼貞は大学頭)という造形を生み出した藩主である。久則はこの時代に生まれ、次の三代頼寛の時代に謁見して彫技を命じられたことになる。三代頼寛は父の好み・父からの伝統を受け継いで久則に期待したのではなかろうか。
久則も江戸暮らしであり、当然に彫技も江戸金工に習ったのであろうが、後世の水戸彫りに評される”やり過ぎ”感は感じられる。

2017/11/4
象嵌などが丁寧である。ポッペンやでんでん太鼓の柄は金梨地象嵌が細かく、ポッペンは金の色絵の上に赤銅で花に細かい蔓を象嵌している。江戸のトトロの腹も銀で象嵌し、その上に手の爪が赤銅で象嵌している。またでんでん太鼓は素銅に金と赤銅を象嵌し、その上に紐と叩く為のおもりを象嵌している。

2017/11/2
素銅の色で、特にポッペンの内部などは、汚れと区別もしにくいから確としたことは言えないが、ダルマの顔と、江戸のトトロの腹は銀だと思うが、ダルマの顔の方は四分一のように黒ずんでいる。一方、江戸のトトロの腹は銀色が強い。これも銀の黒ずみ具合の差とも考えられるが。

2017/10/30
鳥獣草花の彫りであれば、そのものに似ている、あるは生きるが如くという評も可能である。人物の彫りならば、特徴をとらえ、生気溢れるなどお評も出てくるが、これは玩具という器物の彫りである。しかも江戸時代のものであり、似ているかどうかもわからない。だから、この手の評はし難い。
どうしても象嵌技法などへのコメントになるから、鑑賞記に記したような内容となる。
再見して気が付いたのは、ダルマと組み合わせたポッペンの広がった内部だが、素材は素銅なのだが、何か色が濃く、黒い感じである。汚れとも思ったが、色を付けているのか、素銅に何かを入れて黒っぽくしているような気もしている。もちろん凹んだ内部だから暗いのだ。

2017/10/28
津軽家伝来の遅塚久則の目貫である。「刀和」に書いた鑑賞記では、右の玩具を「江戸のトトロ」としたが、いまだに何という玩具かわからない。
久則は享保10年(1725)に水戸藩支藩の守山藩士の子として生まれる。以降の経歴は諸書によって異なるが、宝暦6年(1756)の32歳時に藩主に謁見して彫技を命じられている。いったん装剣具の製作を中止し、40歳から再び鏨をとると伝わる。一書には彫技は38歳からはじめ、大森英秀に師事したとある。安永5年(1776)に52歳で隠居し、61歳で彫刻を廃し、隠居となり、寛政7年(1795)に71歳で逝去する。
今回、生年を明示しているので、師事したという大森英秀が享保15年(1730)と、久則より5年遅いことに気が付く。久則が38歳で師事したのであれば大森英秀は33歳であり、年下と言っても師事するにおかしくはない。32歳から師事だと、英秀が27歳となる。
英秀の師の大森英昌は明和9年(1772)に68歳で逝去とあり、久則が彫技を宝暦12年(1762)の38歳からはじめた年において、英昌は58歳とまだ存命中だったことになる。

鉄元堂尚茂(小人国目貫)

2023/12/14
この作者は、鉄で、表現に語弊があるがゴテゴテした彫をする傾向がある。この目貫でも、裏目貫の小人たちは、そんな感じだ。自分の技術を誇示する狙いもあるだろうが、そもそも、そういう彫が好きなのだろう。

2023/12/10
面白い画題であり、金工の尚茂は興味を持つと思うが、こういうものを購入する客はどういう思いで購入するのだろうか。表目貫の鶴は大きくて見栄えのするものである。見る人は鶴の目貫と思うが、裏目貫は小人の群像。そういうことで人を驚かす効果はある。同時に彫り口の巧みさを愛でる気持ちもあるだろう。

2022/8/17
裏目貫の逃げ惑う小人の群れであるが、尚茂の得意な図に、「夕立人物図」がある。夕立に遭って、それぞれが思い思いに雨を避けている図である。上空からの災いに避難するという意味では共通している。何か、咄嗟に、慌てて、逃げ惑うような人の姿に、尚茂は興味を感じたのだと思う。

2022/8/15
鐔ならば鉄素材でもおかしくない。縁頭も鉄でもありかなと思う。しかし目貫に鉄素材は理解しがたい。出し目貫であれば、錆びないように手入れもできるが、柄糸で巻き込んでしまえば、日常の手入れはしにくい。また金象嵌をしていても、柄糸越しの目貫通りでも鉄素材は目立ちにくい。こういう点でも変わった金工である。ただ細かい細工を鉄という素材で行ったことは大したものである。

2022/8/13
購入する人は図柄を大事にする。日本画に冨士山、洋画にバラの絵が多い理由だ。尚茂の小人国図など一連の異国風画題はどれだけ人気が出たのであろうか。鉄の細工の名人という評価が出来ており、尚茂は自分なりに画題を選ぶことができた時代の作品であろう。いずれにしても従来の画題だけでは満足できない進取の気性に富んだ人物だったのだろう。

2022/8/11
初代尚茂は安永9年(1780)に、にわかに没すると伝わるから、この時点を50歳とすれば、享保15年(1730)頃の生まれではなかろうか。この図の原典ともいえる『和漢三才図会』は正徳2年(1712)に刊行であるから、刊行から50年後の宝暦後期(1760年頃)に彫ったのではなかろうか。幕府が外国船に脅威を感じたのが英国船フェートン号事件(文化5年(1808))で、その後に異国船打ち払い令を出したのが文政8年(1825)である。その前の元文4年(1739)には「元文の黒船」ともいわれているロシアの船が日本近海を測量している事件が生じている。工藤平助が『赤蝦夷風説考』の上・下巻を刊行したのが天明3年(1783)であり、老中:田沼意次が蝦夷地開拓に関心を向けるのが天明5年である。
日本以外の国が日本に関心を示していることが、為政者や知識人の間で意識されはじめた時代と思う。

2021/7/13
この図のもとになった『和漢三才図会』は大坂の医師寺島良安が正徳2年(1712)に刊行した百科事典的な書物だが、明の書物の翻訳のような位置づけである。ロシアなど西洋の船が日本の沿岸に顔を出して、危機感を持つのは19世紀に入ってからである。代わり映えのしない画題が多かった時代に、異国の風俗は新鮮な画題に写ったから、尚茂は取り入れたのであろう。京都画壇の当時の風潮に乗ったものであろう。

2021/7/11
この鶴の姿態は、よくある図である。後藤家後代当主の作品においても拝見したことがある。それと比較しても力強く、かつ優美である。鉄を素材にしても、このように彫れるのは驚嘆すべき技術である。

2021/7/9
上の鶴を見て逃げ惑う小人たちだが、連なって逃げる格好が皆、同様の格好になっているのが、今ひとつ物足らない点である。お手本にした『和漢三才図会』の絵が、このようになっていた為であろう。

2020/10/25
以前の2017/11/25に小人を一体ずつ見ているが、この時は気が付かなかったが顔を銀で象嵌している②、④、⑤は女性を意味しているのだと気が付いた。銀の顔の人物は頭髪を上で団子のようにしているが、帽子は被っていない。衣服の形態は男女の違いはないのだが。

2020/10/23
尚茂は鉄地に拘り(他の金属での細工も巧みだが)、長常は生写しに新境地を開き、光興は禅味に関心を示すなど京都の金工は変わっている。世人受けする金工は後藤一乗からだ。京都画壇でも伊藤若冲は異端で、円山応挙は写実で、与謝蕪村も独自の詩境と個性的で、世人受けして、今の日本画に通じるのは呉春からだ。何か共通するところを感じる。

2020/10/21
『赤蝦夷風説考』を工藤平助が著したのが天明初年(1781)であり、尚茂が歿したとされる年の翌年である。何となくこの頃に異国に関心を持つ空気が出来ていたのだろうか。

2020/10/20
出し目貫として合口拵に付ける場合、やはり鉄地というのはどうも似合わない感じがする。少し武骨な拵用なのだろうか。

2020/10/18
鶴の彫りは大きく、写実も的確で見栄えがするが、小人国の住民の方は群像表現になり一体ずつは小さいが、改めて観ると輪になって騒いでいる様子がわかり、なかなかに見応えがする。

2017/11/30
『和漢三才図会』は大坂の医師寺島良安が正徳2年(1712)に刊行した百科事典のような書物である。尚茂が突然に逝去したのが1780年だから、刊行されて50年後あたりに、尚茂がこれを見て、画題にしたのであろうか。同書に所載されている手長、足長を彫った作品を尚茂は制作している。もちろん、この書に興味を持った人の注文の可能性もある。

その巻十四「外夷人物」という章に「小人」は所載されていて、今回、確認すると、その図も鶴に下に小人が5人いる図である。解説に「三才図会に言う。東方に小人国あり、名を□(私には判読できない難しい漢字)という。長(たけ)九寸。海鶴遇うて之を呑む。故に出る時は群行す」とある。
だから連なっているように彫っているのだ。そして視線の方向が様々なのは、実際に鶴に遭遇したからでなく、皆で警戒しているのだろうか。

2017/11/28
小人の着物の柄を書いておこう。①は小さな四角(色紙状)を菱形にして4つを更に四つめ結紋のようにした模様を散らす。②は小さな線(棒状)を4つ組合わせて花のようにした模様が散らばる。③は縦縞を3本ずつの柄だ。④は後方にいて識別しにくいが線を曲線にした波模様のようなものが見える。⑤も後方であり、太い縞が襟に入っているのだけわかる。⑥は後ろ向きだが、②と同様なのだが4つの組合わせでなく、5つを桜のようにしたものを散らしている。⑦は③が縦縞なのに対して横縞を断続的に入れている。
そして鍔のある帽子を被っているのが①と後ろ向きの⑥、鍔の無い丸い帽子が③である。他は後ろ上に束髪している。⑦だけが束髪に金を巻いている。

2017/11/27
小人の顔は、この写真ではわかりにくいと思うが、ルーペで観ると実に丁寧に彫ってあって感心する。①の小人の眼などは、裏に突き抜けるのではないかと思えるほどに深く窪みを入れている。①、③、⑥、⑦は鉄の顔、②、④、⑤は銀象嵌で顔を彫っている。ちなみに銀象嵌した顔を持つ小人は、手も銀象嵌をしている。

2017/11/26
京はともかくとして、当時の江戸は寛政の改革前の田沼時代であり、鉄の小道具などは喜ばれなかったと思う。ただ田沼時代に蝦夷地の開発気運が生まれるなど異国への関心が芽生えはじめた時代である。芸術は時代を先取りする面もあるが、鉄で質素倹約の時代を、小人国で異国船対応に追われる時代の魁(さきがけ)をつとめたのであろうか、不思議である。

2017/11/25
さて小人の方だ。7人いるから”七人の小人”だ。左端から番号をつけて観ていきたい。①は先頭に立って逃げており、後ろを振り返って後続を誘導している。②は先頭にしがみつき逃げている。③は②にしがみつきつつ上の鶴を見て怯えている。視線は右上だ。④は後方の小人とする。左上に視線を向けている。手は③ではなく、その右の小人⑤に向かってしがみついている。⑤も後方の人物だが④と同様に上を向いて、視線は左上だ。その下に⑥だが、後ろ向きに彫られ、首を上にあげ、帽子が見え、顔面は上向きだ。手は③と後ろの⑦に結んでいる。⑦は右端の小人だ。顔を上に上げ、後ろ上空(右上)を見ている。片手は⑥に添えている。

上記のように、左から順に顔の位置に従って①~⑦の番号を振ったが、手を見ていくと、①→②→③→⑥→⑦→⑤→④と見える。すなわち釣り針を横に置いたように①を先端に⑦が下の屈曲部、それから⑤、⑥と上方に曲がるようだ。円弧が崩れて、①を先頭に逃げ出しはじめているのだが、連なりは崩れていない。紐で電車ごっこをしている感じだ。

見上げる先が一方向ではなく、③は右上、④は左上、⑤は左上、⑥は真上からやや右、⑦は右上と不自然である。巨大な鶴を見ての困惑・混乱を表現している可能性もあるし、鶴は一羽ではなく、数羽がいて、それぞれを見ながら怯えているとも考えられる。③、⑥、⑦は間近に迫った右上の鶴に怯え、⑤、④は左から来襲する鶴を警戒しているのだろう。あるいは尚茂が絵として、このようにするのが効果的と考えただけのことかもしれない。

2017/11/24
昨日、後藤後代在銘の高彫金据紋の同様な姿態の鶴が縁頭の頭に彫られているものの写真を観たが、この尚茂の鉄の鶴の方が肉置きはいいし、生気がある。鉄で作ったから評価されているのではなく、彫技そのものが当時の後藤家当主よりも上手いから評価されているのだ。羽の尖端を大きく曲げているのも尚茂の工夫か。

2017/11/23
鉄でシャープに彫ると、手に危ないし、付けた錆が、その部分では落ちやすくなる。だからナルく彫らざるをえないと思うが、それでも、この鶴など見事なものである。肉置きにおける高低も、①羽の先から、②その上部の羽、③それら羽の付け根、④胴体下部、⑤胴体、⑥鶴の首、⑦鶴の頭部、⑧鶴の頭の金象嵌まで、付けている。羽の間とか脚の間まで含めるともっと多い。
そこに過不足の無い毛彫と象嵌。何より見事なのは、小人国を飛ぶ鶴の堂々とした姿の雰囲気そのものを表現していることだ。

2017/11/22
京都仏光寺通室町で鉄屋を屋号とする治国(あるいは国治)の門人と伝わる。先代がどういう鉄製品を製作していたかは不明だが、屋号・家職の鉄に強いこだわりを持っていたから、鉄での製作に向かったのであろうか。鉄で鐔は普通だが、鉄で目貫は普通ではない。
ちなみに、鉄の目貫では黒川古文化研究所に所蔵されている「鈍太郎図目貫」が優れている。

2017/11/21
赤銅地で作ったものは、出来に感心するが、あくが強い感じがする。尚茂の個性なのだろう。この鉄の目貫などは、鏨の彫り口がなるくなる為か、それが和らいでいるように感じる。本人も、このような自分の欠点を自覚して、鉄での製作に向かったのであろうか。

2017/11/20
先日、根津美術館の「鏨の華」展で光村利藻のコレクションにおける尚茂の赤銅魚子地高彫りの縁頭を2組拝見した。頭に三国志の人物、もう一つは頭に舞楽を舞う人物を彫ったものだ。あくの強い人物の顔(舞楽はお面だが)だが、力のある彫りで、感心する。
そこで所蔵の作品を再見する。細部を観るために写真を明るくしているので、良い写真ではない。
この図は『和漢三才図会』に「東方に小人国有り」と書かれている小人国の図で、普通の大きさんの鶴に対して、人物は小人ということだ。彼等が鶴を見て驚き逃げ惑うところだ。
安永九年(1780)ににわかに没すると伝わる。鑑賞記と昔、「刀和」に書いた「刀装具の鑑賞」も参考にして欲しい。
鉄という素材を細かい細工に用いるのは不利だと思うが、よく彫っている。でも何故、鉄を使ったのだろう。

柳川直光(狗児(くじ)図大小目貫)


2023/10/23
この目貫については、「刀和」の今年1月号に「江戸の愛犬熱と柳川派ー柳川直光「狗児図」大小目貫ー」として論考を発表しており、この頁からも見られるようにリンクを貼る。
愛犬熱は現代でも盛んであり、本朝も神社前を掃除をしていたら、愛犬家がひっきりなしに散歩に訪れる。最近は犬用のカートに犬を乗せている人も見かけ、「散歩にならないじゃないですか」と尋ねると、わんちゃんの足が弱ってきたとかの回答だった。

2022/4/20
上の写真では、大刀用の表目貫(写真右側)の後ろに位置する犬の背中、肩が盛り上がって不自然に見えるが、これは写真に撮った時の光の当たり方の加減で、変に強調されている為で、実際はこのようには見えずに、自然の姿態である。光の当たりによる不自然さは、同じく大刀用の裏目貫(写真左側)の後ろの犬の首下の肉付き、その横の右腕が出てくる部分の肉の盛り上がりでも見られる。
こういうところが写真の難しいところである。(栄乗の二疋獅子の目貫の鑑賞記でも、写真で見え方が違うことを実際の写真で説明している箇所も参考にしてください)

2022/4/18
時代の流れから取り残された流派の総帥だが、師の子孫に本家を継がせ、技術を教え、自分は俳諧などでも交流を広げるなど、人間的には立派な人物だと思う。

2022/4/16
私は昔、直光の金無垢龍の目貫を所持していた。有名な本に所載されていたもので、力作であったが、装飾的という感じがしたことを覚えている。そもそも龍などは想像上の動物であり、写実などはそれらしく彫ってあればいいのであるが、威厳、力強さを感じさせることは大切である。それは意識されている作であったが、それ以上に飾りの目貫という感じであった。私が手放して後のことも知っている。柳川直光の代表作の一つになっているが、ここでは記さない。

2022/4/14
この目貫を観ると、刀剣柴田の故青山氏を思い出す。経緯は、この欄の2018/1/1に記した通りである。2018/12/9で記したように応挙、蘆雪らが、挙って犬(狗児)を書いた時に、彫物師として注文に応えた。京都画壇の影響を受けて一宮長常などが彫金でもリアルな写実の作品を世に送り出している時代である。直光は柳川派という大看板の流派の代表として、旧来からの後藤家、横谷派、柳川派のお家芸の獅子をベースに、この狗児の目貫を彫り上げた。狗児のかわいらしさの表現には成功したが、時代の写実の流れからは取り残されていると感じる。

2021/2/7
身体全体に入れている細かい毛彫による線の彫、もの凄い手間だと思う。下職の手になるものだと思うが、感心する。

2021/2/6
この彫物を見ていると、後藤の獅子、柳川獅子の伝統の中での狗児の彫物ということで、やや時代に乗り遅れているという感じがする。同時代の金工の大森英秀、浜野矩随や一宮長常などの京都金工に比べると遅れており、柳川派が衰退するのも仕方が無いと思う。

2021/2/5
ともかく彫り上げた対象物の特性(可愛い)ことの表現は成功しており、注文主は満足したと思う。

2018/12/29
かわいい こわい おもしろい 長沢蘆雪』という本を読んだら、蘆雪(1754~1799)も師の応挙も犬(狗児)を一時期多く描いていたことを知る。この本には蘆雪が応挙門下の天明年間(1781~1788)に画かれた狗児の絵が3幅掲載されていたから、この頃に流行したのであろう。柳川直光は享保18年(1732)年に生まれ、文化5年(1808)に76歳で逝去しているから同時代に全国的に流行した中での製作とも考えられる。蘆雪の絵の1枚には「趙州の犬」という禅宗の公案に関係する賛が画かれているとのことだ。

2018/1/8
犬の表情も何度も観ていると、次のような感じも持つ。もっともこのような感じは、こちら側の思い込みだし、その思い込みも、観た時の心境、気持ちで変化するものだ。所有者の戯れ言に過ぎないが、このように観るのも楽しみの一つだからメモしておく。
大の表目貫(上段左写真)の後ろの犬の表情は思慮深く、気遣いができるような感じだ。その前の犬は上を向いているがやんちゃな感じだ。大の裏目貫(上段右写真)の後ろの犬は身体を大きく曲げて下に顔を向けているが賢そうで慎重そうだ。その前の犬は元気そうだ。
小の表目貫(下段左写真)は、上の大・表目貫後ろの犬と同じような顔だが、強そうな感じも持つ。小の裏目貫(下段右写真)は太り気味だが、忠実そうだ。

