オタクの鉄鐔愛玩日記も膨大になりましたので、(肥後鐔)と(その他)に分けます。以前は刀装具の方に含めていた拵も肥後拵ですので、ここに含めました。 |
遠山頼次 | 無文碁石形(素文改め) | 2024/12/4 |
平田彦三 | 二引き両透かし | 2024/9/10 |
平田彦三 | 色金丸線鑢文 | 2024/5/15 |
林又七 | 王者又七 | 2024/10/12 |
林又七 | クルス透かし | 2024/8/9 |
林又七 | 置縄枯木象嵌 | 2024/9/22 |
初代勘四郎 | 巴桐透かし | 2024/3/20 |
初代勘四郎 | 御紋図・縁頭 | 2024/4/5 |
志水初代 | 梟図(帰家穏坐) | 2024/4/21 |
志水初代 | 放れ牛(騎牛帰家) | 2024/7/23 |
二代勘四郎 | 巴・桐透かし | 2024/7/3 |
林重光 | 三つ浦透かし | 2024/11/6 |
林藤八 | 枝折竹透かし | 2024/7/27 |
林又平 | 茗荷蕨手透かし | 2024/2/29 |
神吉深信 | 雪輪花桐透かし | 2024/10/28 |
神吉楽寿 | 笠透かし | 2024/12/21 |
中根平八郎 | 左右大透かし雷文繋ぎ銀象嵌 | 2024/5/24 |
2024/4/21 この梟が止まっている松の枝は太い。鐔(高彫り象嵌も含めて)でここまで太い松の枝を表現したのは無いのではなかろうか。こういうところにも志水仁兵衛の特異さがある。 2024/4/17 下部の太い松の止まり木の下から、この枝を潜らせた細い枝を表現しているが、これは遠近感の工夫だと思う。梟の身体は遠近感を無視し、ここは変わった遠近感。面白い鐔工だ。 2024/4/13 この鐔とは長いお付き合いになる。梟の顔面、背中、腹が遠近感無視でつながっている。技術が拙いというよりは、ピカソがキュビズムで人間の色々な部位をつなげた手法の先駆けとも言える。 2024/4/9 以前は、梟に「見方が浅い。もっと観ろ」と言われているような気がしたが、今は静かに見つめられている感じだ。当方の心境の変化なのだろうが。 2023/5/19 今の時代は明治金工がもてはやされる時代であり、鉄鐔は人気が無いと思う。一昔前には笹野大行氏をはじめ鉄鐔蒐集の大家が牽引役となって透かし鐔の本を上梓されたりして、その魅力を啓蒙されていたのだが。ただ、鉄鐔の良いものは昔から稀少であった。 2023/5/17 この鐔は禅の「帰家穏坐」を寓意しているのではないかと述べたのは私がはじめてだと思うが。40年近く愛玩してきた結果であり、当方の年齢のせいでもあると思う。牛の鐔の「騎牛帰家」と同様である。 2023/5/15 止まっている松の大きな枝の描写が面白い。途中で折れたような松の枝で、この大きな枝の後ろ側から顔を出すように小枝を顔を出させることで、遠近感を表現している。途中で折れたような大きな枝は、何か意味があるのだろうか。 2023/5/13 こういう鐔を佩刀に掛ける武士はどういう性格の人だったのであろうかなどとも考える。私が、この鐔に強い愛着を持つゆえに、往時の武士も、私と似た性格だったのであろうか。 2023/5/11 この鐔が机の前の鐔立てにあると、独特の存在感があり、私の行動を見つめ、見ている。行動に対する評価などは何もしないで、ただ見詰め、見ているということだ。見守りも、励ましも、叱責も、慰めもしない。こういうのが禅なのかなと感じる。 2022/7/22 志水初代仁兵衛は、櫃孔が変わっている(このページの放れ牛図鐔も参照)が、この鐔は両方ともに州浜形の尋常なものに見えるが、それでも小柄櫃孔と笄櫃孔の長さが異なり(小柄櫃孔が小さい)、また、特に笄櫃は細長い感じで、異風である。 2022/7/19 40年以上愛玩して観てきているが、この鐔が帰家穏座の精神を表現していることを理解したのは最近だが、刀剣・刀装具の趣味も、色々と手を出してきたが、当初に惚れたこの鐔や兼光に戻るような感じなのかとも思う。 2022/7/17 滾る(たぎる)個性が志水初代仁兵衛の芸術なのだが、作者自身と支援者は禅の教えを絵(鐔上の彫り)にしようと思ったのだ。 2022/7/15 この止まり木の右側の太さも半端ではない。右の端を上部に上げて彫り上げる発想も不思議である。 2022/7/13 先日、何かわからない「深さ」を、この鐔から感じたことを記したが、その「深さ」は、この梟の目からも感じる。見ることは簡単なのだが、観ることは何度も何度も観ないとわからないのだ。 2022/7/11 深く、深く。今日はそんな感じを抱く。何が深いのか、自分でもよくわからないが、深い闇の中にいるということか、あるいは表現しようとしている精神が深いのか。 2021/11/24 丸く象った松の葉を、枝に付けないで彫るという発想も凄いと思う。凡人の私なら、松の葉を支える為の枝を彫ってしまう。 2021/11/20 朝、ほの暗い机上の物陰に置いた鐔立てのこの鐔。浮き彫り部分が光沢で浮き立ち、静かな風情で感じの良いものだ。 2021/11/16 夜の世界の猛禽類の梟が松の枝上に留まっていることで、猛(たけき)武士の帰家穏坐を表現したのだろう。 2021/11/12 「帰家穏坐」(きかおんざ)の意味は2017/10/14に記したように「家に帰って落ち着くように、人間が生まれながらに持っている仏性に帰入して安らかになる」ということだが、作品そのものからの印象は、そんな穏やかな印象ではない。これは志水仁兵衛の個性なのだろう。 2021/11/10 両脇に、志水初代仁兵衛の梟図(帰家穏坐)の鐔と、同じく放れ牛図(帰牛帰家)の鐔を置いている。鉄鐔収集家冥利に尽きる(これ以上の幸せはない)。強烈な個性を発揮する作品の中における一種の穏やかさがわかってきた感じがする。 2021/4/14 帰家穏坐の意を絵にして彫り上げたのかもしれないが、志水初代は心にたぎるものを持った人物だったのだろう。梟は闇の中で目を凝らしている。私のような人間には、鑑賞眼がまだまだだと言っている眼だ。ある人に取っては人物鑑定眼が甘いと言われているようにも感じるだろう。 2021/4/11 下部の大きな枝に、その大きな枝をかいくぐるように、細い枝が出ている。この図取りの発想は他の絵画にあるのだろうか。私が知っている範囲(狭い範囲だが)では見ない。ユニークな点だと思う。大きな枝から梟の右側・尾羽の方に鍵状の枝も出ている。これも不思議な形状である。、 2021/4/9 肉彫りした対象物の外縁を丸みを帯びて落としていく平肉の肉取りは、夜の闇に対象物が溶け込むような効果を上げている。 松葉の円形も中心が高く、円周にかけて肉が落ちる。松の枝も尖端にかけて肉と落としていく。梟の頭部も上部は肉を落として丸みを出していく。梟の尾羽根は枝と接する所は肉を落とし、さらに尖端も落としている。夜の闇に溶け込むような感じだ。 2021/4/7 松葉を丸く描くというのは、志水仁兵衛の独創ではなく、当時の日本画にあったのだと思うが面白い発想だ。この丸い松葉には銀布目象嵌が施された痕跡がある。裏は右下に丸い松葉を2つだけ彫り、そこにも銀布目象嵌だ。 松の枝先の肉彫りが段々細く、肉置きも低くなっているのも巧みである。 2021/4/4 迫力は志水仁兵衛と言う人間から発せられた力なのだろう。この力は鐔はかくあるべしとの信念や、作品で伝えたい思い=それは信仰などから来るものなどであろう。ここに禅の思想があるとも思うが、確信は掴め無い。不思議な鐔だ。 2020/10/11 この鐔に「帰家穏坐」の穏やかさを感じるようになったのは当方の老境もあるし、目が進んだ面もあると思う。40年近く、観ているのだ。 2020/10/9 このページの2017/10/14に記したように「帰家穏坐」(きかおんざ:禅の言葉であり、解釈に小異はあるが「家に帰って落ち着くように、人間が生まれながらに持っている仏性に帰入して安らかになる」)という意味で、穏やかな感じがするが、目は安らかという感じでもない。 2020/10/4 以前にも触れたが、この鐔にしても放れ牛の鐔にしても、禅の影響を受けたものだろう。現時点では、こう考えるのが一番しっくりくる。 2020/5/10 「もっと観ろ。見方が浅い」と言っているのだが、最近は穏やかな感も持つ。 2020/5/6 今、鐔立てに、この鐔と放れ牛の鐔を掛けている。志水初代は不思議な感性の持ち主だと思う。彦三の甥と伝わるが、彦三が見守った感性なのだろう。さらに言うと細川三斎が認めた感性なのだと思う。もっと広げて言えば当時の茶道の育んだ感性なのだ。 2020/4/28 松の大きな枝の下に、小さな枝をくぐらす発想も面白い。独特の遠近感だ。 2020/4/25 枝の先に松の葉を丸く表現している。元は銀の布目象嵌が施されていたわけだ。松の葉と枝を付けることを気にしていない。枝に離れて浮いている。不思議な鐔工の発想だ。 2019/11/13 志水初代の遠近法は独特だ。今の我々からすると、遠近法ができていないになるのだが、梟の腹も背中も一緒の平面に収める。首もそうだが、嘴を左に向けることで補っている。下部の枝は大きな枝の下に小枝を入り込ませることで遠近感を出すのだが、松の枝があらぬ方向に曲げられて驚いている。 2019/5/9 『細川忠利』という本の内容は「刀装具の鑑賞・鑑定ノート」で紹介したが、その中に当時の細川藩の家老クラスの家が紹介されていて、細川家と同じく室町幕府の同朋が大半とある。列挙している家老の一人に志水伯耆5000石がある。 志水初代は「先祖附」の中で、平田彦三の甥で、「明智家の御家老志水丹左衛門と申す人に由緒がござそうろうに付き、家督後名字を志水と相改め申し候」とある。 以下は想像だが、明智光秀は室町幕府奉公人(江戸幕府で言う旗本)の家の出身で、細川幽斎と同僚で信長に仕え、引き立てられる。同じく奉公人の一人に志水丹左衛門がいて光秀に仕え、明智家滅亡後は細川家に仕え家老となり、その縁者に志水仁兵衛がいる。 2019/4/30 梟の図柄は信家にもある。「中村覚太夫信家鐔集」の10図、29図である。これは押形の図版であって明瞭にはわからないが、秋山久作の解説には枯れ木に梟とある。 2019/3/11 梟も群れない鳥だ。鷹もそうだが仲間と群れずに孤高に生きる。こういう心境が好みだったのだろう。 2019/3/6 この梟の目を見ていると「お前はきちんと観ているのか?」と問いかけられている気がすると、過去にも書いたが、私が美術品を鑑賞、あるいは人物評価をするに当たっての反省を促してくれる。刀剣女子やふくろうカフェに行く女子は「かわいい」と言うかもしれないが、厳しい鐔である。 2019/3/4 横に大きく伸ばした松枝(まつがえ)の樹皮を表現した彫りも面白い。無造作に削り取ったような彫だ。だけど意外に神経を使う彫りではなかろうか。 2019/3/2 同じ初代の「放れ牛・騎牛家帰」図鐔の鑑賞記で、志水初代のキュビズムに触れ、その時にこの鐔のキュビズム(遠近感無視の形態革命)についても触れたが、梟の様々な部位の羽を同平面に彫っていて、本当に凄い発想だ。 下部の松の枝では太い枝の向こう側に細い枝を持って行く遠近感を表現している。そして、その横の丸い松葉の塊は枝を離れて空間に浮かんでいる。 2018/10/21 日本美術の奇想の系譜の一人として、白隠の画が挙げられている。白隠は禅僧でもあり、その白隠の前に、この志水初代仁兵衛が位置づけられるのではなかろうか。 2018/10/19 海外旅行に出向き、寝床に鉄鐔が無い暮らしが続いた。この鐔は下部が上部より少し脹れている撫角形だが。茎孔を対象軸とすると少し左側下部の方が下に引っ張られているようだ。右下部には松の幹があり、左下部は松の先端が抜けた空間という彫り面の高さによる錯覚かもしれないが。 2018/8/19 この鐔も、放れ牛(騎牛帰家)の鐔も、志水初代の作品は、観る人に問いかけて来る感じがする。それだけ作家意識が強い鐔工だったのだろう。あるいは製作時の思いがよほどに強い人物だったのだろう。 2018/7/31 梟の廻りの地鉄や、松の木の廻りの地鉄は、輝く鉄錆ではなく、一種荒れたような地鉄だが、これは作者の意図で、このようにしたのだろう。梟と松の枝を闇夜から浮かび上がらすためだ。 2018/2/28 江戸時代の絵画の中から辻惟雄は『奇想の系譜』として、伊藤若冲など当時の画壇における異端の人を取り上げた。鐔工の中から選べば、志水初代仁兵衛はその一人となるだろう。 2017/10/16 この鐔を購入したのは昭和57年(1982)12月20日であり、35年間観てきたことになる。今、思っている作者の狙い「帰家穏坐」が正しいかはわからないが、自分の眼が進んだのか、あるいは老境になった私の心境の変化を表しているのかはわからないが、感慨に耽っている。 2017/10/14 では禅の図であるとすれば何を意味しているのであろうか。現時点では「帰家穏坐」(きかおんざ:禅の言葉であり、解釈に小異はあるが「家に帰って落ち着くように、人間が生まれながらに持っている仏性に帰入して安らかになる」)を意味して制作したのかなと感じている。 「放れ牛」図鐔が「騎牛帰家」図であるのと同じような心境なのかと感じてきた。 2017/10/10 狩野山雪の梟は「松梟竹鶏図」として、もう一双には「竹鶏」だ。その「竹鶏」図の重要文化財(浅野家旧蔵)が、東京国立博物館にある。作者の蘿窓は南宋末の禅僧で、牧谿と並ぶと評価される。自賛によれば本図は五更(午前四時)の時,未明の幽暗の中に文,武,勇,仁,信の五徳を備えるといわれる鶏を描いたものであり、その姿は五更の時に大悟した禅僧の姿のようにも思われると画評にある。 元々は禅で好まれた図なのかもしれない。 2017/10/7 狩野山雪は京狩野の狩野山楽(永徳の画風を継ぐ)の養子で、父と同様な作風だけでなく、水平・垂直を規範とした装飾性の強い幾何学的構図や、形態の執拗な追求や精神性を感じる造形など、奇矯な表現を先行した画家として、伊藤若沖や蕭白などの個性的画家の先駆者と言われる。『本朝画史』の草稿を書いた人物でもある。 2017/10/5 狩野山雪の作品に「松梟竹鶏図」(根津美術館蔵)があり、この梟は面白い描写だ。狩野山雪は異端の画家の嚆矢で、面白い人物だ。志水初代と同時代だ。 (根津美術館 https://twitter.com/nezumuseum/status/566092188912603137) 2017/10/4 「放れ牛」の図が「騎牛帰家」図であると、この梟の鐔も何か禅に関係する画題なのかもしれないと思い始めている。 2017/2/22 鐔に茎孔も無視するように大きな絵を据えたものとして、この鐔と東龍斎清寿の鬼の鐔、それに安親の象の鐔くらいだ。この3人が独創三大鐔工と思う。 2017/1/8 松と思うが大きな枝である。そこに大きく梟を止まらす。梟のそもそもの大きさを考えると、大きな枝と言っても、そうでもないのかもしれない。もっとも、そう考えると、この大きな枝の下から出ている枝の細さはこれでいいのかとなる。色々とアンバランスなものをまとめて絵にする力。 2017/1/7 今年は酉年。酉とは鶏と思っているが世間では鳥であればということで、種々な鳥をTVは放映している。「鳥カフェ」なるものもあって、そこでもフクロウは人気で、それに触れて癒やされるなどの場面を映していた。 この鐔の梟は私が大事にしているもので、観ることで癒やされているのかもしれないが、鑑賞の都度、「おまえの目は大丈夫か?」