2018/1/7
昨日、写実のおかしな点を指摘したが、これを言えば、後藤の二疋獅子でも、後ろ脚の表現などで写実という面からはおかしいところも存在する。だから新たに姿態を工夫した意欲を買うべきだ。
それにしても可愛い狗児(小犬)たちだ。

2018/1/6
一宮長常のような写実はまだ江戸に普及していなかったから、後藤家の二疋獅子の姿態を参考にして犬を彫る。顔は熊にも似ているが何とか犬らしくなるが、手足の太さも指も犬ではなく、獅子のままだ。姿態では裏目貫(右側)の後ろの犬を、身体ごと正面に向くように工夫した。この意欲は買うが、結果として肩の盛り上がりが不自然になって、犬の頭の後ろに大きなコブのような形が出来てしまった。

2018/1/5
犬の身体に金象嵌、銀象嵌で斑(ぶち)を入れているが、大の目貫の方では前面の犬にあって、後ろの犬にはない。また小の目貫には施されている。
斑の象嵌が施されている犬は小犬で、大人の犬になると斑が無くなることを表現したのかとも思うが、2疋の犬の双方に斑があると、見た目に煩わしいと判断したのかもしれない。あるいは後藤家の獅子における斑以来の伝統を意識したのであろうか。
金象嵌、銀象嵌を施した上から、体毛を表す細かい毛彫りをするのは神経を使う作業だと思う。
なお象嵌は目玉にも施され、効果を上げている。

2018/1/4
思い出したが、体毛として身体全体に細かい線のような彫りを入れたものに、私が所持している「月下飢狼」図目貫(大月光興)のオオカミがある。ただし、彫りの調子は違う。
太ってコロコロした犬と、痩せてあばら骨も感じられるようなオオカミとの違いだ。

2018/1/3
趣味の目貫』を再読したが、画題別にグループ分けして掲載されているが<龍・虎・獅子>と<動物>には柳川派の金工作品が多く掲載されていた。柳川直政以来の得意な図柄であったことがわかる。なお犬の掲載は宗乗と貞中(一宮派)の作品2点だけである。祐乗にも犬の目貫があるから、室町時代には犬という言葉を嫌う文化は無かったのかもしれない。

2018/1/2
手足、全体の姿態は後藤家の獅子の目貫と同様だが、次のような工夫を加えている。まず材質は赤銅であり、本来の赤銅の色は手足の爪部分に残っている。そのほかについては、細かい毛彫りを全面に加えている。ルーペで拡大しても、全面にわたって施されていて、どこに終点があるのかわからない具合に極めて細く、長い毛彫りである。毛彫りと書いたが、毛根よりも細い線彫りが施されている。櫛のような特殊な工具をまず造り、それで全面を撫でたようにも見えるが、カーブに沿ったところなどを観たり、凹んでいるところなど観ると、全部一本ずつ手で彫っていったように見える。はじめに赤銅の板に、この毛彫を施してから、ヤニ台に載せて叩き出したのかとも考えたが、象嵌の上からの毛彫であり、やはり姿態を彫った上での細工だろう。
犬の体毛を表現しようとしたのだろうが、獅子でも、虎でも、馬でも動物は犬に限らず体毛があり、この工夫は直光の工夫だろうか。怖ろしい手間である。

2018/1/1
戌年の新年おめでとうございます。今はワンちゃん愛好家が多い。安産のお守りもイヌだが、武士にとって犬という言葉は忌み言葉だった。犬侍など言われたら刀を抜くほどの侮辱だ。犬死は無駄な死、他にも負け犬、権力の犬など負のイメージの言葉が多い。植物などで食用に役立たないものにイヌを付けてイヌタデなどと呼ぶ。だから、この目貫も犬を使わず狗児と呼んでいる。
お犬様を大事にした生類憐れみの令は綱吉の死後の宝永6年(1709)に廃されている。江戸時代後期になると、大奥や吉原の遊女による狆(ちん)の大ブームがくる。当時は狆とと犬は別物だった。
そういうことであり、この目貫は戌歳の武士(大小だから町人でも苗字帯刀を許された者)が注文し、愛玩したのであろう。これは虎徹の大小入りの大小拵(ボロボロになっていた)から刀剣柴田の故青山氏がばらして、当時の柴田光男社長から譲ってもらったものだ。

2017/12/30
師父の柳川直政は師匠の横谷宗珉創出の横谷獅子の彫法を受け継ぎ、柳川獅子で名をなす。その獅子の彫りが生かされている。肉付きがいい。より狩野家風になり、額が広くなり、巻き毛や眉が渦巻きになったり、上から見た獅子、縦図の獅子、丸く収めたりなどの構図も工夫した。直政は鏨行が鮮麗で目の瞳を彫る時に眉の部分を鏨で一度上に上げて瞳を彫り、その後、眉を戻すという。
この犬の目貫の目も、上瞼(うわまぶた)が上がり気味になっていることが観てとれる。

2017/12/29
来年は戌年だ。刀和の「鑑賞記」も12年前の戌年正月に書いた。柳川直光は享保18年(1732)年に生まれ、寛延3年(1750)の18歳で柳川直政の門に入る。兄弟子の2代直故が寛延4年(1751)に亡くなり、師の直政によって養嗣子として取り立てられるが、師とも宝暦7年(1757)25歳時に死別した。その後、柳川三代を継ぎ、師の孫直春を育て、寛政年間に四代を譲り、自分は隠居し、娘婿の直時の為に柳川分家を創設する。そして文化5年(1808)に76歳で逝去する。出身地の相馬家と会津の保科家に出入りを許されていたと伝わる。遠州流の茶道も嗜む。直春、直時の外に、菊岡光行を育成している。一宮長常の享保6年(1721)、大森英秀の享保15年(1730)より後だが、矩随の元文元年(1736)、昆寛の延享元年(1744)よりも前である。
芸術作品に生き様は関係無く、放蕩無頼でもいいものを残す人はいるが、直光は見事な人生を送った金工である。

大月光興(月下飢狼図目貫)

2024/2/15
前にも記したが、この目貫に惹かれるものを感じる。作者の思いと、観る方の私の気持ちが共振するものが生まれたのだと思う。光興が、この作品に籠めた思いを色々と想像するが、しっくりくるものは少ない。「飢えても月を観る風流心を忘れるな」「最後まで生きる為にに獲物を探せ」「枯れた蘆が吹き飛ぶほどの吹き荒(すさ)ぶ木枯らし。ただこの強風の為に雲も吹き飛び、更待月がくっきりと地表近くに見える。冬場に餌が少ないのは当然だ。」

2024/2/11
寒い夜である。強い木枯らしが枯れた蘆も吹き飛ばし、更待月にかかっていた雲も吹き飛ばして煌々たる月となっている。彫り上げた光興の狙い、注文した武士(町人)の狙いはどこにあるのか想像はできないが、凄まじい光景である。日本人は凄いと思う。

2024/2/4
故青山氏のこと(逝去の前に私の小道具を持参した時、この目貫にいたく感激された)があるので、この目貫の良さがわかってくると、死期が近いのかなと思うが、私も、この目貫の良さがわかってきた。

2024/1/31
どういう人が、このような目貫を付けていたのだろうか。「ひもじい時でも風流の心を忘れるな」という意味であろうか。

2024/1/27
裏目貫の方は、写実を放れて物語となる図を創り上げている。更待月(ふけまちつき)に、木枯らしで吹き飛んだ枯れた蘆(あし)を組み合わせて、季節、その時に気候・情景を表現を意図している。枯れた蘆を摺りへがし象嵌で表現している。

2024/1/23
尻尾を巻いて、あばら骨が浮き出た飢えた狼の彫りは見事である。

2024/1/19
こういう目貫を注文する人、あるいは求める人は、どういう気持ちで購入して、自分の差料に装着するのであろうか。飢えた時期を忘れないようにとのことか、腹が減っても闘争心を持つと言うことか、腹が減っても、月見を楽しむ心を忘れないようにという意味であろうか。色々と考えられる。

2023/3/9
痩せて、飢えている狼だが、手脚はしっかりしている。獲物を見つけて襲いかかり、生き延びるだろう。こういう手脚表現での生命力表現はうまいものだと思う。

2023/3/7
摺りへがし象嵌で枯れた状態の蘆を表現しているが、面白い表現だと思う。かように凝った作品だ。

2023/3/5
オオカミの彫りもいいが、裏の更待月(ふけまちつき)に、木枯らしで吹き飛ぶ蘆(あし)を配置した図柄もいい。購入してからずっと何だろうと悩み、この図柄の意味がわからなかったが、私なりの解釈で、今は前述したように思っているが、何とも言えない風情である。(この欄の2018/2や2019/1の記事参考)

2023/3/3
月下飢狼の図はいくつか見るが、この目貫の狼は、獰猛ではなく、賎しい感じはしない。ただ飢えているという姿である。それでは狼らしくないという意見もあるかもしれないが、こういう表情に光興の品格を感じる。作品は作者が世に問うものだ。

2023/3/1
こういう絵を好む需要層があったことも驚きである。この時代になれば、戦場での飢えなどは意識しないであろう。また狼の姿は「尻尾を巻いて」という絵である。狼の顔は獲物を狙う、逞しい顔でもない。なんで、この画を求めたのであろう。

2023/2/27
狼は飢えて、ガリガリになって獲物が見つからず彷徨する姿、情景として枯れ野に木枯らしが吹きすさび、蘆が根元から吹き飛ぶ強風だ。強い風のせいで空気は澄み、更待月が地上近くに冷たく輝く。
光興は詩情に富んだ奥深い物語を、小さな目貫の表裏の彫り物に籠めている。

2023/2/25
先日、NHKで日本オオカミの番組があった。絶滅したオオカミだが、骨格標本と毛皮から、CGで再現していた。特徴として耳が小さいとあったが、この目貫のオオカミも確かに耳が小さい。身体も小柄で、日本の野山を駆けまわるのに適していたと言っていたようだが、詳しくは覚えていない。

2022/9/22
「尻尾を巻いて逃げていく」姿だが、このオオカミは何に負けたのであろうか。飢えだろうか。飢えであれば、逃げるのではなく、ともかく獲物を探すのが先決のはずだ。

2022/9/20
オオカミも姿勢を低く、枯れ野の月も地表近く、低く、低くだ。

2022/9/18
こういう目貫は、それぞれの描写の細かいところを味わうと言うより、大月光興が描きたかった全体の雰囲気を味わうものなのだと思う。

2022/9/16
裏目貫は、飢えたオオカミが徘徊する背景を強調する為に、現実の情景とは離れた光景を創りだしている。

2021/7/7
オオカミの彫りは写実的で実に巧みである。彫技の巧みさを見せるだけでは終わらず、裏目貫では風が芦を吹き飛ばし、その強風が空気を清め、更待月の輝きを増すような風景と組み合わせて、一つの物語に仕立てている。非常に高い芸術的境地に至っている。

2021/7/5
佩用する人の気持ちを推量してきたが、この作品は大月光興が、自分の作りたいものを造った結果なのだろう。当時の京都画壇の一潮流を踏まえて製作したのだろう。それを眼にした武士、富裕な町人が購入し、佩刀の拵に付けたものなのだろう。目貫に心構えを託するというようなことではないのだろう。

2021/7/3
尻尾を巻いて、耳も後ろに倒して怯えているオオカミ。あばら骨も出て痩せているオオカミ。武士はオオカミそのものには共感しないだろう。富裕な町人がこうなることへの教訓として佩用するというのも無理がある。
となると芦も吹き飛ぶような強風下、更待月が出る夜のオオカミの姿にも風情を見いだした文人趣味のものだろう。武士文化で生まれた作品ではなく、当時の京都の文人文化を反映した作品なのだろう。

2021/7/1
こういう目貫はどういう心持ちで装着・佩刀するのだろうが。寂寥感を感じていたことは確かだろう。ひもじい中でも風雅な気持ちを忘れるなとして佩用したのであろうか。
オオカミが生きようとしているのは理解できるが、この後に獲物にありつけたのか、あるいは衰弱死を迎えるのかはわからない。自分をオオカミとして托せば生き抜けというメッセージになるのだろうか。ひどい状況だが、芦が吹き飛ばされるような荒涼たる風景の中にも、風が強い分空気が澄んで、更待月が澄んで冴え冴えとしているのが見えるではないか。

2020/5/4
与謝蕪村は享保元年(1716)~天明3年(1784)の生涯である。光興は明和3年(1766)~天保5年(1834)に69歳で死去するから、同じ京都でも直接のつながりはない。俳画、文人画というものが喜ばれる風潮の中で光興は影響を受けたのであろうか。職業画家が技法重視に対して、文人画は作者の内面性、精神性を重視すると言ってよいのだろうか。当時の文人画画家では、池大雅が享保8年(1723)~安永5年(1776)、谷文晁が宝暦13年(1763)~天保11年(1841)である。

2020/5/3
皆山応起の鐔を鑑賞する中で、大月派と画の四条派の共通性に言及したが、この大月光興は当時の京都画壇では蕪村(俳句でも有名だが、絵画でも名高く、「夜色楼台図」は国宝で、重要文化財の作品も何点もあるという人物である。俳画という軽いのから、「夜色楼台図」のように心に染みいってくる絵まである)の画風に連なるのであろうか。

2019/2/7
大きな更待月で空気が乾いている状況を、そして根から吹き飛ばされる枯れた葦で強い風を、あばら骨も見える怯えた狼で獲物が少ない冬を表現している。
この厳しい風景を詩情を漂わせて彫りあげている。これが大月光興の芸術だ。

2019/2/5
表目貫の狼の写実に対して、裏は写実したものを組合わせて、現実にはありえない一瞬を表現している。対象物の大きさも光興は変えている。こうして光興の心象風景を表現した。

2019/2/4
狼の姿態を忠実に写実するだけでなく、狼の感情(怯え)も表現し、その感情を観る人に共感できる叙情(冬野の厳しさ)の風景に昇華させたような目貫である。

2019/2/3
枯れ草を表現した摺りへがし象嵌も見事で、感じがよく出ている。枯れ草でも月光によって色が変化しているのであろうか。荒(すさ)んだ寂しい光景だが、更待月が明るさを出している。

2019/1/31
そのような迫真の写実を身に付けた光興が、裏目貫を彫ったのだ。ススキでの穂ではない。また、それが穂であれば、例え枯れ葉といえども、穂に対して下向きの方向というのはありえない。
やはり枯れ草の根を描いたのだと思う。枯れ草が吹き飛ばされているのだ。

2019/1/29
光興の絵の師匠岸駒(がんく)は「虎の岸駒」と称され、虎の絵を高く評価されている。岸駒は虎の頭蓋骨を中国商人からもらい、それに虎皮をかぶせて実際の虎のようにして写生したと伝わる。光興も犬の動作を研究して下記のような狼の感情まで画くようにしたに違いない。

2019/1/28
狼は尻尾を巻いているから脅えているのだろう。また耳を後ろに寝かせているのも怯えがあり、自分を守ろうとしているのだろう。ただ耳を後ろに倒し、頭を低くしているが顔を上げ、首を伸ばして対象に近づけて、見詰めている。また手脚も後ずさりではなく、前に進んでいる。目は好奇心を持ったような目だ。だから恐怖を感じる対象に対して、おそるおそる近づいていく様子だろうか。
確かに身体からあばら骨が見えて、痩せている。

2018/2/24
裏目貫、これも不思議な図だ。月はわかるが、手前の植物が不思議である。私は強い風に根ごと吹き飛んだ枯れた芦と見ているが、いくつかの見方があると思う。戦前の刀装金工の大家:桑原羊次郎氏は薄である。『刀剣金工名作集』も薄を踏襲しているし、証書もそうなっていると思う。
これを水面に映った月として、根ごとに流されている薄と見た目利きの刀屋さんの見解も面白く、豊かな審美眼の人だったと思う。
枯れた葉をスリへがし象嵌という技法で表現しているが、観ていると、その複雑さに驚く。

2018/2/22
尻尾を巻いて、耳を後ろにして怯えているが、首を下からグイッと伸ばして見ている様子は、怯えながらも好奇心旺盛(好奇心は違うのか、ただ警戒心という感じでもない)な姿は魅力がある。

2018/2/20
狼に施された細かい毛彫り。身体の部位、そして姿勢に併せて、その方向が実に細かく彫られている。直線は無く、細かく曲げられた線である。一本、一本の彫りに僅かな深浅はある。体毛のことを書いたが、狼の形態把握というか、その前の骨格把握が的確にされ、その骨格に合わせた肉を付けている感もする。
体毛は夜露に濡れて、身体に付いている感じもするし、やはり痩せた狼だ。もっとも野生の動物には、この辺で見かける犬・猫と違ってコロコロしているのはいないだろうが。

2018/2/17
この絵に因んでの発想として、萩原朔太郎の詩集『月に吠える』がある。もちろん萩原朔太郎は近代に生きた人物である。江戸時代にも「月に吠える」という言葉はあるのかと調べたが、無いようである。
犬が吠えるということに関しては「一犬虚に吠え、万犬これに和す」ということわざがある。誰かがいい加減なことを言うと、追随者が真偽を確かめずに周りに広めてしまうことを戒めたものである。だけど、この図は吠えてはおらずに当てはまらない。
人間ならば、強い風に身をすくめるが、この風情を楽しむこともあろう。狼に託して人間の気持ちを表現したのであろうか。

2018/2/14
観るたびに感じ方が異なると書いたが、これまでの私の鑑賞の言葉も列挙しておきたい。画題も迷うところである。
  • 「画題:月下餓狼(げっかがろう)」…よく使われる言葉
    狼の獲物がなくなり、芦も枯れてくる季節だ。狼は餓えた姿だが、顔は獲物を狙うと言うより、この境遇を受け止め、荒野をさまよう中で、ふと月に気がついたような雰囲気に彫っている。月は十五日の満月を過ぎて十九日頃の寝待月か、あるいはもう少しあとの更待月ではなかろうか。狼が元気であった時期が過ぎたことを、満月を過ぎた月でも表現している。煌々としている月と、不自然な芦(葉や穂の形状から薄ではなく芦と判断)の構図が、塵芥も吹き飛ばすような野分の風が吹き荒れる澄んだ肌寒い夜空を表現している。(「刀和」の「刀装具の鑑賞」)

  • 「画題:月下餓狼→月下飢狼(げっかきろう)→月下豺狼(げっかさいろう)→枯野皎々(かれのこうこう)」と悩む。
    時は晩秋、風が強い。秋から初冬に吹く、強く冷たい風、すなわち木枯らしが吹き荒れている。その強い風のせいで、空気は澄んでいる。澄んだ空気の中に更待月(ふけまちづき)が昇ってきた。風は相変わらず強い。枯れ草をも吹き飛ばしている。飛ばされた枯れ草の根が、まるで薄(すすき)のように見える。晩秋の更待月(ふけまちづき)にふさわしい月見である。獲物が少なくなる冬を間近にした狼までもが月見を楽しんでいるようだ。(このHPにおける「手元に置いての鑑賞」)

  • この狼は飢えてはいるだろうが、獲物を求めているのではない。尾を巻いて、背骨を丸めて、姿勢を低くして、耳を倒しているのは怯えている状況だ。
    では何に怯えたのか。それは裏目貫の光景だ。強い風が吹き荒れて、葦の枯れ草が根ごとに吹き飛んでいる。その強風で雲が吹き飛んだのであろうか、夜遅く昇ってきた更待月(ふけまちつき)が急に姿を現した。その光景に狼は一瞬怯えたのである。(今回)

  • <参考>桑原羊次郞箱書「画題:月薄狼図」…植物をススキとしている。即物的画題。証書も同様。
    「大月光興の独壇場にして、荒涼たる風色真に満点のものなり」

  • <参考>ある目利きの刀屋さん「これは川か池の水面に映った月である。静かな水面である。そこに根ごと流されている薄が流れてきている。月の上に根がある薄があるのはこの為である」
2018/2/12
これまで刀和の「鑑賞記」や「手元に置いての鑑賞」で書いてきたが、この目貫は観る側の心理状態、審美眼の変化などで印象が変化するものだ。今の私の解釈は次の通りだ。
この狼は飢えてはいるだろうが、獲物を求めているのではない。尾を巻いて、背骨を丸めて、姿勢を低くして、耳を倒しているのは怯えている状況だ。
では何に怯えたのか。それは裏目貫の光景だ。強い風が吹き荒れて、葦の枯れ草が根ごとに吹き飛んでいる。その強風で雲が吹き飛んだのであろうか、夜遅く昇ってきた更待月(ふけまちつき)が急に姿を現した。その光景に狼は一瞬怯えたのである。

2018/2/10
こういう図は注文なのであろうか。私は光興が自分で作りたいものとして製作したように感じる。その結果、これを観た人の心の琴線に触れて購入されたものなのであろう。今のTVは、笑いや明るさ、希望などの側面ばかりだが、人間の心根には今の言葉で言うところのクライ側面もある。もっともこの目貫からは諦観的な気持ちだけでなく、一種の逞しさも感じる。食物を探そうとする生命力の原点のようなものだ。
当時の京都画壇には伊藤若冲(寛政12年(1800)没)、与謝蕪村(天明3年(1784)没)と個性的な画家が先行していた。そういう画家の絵を受け入れる土壌の中で誕生した金工だったと思う。(若冲は昔は評価が低く、近年再評価された画家と思う人もいるが、当時は当時で評価されていた)

2018/2/8
動物を真に迫るほど=動物図鑑的に彫ることではなく、動物の置かれた状況を、それも動物らしい行動が出ている時ではなく、この目貫のように、狼が飢えて、あばら骨が目立ち、尻尾を巻いている様子をほる。長常から約半世紀後に出現した金工なのであろう。同時代の江戸の石黒政常は鷹の雄壮な飛翔の瞬間を彫る。鷹らしい行動が出ている時だ。政常よりも光興の方が近代に近いのかなと思う。

2018/2/6
京の三名工の一人と称される大月光興の目貫だ。これまでも刀和の「鑑賞記」や「手元に置いての鑑賞」で触れてきたので参考にして欲しい。光興は明和3年(1766)に金工大月光林(日本彫物元祖市川彦助流)→光恒→光芳と続く家に生まれ、天保5年(1834)に69歳で死去する。
長常は享保6年(1721)~天明6年(1786)であり、45年(約半世紀)の年齢差がある。光興は30余歳で江戸に下り、寛政~享和にかけて修業したと伝わる。矩随は元文元年(1736)生、昆寛は延享元年(1744)生であり、光興が江戸に出た時の大家である。石黒政常が宝暦十年(1760)年生であり、ほぼ同時代である。
絵画を岸駒に習うと伝わる。岸駒には宝暦6年(1756)生まれと、寛延2年(1749)生まれの2説があるが、現在は前者の方が有力と言う。岸駒は応挙に習ったとされ、天明2年(1782)から『平安人物誌』に掲載され、以降は京都の一流画家と認められている。「岸駒の虎」と称されるほど、虎図が得意であった。

横谷宗與:縁頭(仁王)

2024/3/14
仁王の顔は、この欄の2018/3/6で紹介した『宗珉下絵帳』(野田喜代重本)の顔と比較して劣らない。右側の頭頂部が高くなりすぎているのが気になるくらいだ。仁王の身体は纏う布(棚引く布)で隠されている。

2024/3/10
この欄の2021/5/2に縁(ふち)の図柄の元になった宗珉下絵を掲示したが、仁王はお寺にあるもの。だから下絵帳にある鳥居(これは神社にあるもの)ではなく、本堂のような寺の屋根に変えたのであろう。ただし、縁の絵柄としてはどうなのかとも思うが、他に仁王と取り合わせるのにふさわしい画題は思いつかない。

2023/5/2
この縁頭における縁は、寺の屋根と、松樹を彫っただけであり、力作ではない。むしろ手を抜いたのではと思えるほどだ。宗與は頭の彫りに渾身の力を振るい、縁の方は流したのであろう。

2023/4/30
この仁王の顔は、宗珉下絵帳(18/3/6参照)の仁王の顔より、良いと思う。堂々としていて貫禄もある。

2022/1/4
この宗與の彫りも、相当に上手なのだが、宗珉の作と比較するから、厳しい評を私から受けることになる。私も収集歴が長いから、これまでもいくつかの片切彫作品を観てきたが、この宗與の作品があるから、いいやとパスしてきたのである。仁王の顔、表情は素晴らしい。

2021/12/31
この仁王の顔は、宗珉の重要文化財の二所物の仁王の顔の筋肉全てが威厳と忿怒の表情に集約されているような顔には負けるが、下(2018/3/6)に掲載した『宗珉下絵帳』の仁王の顔よりは優れていると思う。
この機会に諸書に所載の各金工の仁王(主に顔だけの比較)を比較した。『刀装小道具講座3江戸金工<上>』における菊岡光行の菊透仁王図鐔は宗珉に似ていて上手だが、仁王図小柄では頬肉の盛り上がりが目に付き、思索的な顔になっている。東龍斎清寿の仁王図鐔は変な誇張も無いが威厳と忿怒が出て、加えていい男に彫れていて名工だ。『小柄百選』に所載の安親の重要美術品の仁王図小柄(仁王に仰ぎ見る旅人を配置…いかめしくない)、河野春明の弘化4年作の仁王図小柄(眉、目、鼻、口の造作が派手)、向後美寿の仁王図小柄(太った感が強い)など力作は多い。

2021/12/29
片切彫作品の魅力は、勢いのある太い線をいかに彫れているかにあると思う。この二王の図では棚引く衣と左側の身体の線だ。宗珉の虎図では虎の縞だ。

2021/12/27
この仁王の眉毛の毛彫の柔らかさ。これは実に上手である。宗珉の後継者として立派に務めを果たしていると思う。

2021/5/4
新たに拝見した宗珉下絵帳は2冊(本当の名称は不明だがコピーしたものに付いている名称では『階級明細記』と『宗珉圖式』)の内、『階級明細記』には、この仁王図の下絵はない。また中国の武人などの人物図、寿老人、鍾馗なども含まれていない。一方、『宗珉圖式』の方には、この縁頭と同様の仁王図の小柄(以前に紹介した野田喜与重氏が所蔵されていたという「宗珉作品控帳」と同様)がある。

2021/5/2
宗珉下絵帳と称するもの2冊を新たに拝見したことは、このページの宗珉小柄の項2021/4/18にもアップし、宗珉小柄の鑑賞記にもアップしているが、その中でこの縁頭の縁における松と同様の片切彫の鐔の下絵があることを発見した。
縁頭の縁では、縁の表側に寺院の屋根を彫り、裏に松を彫っている。下絵帳(『宗珉圖式』)には左図のような鐔の下絵がある。縁では寺院の屋根になっていたのが、この下絵では鳥居の上部だが、いずれも建造物の上部だけを彫っている。
そして松樹の彫り口は同様である。なお下絵帳には、松の葉をこのように彫るのではなく、丸く彫っている下絵も存在している。

(左図の鐔は『宗珉圖式』より)。

2021/1/17
この頭(かしら)の仁王は、浮世絵で言うところの大首絵である。宗與は享保18年(1733)に34歳で家督を継ぎ、明和3年(1766)に隠居するから、写楽の大首絵(寛政6~7年、1794~95)に先立つ作品である。

2021/1/16
縁頭の頭に、宗珉下絵帳の小柄にある仁王像を取り込む時に、このように仁王の顔をクローズアップした点は宗與の工夫なのだろう。この為に、顔の造作を相対的に大きくしたのではなかろうか。

2021/1/13
仁王の顔は下欄に掲載した「宗珉下絵帳」の小柄の仁王の顔より、空白部の額(ひたい)の面積が狭く、その分、眼、鼻、口などの造作が大きく見えて、迫力が出ている。これが宗與の工夫と考えられる。

2021/1/12
片切彫は彫り込んだ線の広狭、深浅、彫り口の鋭鈍で対象を立体的に見せる技術である。頭の仁王はうまいが、縁の屋根の彫りは絵として取り上げるのはわかるが、彫りそのものにはもう一つ工夫がみられない。松の方も、幹がもっと太い方が面白いと思う。縁の図は下絵が無かった為であろうか。

2021/1/10
こうして自分の所蔵品を見ていくと、自分の蒐集歴が辿れる。この縁頭は早い時期に購入したものだ。会社に入社して5年目だ。買った後に『金工銘字体系』に銘が所載されているのを発見して、喜んだことを思い出す。価格は当時としても高い方で、今でも同じくらいの価格で流通されるものだろう。

2021/1/9
この彫りでは、仁王の目玉の打ち方に感心する。顔の向きにあわせて目も下を向いているが、あるモノを睨みつけている感じが出ている。漠然と見ているのではなく、対象物がある感じだ。

2019/1/17
縁の松の木の樹皮なども工夫している。上記の写真では松の木は1本しかわからないが、縁の横側(写真では左側)にも同様の松があり、反対側の横側(屋根のある側では左側)にもやや低い松がある。ただ葉や枝の調子は同じようなものだ。

2019/1/16
宗珉との比較で、劣る点を書いてきたが比較する相手が天下の宗珉だから仕方がない。しかし宗與の片切彫も生き生きと表現が出来て上手だと感心する。同じことは下欄の18/3/6で記したが、仁王の顔は宗珉下絵帳に比較しても威があって見事である。

2018/3/11
縁の図で、仁王の見上げるほどの大きさを表現したのかと、「刀和」での鑑賞記に書いたが、仁王のことはともかくとして、屋根の上にまで枝葉を伸ばす松の木の表現で、松の大きさは表現できている。では、仁王と松の組合わせに何か意味があるのであろうか。絵画の方も探索する必要がある。

2018/3/8
縁の図だが、上記写真で屋根の上部の線が右肩下がりになる方に、松の枝が屋根の上に彫られている。だから上から俯瞰している図であることは間違いがない。仁王が安置されている門の屋根を、本堂の上から観たところなのだろうか。もう少し図柄、表現に工夫があった方が良い。

2018/3/6
  宗珉の鑑賞記に私の妻が観た比較結果を記した(3/5記)。妻も技術的には宗珉の方に軍配を上げているが、宗與の仁王の顔はなかなかのものだ。

左図は「宗珉作品控帳」にある図である。この原本は、昔の刀屋さんで有名な網屋の番頭さんだった野田喜与重氏が所蔵されていて、私はある人からコピーをいただいたものである。この控帳は、人物図関係だけであったが、他に動物などの作品控帳もあると聞く。ただ私は詳細を知らない。あれば拝見したいものである。

私は刀和の鑑賞記を書いた時に、宗珉の高彫の仁王に対して、宗與が片切彫で対抗して仁王を彫ったと思っていたが、この作品控帳にあるように片切彫においても宗珉が既に彫り上げていたことがわかる。認識の誤りを正さなくてはいけない。

さて仁王の顔だが、宗與のこの縁頭の顔は宗珉作品控帳と同じようだが、下絵帳の顔が若々しい強さ・活力を感じるのに対して、私には宗與の顔の方に威厳を感じる。こういう顔を彫れる宗與は高評価に値する金工だと思う。
2018/3/4
頭(かしら)の仁王の図はいいのだが、縁(ふち)の表側の斜めの屋根、裏側の松は、どういう意図で彫ったのだろうか。刀和に掲載した時の鑑賞記では、山門の屋根、松の木の梢として、地上部を彫らずに空の方だけを画いたのは、見上げるほどの仁王の大きさを表現する為と書いたが、どうだろうか。
松の枝葉は縁の裏だけでなく、縁の横側のそれぞれに彫られている。いかにも覆い繁っている松の木だ。
屋根を斜めに描いたのがよくわからない。描く視点は上方からと思える。

2018/3/3
横谷宗珉の小柄の鑑賞記を書くにあたって、宗與の縁頭と対比した。そこでは宗珉の方が線の力強さが上とした。この通りなのだが、宗與の曲線は柔らかく、なかなかのものである。力強さにおいても、この仁王の目の力、鼻の力強さは大したもので、仁王の特質をうまく表現している。
宗與の他の片切彫の作品を写真で拝見しても、「布袋と唐子」や、「狩人と狐」などの曲線の彫りは名人である。
宗與は横谷宗寿の次男として元禄13年(1700)に生まれ、安永8年(1779)に没する。宗珉の養子となって、享保18年(1733)の宗珉没後に34歳で家督を継ぎ、明和3年(1766)に隠居する。英精の弟である。

村上如竹(八駿馬図鐔

2023/8/13
鐔の裏面下部に疾駆している馬を平象嵌で表現している。この象嵌している金属なのだが、2種類が使われていて、尻尾や鬣(たてがみ)などの馬体の上部は金、それもそれほど純度が高くない金だと思うが、他の馬体を象(かたど)っている金属は、金とは違う。真鍮なのかとも思う。あるいは純度のもっと低い金なのであろうか。さらに、ひずめも少し違う金属のような気もするのだが、よくわからない。写真では胴体下部と同じ真鍮のようなものと同じに見えるのだが。

2023/8/11
如竹の片切彫は象嵌得意だけに「深い」と記したことがあるが、線の広狭も計算しているような感じである。今日、改めて、じっくりと観察したが、馬の鬣(たてがみ)と尻尾の毛彫も細かく、柔らかく巧みである。

2023/8/9
縮緬石目地は、後代の金工の中に、取り入れている者がいるかとも思うが、私は、まだ村上派金工を除いて実見していない。この技法が技術的に難しいのだろうか、手間がかかり面倒なのであろうか、それとも顧客にニーズが無かった(人気が無い)からであろうか。

2023/8/7
如竹は独創性を高く評価されるべき金工である。具体的に言うと「縮緬石目地」、「緋色銅」、「大胆なデザイン」、「墨絵象嵌」など多彩な象嵌技法」である。この鐔では「大胆なデザイン」は出していないが、8頭の馬の内、5頭が馬なのに座った姿勢で彫り上げていることだ。

2022/9/6
如竹は金属の色に拘った金工である。金属は素材の色が出るのが基本で、合金だけは配合によって色合いに変化がでる。素材とは金、銀、赤銅、四分一、素銅、黄銅(真鍮)、鉄が主で鉛は櫃孔を埋める時くらいである。如竹は合金を工夫して緋色銅を造った。この鐔の表上部の座った馬の色である。裏下部の疾走している馬の平象嵌では金と、少し薄い金色を使っている。四分一の馬も表下部の座った馬の色と、裏下部の正面上からの馬は、少し色が違う。

2022/9/4
西洋美術に詳しい山田五郎氏は「馬を描くのが上手な画家は上手い」と語呂合わせで述べている。確かに金工も、所蔵している範囲で述べると昆寛、英秀は上手い。本で拝見するだけだが宗珉もさすがである。これらの金工に比較すると、如竹は高彫では劣る。平象嵌は匹敵すると思うが。
如竹は、自身で少しデフォルメするのだと思う。

2022/9/2
18世紀後半の宝暦・天明期は元禄文化、化政文化とは別に「宝天文化」として見直されている。如竹も昆寛、矩随らとともに、この文化の担い手の一人である。彫り物の腕は昆寛に劣る(昆寛が卓越しているのだが)が、縮緬石目地や緋色銅、大胆なデザインで地歩を築く。芸術は独創が大切であり、高く評価されるべき金工だ。

2021/12/7
そして如竹が創出した地鉄の処理である縮緬石目地(革石目地)も高く評価されるべきである。後藤の創出した魚子地や、単なる磨地の時代にだ。

2021/12/5
如竹は独創的な芸術家らしい金工である。この鐔でも、同じ馬の姿態という彫に対して、高彫、片切彫、平象嵌と技法を使い分け、色金も金、赤銅、四分一、緋色銅と使用している。
三国志の人物を、縁頭の頭に、大首絵のように彫ったものや、勝虫(トンボ)を大きくデザイン的な配置で据えたり、精密な平象嵌をしたりと、作風を変えている。高く評価すべき金工である。

2021/12/3
ここで彫られている馬の姿態は、座っているものや、正面の上方とか、通常とは違うものが多いです。その分、上手だなという感を抱かせないが、変わった馬の姿態にも関わらず、巧みに彫っていると感じる。

2021/8/12
現在は高彫で、緻密に彫ったものが高評価であり、そのような作品は如竹にもあるが、如竹の良さは平象嵌にある。この鐔は高彫据紋、平象嵌、片切彫の技法を使い分けながら、八頭の駿馬を彫った為に、簡単な表現になる片切彫の作に合わせて、平象嵌も高彫も簡単になっている。一頭の彫だけを際立たせるわけにいかないという画題の制約もある。

2021/8/10
この鐔は大きさから判断して、脇差用だと思う。図柄が八駿馬という馬画題であり、武士、それも騎乗が許された高位の武士の注文だろう。藩全体の石高によっても異なるが、馬乗り身分は二百石以上とどこかの本で読んだことがある。

2021/8/8
大森英秀の縁頭における張果老が瓢箪から出した馬を観たが、この鐔は図意のように八頭の馬を彫っている。八頭の違いを色金(金、四分一、赤銅、緋色銅、黄銅)の違いや、彫方(高彫、平象嵌、片切彫)、デザイン=馬の姿態で彫り分けたところに如竹の狙いがあるが、高彫の馬は横たわっている馬や正面上部からという馬の躍動感が出にくいものであり、英秀の馬の方が優れている。
しかし、平象嵌や片切彫の馬はすっきりと筋肉質で上手なものだ。

2020/8/5
この欄の2018/4/15に「刀装・刀装具初学講座(194)」(福士繁雄著)に「天明元年(1781)刊行の『装剣奇賞』に所載があり、当時、弟子が7人いたことが記されている」との記述を引用したが、昨日、『装剣奇賞』(国会図書館がネットにアップしている大正7、8年に再刊されたもの)で如竹の欄を観ると、”弟子が7人”という記述は見つからない。どこから出た情報だろうか。

2020/8/3
これらの馬の姿態が『北斎漫画』(葛飾北斎)にでも出ているかと思って全15編を観た。馬は初編の37頁、三編の149頁、171頁、四編の216頁、六編の341~349頁、十編の576頁、十四編の882~883頁にいくつかあるが、同じものは無い。他にお手本があったのかもしれないが、如竹自らが写生したと考えられる。この理由は疾駆している一頭を除くと視点が少し上部からと統一されているからである。

2020/8/2
馬の正面からの顔が描かれておらず、横向きなのは、描かれた近くの馬同士が互いに視線を交わしている様子を画いた為と考えられる。もう一つだけ理由が判然としないのが、それぞれの馬の上方からの視点で馬を描いていることである。実際に高いところから馬の姿態をデッサンしたのかもしれない。

2020/8/1
この鐔の高彫の馬が、なんとなく簡単で下手に見えるのは、画題の「八駿馬」で毛色の違った八頭の馬を彫る為に、片切彫、平象嵌を駆使して簡素なデザインの馬を彫ったから、それに合わせる為に高彫でも簡単な彫りにしたのだろう。高彫の馬だけが緻密、華麗な馬ではバランスが取れないのだ。