と鑑賞力を確認されるような気になる。 2016/12/3 伊藤満氏から、肥後八代には「八代異風者」(熊本では”いひゅうもん”と言う)という言葉あると教わる。八代の人は変わった人、個性の強い人が多いということらしい。志水家は八代で栄える。”いひゅうもん”に好かれた鐔工なのだ。 2016/12/1 留まっている松の幹、枝が主幹の裏側から出ているというのも面白い。有名な真鍮据文の鷹の鐔と同じ趣向だ。松に鷹は画題であるが、松に梟は留まるのだろうか。そして、左の方には、松の枝葉が丸く、宙に浮いて彫っている。枝などを彫らない発想は凄いと思う。また右側にあって上部に伸びている枝は梟の身体から出ているみたいに彫っている。 2016/11/30 しかし、わからない鐔工だ。そして、この鐔工を存在あらしめた当時の肥後の需要層も理解できない。買う人、求める人、愛好する人がいるから、このような鐔が残っている。 2016/11/18 この鐔は、図取りは大胆だが、施された毛彫りの細部はなかなか細かい。それぞれの羽毛を表す毛彫りを区別して、そこにおいては同じ調子のタガネを狂い無く揃えている。尾羽根の上の斜めに横線的に彫った彫りだけは平行線ではなく、乱雑である。 そして嘴における起点部分(鼻部分)に当たるところのタガネはきれいに打ち込んでさすがである。 2016/9/11 梟の右から上に伸びている木、枝の先端は浮彫が浅くなって地に吸い込まれている。だから梢が背後の闇に溶け込んでいる。 2016/9/10 夜明け前、窓が白み、ほのかの光が寝床に入る。その時に、この鐔を観ると、そのほのかの光によって地鉄が輝き、まさに闇夜に梟が浮き上がっている。改めて、この魅力を再認識する。 2016/9/9 梟の部位ごとの区切りの線を使わないで済ます発想は凄いと思う。顔とか、頭部とかの線をどうしても書きたくなる。そして毛彫りを変化させて頭部、眼の周り、眼、嘴、周りの髭、背中、腹部、背中下部、そして止まり木を経てから、尾羽とそれぞれの毛彫りだ。面白い発想だ。 2016/9/7 ところで、この梟が止まっている木は何だろう。丸い中に放射状に毛彫りしている葉から、松の樹としてきた。真鍮象眼の鷹を据えた鐔の木も松としている。生態的に梟が松に止まるかはわからない。今までは気にしていなかったが、改めて考えると面白い。樹皮も直線的に大胆に入れている。そして枝振りも独特で迫力がある。向こう側に枝を出すような独特の遠近感だ。面白い鐔工だ。 2016/9/6 この鐔の裏は、松葉を丸く毛彫りして銀の布目象嵌を入れただけである。『平田・志水』(伊藤満著)には真鍮象眼の梟図の鐔が4枚掲載されているが、1枚は松の枝を真鍮象眼、他の3枚は細い三日月である。内、2枚は真鍮象眼、1枚は銀布目象嵌である。松の枝を真鍮象眼した鐔は表側に三日月が真鍮象眼されている。他に鳥居に梟が乗った鐔が掲載されているが、それは裏に三日月の銀布目象嵌だ。 この鐔は、新月の時だから月は無い。そして新月の時だから梟は真鍮でもなく、銀布目象嵌も施していない。考えているのだと感心する。 2016/9/5 この鐔は艶のある地鉄に対して、梟や松の周囲に艶の無い地鉄がある。今まで、錆の影響かと思っていたが、昨夜、図を闇夜から浮かび上がらせる工夫して、このような鉄にしたのかなとも思うようになる。意図的な工夫だったのではなかろうか。所有して30年以上、観るたびに新たなことを発見する。私の目が甘いという面もあるが、見方に囚われるところが無くなってきたのかもしれない。 |
2024/12/4 耳にかけて、なだらかに肉を落としていっているが、狂い無く、丁寧な仕事で、見事である。 2024/11/30 本当に滑らかな地である。そしてムラ無く仕上げている。 2024/11/26 この鐔を拝見していると、抽象画で線だけや丸だけ描いているものなどが評価されるのもわかる気がする。ある意味、鐔の抽象画なのだ。 2024/1/29 肥後遠山派とか、中根平八郎などは私が「マイナー肥後」と称している鐔工だが、肥後には他に万日坊、谷清兵衛(近世)、諏訪幾平(慶長から代々続く)などがいる(宮本武蔵は別の意味で偉大)。 遠山などは一つの個性を持っており、豊穣な文化風土である。 2024/1/25 滑らかな円滑な地、加えて耳側を丁寧に低く落としている造り込み、どうしてこのような細工ができたのだろうと不思議に思う。結果として地鉄が若いように感じさせる仕上げになるのだろうか。 2024/1/21 先日、”「遠山」と姓を”と書いたが、正確に言うと「源」と姓を切り、加えて「遠山」の名字を切っている。源氏の出であることまで切っているのだから、それなりの家の出身であるのだろう。加えて「頼」の通字である。(兄が頼家) 2024/1/17 「遠山」と姓を切っており、武士身分だったのかなと思う。何の透かしも据文も無いが銘を切っているのは、表面の磨地を、ここまでツルツルにするのは、かなりの手間がかかり、それを誇りに感じているからではなかろうか。 2024/1/12 何にもない鐔だが、地鉄の輝きと、丁寧な地鉄表面の加工によって、魅力のあるものである。不思議な感覚を持つ。 2023/4/1 武士の慰作でも中根平八郎のような事例もあり、専門工に匹敵する技工がいてもおかしくないが、この鐔の仕立てを拝見すると、慰作というよりは専門の鐔工と感じる。現存している鐔における作風も、国立博物館所蔵の群馬の髙彫象嵌の鐔など幅が広い。また頼次だけでなく頼家銘もある。古書には頼忠と言う作者も挙げているのがあると言う。 2023/3/30 こんな鐔に惹かれるのは鉄鐔オタクの私だけだろうか。本当に飾り気も無い、碁石形の鐔で、鉄味だけが照り輝いているだけだ。 でも、古人は遠山又七と称したり、長屋重名が「一種の作にて」と評しているように、観る人が観れば評価はされると確信している。 2023/3/28 「地鉄しまり甚だ堅く見える」ことと、不思議な照りが関係することは間違いがない。鉄の質が違うのだろうか。碁石形に耳側を薄く、丁寧に仕上げているが、この丁寧さが堅く締まるような肌理(きめ)の細かさを生んでいるのだろうか。 2023/3/26 不思議な照りがある鐔で、何の装飾も無いが魅力的な鐔である。このような鐔は、有名な鐔工でもないし、装飾もないし、多くの人には見向きもされないと思うが、私は真価を認めたい。もちろん、往古は遠山又七と称されており、『肥後金工録』の著者長屋重名も「地鉄しまり甚だ堅く見ゆるもの多し蓋し一種の作にて」と評している。 2022/2/10 山も谷も木々も無い世界と述べたが、枯れた感じはしない鐔である。不思議な鐔である。 2022/2/8 「無文」に対する語が「有文」。見た目にも文(文様、飾り)のある様(さま)である。山も谷も、そこに生い茂る木々や暮らす動物もいる世界。「無文」は山も谷も木々も無い世界。そういう世界で心にしみじみと訴えかけてくるようなものを世阿弥は述べたのだろうか。この鐔を観て、愛玩しているとそんなことも理解できる気がしてくる。 2022/2/6 こんな変哲も無い鐔だが、桐の厚い箱に入っており、少し浮かせて保存できるように設(しつら)えられている。前の持ち主もわかる人だったのだ。 2022/2/4 これは絵画と一緒に、昔から懇意の骨董商から購入したもののだ。不思議な存在感を持つ鐔である。以前(21/4/24)に『広辞苑』の「無文」の語意を紹介したが、「③(世阿弥の用語)美を内にひそめ、一見何もないようでいて深い味わいのある芸」を具現したような鐔である。 2021/4/26 何の変哲も無い板鐔だが、磨き地、肉取りに手間をかけている鐔と思う。洗練さ、垢抜けた感を感じるのが不思議である。 2021/4/24 そもそもの鑑賞記では「無文碁石形」としていたが、この「寝床での鉄鐔鑑賞日記」では、何の模様もないから「素文」と呼んでいた。