2020/7/30
薄茶に見える合金とは四分一で、少し銅の割合が高いものなのだろうか。宗珉、宗與のは銀が強く、矩随のものとも違う感じである。

2020/7/29
如竹は緋色銅の独創で評価されているが、この鐔の表左下の座っている馬、裏左下の立っている馬に使用している薄茶に見える合金や、裏右下の駆けている馬の平象嵌の下部のくすんだ金など、他にも特色のある合金を開発しており、大したものである。

2018/4/27
両方の櫃孔を赤銅で埋めているが、これなどは後で埋めたというよりは、如竹自身が縮緬地との対比を出す為に、自分自身で嵌入して鐔を納品したのではなかろうか。地の変化というか、縮緬地というものを意識させられる。

2018/4/24
この鐔で不思議なのは高彫も、彫りが簡素なことである。如竹の高彫では大胆な構図の恵比寿留守模様(鯛と釣り竿)や勝虫などが思い浮かぶが、小柄に白魚や蟹などを精緻に高彫した作品、縁頭で関羽などを大胆精密に高彫した作品など、細かい彫も見事である。
この鐔における高彫は細かくは彫っていない。これは、平象嵌、片切彫でのデッサンのような馬に合わせた為と考える。

2018/4/23
この地金が縮緬地(ちりめんじ)、縮緬石目地と呼ばれるもので、村上如竹の独創ではなかろうか、現時点では、先駆した者を私は知らない。赤銅は磨地のままだと手の脂などの跡が残りやすい。この為、魚子(ななこ)地を開発したのが後藤家である。地の技法は、他にも石目地、槌目地、腐らしなどがある。素材(金、赤銅、山銅、鉄、四分一、黄銅=真鍮、鉄など)との組合わせで工夫していることが多い。金では霰地(あられじ)などもある。
緋色銅の独創にも触れたが、縮緬地と言い、村上如竹はもっと高く評価されるべき金工と思う。

2018/4/22
片切彫と毛彫で、表に1頭、裏に1頭を彫っているが、平象嵌と同様に上手なデッサンである。「刀装具の鑑賞」において記したが、鏨の深い片切彫である。平象嵌をする為の工作では、このくらいの深さが必要なのではなかろうかと思わせる。如竹の片切彫だ。馬の背中の線の肥痩は平象嵌の2頭と同様である。最小限の線での表現に拘ったのであろう。

2018/4/21
高彫りの静的な姿態の馬は画題として魅力に欠ける。しかも表の馬は、顔も後ろに向けている。そういう意味でも、大の鐔に躍動的な馬が彫られていたと思う。
裏の平象嵌の馬は、鬣(たてがみ)と尾が金で象嵌し、他の胴体は金ではなく黄銅ではないかと思う。しかし普通の黄銅(真鍮)ならば空気に触れている内に変色する。それが無いから、緋色銅と同様に、如竹独特の合金なのかもしれないと感じる。金の純度を低くしたのであろうか。
材質はともかくとして、上手な平象嵌である。絵で言うとデッサンのような線画だが、最小限の線で上手に表現できている。

2018/4/20
この鐔で不思議なのは、馬の姿態が静的なものが大半であることだ。表などは静的というより、座っている馬が6頭の内4頭もいる。裏にも1頭が座っている。疾駆しているのは裏の平象嵌の1頭だけだ。
私が考えている理由は、この鐔が小鐔(脇差用)であることから、本来は大小鐔の大の鐔には動的な姿態の馬を多く彫り、こちらは静的に彫ったのではなかろうかということだ。

2018/4/19
この図を「八駿馬」としたのは、現代は私が言い出したことである。「刀和」の平成18年(2006年)5月号の「刀装具の鑑賞」で発表している。神谷紋洋氏の箱書は「癸卯」(みずのとう)だから昭和38年(1963年)で「群馬之図」と記されている。平成5年(1993)3月の特別保存の証書でも「群馬図」である。近年では「八駿馬」という画題は認められ、平成24年(2012年)に発刊された『刀装具画題鑑賞事典』(福士繁雄著)では「八龍駿馬」として掲載されている。
画題は、福士氏の著作の前は『鐔・小道具画題事典』(沼田鎌次著)に詳しいが、全ては解明されておらず、難しいものである。

2018/4/18
もっとも目立つだけなら、鐔表右下の金高彫象嵌の馬だ。金に優るものはない。金で目を惹き、如竹とわかる緋色銅を見せるのだ。

2018/4/17
緋色銅は火色銅とも書く。馬の描写の為に、この色を使ったのではない。緋色で表現する必要のある馬はいないだろう。如竹は自分の得意とする緋色象嵌の為に用いている。鐔表の右上が一番目立つ場所だが、そこに自分の”売り”である火色銅・平象嵌を持ってきたのだ。

2018/4/16
この写真では、”如竹の緋色銅”がよくわかる。光の関係で上のように見える。普通の銅のように空気中でも色が変化することはない。緋色銅を刀装具ではじめて使用したのが如竹かは、私は確認できていないが、この人は独創的な人である。

2018/4/15
村上如竹は初期は仲矩と名乗る。はじめは父とともに鐙(あぶみ)の象嵌師だったと伝える。鐙の作品の中に「村上」姓、あるいは「仲」「矩」「如」などの通字(とうりじ)を持つ工匠がいれば面白いのだが。これまでも「手元に置いての鑑賞」や「刀装具の鑑賞」にアップしているので参考にして欲しい。
ここでは金工の生没年を書くようにしているが、如竹については明確ではない。ただ福士繁雄氏は「刀装・刀装具初学講座(194)」において天明元年(1781)刊行の『装剣奇賞』に所載があり、当時、弟子が7人いたことから、この時点を36歳と仮定すれば、生年は延享3年(1746)生まれと推測されている。この年は寅年であり、如竹に虎の図が多いことも推定根拠とされている。昆寛が延享元年(1744)生であり、ほぼ同年代である。60歳を過ぎても活躍したことは銘の行年銘から明らかである。

東龍斎清寿(鬼図鐔)

2023/9/16
「刀和」の原稿において、取り上げる予定である。その視点は…もうしばらく控えておきますが、今はこのような美意識は無くなってきております。

2023/9/12
「あっさり」していると言うか、くどく、しつこくない感じである。「ごてごてしていない」という感じでもある。

2023/9/9
足の腿(もも)の部分が細いが、これは切羽台で一部が隠れることを前提にしている。一見すると変な形だが、それをためらいなくデザインとするところが名人だと思う。

2023/9/6
艶のある黒錆を、ランダムに叩いて整わない槌目地に地を加工している。この槌目は無造作に行ったように見えるが、名人の手、感覚が入っているのだろう。何とも言えない良い感じである。表側は鬼の顔の前から下に槌目が荒い感じだが、裏側は鐔の下部が荒い感じで、一様ではない。

2023/9/1
「刀和」の原稿の一つとして、この鐔を取り上げる予定である。錆色は世評にある「小豆を煮しめたような暗褐色」というものではなく、艶のある黒錆である。

2022/12/21
東龍斎清寿が創案した中心孔の上下の責金(素銅に外側に金の点象嵌)だが、責金の本来の機能である刀の身幅に合わせて調整してガタつかないようにするという機能もあると思うが、それだったら金の象嵌は不要である。どんな意図があるのだろう。拵に入れたら、柄と切羽台によって隠されてしまう。
自分の作品であるとの印しなのであろうか。

2022/12/19
腰蓑は金の象嵌と銀の象嵌である。目立つのが金だから、銀の象嵌の箇所は、当初は金が剥がれたのかとも思ったが、そうではなく銀ではじめから象嵌している。裏も同様であるが、何故、このように区分しているかはわからない。ワラを象った象嵌だから、直線的な強い線ではなく、象嵌している。

2022/12/17
この写真だと、地鉄の独特の艶はわかりにくいが、槌目肌における艶だから、それが一種の面白さというか味わいが出ている。

2022/12/15
幕末の3名工になると、清寿にしろ、一乗にしろ、夏雄にしろ作品が多く現存しており、作者の若い時代から晩年に至るまでの作品を観ることができる。清寿の若い頃の作品は写実に優れた具象の作品である。晩年になるに連れて、抽象化されてくる。こういうのはピカソでも、現代の作家にも見られる傾向である。一乗も若い時は緻密な後藤家らしい作品、晩年になると自作の俳句も彫った軽妙なものになる。
いずれにしてもわかりやすいのは若い時の作品である。もっとも技量がわかりやすい具象の作品で力量を認められないと、世に出ることはないのだろう。

2022/12/13
鐔の形状も、あおり形の要素を入れた長丸形で何とも言えない良い形状である。そこの耳の打ち返しも、均一の細い幅で、ムラ無く、丁寧に、しっかりと打ち返している。”しっかり”という形容詞を入れたくなる仕上げである。

2022/12/11
「我一格」の意味については、この欄の2022/3/7に書いたが、「龍(竜)」も号銘に使っており、同様に自分に対する自信と思う。その自信を裏付けるような作品を残していることは確かである。金工の技術に加えて、デザイン・センス(これは学んで身につくものでなく天性のもの)も抜群である。そのセンスが江戸の空気で磨かれているのだ。

2022/12/9
この鐔から私は、江戸の美意識である{粋(いき)」を理解した。高価な鐔であったが、良い物は高いのである。

2022/12/7
肥後春日林家各代の写し物を観てきたが、この清寿の写し物を、このHPにおける「手元に置いての鑑賞」の「清寿」の頁で比較した。刀装具ー東龍斎一派における本歌と写しの違い (mane-ana.co.jp)を改めて比べてみていただきたい。”写す”ということの難しさも改めて感じる。

2022/3/11
耳の打ち返しと、地の槌目仕立ては誰でも出来そうな細工だが、名工の手にかかると、これはこれで見せ場になる。

2022/3/9
茎孔(なかごあな)の上と下に素銅(すあか)の責金(せめがね)に、金象嵌(内側は散らし象嵌)を施してあるのが、この派の特色だが、これは見えないところにオシャレをするという江戸の気風の顕れなのだと思う。

2022/3/7
銘の「我一格」の意味は未だにわからないが、他に単に「一格」「自流」「唯一格」と切ることもあり、何となく”自負心”(自分の才能や仕事に自信や誇りを持つ心)の顕れのような気がする。作品を観ていると”自負心”と共通するところもある印象だが自分の創りだした作品がこれでいいんだという”気概”(困難にくじけない強い意気、気骨)を感じる。

2022/3/5
金工の鐔には、別に鐔で無くとも小柄、笄でも同じでしょうというものが多い。私の金工鐔の所蔵品はこの清寿と、皆山応起と如竹の馬だ。清寿と応起は鐔の造形から工夫し、如竹は八駿馬という多くの馬の様々の姿態を、鐔という大きな画面に配置している。このように金工が鐔でなくてはできない試みに挑戦しているものの方が楽しい。

2022/3/3
陰の透かしは、どうということのないように見えるが、鬼の姿態だけでなく、感情まで表現できている。この時の鬼が抱いた感情とは悪戯(いたずら)心である。本当に害するということではない悪戯だ。

2022/3/1
江戸において18世紀後半頃に生まれた美意識-「いき」ーが現れている鐔だ。「気質・態度・身なりなどがさっぱりとあかぬけしていて、しかも色気があること」が「いき」で、この色気が鍵なのだ。武士の道具に軟弱だと批判する人もいるだろうが、この時代の武士、上層町人の空気なのだ。
若い時の非常に上手な写実彫刻から、このように鬼の特徴を簡単な造形に落とし込み、そこに「いき」という時代の好む空気を入れる。西洋美術の象徴主義(直接的に知覚できない概念、意味、価値などを、それを連想させる具体的事物や感覚的形態によって間接的に表現すること)のような概念が日本で生まれているのだ。

2021/2/4
江戸文化の最期に花開いた作品だ。文明開化になると昨今超絶技巧として評価されるような技術を見せ誇る文化になる。

2021/2/3
こういうデザインの感覚は、彫技を習練していっても身につかない。清寿の天性のものか、清寿の彫刻だけでなく禅の修業や生き方から生まれたものかは不明だが、その人に備わった才能だ。

2021/2/2
デザイナーとしての才能も素晴らしいものがある。対象物から不要と判断したものを省き、立体感が出にくい陰の透かしで、ここまでの立体感を出せるのは凄いと思う。

2021/1/31
陰の透かしも天性のセンスの良さと同時に計算され尽くしたうまさがある。鬼の角は横顔の向こう側の角は小さくし「遠くのものは小さく」の遠近法だ。脚のふともも部分は細いが、これは切羽台のためだ。足の形と足指の形は何でこうなのだと思うが、動きやすそうな足で自然に見える。顔の鼻の大きさと形の生命力、顎の形と口の開き加減も逞しい。腕と手指も足と同様な感を持つが、何となく探る手つきだ。背中は鬼の身体からと言うより鐔全体の構成から、こう透かすのがいいのだと言う感じである。

2021/1/30
地鉄の錆びつけ、地鉄の槌目、耳の打ち返し、鐔全体の形など、彫りの下地が実に丁寧で上手である。着物の裏地に凝ったと言うような江戸っ子の伝統なのだろうか。

2020/6/1
耳の打ち返しも、幅、高さなど丁度いい感じでうまいと思う。きりりとした締まりが表現できて、江戸っ子の気っぷの良さが出ている。

2020/5/30
地鉄に槌目を大小様々に打ち込み、打ち込む強さも強弱自在に打ち込み、独特な地を造っている。適当にやっても、できる人なのかもしれないが、それなりに神経を使って打ち込んでいると思う。もちろん、効果を上げている。

2020/5/28
この茎孔の責金、素銅に金霰象嵌をしている。どうしてこのようなことをしたのであろうか。こういうところの細工は下職が行うのであろうが、清寿の指示であることは間違いがない。東竜斎一派の特色のようになっている。

2020/5/26
HPにアップしているが、門弟たちの同様な図との比較を観て貰ってもわかるが、技量の差、感覚の差は懸隔している。同じ清寿の鐔との比較では、この鐔の方が生き生きしていると思うのは、所蔵者の欲目であろうか。

2020/5/25
清寿の高彫色絵の作品は上手である。ただ、それらは江戸の町彫諸工の腕達者であればできないことのない作品だ。清寿は鉄鐔で、陰の透かしを切羽台も効果的に駆使して、わずかな色絵を施して、江戸の文化である粋(いき)…気質・態度・身なりなどがさっぱりとあかぬけしていて、しかも色気があること…を刀装具に表現したことに独創があるのだ。

2018/5/10
この人は、一般的なよくある高彫りなどの金工作品も実に見事である。そういう仕事ができる人が、こういうデザイン重視の簡素な作品を制作しているのである。近代になるとピカソにしても、画風の変遷を行う画家は多い。この鐔は今から150年以上前の極東(これも西洋から見た言葉だが)の日本だぞ。夏雄や一乗の品格ある精密な写実やその技巧を進化させて超絶技巧に向かうのは技術の錬磨で可能だが、このような感性、センスを表現するのは出来るものではない。独りよがりになるだけなのだ。本当に凄い金工なのだ。今はわかりやすくワォ-となる超絶技巧作品ばかりもて囃すが、退化した時代なのだ。

2018/5/6
東龍斎清寿の鐔を「寝床での鉄鐔愛玩日記」から、こちらに移した。ここでは金工の活躍年代をわかる範囲で記しているので「刀装・刀装具初学教室(99)~(104)」(福士繁雄著)から引用する。清寿は文化元年(1804)に武州鐔工田中東龍斎房二郎(江戸南蛮鐔の系統)の子として生まれ、明治9年(1876)に享年73歳で逝去する。文政末年=12年(1829)に26歳であり、以降天保(末年で40歳)、弘化(末年で44歳)、嘉永(末年で50歳)、安政(末年で56歳)、万延、文久、元治、慶応(末年で64歳)と幕末に活躍した金工である。この間、弘化2年(42歳)に法橋、弘化3年(43歳)に法眼に叙任している。

2017/1/5
この鬼の顔の表情に、私のこの本に対する思いも出ている。そしてまさに「我一格」なのだ。

2017/1/3
下記の日記に書いたが、この鐔を私の本『江戸の日本刀-新刀・新々刀の歴史的背景』のブックカバーのデザインにしたのだ。装幀デザイナーは、このデザイン以外に刀の写真も取り入れたデザインなど5点ほど作成してくれたが、このデザインが私のイメージにも合致して採用したのだ。
『江戸の日本刀』は主に新々刀の歴史的背景に詳しいが、江戸時代後期の”江戸”を、これほど端的に表している鐔はないだろう。

2016/11/5
昨日、本の装幀デザイナーだが、刀装具などは初見という友人に、この鐔を見せた。「いいねぇ」と感心していた。この鐔の感覚は今の世でも斬新である。

2016/5/17
この鬼の顔には何とも言えない色気がある。そして鬼の顔と姿態は必要最低限の陰彫り透かしで表現し、目の周りだけの最小限の金象嵌、頭の耳の上に簡素な毛彫だけを施している。
こういうのを江戸の美意識-「いき」と言うのだろう。辞書に「気質・態度・身なりなどがさっぱりとあかぬけしていて、しかも色気があること」とある。赤坂鐔を「いき」という人もいるが、「いき」は18世紀後半から江戸で生まれた美意識で、そこに色気は不可欠なのだ。
大尽と呼ばれた金持ちで、吉原通いの通(つう)の町人が求めた鐔だろう。櫃孔の責金は、金の板だぞ。

2016/5/16
「我一格」とはどうのような意味があるのだろうか。禅の影響かと思っていたが、本人は日蓮宗の寺に埋葬されているようだ。他に「自流」「一格」「唯一格」「一家式」などがあると言うが”自分で独自に工夫した”というような自負を現した言葉であろうか。

2016/5/15
清寿のこの手の作風には飄逸というか、ユーモアを感じる。これは江戸の町の文化だ。狂歌や浮世絵の国芳に見るような文化だ。これを取り入れながら俗に落ちないのは武家文化の支えなのか、あるいは傾倒したという禅の影響か。奥の深い名工だ。
夏雄は、今の日本画の源流である円山派、その弟子呉春の四条派の流れでわかりやすい。わかりやすいと言っても夏雄の作品は、別の意味の格調の高さを持つ。

2016/5/14
この「我一格」「竜叟法眼(花押)」の清寿の鐔は、鉄鐔だが透かし鐔ではなく、金工鐔だ。寝床に持ち込むが、寝る前にはふとんの脇に置くが、寝入ってしまえば仕方が無い。今、この鐔の図をあることに使おうと思っているが、名鐔である。

ちょっと赤味がある光沢の強い地鉄だ。古鐔に遜色がない。そこに工夫したタガネに強弱をつけて打ち込んだのであろうか、地にムラをつけて変化を出している。耳の打ち返しは細く自然で、締まりを与えているが柔らかい。形も、やや撫角形、少し長丸で、わずかに下脹れの感じの良い姿だ。
陰透かしの鬼の表情、姿態も抜群だ。東竜斎の弟子筋が造った同図の鐔と比較したことがあるが、作位が全然違うことがわかるだろう。作位が違う分、価格もずば抜けて高かったが買った。日本刀柴田からだ。
鬼の表情は生気に溢れている。切羽台をうまく利用した構図は独創的だ。江戸時代後期に近代に広まったデフォルメを自家薬籠中のものにしており、もっと高く評価されてしかるべき金工である。
金工鐔は据えた文様の彫りの精緻さだけのモノが多い。目貫だろうが小柄だろうが同じだ。しかし、この作品は鐔の地、鐔の形、鐔全体の中で生きる図だ。加えて図柄に独創性があって、作位が高い。金家、安親、夏雄の良いものに匹敵すると思っている。

横谷宗珉(雨下竹虎図)→虎嘯風生(こしょうふうしょう)図小柄

 
2024/1/15
前脚の輪郭線の線彫の潔さ、虎の体毛の毛彫の細かさ、片切彫での虎の縞、虎の爪などの抉ったような線の力強さ、竹の幹のしなやかな線など、頭が下がる。

2024/1/11
ただし、竹の上の毛彫の線は直線的である。風ならば曲線も入って表現するのではとも思う。

2024/1/7
私は手元に片切彫の作品をこの作品と宗與しか持っていないから、細かい比較はできないのだが、宗珉は自信がある為だと思うが、深く、太く入れる箇所の鏨が深いような気がする。この作品で言えば、虎の縞、竹の葉、竹の幹などだ。

2024/1/3
去年の12月以来、「虎が嘯けば風が生じる」との言葉を知り、この小柄の雨とされる線が風ではないかと見てきた。風ならば線にカーブを付けるかとも考えた。しかし雨ならば、虎の下の地面の方にも雨が彫られるのではなかろうかとか、竹の枝、竹の葉の動きは、まさに風によるものと見られることから、風と考えたい。「虎嘯風生(こしょうふうしょう)」という四字熟語があり、この意味は「すぐれた才能や技能を持った人が機会を得て奮起すること」とのことだ。

2023/12/30
鏨の一本、一本が自信に満ちている感じだ。

2023/12/26
この作品からくる風格は何なのだろうと思う。日本の金工界の最高峰なのだと感じる。

2023/12/22
「虎が嘯けば風が生じる」に因んだ絵とすれば「雨下竹虎図」という画題はおかしいことになる。多くの金工が片切彫の作品を作っているが、この宗珉の片切彫の鏨の”切れ”の良さはさすがと感じる。良い小柄である。

2023/12/18
禅の書『碧巌録』に「虎が嘯(うそぶ)けば風が生じる」という言葉がある。「龍が吟ずれば雲を生じる」と対語になっていて、禅だから色々な解釈があるようだが、虎のような大人物がものを言えば、自然界も反応するとの解釈もある。このような大人物にならんと修行せよと言うことなのであろうか。

2023/3/23
虎の顔、表情、上に掲示した下絵の虎よりも、所蔵品の方が精気がある。精気を辞書で引くと、「生命の源泉たる元気。精力」とある。「生き生きとした気力、活気」の意味の生気とは違うのだ。

2023/3/21
細かい話になるが、竹の節の彫りも絶妙だ。言葉で書いてもわかりにくいと思うが、片切り鏨で、竹の幹を節に近づくほどなだらかに深くなるように彫り、一度、鏨を外して更に深く彫る。もちろん各彫りの境は滑らかにしている。そして、その上に三角系の片切り鏨を打ち込み、更に上に別の鏨で節になる横の線を彫り、間を空けて上部の幹の彫りになる。ここは下部の幹とは逆に、当初を深い片切り鏨で深く彫り、一呼吸を置いてなだらかに浅く幹を彫っていっている。竹の弾力性と同時に竹に節があることでの強さが表現できている。

2023/3/19
細い線、細かい線、微妙なカーブを持つ曲線、長い線、そういう線の彫りでも強さを感じる。

2023/3/17
いさぎよい線と同時に、ふくよかでありながら力強い線にも触れないと片手落ちになるだろう。手指の線、虎の縞の片切りの線などだ。どれほどの気合いを籠めて彫っているのだろうか。

2023/3/15
ある程度の金工ならば、誰でも出来るのかもしれないが、虎の前脚のすっと長く伸ばした輪郭線、竹の幹の上部の細く、しなやかな強い輪郭線、いさぎよくて見事と思う。

2023/3/13
片切鏨で抉る(えぐる)範囲、深さ、滑らかさなど、うまいものだとしみじみと思う。鑑賞記に、妻に宗與の仁王の縁頭と、この小柄を見せた時のことを記したが、比較すると、違いがわかる。宗與の片切もうまいものだが。

2023/3/11
このような片切彫の作品は、それほど時間をかけずに彫り上げたのだろう。ただ彫った線をそのまま見せるものだから、神経は使ったと思われる。体毛の毛彫などは彫り込む線をあまり深くせず、均一に彫るわけだが、細かい仕事で、雨の線などは勢いも必要である。

2022/1/2
2022年・令和4年は寅年だから、改めてこの小柄を鑑賞。片切彫以外の毛彫の線の「いさぎよさ」に改めて感服。雨の線も、虎の髭も、虎の前脚の輪郭も見事な線だ。一気に彫っている。

2021/12/25
片切彫で、こういう立体感のある絵が描けるということをはじめて生み出したという独創性は高く評価される。独創の価値は本当に凄いことなのだ。コロンブスが大西洋をどこまでもどこまでも西に行けばアメリカ大陸に着くということを始めて立証したら、船乗りであれば、誰でもアメリカ大陸に行けるようになるのだ。それまでは怖くなって途中で引き返してしまうのだ。
片切彫も同様だ。宗珉がこれで絵を作ったから、誰でも真似ができるのだ。そして宗珉が凄いのは、その片切彫の彫技を追随者が真似ができないほどに高めたことだ。

2021/12/23
片切の鏨を、これだけ大胆に幅広く、深く入れられる(虎の縞)のが宗珉だ。

2021/12/21
下絵では鼻梁の線は両側とも同じ太さだが、作品では左側を太くして、左側からの視点で彫ったことを示し、微妙な遠近感の効果が出ている。虎の身体の縞を彫った片切彫の線も、下絵は各線ともに分断するように描いているが、作品では一本の片切彫で表現しており、こちらの方が迫力が出ている。

2021/12/19
線に種々の表情がある感じだ。片切鏨ではなく毛彫鏨だけで見ても、起点から終点まで同じ太さで引かれたもの、終点にかけてスーと力を抜いたもの、明確な輪郭線、より動きのある線、体毛を表す細かい線など、使い分けている。

2021/12/17
虎の動きだしの雰囲気が実にいい。雨風も少し収まってきた、そろそろ、出かける時だ。警戒も緩めていない。

2021/12/15
片切彫で細かい遠近感を出す工夫など、本当に独創的なことだったと思う。線の力強さは片切彫の創始者ならではと思う。

2021/4/21
線の勢い、線の種類と使い分けの妙、虎の姿態の巧みな図取り、虎の表情、気持ちまでを表現した絵としての完成度の高さ、脇役の竹の柔軟さがわかる表現など、名作である。

2021/4/18
宗珉下絵帳?なるものを拝見し、その中から、この図の下絵と思われる図の3枚を鑑賞記にアップした。他の同図はそちらを御覧いただきたいが、ここに掲示した下絵とは虎が実によく似ている。同図で何本も作成した中で、竹の葉の様子などに小異を加えたものと思われる。現代の画家でも、このようなことをしている。

2021/4/15
絵で言えば水墨画。絵の世界の水墨画は室町時代の雪舟から桃山時代の長谷川等伯、江戸期も池大雅と名品が高く評価されている。刀装具の片切彫の作品も、もっと高く評価されてしかるべきであろう。

2021/4/12
この写真では見難いが、竹の節の表現なども魅力的である。下からの片切鏨で節で太くなっている箇所を直線的にして抉り(えぐり)、上からも同様に片切鏨で節の箇所を直線的に抉る。その結果、節で少し太くなっている箇所を表現し、間に一筋の深めの毛彫りの線を彫る。

2021/4/10
虎の縞の片切彫は、黒い縞という色も見えるようで、また虎の体躯の遠近感、躍動感も表現できており、さすがに片切彫使いの名人である。

2021/4/8
立派な銘字である。國廣の2字銘もそうだが、気迫を感じるし、頭領というべきスケールの大きさも感じる。

2021/4/6
線の彫刻だ。雨の線、虎の体毛の線だけでなく、竹の幹・枝の強靱でしなやかな線、虎の前脚の一本の潔い線、虎の髭の剛い線、虎の眼の縁取りや、鼻の高さ・逞しさを想像させる鼻梁の線、舌の柔らかさと厚みを感じる線、強い健康的な顎の線。これらは毛彫の線だ。
加えて片切彫の遠近感と柔らかさも出る虎の縞の線、力強い手指の線、風によるそよぎも感じる竹の葉、これは線というより面の彫りになっている。

2021/4/4
名人の鏨は、雨の強さを想像させる。虎の体毛の剛さと柔らかさを表現する。

2020/7/17
彫った線の強弱や太い細い、それに深浅の違いに関わらず、線の強さというか、勢いが名人たるところなのだ。

2020/7/15
水墨画のイメージで、濃い墨が深く、幅広の片切彫だが、巧みなものだ。生気が溢れている。

2020/7/14
虎の目、鼻、口などの顔貌も迫力があってうまいが、耳も力強い。もう少し浅く、細い線で耳を形取ってもいいと思うのだが、この太さ、深さで描くのが力強い。

2020/7/12
雨の線の風情には、過去にここでも触れているが、線ごとの微妙な強弱(彫りの深浅)、長さ、同じ向きなのだが、中にわずかにズレる線があるところなど、名人が即興で彫ったのだろうか。

2020/7/11
この手の彫りは毛彫しかしらなかった当時の人は、宗珉による片切彫の太く、力強い線、あるいは面となる彫に驚いたであろう。

2020/7/9
これから述べる効果は、名人宗珉の仕事ではなく、320~330年間の時代の仕事だと思うが、竹の上部空間の四分一地鉄にあるムラ(褪色)が急に雨を降らしてきた雨雲のような感じを与えて効果的である。

2020/7/5
過去の日本美術史上で名人と呼ばれる人の作品を手に取って愛玩できるというのは、まさに眼福である。足指の深く、滑らかで力強い彫りだ。

2020/7/4
線の潔(いさぎよ)さがある。それがよく現れているのは、虎の前に出した脚を象(かたど)る線であり、竹の幹の線である。この線だけでも大した金工と理解できる。

2020/7/1
宗珉の鏨は深いと感じる。もちろん絵だから線の太さ、深さ、種類を変えて作品を作るが、深く入れる場合は他作者よりも深いと感じる。作者の自信なのか、あるいは創始者と、それをマネた者の違いであろうか。

2018/12/28
この画題の「雨下竹虎図」は描いている対象を並べただけだが、画のポイントは「踏み出し」の表現にあるのではなかろうか。ゆっくりと踏み出した虎は、睡りから醒めて起き上がり、これから水を飲みに行くところだろうか、あるいは餌を獲りに行くところだろうか。一歩の「踏み出し」が、前脚の鋭い輪郭線で表現されている。そして前脚の手指の盛り上がりの力強さも素晴らしい。顔はことさら獰猛な感じを出してはいないが、威厳があり王者の風格がある。王者の「踏み出し=出発」、いかにも四十歳前後の自信に溢れた宗珉の彫技だ。

2018/12/27
雨の線など何気ないものだが、風情がある。広重の雨の表現も、黒だけでなく銀の線を入れたり、降り始めたばかりの雨は広い間隔で画いたり、篠突くような雨は密に、そして、その時の風の勢いもわかるように画くが、日本人の感性は誇りに思う。

2018/12/25
本で宗與や菊地序克の虎や獅子の片切彫を見ると、メインの虎や獅子の顔はそれなりに出来ているが、細部の脚や竹幹の彫りが行き届いていないと感じる。工芸に限らず絵でも師匠のを写すのが基本だし、弟子も名を刻めるようになれば技術もそれなりだから、大きな差は生まれない。そこにおいて差があるのは絵=線を写した弟子に対して、絵=線を意図を持って創りあげ、構成していった人間との差なのかもしれない。メインの対象物は丁寧に写すが、他の箇所は流してしまうのだろう。また写す線と、創りあげる線では勢いが違ってくる。しかし見分けるのは難しいものだ。

2018/12/23
南禅寺の方丈か小方丈の襖絵に狩野探幽の虎が書かれていたが、自分の贔屓目かもしれないが、宗珉のこの虎の方が堂々としていると思う。

2018/12/22
線の彫りが美しく、勢いがあり、見事である。虎の前脚の輪郭線、虎の髭、竹のしなる幹、雨も線に強弱がある。虎の鼻の輪郭線も横が見える左側は太め、見えない右側は細くして立体感を出している。

2018/12/18
竹の葉の広く彫る片切彫も不思議な彫技である。天才は色々な表現技術を編み出し、自分なりの表現を追求していったのであろう。雨に打たれている感じが出ている。

2018/12/17
虎の鼻に彫っている毛彫は、体毛の毛彫より、もう一段細かい。狂いのない線、崩れのない輪郭で彫っており、腕だけでなく目が良い時代でなければ出来ない細工だ。宗珉といえども、この小柄を彫って銘を入れるまでの間は、何本もの小柄で失敗しているのだと思う。

2018/12/16
片切彫も見事だが、毛彫も巧みで感心する。虎の髭は弾力のある堅さで張り詰めて、触覚の一つを担っていることが理解できる。雨は、それほど強い雨ではないが弱くもない程度で降っている。虎の毛は短い剛毛だが、虎の生命力を現している。

2018/12/14
虎の縞を表現した太い片切彫は、虎の縞と同時に、虎の筋肉が盛り上がって躍動感も表現していて、私は好きである。

2018/12/12

宗珉は初代宗與の子とされていたが福士繁雄氏は初代宗與→宗知と続き、宗知の子との説を立てられている。2代宗與に「祖父 宗与」の極め銘があるが、これについては2代宗與は宗珉の養子であるが、2代宗與の実母が初代宗與晩年の娘で娘であると仮定すると説明できるとしている。
宗珉は寛文10年(1670)に江戸で生まれ、元禄7、8年頃(1694,1695)に宗珉と改名し、享保18年(1733)8月6日に64歳で没した。後藤通乗(光寿)は寛文3年(1663)~享保6年(1721)であり、ほぼ同時代である。
この小柄は鑑賞記にも書いたが、片切彫・毛彫の線の表情が対象物の描写に適して様々に使い分けられており、加えて線の勢いがあって感動する。

六世安親(昌親):宝尽くし・大小縁頭


 
2023/10/31
名字帯刀を許された豪商の注文品らしく「宝尽くし」の図柄である。その図柄の彫りは、あまりも目立って反感を感じさせない程度に大きくは彫らずにこぢんまりと彫る。地も質素な鉄地と質素にしている。ただ彫師は法眼の位も得た名工らしく、随所に巧みなところを見せている。こんなことが理解できる大小縁頭である。

2023/10/27
日本に伝わる宝の象徴を彫っているが、豪華な宝そのものを彫っているわけではない。見せびらかすことは控えるとか、封建身分社会の元では理不尽な理由で財産を没収されることも多く、目立たないようにするなどの処世術があったのだと思う。

2022/11/29
「宝尽くし」は、それぞれの宝の表現は異なるが、女性の着物にも、使われる柄・デザインであり、多く見かける。当時の人々、いや今の世の中の人にも、ひとしく願う冨貴への願望である。

2022/11/27
六世安親(昌親)は法眼にも叙せられており、在世時から評価の高かった金工である。この縁頭でも、それぞれの宝物の彫りは巧であるが、特に紐(ひも)の処理(笠の紐、打ち出の小槌の紐、鍵の紐など)に技量の高さが見て取れる。

2022/11/25
この縁頭は、御用商人として名字帯刀を許された当主が、自分の帯刀に、商人の出自らしい願いを込めて、「宝尽くし」の図を郷里に近い場所出身の有名金工に注文したのだと思う。今の我々は工芸品として観るだけだが、当時の発注した人、身に付けた人の思いも感じることも大切だと思う。

2022/11/23
縁頭は、柄に付くもので、柄は手で握るもの。大刀は長く、中心(なかご)も長い。だから柄も長くなる。すると大刀用の目貫は小刀(脇差)用の目貫よりも長く、大きい方がふさわしい。一方、縁頭は柄の太さ(手の握り)に関係するものである。小刀(脇差)だからと言って柄を細くする必要はない。片手で握っても、太さは変わらない。だから縁頭は小刀(脇差)用でも小さくする必要はないとなるわけだ。もちろん、大小の拵のバランスから、少し小ぶりに作る方が格好がいいと言うことだろう。この大小縁頭の大きさなどは、この考え方の通りである。

2022/11/21
今回の大刀剣市で、桂永寿の出来の良い百合図大小縁頭を拝見。大ぶりな縁頭で、詳細には拝見していないのだが、大小にも関わらず、大きさに差がない。絵柄も、大小ともに同様の図取りだったと記憶している。購入して検討したいとも思ったが、控えた。

2021/9/9
地鉄の錆付けは赤味が感じられる黒錆が穏やかに光沢が出ていて上手である。あれだけ赤錆びが出ていても、このように朽ちこみ跡もほとんど無く蘇ったことでも、さび付け技術の卓越さは理解できる。

2021/9/7
正月とかの吉日の大小拵に用いたものだろう。武士身分を許された豪商にふさわしい。各彫物の肉置きが巧みである。

2020/9/27
私の本(『江戸の日本刀』)でも記したが、幕末は各藩で武士身分を献金額で売るという行為が普通に行われていた。当然に藩が富商から借りた金額が返済出来ずに、武士身分を与えることも行われていたと考えられる。この御家は館林藩から士籍を与えられたと聞いている。館林藩秋元家は山形藩時代に水心子正秀や大慶直胤を抱えた藩である。金工も佐野直好を抱えたとされる。館林に転封された後はどうなのであろうか。この御家が士籍を受けた時期など詳しいことはわからない。
また、この御家には常陸下館の名家(伊達藩の御用も勤めていた)とも縁戚関係にあり、そちらの縁で下館生まれの土屋昌親(六世安親)に発注した可能性もある。なお六世安親は秋田藩にも出入りを許されていたという。佐竹藩は昔の常陸の縁で抱えたのであろうか。

2020/9/26
幕末は刀をテロリストが武器と使ったから、応戦する方も武用を意識せざるを得なくなり、縁頭も鉄地になったのだろう。

2020/9/25
「隠れ笠」、「隠れ蓑」が宝とされるのは、富貴を見せびらかすような態度は没落を招くという考え方があったのであろうか。

2020/9/23
各種宝物の一つずつは巧みに彫ってあるが、器物の彫りに面白さを出す、組合わせがないから、絵としては面白みが無いのだろう。

2019/1/3
紐の彫りに神経を使っている。「隠れ笠」の紐の一本はくるりと輪を描いている。「隠れ蓑」は身体に縛る紐の先は蓑の中に入れている。「打ち出の小槌」の紐は意外に複雑に持ち手を通った紐は持ち手の後ろに回り、もう一つの紐は回転させて、二つの先端を揃えている。「宝袋」の口を締める紐は堅く結び、刀袋の紐のように縛り、房を分けて垂らしている。「宝鍵(ほうやく)」の紐は持ち手孔に通して上部に房を投げている。「巻物」は堅く縛り、縛り目を見せていない。

2019/1/2
宝の中で、手が混んだ彫は「隠れ蓑」と「隠れ笠」、次いで「宝袋」と「打出の小槌」くらいだが、立体感(遠近感)、それにそれぞれを構成している素材感が出ていて巧みである。
「隠れ蓑」と「隠れ笠」は危険から身を守ってくれるという意味で宝物とされているが、封建制度の元、「金持ちは目立たずに生きろ」というような自戒を籠めた紋様ではなかろうか。

2019/1/1
土屋昌親は鑑賞記に記したように、土屋国親(五代安親)の長男として下野国下館で生まれ、諸国を遊学して江戸新橋付近で開業し、三十三歳で剃髪した。六世安親を襲名したのは嘉永三年(1850)で、父である五世安親の逝去(1852)前である。そして万延二年=文久元年(1861)に逝去する。逝去時の年齢を仮に六十歳程度とすれば享和年間(1801~1803)の生まれである。清寿は文化元年(1804)から明治9年(1876)の73年の生涯であり、ほぼ同年代である。だから清寿のもとで修業したという伝承(金工事典)は違うと思う。
なお、この作品は花押から最晩年(安政七年=万延元年=1860)の作品と考えられる。秋田藩工にもなり、法眼にも叙されていて、生前から評価が高かった金工である。因みに法眼は清寿が嘉永年間(1848~1853)、一乗が文久3年(1863)に叙されている。