これは笹野大行氏の著作の中で使われている言葉と思う。『林・神吉』も、このような鐔に「素文」を使用している。 今、改めて『広辞苑』をひくと「素文」という言葉は無い。「無文」は項目が立てられていて「、①あやのないこと。模様・紋のないこと。無紋。②和歌や連歌で、飾りがなく平淡なこと。また、すぐれた風情のない作品。(略)③(世阿弥の用語)美を内にひそめ、一見何もないようでいて深い味わいのある芸。(略)④文字を知らないこと、学問のないこと、無学。」と語釈がある。 以上から、「無文」における①と③の意味から、以降は素文を改め、当初のように「無文碁石形」とする。 2021/4/22 何枚か遠山派の鐔を拝見しているが、このような締まって堅く、そして若く見える鐔だけではない。よくわからない点だ。 2021/4/20 銘のある方の写真を掲載していて、これが表としているが、櫃孔は一般的には小柄櫃とされる形状であり、この銘のある方が裏の可能性もあると考え、遠山派の鐔が13枚所載されている『林・神吉』で調べると、この鐔と同様の表左に小柄櫃の形状が5枚、表左に洲浜形の櫃孔が4枚、表左に志水派にある四角(長方形)の櫃孔が1枚、両方に洲浜形の櫃孔が1枚、櫃孔無しが1枚である。 肥後鐔らしく、櫃孔の形状は弾力的であり、銘のある方を表と考えて良いのだろう。 2021/4/17 この鐔の鉄は不思議だ。締まって若く見えるのは錆び付け法ではなく、地鉄そのものに何かの成分の鉱物が混じって合金になっているからではなかろうか。何の模様も無いことで、その不思議な地鉄ぶりが際立っている。 2020/6/24 『肥後金工録』に「頼家在銘の作行、地鉄しまり甚だ堅く見ゆるもの多し。(中略)また地鉄堅き故にその作幾分若く美ゆもあるべし」が、確かに締まって艶のある地鉄で若く見える。良い鉄だ。 2020/6/22 槌目の跡も無い、何の模様も無い鐔だから「侘び」とか「寂び」の感覚を追求したのかと頭では考えるが、観た感じでは、むしろ華やかな感じとまで言うと言い過ぎかもしれないが、暖かな感じを受けるのが不思議である。 2020/6/20 耳際から中央になだらかに盛り上がり、中央部分はほぼ平滑な平肉の具合を手作業の時代に成し遂げるのは大変だと思う。そして表面を丁寧に磨いている。これも手間だと思う。 2019/6/2 今の世の中は豪華絢爛、繊細な細工などがもて囃されるから、このような鐔を愛好する人はほとんどいないのではなかろうか。昨夜、寝床の中で、そんなことを思った。昔から派手なものの方が人気はあるが、一方で侘び、寂び、質実剛健、渋好みのような風潮もあったと思うが、最近は後者についてはほとんどきかない。刀でも直刃は人気が無い。 2019/6/1 細川家が小倉から肥後に転封になったのは寛永9年である。その前の慶長、元和、寛永前期の期間、加藤家の御用を勤めていたのが遠山一派ではなかろうか。この時期は鉄炮の需要も多く、林又七の親や、若き日の又七は鉄炮製造に励んでいた。元和偃武後に鉄炮需要が減少している中で林又七は鉄鐔製造を学ぶ。地鉄の処理、鉄の錆び付け方法などは遠山家→林家(春日派)に伝わったのではなかろうか。 この遠山頼次鐔の錆付けは、又七を彷彿させる。 2019/5/30 鉄鐔は「地鉄の良さ」、「構図・デザイン」、「地、耳、切羽台、櫃穴、透かしの線(切り立て部も含めて)の巧拙」などが大事である。この鐔は「構図・デザイン」の点で一般の人が好むものではないと思うが、刀で言えば直ぐ刃の魅力にも通ずるのかとも思う。 2019/5/28 何の透かしも無い鐔であるが、製作に多くの手間がかかっている鐔と思う。表裏の表面を丁寧に磨き上げ、表裏ともに中高(切羽台付近を厚く、耳際を薄く)になるようになだらかに加工している。簡単な加工ではない。 2019/5/26 鐔も手工業とはいえ、工業製品として製作したものと、芸術的に作者の思いとか精神が入ったものの2種類があるのではないか。工業製品的に製作したものでも、腕が良ければ、持つ人に驚嘆せしめる。一方、芸術的に思いを籠めて製作しても、下手では思いも伝わらない。この鐔は思いを籠めて製作したものだと思うが、肉取りの加工、地鉄の鍛え、照りのある錆付けなど製鐔技術も上手である。作者の籠めた思いは受け取る側の感度によって異なるので、私如きの感度では浅薄なものになるが、遠山頼次は「透かし文様、彫りの文様など無くても、いいものでしょう?」と自信を持って示しているような気がする。 2019/2/14 この磨地を観ていると、”曇り無き心”という言葉が思い浮かぶ。 2019/2/12 不思議な鐔である。透かし文様も象嵌も無く、観ているだけではどうと言うことの無い鐔である。ただし鉄色は独特の照りがあり、ただものではない感じはある。そして掌で愛玩していくと、肉置きのせいか、磨地のせいか、大きさのせいかわからないが、愛おしくなる鐔である。 2018/8/11 今日はこの鐔からはじめて繊細さを感じる。碁石形の整った形状に平肉、密に詰まった地鉄などから来るのだろう。2016/11/26に「女性的」と書いたが、それに共通する印象かもしれない。 2018/5/9 昨日、東京国立博物館で「名作誕生」の美術展を拝観してきたが、帰りに本館に出向き、刀剣室で「遠山よさんひやうへ 源頼次作」と在銘で、木瓜形で馬を素銅や真鍮で高彫象嵌している鐔を拝見した。照明が暗めであり、地鉄の調子などは確認できなかったが、作風はこの鐔とはまったく違う。馬の姿態は独創的で、面白い鐔工である。 2018/1/19 これまで、何枚かの遠山の鐔を観てきたが、作風は様々である。ただ、この鐔のような垢抜けた感じ(=彦三に近い感)を抱くものはない。 2018/1/16 鉄は不思議である。刀を観てもわかるように、錆の無い磨かれた状態でも美しいが、鉄鐔のように黒錆に覆われていても美しい。その黒錆も多種多様であり、輝きのあり方も違う。この鐔は密度が締まった鉄である。 2018/1/14 本当にシンプルな鐔なのだが、触りたく鐔である。艶やかな地鉄の肌と、切羽台から耳にかけてなだらかに肉を落としている調子が、その理由であろうか。 2017/6/22 18日に記した遠山の小柄櫃の形状に関して、諸書を参照すると、平田、志水にもあることがわかる。だから遠山の見所というよりは肥後鐔の見所の一つと訂正したい。 2017/6/18 この鐔は小柄櫃があるが、櫃孔上部の肩が張り気味、下部の肩は撫で肩気味である。『林・志水』や『肥後金工大鑑』に所載の遠山鐔にも同様の傾向がある。この傾向が他の肥後金工にあるかは、確認していないが、これが遠山の鑑定上の一つの特色だ。 2016/11/26 この鐔も、何か女性的な感じもする。艶が美しいせいなのか、形が小ぶりで整っているせいなのか、肉置きが中高の碁石形で豊満な為であろうか。不思議な感じである。 2016/11/24 彦三の有名な鐔「ひご彦三」の銘があるものと、似ているようだが、この遠山の鐔はキチンとしている。平田、西垣、志水の雅味があるような系統とは異なっている。肥後四派の中では林(春日)系だと感じる。ただ板鐔で透かし鐔ではない。やはり加藤清正時代の鐔であろうか。 2016/11/22 この鐔は「遠山 源」と銘を切っているが、「遠山」と姓を切っているのは武士階級だったのであろうか。作風も様々であるから、武士が林派に学び、趣味で作ったのかとも思うが、頼次と頼家の2人の作者がいるから、慰作ではないのだろう。 私は「肥後遠山派(鐔)の活躍時代」銘の中に「九州肥後」と切りはじめる銘があることから、同田貫の銘の切り方と共通することで、時代も同時代。すなわち同田貫派が抱えられた加藤清正時代の作との仮説を展開したが、今回は「遠山姓を作品に切っていることから、武士階級に属したか?」