無銘(作者不明):笹売り(煤払い)目貫


 
2023/6/24
笹の葉も一枝だけを大きく誇張して彫り上げて笹全体の重さを象徴させ、人物はヤジロウベエの中心に据えて、膝の屈曲、腰の落としなどで安定させて、笹を持つ手はバランスを取れるような位置に配している。動きと安定感の調和も良い。

2023/6/22
顔に比較してだが、手足は大きく、しっかり彫っている。顔も丁寧で鼻も高い。着物の柄は表目貫(麻の葉)と裏目貫(七宝か?)は違う。同一人物ではないことを表しているのか、あるいは趣向で替えただけかもしれない。こういう着物の柄で時代がわかる可能性もある。

2023/6/20
実際の笹とは違って、葉の一枚を大きく彫り上げることで、笹だとわからせている。簡略化することで、かえってモノを明確にわからせている。

2023/6/17
この目貫は人物の立体感と動きが、よく表現されている。緻密に彫っているわけではないが、表目貫は笹売りであれば周囲を見回しながら行商している姿、煤払いであれば、これから掃除場所に出向くところだが、指示を受けて聞いている感じだ。裏目貫は笹売りだとすると、肩に担いだ笹の重み(一本だけであり、多くの笹を売り捌いた後だが)で腰が落ちている感じが出ている。笹での煤払いだと、天井を見上げて、掃除忘れが無いかを確認している姿だろうか。

2022/2/13
この目貫の作者を、古奈良派とか聞いたことが無い流派に想定しているのは次の理由である。①後藤とは金性が違う(脇後藤、京後藤も後藤派だから違うと思う)、②古金工の分類は便利なのだが、室町時代から安土桃山の金工を指すわけで、この目貫はそこまで古くない。江戸時代前・中期ではなかろうか、③埋忠派も有名だが、在銘があるだけに、比較すると、この目貫とは結びつかない。④吉岡派もいるが、この派は格式が高く、このような作風ではない、⑤町彫金工の祖として在銘品で知られている金工は横谷宗珉、奈良利寿で元禄時代である。横谷初代宗與は後藤家下職であり、後藤の系統である。)、⑥奈良派は幕府の錺師あるいは塗師の出身とあるが、利輝、利宗(金工の初祖)、以降、利宗→利治→利永と続く(利寿は利治あるいは利永の門人説がある)から、こんな作風があってもいいのかと思う。

古金工の範囲を江戸時代前期までにすれば、古金工とまとめてもいいのかもしれない。

2022/2/11
昔より、この目貫は優れた作と思うようになっている。この人物の表情、姿態、手指・足指の彫りや、笹を一本だけにした意匠など、なかなかの金工だと思う。

2022/2/9
このような市井(しせい)の人物が描かれるのは、いつの時代からなのであろう。安土桃山時代の名鐔工・金家に飛脚や樵(きこり)、釣り人、漁師、牛ひきなどの図があるから、桃山時代には間違いなく存在する。『刀装小道具講座 2 後藤家編』には後藤祐乗の作品にも樵夫と記載があるが、後は顕乗になるまで出てこない。
古金工という鑑定分類はいい加減なのだが、『刀装具の鑑賞』に竹竿売りの金目貫が所載されている。

2022/2/7
今回、古美濃の金目貫を購入し、後藤の目貫も含めて、改めて金性を比較した。やはり、後藤の金性とは違うものだ。

2021/12/1
この目貫は古金工の作として『刀装具の鑑賞』(尚友会)に所載されている「竹竿売図」と同じような作であり、同作者かもしれない。私が古奈良派という作者を11/27に推定したが、奈良利寿は元禄の頃の作者で、その師や親の世代は江戸時代前期(寛文頃)であり、それも古金工の範囲に含めれば、古金工という分類でも良いのかもしれない。

2021/11/29
人物の動きは腰の落とし具合と足の表現で巧みに表現し、人物の姿態は強調と省略を組み合わせて、よくとらえられている。表目貫は右腕と右肩をぐっと前面に出して、一方、左肩と左腕は持っている竹の後ろに彫ることで遠近感を出している。その身体の動きに合わせて顔は左後方横向きに彫って客を探すように彫っている。だから足も止めている感じだ。
裏目貫は、背中と右肩の間に段差をつけること無く、一体として全体を丸く彫っている。顔も上向きに彫ることで首と身体も一体化して、持っているものの重みで丸く潰れたように表現している。もっとも持っている竹は一本だけで、重たいものではないが、これも複数の竹を省略して表現しているのだろう。足は重たいものを持って前に着実に進んでいる。

2021/11/27
相変わらず作者の系統はわからないが、古奈良派という分類があれば、そういう流派の作者なのかとも思いはじめている。

2021/11/25
表目貫の人物の着物は麻の葉文様であるが、裏の人物の着物柄は何と言うのだろうか。この目貫は、全体は具象的(写実)だが、その中で特徴(顔の表情、手指、運ぶ姿態、竹の葉)を強調して彫っており、巧みだと思う。

2020/12/27
人物に軽味というべき、軽快な健康さが出ていて、しかも浮ついた軽さでないところが優れている。

2020/12/22
上の写真ではよくわからないが、金性はそれほど良くない。だから後藤本家の作ではないと思う。分家の方は資料が少なく、よくわからない。
ともかく、手指、足指の表現は実に上手である。足指は歩く方向に大地をしっかり踏みしめているし、手指は笹竹をしっかりと握り、何も持たずに胴に添えた手指も自然である。

2020/12/21
人物は腰が座っており、しかも動きが自然であり、上手な彫りである。持っている笹竹の重さも感じる。そしてどことなく飄逸(明るくのんき)で仕事を楽しむ感じが出ていて名作である。

2020/12/20
年末の大掃除の季節で、テレビに神社仏閣の煤払いの様子が映し出される。それで、この目貫を思い出す。掃除用の笹竹売りか、そもそも大掃除の姿かははっきりはしないのだが、人物は頭に手ぬぐいのようなものを被っており、やはり大掃除における煤払いの姿かなと考える。
竹が撓(しな)っているのは、絵としてのまとまりを考えたのだろう。この視点で笹の葉も数を省略し、その分、大きな葉にしている。

2020/10/6
手の指、足の指もしっかり彫っており、力強い。腰の短刀の出し目貫で付けられていると和む良い目貫だと感じる。

2020/10/3
笹の葉は本来は小さい細長い葉が密集しているのだが、簡潔に一枝の葉だけを彫り、しかもそれを異常に大きく彫っている。面白い趣向である。人間の身体も胴が短く存在感が無いが、顔と手足は大きく彫っている。こういう所も後藤系の彫りだと感じる。

2020/10/1
表目貫の正面の顔も、裏目貫の横顔も品の良い顔である。身分の高い人から見れば、この職業は下賤なものかもしれないが、顔つきは違う。

2019/7/16
持っている笹竹が弓なりにしなっている。高所掃除用の笹竹ならば、真っ直ぐの方が使いやすい。実際は真っ直ぐなのだが、絵において笹竹の重さを表現するために撓って表現した可能性もある。また目貫としての機能から、横幅をあまり広げないことに留意したのであろうか。

2019/7/5
表目貫も裏目貫も、笹を持った人物の腰の落とし具合が的確であることに昨夜に気が付く。これが持った笹竹の重さやバランス、それに人物の動きの動作を自然なものにしている。日本人の腰の座りだ。

2019/7/2
首の後ろの突起物は、手ぬぐいを頭に被り、顎に廻し、さらに首に廻して、結び目を首の後ろに持ってきている様子を表現しているのだろうか。通常ならば頭に被り、顎に廻して結ぶのだが。
突起物の先端部から元(首側)にかけて縦の線が4本ほど入っており、結び目の表現でいいかは確信できないが。

2019/6/25
首の後ろから出ている突起は何だろう。竹の枝葉ではない。首に巻いた手ぬぐいのようにも見えるが、首の前側には何もない。縦に鑢が入っていて藁束のようにも見える。竹竿の重みが肩に食い込むのを避ける為の緩衝材とも思ったが、裏の目貫を見ると、肩と竹竿の間に入っているものではなく、首の襟から出ているようだ。

2019/6/22
手、手指、足、足指も動作・動きを的確に把握して彫っている。顔に比して手は大きいが、後藤物もそうである。手指は笹竹をきちんと握っているし、足の動きは歩く速度がわかるような感じだ。
顔の目、鼻、口の表現もキチンと出来ている。後藤風であるが、この当時は後藤の彫り物の顔が規範にあるわけだから、そうなるのであろう。庶民的ではない。

2019/6/21
表裏ともに肩に笹竹を担いでいるが、笹竹の重み、長い笹竹のバランスの取り方、担いだ笹竹が首、肩にうまく食い込んでいる表現など、うまいものだと思う。

2019/6/17
ある本で、江戸時代には7月7日の七夕の時に、青竹売りから笹竹を購入して飾るが、それは育ちの早い笹や竹は不思議な力が宿っているとされていたからとの説明を読む。
七夕時の青竹売りという画題も考えられる。

2019/6/14
大掃除用に高所の煤を払う為に使う笹竹を売る人物=笹売りとの『鐔・小道具画題事典』の解説に対して、鑑賞記では、笹竹売りならば、販売用に数本を持っているのではないか、表裏ともに1本しか持っていないから、すす払いの作業をして、あるいはすす払いの作業後の人物を彫ったものではないかと疑問を呈した。
6/12に書いたように、笹の葉が異常に大きく、しかも1枝だけしか彫っていないことを考えると、販売用の笹竹の本数も敢えて1本にしているのかもしれないと思うようになる。

2019/6/13
人物の姿態は細かくは表現していないが、笹竹をバランス良く持って、歩いている感じがよく表現されている。裏目貫の姿態が寸詰まりで、腕から肩の膨らみと、背中の膨らみが同じ平面なのが不自然なのだが、裏目貫の人物は背中が丸くなってきた人物なのかもしれない。

2019/6/12
人物が持っているものが笹(竹)としても、葉を誇張して大きくし、本来は数十枚の葉があるのに1枚だけを象徴的に彫っている。表目貫は首の後ろに竹を肩掛けにし、裏目貫は前側に持ってきている。表目貫は人物は前向きで右腕の後ろに身体を凹に彫り、裏目貫は横向きで身体は背中を凸のように膨らせて彫る。面白い表現だ。

2019/6/10
この無銘金無垢目貫は鑑賞記においては作者は山﨑一賀あたりではないかと消去法的な推論で記したが、未だによくわからない。「日刀保の審査に出せばいいではないか」と大半の人は言うだろうが、売るのであればそれも一つだが、自分の勉強の為に、何度も観て、観て、考えている。こういうのも楽しみである。『鐔・小道具画題事典』(沼田鎌二著)所載の同図目貫が在銘品であれば氷解するのだが。
一見すると古金工なのだが、裏を見ると、そんなに古くはないと思う。もっとも古金工の極めも幅が広いが。後藤(京後藤も含めて)の範疇のものではと考えると、金性が後藤の本歌に比べると劣っているし、彫りにおける特徴からも違うと思う。推定している山﨑一賀は後藤風なのだが。
また江戸時代後期には下がらないと感じる。
相変わらずわからないのだが、今は、古奈良派(利寿の師匠筋、弟子筋、一門筋)もありうるかと思っている。

無銘:蜂・目貫(如竹一派?)

 
2023/8/30
この蜂の描写もそうだが、江戸時代の中期以降の博物学への目覚めも面白いテーマである。大坂の医師寺島良安が中国・明の『三才図会』にならって正徳2(1712)年に『和漢三才図会』とか、徳川吉宗の各藩に対する産物調査(享保20~元文3年)1735~1738などから、眼を向けられるようになったのであろうか。

2023/8/28
かわいらしさの元は、眼の表現が大きいが、脚の表現も何となくかわいい。頭部は眼以外は顎だが、胸部は2つに山を造り、そこに縦筋の細かい毛彫りを施している。そして腹部は7~8程度の切れ目を柔らかく彫り、その山部に赤銅の筋を象嵌している。腹部の下部は、縦筋の細かい毛彫りである。

2023/8/25
蜂は音の「ほう」から「封」の意味として、中国の絵画(影響を受けた日本の絵画も同様)などでは、縁起の良い絵とされてきた。これに鹿の絵が組み合わされれば蜂鹿で封禄となる。こういうことから、好まれた画題の可能性もあるが、この時代は単に「かわいい」図として好まれたのではなかろうか。そういう時代になったのだ。

2023/8/23
この蜂は胴体に比して羽が小さいように思えるが、実際の蜂も、このような感じである。この羽で大きな胴体を持ち上げて飛翔するのだから昆虫は不思議である。

2022/12/5
この欄の下部(2020/12/23)も、造形はこの目貫と同じだが、同種の目貫を3つほど観ている。だから、この図は人気があり、多数出回っていると思われる。蜂は音が封禄(俸禄)のホウと共通であり、縁起物として喜ばれたとも聞くが、この図の持つ可愛らしさと、如竹一派がよく彫るトンボ(勝虫)も含めて、昆虫に目を向けた時代の空気を感じる。

2022/12/3
アール・ヌーヴォー(新しい芸術)の動きとして、日本という極東の国の美術(浮世絵、金属工芸など)をジャポニズムが広がり、自然界(昆虫、植物など)の美の発掘、宝石以外の材料(金属)の活用などが、このような日本の刀装具を知ることで生まれたのであろう。

2022/12/1
いつ観てもカワイイと感じられる目貫である。上の写真では左右の目貫の大きさが異なっているが、実際は左側の目貫がもう少し大きい。「みちばちマーヤの冒険」はドイツ人原作の物語であるが、蜂は共同生活を営み、人間にも有益であり、昔から親しまれており、このような作品になったのであろう。ただ、実際よりも可愛く彫られているのは、当時の日本にカワイイを評価する雰囲気、文化があった為であろう。

2021/11/23
”かわいらしさ”の一因は、眼における目玉を内側にカーブさせた線で表現したところにもあると感じる。口の端が上に反って笑顔になっている。ちなみに、この欄の2020/12/23に掲載している土屋昌親在銘の目貫の目玉は○である。

2021/11/21
江戸時代の後期になると本草学(ほんぞうがく・漢方薬の基礎知識にもなる)が盛んになり、自然への関心が大名クラスにも高まる。徳川吉宗が各藩の動植物を本草学者の丹羽正伯に命じて享保の終わりから元文(1730年代)にかけて『諸国産物帳』を編纂させていることが嚆矢だろうか。熊本藩主・細川重賢も昆虫の図譜『虫類生写』などを明和頃(1760年代)に作成している。伊勢長島藩主・増山正賢(雪山)の『虫豸帖(ちゅうちちょう)』(1800年頃)は精密な絵で高く評価されている。次いで近江宮川藩主・堀田正民はトンボ、蝶などを描いた『蜻蝶譜(せいちゅうふ)』や『雑虫二十五種』を1830年代に描いている。
こういう流れで1840~50年代にこの目貫もできたのではなかろうか(明治維新は1868年)。

2021/11/19
数少ない所蔵品では遅塚久則の玩具図目貫における江戸のトトロと私が呼んでいる図や、柳川直光の犬(狗子)の目貫の図を、人によっては”かわいい”と呼ぶかもしれないが、ちょっと違う。この目貫の蜂の目は、かわいく見せる為にデフォルメしてある。刀装具という武士の持ち物(もちろん裕福な町人の脇差にも使われる)では、この時代あたりから取り入れられたのだろうか。
アール・ヌーヴォーとは「新しい芸術」というフランス語だが、日本からの輸出品(工芸品、浮世絵)がジャポニズムとしてもてはやされた19世紀終わり頃から生まれ、曲線を使い、装飾的(昆虫や花など)で、金属・ガラスなどの当時としては新しい素材を使い、日用品にも取り入れられている。このトンボのデザインの作品を観たことがあるが、蜂のデザインもあるのではなかろうか・

2021/11/17
”かわいい”はKawaiiとして欧米でも最近は受け入れられてきているようだ。オックスフォード英語辞書に、このスペルで所載されていると言う。英語にあったcuteとも違う概念だ。
”かわいい”=幼稚という位置づけではなく、日本では平安時代=枕草子が書かれた時代からあった”をかし”に源を発するという説もあるようだ。
小さく、愛らしく、守ってあげたくなるような意味である。
今は横文字が多く使われているが、クールジャパン(格好いい日本?)のポップカルチャー(大衆文化?)の代表的コンセプトが”かわいい”だ。
この目貫は、刀装具における代表なのだ。(大がかりの話になってきた)

2021/11/15
蜂に生気を感じる。と同時に、今の日本人(特に女性)の好む”かわいらしさ”を、この時代に先取っている。

2020/12/26
表目貫が左側で裏目貫が右側の蜂だが、右側の蜂の方が羽を広げていて目立つ。どうして、こういう配置にしたのだろうか。

2020/12/25
こういう昆虫や植物の写実的、かつデザイン化された日本のデザインが、欧州のアール・ヌーヴォーに影響を与えたのである。職人が、あまりに技術的に優れて巧緻なものを造った為に、芸術家に変化していくのである。同時にこの蜂のように親しみやすい作品は装飾品的な需要を生み出したのだ。

2020/12/24
素材は素銅であり、如竹一派の緋色銅ではないが、蜂を彫るのには緋色銅より、素銅の方がふさわしいと思ったのではなかろうか。ただ銅という金属に親和感をいだいていた作者だと思う。
如竹の娘で「娘彫り」と言われた如鉄の作ではと考えたが、突飛な考えではないと思う。

2020/12/23
この目貫も無銘であり、鑑賞記は作者として土屋昌親と如竹一派を考えた。自分で言うのもおかしいが、よく考察している鑑賞記であるから再読していただきたい。
在銘の土屋昌親は、下記の写真のように、蜂の羽の文様が象嵌ではなく彫り込んでいることが違う。この昌親の目貫には目貫の裏側の写真(HPには不掲載)もあるのだが、それを見ると、私の目貫と違って厚い地に彫っていることがわかる。この点からも違うのではと考える。
土屋昌親在銘

無銘:柳鷺図・目貫(古美濃)


 
2024/5/5
鷺はジッと気配を消して水辺に佇み、一瞬で魚を捕る。武将の作戦に喩えると、敵を油断させて討つようなイメージだろうか。同作者の「木菟図」は夜戦の戦いをイメージし、「柳に燕図」は軽快な動きでの戦いであろうか。装着する武将が戦をイメージしているとすればの妄想だが。

2024/5/1
鷺は、表、裏にそれぞれ2羽ずついるが、夫婦であろうか。鷺の一羽が羽を広げている図を表目貫にしたのだろう。

2024/4/27
金無垢だから、当然に金色一色。このように鷺(鳥)と柳を配した場合、主役の鷺が目立たなくなる。後藤家の獅子、龍は、そのものだけを彫っている。

2024/4/23
城の障壁画の画題をそのまま小さくして目貫に彫り込んだようだ。本当に腕の達者な金工だ。

2024/4/19
この目貫は中心に鷺2羽がそれぞれいるから、鷺が主役に見えるが、何度も観ていると、作者は鷺だけでなく柳も主役級に表現したかったのだと思う。幹、枝ぶりに留意している。

2024/4/15
普通だと、表裏の目貫は、メインの鷺の顔が向き合うように彫られるが、この目貫は表裏で互いにそっぽを向くように彫られている。ただし表目貫は飛び立とうとする動的な姿態、裏目貫は静的な姿態としている。

2024/4/11
当時はどこの水辺にも見られた風景なのだろう。もちろん柳は背を低くして、絵にしているが、水の流れの表現の仕方、表目貫、裏目貫ともに、2重の楕円の曲線に、水飛沫を2つ付けた流れで表現している。

2024/4/7
曲線に拘りというか、愛着があった金工に思える。同作者の手になると思われる「木菟図」、「柳に燕図」の目貫も同様である。

2024/4/3
古い時代の金工は無銘で、かつ資料も無い。断片的に伝わる金工名として、市川彦助、庄兵衛(後藤宗乗の子)、山椒与衛門、市原彫、周防山口彫、山下彫、午閑などがいるが、どのような作品なのか不明である(午閑彫の笄は某刀屋さんに存在する)。一度、これら金工のこともまとめてみたい。

2023/7/18
根が陰陽根で、作に抜け孔が多いのは後藤家の上代の作で同様で、彫りの技も同程度である。違うのは地金が「銀割」とのことで、銀の含有量が違うだけだ。彫は強いて言うと、優しく、繊細である。

2023/7/16
安土桃山時代は、絵画においても狩野派以外に長谷川等伯、海北友松、土佐光吉、雲谷等顔や俵屋宗達もおり、刀装具も同様なことだったのであろう。刀装具は無銘であり、古美濃、古金工と一緒くたにされているが、この手の目貫のように後藤家に匹敵する金工がいたことは認識しておきたい。

2023/7/14
この地金の金無垢を『金工 美濃彫』(小窪健一著)では「銀割」としているが、これは広く認知された言葉なのであろうか。いずれにしても、銀色を強く感じる金無垢である。冷たい感じというと違うが、暖かみのある色ではない。

2023/7/12
「鐔鑑賞記 by Zenzai」という長州屋さんの社員の方のブログ(2010/10/16)に、この目貫が掲載されていることを知る。掲載されている写真は私が撮ったものより、断然に良いです。ここでも古美濃として紹介されております。長州屋さんで販売されたことがあったのかもしれません。

2023/7/10
水流の表現も面白い。また表目貫の柳の幹に彫った大きな2つの洞も面白い。隅から隅まで、色々と工夫した鏨を入れている。表裏のそれぞれ2羽の鷺だが、大きい方の鷺の目は鋭い。小さい方の目は穏やかである。

2023/7/8
この目貫は陰陽根であり、抜け孔もご覧の通りに多い。後藤家で言うと光乗以前の造り込みである。柳に鷺の図、地金は銀が強い金であり、図柄は室町時代にもあるが、安土桃山時代の雰囲気である。
鷺だけでなく、柳も同程度の存在感を持つ。
柳の枝と葉だけでなく、鷺の首、それに水の流れなど、作者は曲線に拘りもある。

2023/7/6
障壁画の一部を切り取ったような絵を繊細に彫っている。鷺の首筋や柳の枝などの肥痩も巧である。線の彫り込みもしっかりしている。この手の古美濃は、「木菟(みみづく)図目貫」、「柳に燕図目貫」が同一作者と考えられるが、当時の後藤家に匹敵する。

2022/10/2
鷺は、水辺に佇(たたず)み、魚が近くに来るのをじっと待って狩りをする。そういう姿も相俟って、穏やかに感じるのだろうか。水は流れ、柳樹は揺らぐ景色だが。鷺だけでなく、絵に柳樹、水流を配したことで、品格が上がった感じもする。

2022/9/30
これ見よがしのところが無く、情景を穏やかに彫っている。

2022/9/28
古美濃、古金工と称される金工作品の中でも、ある程度、作が似ているものを、新たな分類にすることも、今後の課題であろう。この目貫や 「古美濃・柳鷺図目貫」の中で取り上げた「木菟(みみずく)の目貫」や「柳に燕の目貫」などは地金に金に銀の含有量が多い地鉄であること、画題が桃山期の障壁画に見られるものと共通していることから、障壁画風一派である。他に目貫で抜け孔が多い秋草模様中心一派などもある。研究の進展を期待したい。

2022/9/26
当時の後藤家作品(光乗、徳乗)と比較すると、濃厚ではなく、あっさり・すっきり・さわやかという感じを持つ。彫は別にあっさりしておらず、緻密で細かいところまで彫り込んでいるのだが、何なのだろう。作者の個性なのだろう。

2022/9/24
「山が高い」彫である。前面の鷺の体、柳の太い幹、柳の葉、柳の枝、波と立体的に彫られている。

2022/6/17
曲線を多用している。柳の枝、柳の幹、川の水流、鷺の首などである。これが印象を柔らかく、穏やかにしている。

2022/6/15
改めて古美濃の本を観るが、鑑賞記にもアップしている「松に木菟(みみづく)目貫」、「柳に燕目貫」と、この目貫だけが同作者で、他に同じ趣向の目貫が無いことを確認する(作風と陰陽根の造り込み)。この3つが古美濃の分類がいいのかわからないが、名工である。

2022/6/13
銀割と言うことで、銀のウェイトが高い地金であり、後藤の金地金と違って、やや冷たい感じもする。冷たい→冷静→穏やかということなのかとも思うが、まだよくわからない。

2022/6/11
威儀を正すような場における佩刀に装着したい目貫である。列席の高位の人の差料にも引けを取らないものだ。

2022/6/9
柳に鷺という画題で描かれた絵を、金工の技で目貫という小さなものに表現している。鷺も大事だが、柳樹も水流も大事と考え、手を抜かずに彫っている。後藤家が彫ったのであれば、もう少しメインの鷺を強調するのではないかとも考えた。後藤家の流儀が当時の武士に受け入れられたのかなと想像している。

2022/6/7
この目貫、購入時点よりも好きになっている。こういうものの方が芸術的な奥の深さがあるのだ。動きがある。

2022/6/5
抜け孔も多い。表目貫(写真左側)には8箇所、裏目貫(写真右側)には6箇所もある。抜いてしまうと修正も効かない。また抜くことで、立体感が際立つ効果もある。

2022/6/3
裏目貫(右側)の大きな鷺の右側、水流の中に大きな岩を彫り、水流はそれに当たって右に流れ、水飛沫(みずしぶき…2つの玉)がある流れにしている。表目貫(左側)には水流と水飛沫(2つの玉)だ。柳は根元がしっかりした大木だ。

2022/6/1
歳をとると、夜、早く眠くなる。そうすると朝が早くなる。今朝は5時くらいから、この目貫を寝床で鑑賞。鷺、柳に加えて川の流れと、裏目貫(右側)には岩も彫っている。トータルでの情景を彫っているのだ。凝った彫りというか、手を抜かない彫りというか、神経を使っている彫りだ。下絵が、そもそも細かかったのだろう。

2022/5/30
それぞれの2羽の鷺は、川の流れの中にいるのではなく、柳の枝にいる。柳の枝より高い位置に鷺を配しているのは、鷺を主人公にしたかったのだと思う。鷺は音が路と共通することから、鷺一羽を舟の舳先に止まらせた図を「一路平安」として旅の安全を祈る図になっているが、これも何かの寓意なのだろうか。

2022/5/28
私はルーペで観るのは、あまり好きではないのだが、今朝はルーペで鑑賞。鷺の顔は一羽ずつ違えて彫っている。表目貫(左)の左の鷺はたたずんで穏やか、その横の羽を広げている鷺は後ろを鋭く凝視、裏目貫の左側の鷺はさらに首を低くして安心しているようだ。その右の鷺は辺りを睥睨している目に彫っている。ここまでの印象の差は彫師が意識したと言うか、鑑賞している私の気持ちも入っているのかもしれないが。

2022/5/26
鷺は、水辺に、少しも動かずに気配を消してジッと立って、獲物が来る一瞬を待っているイメージだが、この目貫、特に表目貫(左側)は飛び立つ瞬間(舞い降りた瞬間かもしれない)も彫っているように、動きも感じられる。水の流れ(表目貫では左側に水流、裏目貫では右側)も、波飛沫を2つほど添えて動きを表現している。そして柳も葉のある枝は風に揺らいでいるように表現している。
このように動的に彫り上げているのだが、全体の印象は穏やかに感じる。こういうところが、作者の個性なのだろうか。

2022/5/24
もう一度、写真を撮り直した方がいいと改めて思う。
「手元に置いての鑑賞」における「古美濃・柳鷺図目貫」の中では、「優美な彫りで、柳は風にそよぎ、川の流れはゆるやかに動いている。鷺も飛び立とうとしているし、それなりに動きはある風景だが、全体に静かな雰囲気が醸し出されている。 そして品があって、格調が高い。」と評している。
この通りで、実に静かな雰囲気で、金地で華やかな彫なのだが、穏やかなを抱くのである。これが作者の個性なのだろう。

村上如竹(富士残映小柄

   
 
2023/8/21
宵闇の中の富士山は、朝焼けの富士山とは違って、別種の趣きがある。

2023/8/19
各種の色金は、経年変化で当初の色が変化することが多い。金以外は、銀も特に硫黄分があるところだと黒くなるし、真鍮もご存じのように磨くと金のように光る。この小柄も完成当時は、各種の色金が明瞭に出ていたと思われる。ともかく凝った作品である。

2023/8/17
如竹の生没年は明確ではないが、福士繁雄氏は「刀装・刀装具初学講座(194)」において天明元年(1781)刊行の『装剣奇賞』に所載があり、当時、弟子が7人いたことから、この時点を36歳と仮定すれば、生年は延享3年(1746)生まれと推測されている。こうだとすると62歳時は1807年(当時は数え歳)で文化4年頃の作品となる。私は、この欄の2020/8/9に、富士講を組んでの登山が流行し、特に庚申(かのえさる)の年が御縁年として重視されたことから、如竹の活躍した時代の庚申の年は寛政12年(1800)であるから、この小柄は寛政12年の作品で、この時が如竹62歳なのではなかろうか。すなわち生年は元文4年(1739)と推測した。いずれにしても正確な生年は不明であるが、19世紀初頭の作品だろう。

2023/8/15
象嵌している金属の種類の不思議さは、この小柄でも同様である。色々な配合の銀で各種の四分一を造りだして、色合いを変化させて、効果を狙ったと思うが、経年の変色か、汚れかでよくわからなくなっている。月の下に金で霰(あられ)象嵌というか蒔絵象嵌を施しているが、金の純度が違うものを混ぜているようだ。

2022/9/14
鐙(あぶみ)の象嵌師だったと伝わりますが、それ故に刀装具の金工には思いつかなかった独創的技法を取り入れられたのでしょうか。芸術には独創が不可欠であり、この意味で評価されるべきでしょう。後世の金工も緋色銅は東龍斎一派が使っておりますし、影響を及ぼしています。

2022/9/12
微妙に色目が違う金属を重ねたり、重ならないように貼り合わせたりしての平象嵌である。上の拡大図で富士山の稜線が少し下の稜線と重ならないところがあるが、これは六十二歳の老眼による衰えだったのではなかろうか。

2022/9/10
冨士山信仰は、1800年頃に盛んになる。信者は富士講として集い、「江戸は広くて八百八町、江戸は多くて八百八講、お江戸にゃ旗本八万旗、お江戸にゃ講中八万人」という唄も生まれたほどである。幕府が文政6年(1823)に富士講に対して「はめを外さないように」との通達を出している。この小柄も北斎の「富嶽三十六景」もこの時代背景から生まれたのであろう。

2021/12/13
如竹の八駿馬鐔で、如竹の独創の縮緬石目地のことに言及したが、この如竹の磨地作品を観ると、磨地の問題点が浮かび上がってくる。磨地は傷(手傷、当たり傷、擦れ傷など)が生じやすく、本来の彫りの価値を下げる。刀におけるヒケ傷と同じだが、磨地はわずかな傷も目立ちやすくなる。もう一点は金属の質にもよるが、金属は空気に触れると経年変化で変色しやすいことである。この小柄も、それらの影響を免れてはいない。
こういうことの防止策にもなる魚子地、縮緬石目地の価値を再認識する。

2021/12/11
凝った墨絵象嵌(赤銅の黒い金属での平象嵌)である。地板は銀四分一(白っぽい四分一)で、そこに四分一(灰色が強い四分一)で、棚引く雲と富士山を象嵌し、その四分一の富士山の中に墨絵象嵌で稜線を象嵌する。また墨絵象嵌でも棚引く雲を象嵌する。沈む太陽を銀で象嵌し、周りに金の光彩を鏤(ちりば)める。その金も数種類の濃度のものを使用している。富士山の麓にも濃度の違った四分一を象嵌しているようだが、手擦れ跡のようにも見えて不明である。

2021/12/9
この小柄を色揚げして、製作時の色に戻すと、富士山の稜線も、棚引く雲の微妙な色合いの違いなども明確になり、美しいものになるだろう。おざなりの仕事はしない芸術家的な金工だったと、改めて思う。

2020/8/11
富士山の麓(ふもと)あたりの金属の色の違いを何度観てもよくわからない。傷や擦れ(こすれ)もあると思うが、富士山の山体を象嵌した四分一とは別種の金属を象嵌していると考えたい。

2020/8/9
江戸時代に富士山信仰が盛んになり、富士講を組んでの登山が流行した。それは特に庚申(かのえさる)の年が御縁年として重視された。(また富士講とは別に庚申の日は神仏に祈り、徹夜して過ごす民間信仰が「庚申待」(こうしんまち)として行われていた)
如竹の活躍した時代の庚申の年は寛政12年(1800)である。幕府が富士講に対してはめを外さないようにとの通達を出しているのは文政6年(1823)である。当時の流行ぶりが想像できる。そして北斎の「富嶽三十六景」が刊行されたのは、これより後の天保2~5年(1831~1834)である。
この小柄は寛政12年頃の作品で、この時が如竹62歳なのではなかろうか。すなわち生年は元文4年(1739)と考えられる。『装剣奇賞』が刊行された天明元年(1781)で40歳くらいである。(装剣奇賞の刊行年を訂正。8/11)

2020/8/6
光則銘は別人ではないかと記したが、『刀装小道具講座3江戸金工編<上>』に「武州三縁山麓於赤羽川辺村上清次郎入道如竹光則作之」の作品があると明記されている(この本の150頁以下に村上派が所載されているが、目次には村上派は欠落している)。三縁山とは増上寺の山号で、その麓の赤羽川のあたりに住んだとなる。入道如竹光則だから、晩年銘とされたのであろう。
如竹の実弟に唯七正則がおり、「則」が村上家の通字とも考えられる。入道後に光則の可能性はもちろんあるが、如竹は通称が清次郎、名が光則、工名が如竹ということだろうか。ただし「光則(花押)」だけの銘もあり、何で使い分けているかが不明である。2代は如竹没後に襲名とあり、家督を譲った為とも考え難い。もう少し研究したい。

2020/8/4
如竹は初銘が仲矩、晩年に光則と名乗ったとの伝承が『金工事典』(若山泡沫著)にあるが、この銘のように62歳でも如竹で、そこに叟(おきな)の銘を添えている。これは他の60歳以降の行年銘の作品でも同様である。このことを考えると光則銘への改銘は無く、光則は別人ではなかろうか。

2019/11/24
口のところの口金が嵌まっていたような跡だが、裏には目立たない。「あった」と言えば、そう見えないこともないが、意識しないと気が付かない。富士山の左裾野がなだらかで右の方がわずかに急である。富士山を右側に寄せて、なだらかな左裾野を長く描いていて、構図をきちんと考えている。

2019/11/19
小柄の口のところに口金が嵌まっていたような跡(地板の褪色が四角く出ている)がある。当初はそのような形式だったのであろう。如竹の他作品に、このような形式のは見ないが、今後とも注意していきたい。

2019/11/17
棚引く雲の末端部分の平象嵌、細くして消え入るように施している。

2019/11/13
棚引く雲の表現を、平象嵌で行っているわけだが、雲の浮いている儚い感じを、よく表現できていると思う。

2019/11/12
世の中で富士山信仰が盛んになった頃に、晩年の如竹が注文を受けて彫ったのではなかろうか。葛飾北斎の富嶽三十六景(天保2年(1831)開版)よりも前の18世紀後半だろう。北斎の絵より真景に近く、雄大で神々しい。

2019/11/11
如竹という人は独創的な人で、作風も様々に変化させている。また取り上げる画題も様々である。魚類、昆虫類、動物、三国志人物、竹などを見かける。鐙の象嵌師出身というが、従来の刀装具の決まりに縛られない人だったのだと思う。

2019/11/10
大阪歴史博物館の如竹と一派の平象嵌が多くて2種類と書いたが、カタログの写真を見た範囲の判断であって、実際は違うのかもしれない。所蔵の富士山小柄も写真だけだと2~3種類程度の使用としか判断できないであろう。
金属という材料で、絵画並みの色彩感を出そうとし、全体を夜明けか、薄暮に近い頃として朧銀地にして、構築している。如竹の創造的意欲を評価したい。

2019/11/9
大阪歴史博物館で開催中の勝矢コレクション刀装具受贈記念の展覧会図録「刀装具鑑賞入門」(リンクは私のブログにアップした感想文)に、如竹と如竹一門の作品が多く紹介されている。第3章(92頁)と第5章(102~105頁)である。92頁には如竹の「橋に蛍図小柄」が紹介されていて、この作品にある「行年六十五歳」の切り銘が貴重と紹介されている。所蔵品より3年後である。
また平象嵌の作品は「竹図小柄」(素銅地に赤銅で縦絵で竹を平象嵌)や「寿老霊亀図縁頭」(赤銅縮緬地に緋色銅で平象嵌)が所載されている。弟子筋の之則、如泉(3点)、正則、如栢の縁頭も所載されている。
これらには富士山図は無いが、この小柄と同様な地鉄(朧銀)の作品は如栢や如泉にある。写真だから正確には把握できないが、金と緋色銅の2種類の平象嵌の作品はあるが、この小柄のように、四分一(富士山、雲の一部)、赤銅(富士山の稜線、雲の一部)、銀(月の上部)、金(月の下部)と4種類の金属を使ったのはない。
この小柄は保存状態が良くなく、鑑賞記においては「また富士山の麓のほうには、これも霞か、樹木の陰かわからないが、銀が少し強いような四分一で象嵌しているように見える。”見える”と書いたのは、傷なのかとも思うからである。ルーペで見ると傷には見えないが、象嵌であればどのような象嵌かよくわからないのである。ただ細かいヒケ傷も多い。」と記したが、今回改めて太陽光線の下で確認すると、傷ではなく、別種の金属の平象嵌であることがわかる。実に凝った作品である。

皆山応起:一つ葉葵図鐔


銘があるのが裏であり、図は表裏同じなので裏面の写真を掲載
2023/7/22
この鐔は何から何まで、スキの無い完璧な仕事であり、保存状態も完品である。茎孔、切羽台などの状態を見ると、松平乗完の拵に、装着もされないまま保管されてきたのだと思う。

2023/7/20
この鐔については「刀和」(397号、令和5年3月)の誌上において「三河西尾藩主松平乗完の注文作か?」と小論を発表している。これまでは次代の13代松平乗寛(のりひろ)の注文作かと、この欄(例えば2022/2/23)で推測していたが、「刀和」に発表する際に、改めて調べ直して、その先代の12代松平乗完(のりさだ)と推計するに至る。乗完も京都所司代、老中を務めている。推測の決め手は、応起との時代の整合性もさることながら、大給松平家の家紋「一つ葉葵紋」を徳川宗家に憚って使用していなかったのに、乗完が「営中に出る時も、その紋を憚らず」と『寛政重修諸家譜』に特記されていることによる。