との仮説も提示しておきたい。(江戸時代に、非公式に姓を名乗ることは寛容だが、公式に姓を名乗ることはうるさかった。刀や鐔の銘は公式か非公式かはわからない。また遠山派が桃山時代であれば、姓を名乗るのにやかましくはなかったとも考えられる) 2016/11/20 「味がある」という評は、地や耳に鉄骨が多く出ている鐔や、素朴な影透かしがあるような鐔に使われることが多いが、この遠山は透かしは無く、形もほぼ真丸、地は磨き地でやや碁石形の肉置きの鐔だが、「味がある」との言葉を使いたい。懐かしくなり、寝床に持ち込む。 2016/11/17 この鐔は、透かしも無く、形も真丸(ただし少し碁石形で耳にかけて微妙に薄くなる)で実にシンプルな鐔だが、私が好きな鐔である。鉄色がいいが、それは錆付けの技法もあるだろうが、鍛えの密な点からも来ているのだろう。質感が高い鐔だ。 2016/7/14 5月に遠山の鐔を所持している方にお会いすることをお約束したが、やっと昨日にお目にかかり、ご所蔵の鐔を拝見できた。『林・神吉』(伊藤満著)こも所載されているものだ。私の遠山の鐔よりも一回り大きい。阿弥陀鑢(中心から多くの放射状に線彫り)が表裏の全面にあるだけの鐔だが、肉置きは私の鐔と同様に、切羽台が厚く、耳に行くに連れて薄くなる碁石状の造り込みである。この阿弥陀鑢の線の太さがまちまちで、力強い。地鉄も黒く艶のある良い作品である。この方は、私の遠山を御覧になり「よく手入れされていますね」とおっしゃるが、手入れで輝いているのではなく、作成当時のきめ細かい地肌が損なわれないで照り輝いているだけだ。 この方は、小道具の大名品だけでなく、鉄鐔も非常に良いものをお持ちであり、このような人も遠山を所蔵されているわけだ。世評に遠山又七との言葉があるが、なるほどである。 2016/5/13 この遠山の櫃孔は肩が張り心でコンパクトに整っている。『林・神吉』を見ると、私のと同種の櫃孔のもあるが、語弊があるが少しダラシがないもの、大きく縦に伸びて締まりがないものや、少し平べったいもの、甚五のような四角のものまである。よくわからん鐔工だ。 この日記を見た知人から「自分も遠山を持っている」との連絡が入り、今度、見せていただくことになる。 2016/5/12 銘は「遠山」「源」と切り分けてあるだけだが、「山」と「源」はともかくとして「遠」はシンニュウが無い略字である。行書でも草書でもない感じであるが、昔の人はこのように書いたのであろうか。シンニュウが茎孔で消えたようにも見えないが、茎孔を開ける前に銘を切ることがあれば可能性もあるが。書道の勉強も必要なのか。 2016/5/11 昨日、国立博で「遠山与さんひようへ源頼次作」の群馬図鐔を観る(『肥後金工大鑑』にも所載)。木瓜形で真鍮で馬を三頭彫って象嵌した鐔である。馬の一頭ずつの姿態は珍しくダイナミックな変わった姿で、意欲的な作である。銀の布目象嵌もあるようだが、はっきりとはわからない。櫃孔は横に広い大きなもので左右同形である。金工鐔のようなものである。 このように作域も広い一派で、『林・神吉』を見ても、芦を簡素に毛彫りを施したものから、龍を鉄地に濃密に高彫りしたものから、私の所蔵品のように無文様の鐔まであり、不思議な鐔工だ。金工大鑑には自分の銘を文様のように大きく彫った鐔まである。 私の好みは、自分が所蔵しているような地鉄の美しさだけを表現した鐔(平田彦三のたった1枚しかない「ひこ 彦三」の鐔のようなもの)だが、不思議な鐔工だ。作風も色々、銘も色々。 2016/5/10 ここ数日は、肥後の遠山の鐔である。持っていると重さを感じる鐔だ。透かし鐔でなく、板鐔だからかもしれないが、密な鉄と感じる。密が故に、鉄の表面の肌理(きめ)が細かく、いい艶が出ている。少し赤みを感じる。 遠山の活躍した時代を、同田貫の刀における同様な銘から、同じような時代(天正末年、文禄、慶長)で、林又七に先行するのではと推論した。 同作を何枚か観るが、作風は古く見えるものから、時代が下がるような感じのものまである。また銘ぶりが異なるものも多い。現在は有名工ではないが、昔は遠山又七と言われていたように評価が高く、偽物があるのかもしれないとも感じる。 |
2024/2/29 この鐔の技術的な難しさは、耳の形と耳外側の肉の落とし込み方、6弁の切れ込み、内側の蕨手の細い線、蕨手の正確な屈曲、少し難易が下がる櫃孔の茗荷の形状であろう。もちろん、肥後春日派林家の錆付けもポイントだろう。 2024/2/25 この鉄錆の色は、いかにも肥後春日派林家の鐔である。刀は水心子正秀が脚光を浴びていたが、鐔はどうなのだろう。ともかく需要が少ない文化・文政の頃であり、苦労したと思う。 2022/11/28 家の伝統を踏襲して、喜んでもらえるのは歌舞伎など日本の芸能と同様だ。演じる方は、先代と比較されるから、それなりに大変だ。春日派(林派)の5代(4代は早く逝去であり、3代と比較される)も同様だ。神吉派も台頭しており、苦労は多かったと思う。 2022/11/26 透かし鐔としての、このデザインは秀でたものと思う。又七以前にあった可能性もあるが、華やかで、かつ機能も満たしている。繊細なところもあるが弱さはない。 2022/11/24 この写真もあまり良くない。現物は清澄な輝きの、いかにも春日派の鉄味である。蕨手が双方から重なったというよりは、2つ重なった、このような文様を彫ったという感じになっているのが写し物ということである。 2022/11/22 よく出来た鐔であるが、切羽台に力が無いとも感じる。こういう微妙な点はわずかなことだが、大きな差でもある。美術は不思議なものと思う。 2022/11/20 時代の下がる春日派の鐔だが、この独特の錆び色は、ただ者では無いと言う存在感を持つ。 2021/12/16 このところ又七、重光、それにこの又平と、肥後春日派を観てきた。昨夜、西垣初代と二代の鐔とも比較した。そして肥後春日派の鉄色は輝きがより強いことを改めて認識した。別の印象で言うと、明るさ、清らかさ、爽やかさ、清澄感などである。 2021/12/14 工芸品は精巧が大事であり、上手に丁寧に製作されているが、蕨手の円弧が交わる楕円が、下部のものが少し歪んでいる。又七にも精巧でない箇所があるが、又平の場合は未熟とも感じる。工芸の芸の方の視点では歪みも一興と感じることもあり、なかなか難しいところだが。 2021/12/12 切羽台の上下に左右からの蕨手が合わさって丸く(やや楕円)なっている透かしがある。 鑑賞記で初代、2代重光、3代藤平の同図と比較しているが、この部分が一番丸くなっているのが5代又平である。蕨手の円弧がそのまま延長されて交わると、分銅形になるが、又平は蕨手の末端をより曲げて丸めて円に近づけている。別の模様のようにしている。 2021/12/10 又七はもちろん重光に比較して若く感じるのは何なのだろうと、昨夜考え、眺めたが、切羽台と櫃孔が、又平の場合は一体という感じがする。又七、重光とて、同様な造り込みなのだが、切羽台と櫃孔は別という感じである。櫃孔の枠が切羽台に接している部分が又平の場合、少し太くなっている為なのかもしれない。そして切羽台の本当に微妙は平肉が又平はほとんど無いことによることも一因と考えられる。 2021/12/8 光沢の感じは2代重光と同様だが、地鉄は少し荒い感じはする。内輪の蕨手の線は細く、丁寧な曲線だ。 2020/7/6 又平の活躍時代は、江戸を中心に化政文化が花開いた時期で浮世絵の美人画などがもてはやされた時代である。肥後の、しかも武家文化の中での製鐔であり、化政文化の影響である華やかさは伝統的文様の中での「茗荷蕨手透かし」を選んだこと、切羽台の優しさなどに現れている。あとは春日派:林家の伝統を活かしている。 