2022/2/27
上部の円の丸味は肩がわずかに張り気味だが、下部の円の丸味は、そのようなことはない。葵の葉先の方が開放感があるように仕立てている。些少なこだわりなのだろうか。

2022/2/25
耳の円環や、葵の葉における肉置きが丁寧で、巧みである。精巧との言葉がふさわしい。

2022/2/23
「丸に一つ葵」は三河西尾藩の松平家の替紋とのことである。皆山応起は享和・文化・文政期(1801~1829)から、天保(1830~1843)が活躍時期ではと推測しているが、この時代の三河西尾藩主松平乗寛は、文政元年(1818)~文政4年(1822)まで京都所司代を勤め、以降老中に就任し、在職中の天保10年(1839)に63歳で死去している。
この鐔は松平乗寛が京都所司代時代に皆山応起に注文したものではなかろうか。

2021/2/16
全ての形状をかたどる線、全ての文様を描く線が、幾何学に裏付けられているような感じで、正確無比である。日本の数学は江戸時代の後期には完成していたが、幾何学の分野も非常に高い水準に到達していたのだと思わせるような線である。

2021/2/13
葵の葉であるが、ここまで格調が高いと、仏具に施されている植物のような感じになる。

2021/2/12
彫り口の線がムラ無く美しく、各部位の平肉の付け方も非のうちどころが無い。切羽台にも傷一つ無く、一度も使用されたことがないようだ。

2021/2/10
素材の材質は本当に質の良い最上級の赤銅で、非常に丁寧に色揚げをしている。そして、それぞれの部位における形態の彫り、肉置きは完璧である。耳の仕上げ、葵の形、全体の肉置き、その中の葉脈と周りの葉肉、切羽台の形状、小柄櫃、笄櫃の形状など非の打ち所が無い。

2021/2/9
私もそうだが、紋を彫ったものは堅苦しくて面白くないと思う。しかし”面白さ”は好みには重要な要素だが、作品の技能の評価には入れるべきものではない。ただし”面白さ”が作品の持つ芸術的感興には影響すると思う。
この鐔は技能面では完璧である。そして面白みは欠けても、別種の芸術的感興が生じる。それは格調、上品(併せて品格がいいのかもしれない)と美しさから生じる。

2021/2/8
この鐔や清寿の鬼の鐔などは、金工が鐔の形を生かして作品としている面白さがある。鐔を自分の金工作品を据える為の台にしているものとは違う(台と言う意味は、金工作品を小柄に据えても、鐔に据えても同じで、鐔だと小柄より大きく作ることができたり、数多く配置することができるという違いだけ。配置に工夫はできるが)。
この鐔は、耳から工夫している。

2020/5/11
正確無比の形状、切羽台も2つの櫃孔、丸耳の幅、葵の葉、その葉脈に言える。その正確さは葵の肉置き、丸耳の加工という立体的な面で見られる。

2020/5/7
応起は号名に麗墨堂、竹鳳堂を用いたと言う。「麗しい墨」とは、この美しい赤銅のことを言うのかとも思う。

2020/5/6
拵の他の金具(三所物、縁頭、小尻など)が、どれほど豪華なものや、格調が高いものが付けられていても、負けない鐔である。一つは赤銅の力であると感じる。

2020/5/3
4/28に大月派と絵画の四条派の共通性を述べたが、この皆山応起のことではないが、大月光興は蕪村に似ていると思う。

2020/4/30
耳の幅のほどよさ、丸耳の加工の丁寧さが、中の葵の立体感を高めているような気がする。

2020/4/29
葵紋を鐔にデザインしたものに、三葉葵を美作の中川勝継(『鐔・小道具鑑定入門』(若山泡沫、飯田一雄著)の159頁)、これも三葉葵だが紀伊の中村常親(『紀州の刀と鐔』(得能一男)の254頁)があるが、いずれも丁寧に作っている。いずれも幕末である。こういうことも、網羅的に調べれば、時代背景などがわかるのかもしれない。

2020/4/28
応起も含めて、この頃の大月派の多士済々で、それぞれに上手である。夏雄も大月派につながる。画壇の方では松村呉春(宝暦2年(1752)~文化8年(1811)を祖に四条派と呼ばれる人脈が明治から現代にかけて続くが、何か大月派に似ている感じがする。
絵の円山応挙に該当するのが一宮長常、松村呉春に該当するのが大月光芳・光興となる。

2020/4/27
形は長丸形だが、上部の方が気持ち肩が張っている。この為、葵の葉と耳との間の隙間が広くなる。下部の葵の葉茎の部分は広くない。開放感があるから、意識して鐔の形を考えたのだろうか。

2020/4/26
自分が紋の彫りの注文を受けたことを考えると、簡単に考えればどうということはないが、応起のように思案するともの凄く考え込むのではなかろうか。後藤家でも、町彫諸工でも、紋所の作品は見かけるが、紋だけに崩してはいけないとなると面白くなく、誰が彫っても同じようなものになる。だけど、この鐔は違う。苦心して二次元の形体を考え、肉取りという三次元の工夫にも神経を使っている。

2020/4/25
これは紋(あるいは文様)だから、絵のうまさ(デッサン力、構図を決めるデザイン力)は反映されておらず、象嵌の技法も施されていないが、金工として正確に彫り上げる技術は素晴らしい。形体、鏨の線、微妙な肉取り、どれだけ時間をかけたのだろうと想像する。
この肉置きが、光を反射させることで、赤銅の黒一色に変化を与えている。

2020/4/23
図柄が一つ葉葵だから、かくも完璧な仕事をしたのかと思うが、品の良さ、格調の高さは感じるが、堅苦しい感じはしない。これは作者の力だと感じる。

2020/4/21
丁寧かつ正確無比の仕事である。こういう仕事をしていれば寡作にならざるを得ないだろう。葵紋の形状、葉脈から耳、切羽台、櫃孔の全てにおいて狂いの無い仕事である。肉置きの具合も切羽台から葵の葉先に至るまで、葉脈一つずつの元から先まで狂いは無い。

2020/4/20
丁寧な肉置きで、その結果として質の良い赤銅の光沢がさらに増している。耳は丸耳だが、内側は一定の所まで丸く面を取っている。これも正確無比の仕事である。

2020/4/19
鑑賞記にも記したが、生没年の詳細はわからないが享和・文化・文政期(1801~1829)から、天保が活躍時期であろう。私は大月光芳(?~1816)の弟子で、大月光興(1766~1834)よりも年長だと考えている。
応起(まさおき)は応興(まさおき)で、大月派は光芳の弟子として光興、応起(応興)、孝興(この末流に加納夏雄)がいて、光興の弟子に川原林秀興(1788~1851)、その弟子に篠山篤興(1813~1891)と「興」の字を大事にしている。その「興」を「起」に変えるのは大きな理由が生じた可能性もあるが、銘字で応を「應」と切るので「應興」だと画数が多くて銘字の収まりが悪い為に改銘したのかもしれない。

(三宅)自立軒英充:根曳き松図小柄


2024/3/6
地味な図柄でどうと言うことは無いのだが、何かわからない魅力があって力強い。

2024/3/2
根の彫りも力強い。根があってこその成長だ。

2024/2/27
こんな地味な図柄だけれど、華やかさを感じる。

2024/2/23
若松の先端部分の葉3枚の輝きが違う。金でも別種の金を象嵌したのか、あるいは造り込みにおいて、少しこの3枚を盛り上げているから、金の輝きが違うのであろうか。あるいは、この3枚の葉の形状が違い、厚みのある金をかぶせているからなのだろうか。
いずれにしても効果を上げている。

2024/2/19
何の変哲も無い図柄だが、何とも言えない力がある。この力を言葉にしにくいのだが名工だと思う。

2023/5/20
横谷宗與の弟子と伝わるが、この根曳き松という地味な画題でも、私が豊潤、華麗という印象を持つように、横谷派らしい豪華、絢爛の作風なのだろう。

2023/5/18
以前に、三宅英充の作品は、この作品以外に見ないと書いたが、「自立軒」と花押の作品が、『刀装小道具講座3江戸金工編(上)』に四神図目貫(青龍、白虎、朱雀、玄武)の図版と、銘字の掲示は無いが鶏図目貫…いずれも金地容彫…の作品が掲載されている。今まで三宅友英の作品と思っていたが、自立軒は英充で、友英は自立斎であった。写真は白黒で詳しいことまでわからないが、ともに緻密に彫った作品である。

2023/5/16
松の枝葉は、こじんまりとまとまっておらず、それぞれが思い思いに枝葉を伸ばしているのだが、全体として調和が取れている。思い思いに枝葉を伸ばしている様子が活力、豊かさ、生命力などの印象を生むのだろう。

2023/5/14
今日は、この作品から艶(なま)めかしさを感じる。

2023/5/12
以前にも書いたことがあるが、醸し出される立体感が名工と称された一因であり、作品の魅力の一つなのだと思う。

2023/5/10
豪華というか、華やかな作品である。箱を開けると、一挙に広がる華麗な世界に目を奪われる。

2022/11/19
以前にも書いたと思うが、何とも言えない生命力を感じる。このような生命力を感じさせる名作と創り上げた金工が夭折したのは残念である。

2022/11/17
初見の折に「豊穣」な作品と感じたと書いたが、今は「豊潤」という言葉の方がふさわしいと感じる。また観て、観ていくと、印象は変わるかもしれないが。

2022/11/15
三宅英充は36歳で夭折した名工であり、現存している作品として、私は未だにこの作品以外を拝見していない。また図版も見つけられていない。弟子というか一門の作品はあり、不思議である。

2022/11/13
根曳き松とは、正月の子(ね)の日に、根ごと抜いて正月の門松にしたそうである。地に足が付いた成長(発展)を期待したものとも言われている。同じことだが「行く末が頼もしく」という願いもある。
琴や三味線、尺八で演奏する「根曳きの松」という曲もある。
こういう伝承は薄れていくのだと思う。こういう”縁起””言われ”も鑑賞には大事だが、そういうものを離れても、楽しめ、心に響く名作である。

2022/11/11
松の葉枝の立体感も不思議に感じられる。名工である。

2022/11/9
根曳き松というよりは、若松の生命力を感じさせる。この小柄を求めた人は、その生命力に勇気づけられたのではなかろうか。

2022/11/7
部分ごとに上手いとか言う作品ではなく、全体として力がある作だ。こういうのは相当な技量を持つ工人ではないと、難しいのではと思う。

2022/11/5
写真ではわからないかもしれないが、この小柄から出てくる豪華な印象は凄い。別に豪華なものを写しているわけではないのだが、作者の力なのだと思う。

2022/11/3
写真ではなく、実物を拝見すると、より立体感が出てきて、上に彫られている松の枝葉は、こちらに枝を伸ばしているように見える。現存する実物が少ないが名工だと思う。

2022/3/22
絵画は彫金と違って基礎的な習練は少なくて済む。小さい時から紙にモノを写すことをやっている。彫金は下絵における絵画とは別に金属を彫り上げるための技術の習練が必要になる。夭折の画家には20歳代前半からいいものが残されているが、刀装具の分野はもう少しの期間が必要であろう。そして死までの期間が短ければ作品は少ないのは当然である。
刀装具界では後藤即乗が32歳で夭折している。後藤栄乗も41歳で死去している。彼らは名門後藤家に生まれ、早くから英才教育を受けていたわけであり、三宅英充とは違う。

2022/3/19
一枝ずつがてんでに存在感を出しているような印象を持つ。それが絵全体から感じる強さ、存在感を出しているのだろうか。

2022/3/17
実用の道具だから、高彫と言っても、そんなに高くは彫り上げないのだが、この小柄は立体感が見事である。その要因は、松葉を重ねるような図取りと、それぞれの松葉の肉取りを中高にして枝全体に膨らみを持たしていることによる。金色の松葉が盛り上がっているわけだから、見る人には、より迫ってくるのだと思う。

2022/3/15
「自立軒」と号を名乗っているが、自らの才能に自負を持ち、自立していこうとの気概を持った人物だったのだろうと想像する。その気概が彫技に出ている感じだ。

2022/3/13
この図柄、別に華やかな図柄ではないのだが、この小柄を拝見すると、豪華という印象を受ける。この写真では良さが伝わらないが、目を惹く彫である。松葉の金が柔らかく山型にカーブを描いているから、盛り上がって見え、それが印象を強めているのだろうか。

2021/11/5
清新さを感じると同時に華やかさを感じる。相当な技量だと思う。

2021/11/3
36歳で逝去しているので、本人の作品は私も本や図録も含めて、この一点しか知らない。稲葉通龍が『装剣奇賞』の中で「児島氏(江戸人、委ク付録ニ出)見所ありと、其志を励し、今已(すで)に名人と呼るるに至れり、其工は後編に評すべし」と記述しているが、英充の資質を見いだした児島氏をもう少し調べてみるのも面白いと感じる。
毛利家の抱え工だから、毛利家関係の刀装具に現存品があるのだろうか。

2021/11/1
この作者はスケールが大きい気を感じる。

2021/10/30
今日は爽(さわ)やかな感じもする。これまでの鑑賞記を読むと2020/12/12に「清新さ」、2020/12/17に「清々(すがすが)しい」との印象を記しているが、同様な感じである。

2021/10/28
観た時の印象で、どういう点がと言われると説明しにくいのだが、彫りに自信が満ち溢れている感じがする。

2021/10/26
こぢんまりと図をまとめようとしないで、ノビノビと彫っている。名工だと思う。

2021/4/3
この小柄は裏の仕立てが実に丁寧で上手なことも特記事項である。裏の写真は手元に置いて鑑賞の当該ページを見ていただく必要があるが、写真では限度がある。鑢は細かく、そこに玉を所々に散らしている。

2021/4/1
それぞれの若松の葉が伸びよう伸びようという感じがする。これが生命力を感じる理由なのだろうか。

2021/3/30
三宅英充には、他にどのような作品があるのだろうか。夭折した名工だが、三宅派と言う流派を興し、その門流の大きさなどを考えると、不思議な感じがする。夭折の天才→孤高の作風、孤独を感じさせる人柄と連想するが、毛利家の御抱えとも伝わり、どういう人物だったのかと興味が募る。

2021/3/28
根曳き松の図の小道具をどこかで観た記憶があると書いたが、『京後藤の研究』(笠原光寿、秋元繁雄著)の後藤順乗(勘兵衛家、寛永~元禄)の作品(76頁)と、後藤悦乗(理兵衛家、寛永~宝永)の作品(140頁)の作品を見つけた。
カラー図版で無いので、厳密な比較はできないが、英充も含めて、順乗、悦乗の作品も根を右、枝葉を左に彫るという大きな形態は同じだが、細部はそれぞれに違い、興味深いものだ。英充は根がまとまっていて、葉が大きい。華やかな感じがする。悦乗は品の良さを感じる。

2021/3/26
立体感を強く感じる。根が付いた若松がある感じだ。

2020/12/18
毎回、言葉は変わっていても同じ気分を言っているのかも知れないが、力強い作品なのだ。何なのだろう。枝の先が浮き出てくるようにも見える。

2020/12/17
観ていると豊かな気分になり、活力が出る。同時に清々しい感じもする。

2020/12/14
この根の描き方(彫り方)は既視感(どこかで見た記憶)がある。しっかりした根である。

2020/12/12
松の葉は抽象化されている。このような若松の描き方(彫り方)は先人の作品にあるのかもしれないが、抽象化することで、若松が持つ気分を強く表現できていると感じる。その気分とは豊かさ(めでたさ)、清新さ、生命力(たくましさ)、成長力などである。

2020/12/9
この小柄の凄いところと言うか、三宅英充が只者では無いことは、下地の魚子の粒が実に細かいことが一つである。一乗の下地魚子も細かいが、それとは別種の細かさである。もう一つは裏の哺金の鑢目の細く細かい点と、そこに玉が付くのだが、その玉も細かく、キラキラとした点に見えるところである。

2020/12/6
松の葉の中で、中程の上部の松の葉だけは3本の葉になり、2本一組の松葉とは異質である。また群生しないで、この3本だけである。何か意味があるのだろうか。不思議である。この3本は長さも長い。

2020/12/4
この華やかさは、金の量が多いことも一因だろう。金無垢の龍や獅子は全てが金色だが、これは松葉の形に金象嵌で、葉と葉の間が開いていて赤銅色(黒)が入ることで、一層に金が引き立っている。加えて葉を山なりに彫ってある肉置きが、光に変化を与えて華やかなのだ。いい小柄である。

2020/12/1
根引き松は正月に飾ったが、西洋ではクリスマスに樅の木だ。冬の歳時に針葉樹を飾るのは東西共通の心情があるのだろうか。

2020/11/29
艶やかな存在感のある作品だ。根引きの小松は、これから大きく成長するのだ。伐った松は、それで終わりだが、根引き松は今後の成長の可能性があるのだ。そして常緑樹の大木として、松竹梅の首座に置かれているのだ。
大きく成長する可能性を秘めた若松も、根ごとに引き抜かれた為に枯れる。天才英充の夭折を暗示しているのか。

2020/11/27
この小柄の画題は面白いものではないが、それをこれだけ魅力的に彫れるのは作者:三宅英充の技量なのだと思う。各種図録に、この人の作品が掲載されていないから、真価が見極め難いが、色使いの巧みさ、彫技のキレの良さ、センスの良さなどを感じるから相当に腕の良い金工なのだ。

2020/7/28
松葉は金の色絵だと思うが、ルーペで観ると、表面だけでなく、側面も全て金で覆われている。そして松葉一本ずつの側面も微妙に面取りがしてある。これらの工夫に、金の材質そのものの純度の高さが相俟って、鮮やかな金色が目立つのであろうか。

2020/7/27
今日は絵の部分を拡大した写真を掲示したが、この迫力はどこから来ているのだろうか。松葉の先端は直線的に切り揃えていることがわかる。根元近くの松の枝は下に2つの枝があるように彫られている。こういうのが盛り上がって見える所以(ゆえん)なのだろうか。

2020/7/26
松葉の面取りが巧みなところが、浮かび上がって見える所以(ゆえん)なのだと気が付く。細かい松葉の中央だけを盛り上げるような面取りで、それら松葉を持った枝が重なり合う。名人だ。

2020/7/24
絵=根曳き松が大きく見える。物理的にも大きいのかもしれないが、このように見えるのは作者の力量もあると思う。

2020/7/22
松葉を持った枝のそれぞれが浮かび上がって見える。どういうわけで、こう見えるのかがわからないが、相当の力量である。

2020/7/21
画家にカラリストと称される色使い(色の選び方、組合わせ方)に天性のセンスのある人がいる。梅原龍三郎などがそうである。刀装具の色は赤銅、金、銀、四分一、素銅など限られたものだから、英充にカラリストの称号はふさわしくないが、何か色を美しく使うセンスがある人と感じる。観ると華やぐ感じがする。根曳き松なんて言う地味な画題にも関わらず。

2020/7/20
金の使い方が上手というか、天性のセンスがあった人なのだと思う。

2020/7/19
鑑賞記に記したが、寛延二年(1749)~天明四年(1784)の36歳の生涯を送った夭折の名工である。岩本昆寛とほぼ同時代である。短い生涯にも関わらず三宅派という流派を興し、作品の残る弟子として英政、友英(北休)、英光、英秀、英直、英茂などがいるが、総帥の英充は夭折した為に作品は少なく、私もこの1点だけしか拝見したことがない。
初見の折、ただものではないと思う。鑑賞記では「実に力強く、生気が宿り、迫力を感じる彫り」と評したが、初見の折は”豊穣”な作品という感じを懐いたことを覚えている。



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