2020/7/4 又七や重光の鐔を所有しているから、この鐔は時代が若いと感じるが、鉄味は林派の羊羹色の照りもあり、透かしも繊細で良い鐔である。時代が若いと感じるのは、切羽台の形状、それに接している櫃孔のところである。縁頭が付いて拵の一部になれば、こういうことはわからない。 2020/11/16 耳は丸耳にしないで、角を落として丸くしている。角がわかるように丸くしているところが強さ(武張ったところ)を意識しているように感じる。また6つの輪の全てを同じ太さにして、角を落とす位置も狂いのないようにしている。そして食い込み部分は細くなるように、神経を使った彫として仕上げている。 2020/11/14 文化頃という製作時代のせいか、ほんの気持ちだが、透かしの線(中の蕨手透かし)が細い感じがする。細い透かしの方が神経を使うわけであり、丁寧に気合いを籠めた鐔だと思う。茎孔の隠し鏨の打ち込みの強さにも、その気合い、自負が窺える。 2020/11/10 この鐔と「王者又七」の鐔を一緒に並べて鑑賞する。やはり「堂々たる」感じが王者又七からは発せられている。鐔の大きさも、耳の幅、切羽台の大きさも王者又七の方が大きいこともあるが、やはり芸術の力なのだろう。(同文を「王者又七」の項にも記す) 2020/11/9 透かしの名称は先人が付けているもの、あるいは『神吉鐔絵本』などに記されている名称を踏襲しているが、「六木瓜蕨手透かし」の方がいいと思う。このデザインは、又七、重光の創案(あるいは尾張、京透かしにオリジナルはある可能性もある)だろうが、良いデザインである。 2020/11/8 これまた、春日派の鉄の艶である。『肥後金工大鑑』の時代は研究が進んでおらず、五代のものかとも思われる鐔(写真で、しかも茎孔の鏨の残痕での判断だから正確ではない)が二代や三代にされているのを見る。三代在世中に四代が逝去した為に、神吉家に技術移転が図られた(『林・神吉』説)のだろうが、三代の下職も残っていたのだろうが、良いものが遺されている。 2019/11/29 寝床で手探りだと地の変化に関心がいく。耳の端を落として角耳から丸耳に仕立てているのだが、六花の各花の間は直ぐに落として窄めるようにしている。この仕立て方も又七、重光などの写しだと思うが実に感じがいい。 2019/11/26 ただし、この鐔で今一つな点は、切羽台の形状、大きさである。時代の潮流なのだから仕方が無い面もあるが、”弱い”感じがする。 2019/11/25 又平が先人のデザインを写したものだが、透かし鐔のデザインとしては優れたものの一つである。又七か重光が創ったのか、あるいは他派の先人が創出したのかわからないが、日本人は凄いものである。 写し物でもオドオドとは写しておらず、自分の作品にしている。 2019/11/23 この写真ではわかりにくいが、独特の照りがある地鉄で魅力がある。厚みは耳で5.7㎜程度だが、立体感を感じてシャープな感じもする鐔である。 2019/1/28 肥後春日派独特の照りのある美しい鉄色だが、又七や重光に比べると輝きに銀(より輝きが強い)が入るような感じがする。こういう点に時代の若さを感じる。 2018/11/6 このデザインは又平の創意ではないが、華やかでありながらキチンとした印象も感じる優れたものである。 2018/11/5 この鐔が二代重光より劣る点は、①切羽台の形状(これは時代の傾向で作家本人の問題ではないのかもしれないが)が堂々としていないこと、②櫃孔を構成する茗荷が、茗荷を彫ったというよりも、先人の茗荷蕨手透かしの紋様を写した点(鑑賞記参照)、③切羽台のフラットな点は春日の掟なのだが、気持ち”張り”が無いという点である。 2018/11/4 春日派らしい、透明感も感じる照りのある地鉄で美しい。 2018/4/18 茎孔上下の鏨で、これが林五代又平の作だとしたのが『林・神吉』(伊藤満著)だ。それまでは、この手の鐔は三代藤八のものとされていた。三代は昔から又七に見紛うものがあると言われていた。今でも、この手の鐔を藤八と言っている人も多い。刀屋さんも藤八の方が高く売れる。協会も五代に関する見解は認めていないのではなかろうか。きちんと再評価していかないと、茎孔の鏨を消すとかの悪さをする人間も出ることが懸念される。 2018/4/16 肥後春日派は又平に至るまで、鉄鐔界の最高峰であると改めて思う。古さ、古雅を重視すれば古いところの鐔が評価が高くなるが、技術的、美的な側面では一頭地抜けていると思う。 2018/4/14 この鐔の鉄味も、肥後春日派独特の照りのある美しいものだ。その地鉄・錆付けの代別による違いについては、所持している各代の鐔の数が少ないから言及すべきではないが、やはり時代が若い感じはする。 2018/4/12 この鐔の切羽台を観ると、やや細く、小ぶりな感をいだく。家代々の図の写しだが、切羽台などは時代を反映するのだろうか。又平は明和7年(1770)~文政6年(1823)であり、神吉初代正忠の明和3年(1766)~文政3年(1820)と同年代である。正忠の作品として確信できるものがないから、時代と切羽台の関係は確認しずらい。 なお、切羽台が大きくなる神吉深信は天明6年(1786)~嘉永4年(1851)である。時代の違いと言えば言えるが、流派、作者の特徴とも言えなくはない。 2017/9/16 家代々の造形の写しと言え、これだけのものを造れるのは大したものだと思う。耳の面取りの妙は、その仕事の丁寧さに頭が下がる。内輪の蕨手の透かしも線の太さが整い、細く、丁寧に整えている。 2017/2/11 蕨手は外側の耳と内側の切羽台の間にある曲線だが、それぞれの枠ごとに両方から2つの蕨手が来て下に開いている。これが蕨手の先だが、さらにこの先の最後(両方に跳ねた先)まで神経が届くと、もう一格上がると思う。 しかし、鉄味が良く、堂々とした鐔だ。 2017/2/9 伊藤満氏が、茎孔におけるこのような隠し鏨の作品を5代又平と極めるまでは、この手の作品は三代藤八とされていたものだ。三代は二代以上に又七に似ていると高く評価されていた。この鐔も鉄味麗しく、透かしも華麗、丁寧で鐔掛けにも映えるものだ。 2016/11/12 王者又七と五代又平を比較する。1枚だけで観ていると又平もいい鐔であるが、王者又七と比較すると残念ながら大きく劣る。具体的に書くと次のような点である。 ①量感が違う。実際の大きさも王者又七の方が大きいのだが、それとは別の感覚である。 ②地鉄の錆色が王者又七は滑らかにとろんとして奥から照り輝いている。五代は照りはあるのだが表面的な感じで地鉄は少しザラつくところもあり、鍛えの差なのか、地鉄の質の差なのか。 ③王者又七の切羽台は堂々としている。五代は少し貧弱。 ④いつもの又七は表面がフラットな感じなのだが、王者又七は微妙に平肉を感じて豊潤。五代は板鐔を丁寧に加工した感じである。 芸術は残酷なところがあり、比較は劣位にあるものにはつらい。そして紙一重の差が大きい。もっとも紙一重だから、違いがわからない人もいる。 紙一重の差が、価格の差では大きなものになる。厳しいものだ。 2016/11/10 昨夜感じたのは安心感である。伝統を受け継いだだけかもしれないが、江戸時代後期の時代(18世紀後半~19世紀はじめ)にあっても、透かしの繋ぎ、鐔の大きさ、鐔の厚さなどは江戸前期の風を継いでいる。切羽台だけが、少し力が足りないが、武用の面、刀装としての格式などでも安心感がある。自分の息子が拵に付けていても安心だ。娘の婿としても安心感がある。肥後春日派(林派)の伝統だ。 2016/11/9 この鐔は、観ていると謹直さ(慎み深くて正直なこと)があるとの思いを常に抱く。伊藤満氏が『林・神吉』の中で、この鐔の茎孔の上下に打たれている責めタガネと在銘品から再発見した作者であり、それまでは、この手の鐔は三代藤八(籐八)とされていたものである。 私は、他にも又平と考えられる鐔を拝見したことがあるが、少しゆるむところが感じられるもので、この鐔に感じる謹直さは感じなかった。だから、謹直さは又平の個性と同時に、この鐔の特徴なのであろう。 世の中、真面目さが一番である。今の学校では皆勤賞などは無いところも多いようだが、一日も休まずに6年間、あるいは3年間通うことは価値がある。就職試験においても、つまらんことを評価するより、真面目さを評価すべきだ。真面目さがあってこそ”狂う”ことの価値がわかるのだ。 |
2024/9/10 耳を円環に仕立てているのは独創的だと思う。日本離れしている感じがする。なお引き両は円環ではなく、面を取った角棒である。 2024/9/6 彦三、志水仁兵衛は、従来の鐔工とは違った工人という印象が強い。林又七も個性的だが、従来の鐔工の流れで登場した天才だと感じる。では彦三は何なのかというのが、まだ掴めていない。今後の楽しみであるが。 2024/9/2 デザインは二引き両であり、足利家の紋で、細川家の大事な紋の一つである。細川刑部家(室町幕府管領職の細川家(本家は京兆家)の分家の一つで和泉国守護を務めた和泉上守護家の流れである。特別な作品だったと想像する。 2024/8/29 彦三というと色金鐔ばかりが脚光を浴びるが、このような鉄鐔の魅力を広く知らせたいと思う。長屋重名氏の思いを受け継ぎたいと思う。 2024/8/25 ほんの僅かな金の散らし紙象嵌と、下部の引き両一箇所の欠損。このあたりは古田織部の美意識がこの時代を覆っていたことを示している。 2024/8/21 林派、西垣派、志水派は、後代も初代と同じような作品を造っているし、周辺の鐔工も同じような作品を造っている。しかし、平田彦三の鉄鐔で、この種のものは見ない(直系の後代が鐔工を辞めたというだけでなく、他の肥後鐔工がこの手の作品の写しをつくっていない)。 2024/8/17 日本離れした感覚も感じる。「何のことだ?」と問われると思うが、南蛮の感覚で、中国的感覚ではないものだが。まだうまく説明できない。 2024/8/13 この鐔は漲る(みなぎる)ような力強さを感じるが、何か優雅さ、優しさも感じる。 2023/12/28 この鐔の魅力はなかなか言い尽くせない。まず地鉄の錆色が真っ黒で艶があること、それに意図はわからないが、諸処に施されている金の点のような散紙象嵌、透文様は足利家一門の細川家の二引き両だが、耳が円環になっていて、引き両は紋の引き両と違って細いが面を取っている。この引き両で周りの円弧を押し広げいるようだ。その引き両の表側右下には欠けをわざわざ作っている。スケールが大きいと言うべきか、日本の従来の鐔のイメージを超えるものである。 2023/12/24 これ見よがしではない力強さがある。 2023/3/24 この鐔は長屋重名が愛蔵し、彼の著書『肥後金工録』には手書きで紹介されていると鐔(鑑賞記に写真もアップ)と、まったく同じ調子のもので、これが本当の彦三作品である。優しい強さと言うか雅な武用というか、不思議な感覚である。 2023/3/22 彦三というと、侘び、寂びで枯れたイメージを持つが、この鐔は若々しい。安土桃山の一つの気分だ。 2023/3/20 以前にも使ったと思うが、漲る(みなぎる)という印象が強い。漲るのは力でもないし、気合いでもないし、強さでもないし、どんな内面の力が漲ってくるのかがわからないが、そんな感じである。 2023/3/18 私は昔から鉄鐔が好きだったが、良いモノに廻り会うことがなく、一時、志水初代の「梟図」鐔とかを残して整理したことがある。そして刀装具の金工作者のモノや浮世絵を買っていた。2008年に京透かし「将軍草透かし」で透かしの魅力を再認識し、2009年に金山鐔「松皮菱透かし」で鉄味の魅力に目覚め、2010年にこの鐔に出会い、造形、鉄味に対する眼も一段と進んだと思う。 2023/3/16 この鐔はわずかに金の散らし紙象嵌を施しているが、金のこのような使い方は、林又七の枯木象嵌と通ずるところがあると思う。肥後金工の特色だ。黄金の桃山文化の一つの側面である。 2023/3/14 先日(3/10)、何か日本の旧来の形にないものを感じると書いたが、それは南蛮の息吹なのではなかろうか。耳の円弧がサーベルの鐔のような感じもする。 2023/3/12 この鐔から色気を感じるというと怪訝な思いを抱かれると思う。だけど私には何となく色気を感じるのだ。黒く輝く”照り”(肥後金工録の評)と、微かな金の散らし紙象嵌、そして丸味を帯びた耳の形状などが相俟って生まれたものだろう。 2023/3/10 この鐔の造形は独創的だ。耳の円弧の太さ、丸味、二本の引き両の面を取った細めの角棒、男性的でも、女性的でもないし、何か日本の旧来の形には無いものを感じる。 2022/1/3 光沢のある漆黒の地に、金を蒔くとは蒔絵に他ならないが、この鐔は金で絵を描くわけでなく、文様とするわけでは無く、背景に蒔いているわけでもない。安土桃山時代には高台寺蒔絵と呼ばれる漆工芸も生まれ、好まれたと思うが、この鐔の金散らし紙(塵紙)象嵌は何だろう。茶陶の景色にあるのだろうか。 2022/1/1 この欄でも何度も取り上げているが、金散らし紙(塵紙)象嵌の意図が、まだ私にはわからない。黒を引き立てる効果を強めているのかと思うが、名人のやったことを凡人が「ああだ。こうだ」と周辺を騒ぎ廻っても仕方がないのだろう。 2021/12/30 丸耳と言うよりは円環耳とでも、新しい分類名を付けた方が良いと感じる。引き両は角の面を取った角棒である。 2021/12/28 耳が円弧で、何となく南蛮風の鐔の面影を感じる。これが彦三なのだと思う。 2021/12/26 漲る(みなぎる)彦三だ。 2021/2/15 この独特の輝く黒、黒楽茶碗にも微妙な色調の違いはあるが、この鐔のように輝く黒色もある。同様に瀬戸黒茶碗にも見たことがある。ともかく黒楽茶碗に出現した輝く黒を鐔に応用したのだと思う。 2021/2/13 外側だけでなく内側も丸い耳は、南蛮文化の影響なのだろうか。よくわからないが、日本離れしたところもある鐔だ。 2021/2/11 世の中には鉄鐔は非常に多いが、色金鐔(金工鐔ではない)は少ない。世の中の絶対数が少ない色金鐔の中では彦三は多い方で、その印象が強い。一方、膨大な鉄鐔の中で彦三の鉄鐔は僅少である。しかし、その中でも、彦三の個性溢れる鉄鐔を遺しているのはさすがである。 2021/2/9 鐔の耳を工夫した時代(安土桃山時代)の立派な作品である。存在感がある丸耳の円弧の名鐔である。 2020/9/25 わずかに施された金の散らし紙象嵌(塵紙象嵌)と、又七に見る金の枯木象嵌と同様な趣向なのだろうか。もっとも枯木象嵌の方は象嵌を見せる意識が強い。いずれにしても地鉄の「黒」を引き立たせる。言い方を変えて、地鉄の「黒」によって引き立てられるものだ。 2020/9/24 耳の円環が下のように感じる理由であろうか。また引き両の幅も狭く、これも優しさの一因だろうか。 2020/9/22 力強いのだが、何か「優しい」感じも懐く鐔である。女性が持つ強さみたいな感じであろうか。 2020/1/27 この黒色は光沢を持つものだが、加えて「耳の円環」や「引き両の面取り」のような造形が光沢を更に増しているように感じる。 2020/1/26 日本人の黒には、「玄」「檳榔子(びんろうじ)黒」「漆黒(しっこく)」「濡羽色(ぬればいろ)」「呂色」「墨色」などがあるが、この彦三の黒は「濡羽色」か「呂色」と称するのだろうか。 2020/1/18 南蛮と日本の良さの統合と考えると、小堀遠州の美意識も思い浮かべるが、その遠州の持つ宮廷風の雅の要素は減じている。では織部的美意識かと考えると、織部の歪み的要素・屈折した要素を除去したような感じである。細川三斎の茶道を知れば理解できるのだろうか。 2020/1/17 この鐔のような中世から近世へ脱却しつつあった安土桃山の動きが、抑えられていく。明寿が色金鐔で表現したものもそうだ。中世に戻ったわけではないし、中世に滞留したわけでもないが、”決まりごと”の枠が嵌められていくような感じである。 2020/1/15 私の鉄鐔所蔵品を自分で甲乙をつけるのは難しいが、この鐔は最高位のものだと思う。小笠原信夫先生もこの鐔を褒めておられた。黒がこれほどに美しく、力が漲りながらも優美なところもあり、造形は当時においても画期的で近代を感じる。何が”近代”か、具体的に述べろと言われると表現が難しいのだが、中世的な鐔のイメージを脱却、個性・自由というようなものを感じるなどか。 2019/7/10 昨日、千葉市美術館で北大路魯山人展に出向く。そこには魯山人の作品だけでなく、彼が研究・私淑した古陶器も展観されており、そこに楽長次郎の黒楽茶碗があった。石水博物館所蔵のもののようだが、この黒楽茶碗の”黒の光沢”はまさに、この彦三の黒錆と同じであった。 鑑賞記では長次郎の「面影」、織部黒筒、光悦「朝霧」と比較して「黒=黒楽茶碗=楽初代長次郎ではなく、同じ楽家でも三代道入(のんこう)のイメージとか、瀬戸黒茶碗の黒のイメージである。すなわち利休よりも織部に近いものである」と書いたが、長次郎の作風も含めて考えた方がいいのだろう。 2019/7/9 先日、”彫刻を観ているような気がする”と書いたが、彦三は鐔を平面的(二次元の板)ではなく、立体的に捉えていたのだと思う。耳は円弧にして、内側の切り立て部も滑らかな円筒にしている。引き両の面もわずかに落として丸みをつけている。切羽台の微かな台形状は、写真ではわからないが、加工されている。 色金鐔では私所蔵の丸線鑢紋鐔もそうだが、覆輪を附けて耳の側面を意識させている。加えて地に丸線鑢だけでなく、丸い凹みも附けている。 2019/7/4 彦三の凄さを表現する言葉には、もう少し気の利いた言葉があるのではともどかしい思いを抱いている。今日は、立体的であり、彫刻を観ているような気もしてくることを記しておく。 2019/7/1 この鐔は 鑑賞記に記したように、長屋重名所持で、肥後金工大鑑所載の鐔とよく似ている。力強さの表現方法としては武張ったものが普通だが、彦三はそうでない洗練された造形で力強さを表現している。 2019/6/29 この「黒」の魅力を更に引き立てる為の金散らし紙象嵌(塵紙象嵌)なのかなとも閃いた。僅かの金色が、見事な「黒」の引き立て役になったのだ。 2019/6/27 日本人は世界の他の民族に比べて、「黒」色への感性が優れているというか、独特だと読んだことがある。この彦三の鐔における「沢(光沢)ある」漆黒なども「黒」の代表作と思う。 2018/12/8 彦三以前に耳を円環にした鐔工がいたであろうか。独創的である。「芸術は独創」という言葉もあるが、彦三のこの鐔などは最たる物だ。 2018/12/6 この照り輝く黒色、肥後金工録で言う「澤(沢)あり」の光沢の黒は、黒楽茶碗の黒ではなく、織部黒や瀬戸黒茶碗の黒と気が付く。利休の冷え枯れた黒ではない。 2018/6/13 これまで、この鐔に対して”躍動感”という言葉を使ったことはないと思う。”若々しい”という言葉は使っているが、同じような印象でもある。今日は”躍動感”という印象が当てはまる感じである。 2018/6/11 スケールの大きさを感じさせる鐔だ。他の鐔を圧倒する。 2018/3/1 桃山グローバリズム(私が今、造った言葉だから世間には通じない)の中で造られた鐔という感じがしている。以前にも(18/1/5)、南蛮人、オランダの文物の影響を受けたのではと書いたが、加えて中国、安南、シャムなどの朱印船貿易の世界の中で誕生したのではなかろうか。 2018/1/11 では、この金散らし紙象嵌(塵紙象嵌)が無かったらどうかと考えてみた。私の発想力が乏しく、現状に引きずられてしまって現状追認の為か、やはり今のように存在した方がいいと思う。 逆に、もう少し賑やかに塵紙が象嵌されていればどうかなとも考えたが、私ごときのセンスでは具体的な絵が想像できない。 2018/1/10 この鐔に施されている金散らし紙象嵌(肥後金工録では塵紙象嵌)の意図、狙いについて考えてきたが、やはりよくわからない。引き両の一箇所の欠損と同じく、茶碗における景色(中国人は完璧を求めたが、日本人は釉薬の乱れ、色ムラ、傷なども個性として愛でた)と同様な効果を狙ったのであろうか。 2018/1/5 この鐔は王者又七の鐔と並べても引けはとらない。この時代に渡来した南蛮人(ポルトガル、スペイン、オランダなど)の文物の影響を受けたのではなかろうか。円環を用いたサーベルの鐔のようなものを観て、それに茶道の影響が交じっているのではなかろうか。 2017/9/14 若々しい印象を与える鐔だが、これはこれで完成された造形であり、円熟期の彦三である。しばらく鐔掛けにかけていたが、今回もこの鐔の美を「これだ」と表現する言葉が思い浮かばず、鐔箱に納める。 2017/9/6 それから米野健一氏、伊藤満氏という肥後鐔の大コレクターを経て、私ごときがお預かりしているという状況である。 2017/9/5 次ぎは阿部行人氏が所有されたと聞く。『肥後金工大鑑』に所載されている阿部氏ご所蔵の作品は6点を数える。阿部氏のことは詳しく存知上げないが、往事の肥後物のコレクターである。 2017/9/3 昭和27年に松坂屋で「鐔の美術展」が開催される。当時、所在がわかっていた名鐔が大々的に展示された会である。そのパンフレットには当時の所有者が掲載されているが、細川護貞氏の父で日本美術刀剣保存協会の会長もされた護立氏は肥後だけでなくあらゆる分野にお名前を見るが、長崎伊太郎氏も肥後物だけで、数えると11点も存在する。 2017/9/2 次ぎにこの鐔の所有者になったのは長崎伊太郎氏である。細川護貞氏が永青文庫の季刊誌NO17(昭和61年発行)の中で「肥後の金工」という一文を掲載されているが、その中で肥後金工の名を高からしめるに与った人物として、西垣四郎作(勘四郎家の後裔で明治期に東京財界の熊本県人に刀剣・刀装具趣味を鼓舞した。自身が集めた蒐集品は永青文庫に入る)と長屋重名(土佐出身で熊本鎮台にいる時に楽寿に師事して『肥後金工録』を著した。蒐集品は土佐山内家に入るが戦後四散した)が双璧だが、その次ぎに長崎仁平・長崎伊太郎父子を挙げている。仁平は熊本の素封家で古美術商で楽寿とも親交がある。伊太郎も古美術商として肥後物を高く評価・宣伝し、非常に高額な価格を提示して世間を驚かしたプライスリーダーと書いている。 2017/9/1 この鐔は細川刑部家に伝来したものだが、細川刑部家は室町幕府の管領職を務めた細川家(本家は京兆家)の分家の一つで和泉国守護を務めた和泉上守護家の流れである。細川藤孝(幽斎)が継ぎ、その後、幽斎の三男幸隆が継ぎ、その後は細川忠興の五男の長岡興孝が継いで2万5千石で幕末まで続く。ちなみに幽斎の長男の忠興は足利幕府の指示で細川奥州家を継いでおり、これが熊本細川家である。 紋所が、この鐔の丸の内に二引き両である。だから、この鐔は大切にされてきたのだろう。 2017/8/29 鐔は鉄などの金属の板を打ち抜いて模様を残す。打ち抜き模様で見せるのが古甲冑師や古刀匠の陰の透かしで、透かし鐔は打ち抜いて残った鉄板が模様をなす陽の透かしである。 この鐔の耳は板から加工と言うよりは、鉄の棒を曲げて円環としたような感じである。引き両は板からの加工だが面を取ることで、より棒状にしている。切羽台だけは板からの加工という感じである。 鉄の板でなく、鉄の棒を加工したように見えるところが従来にない感覚の一つと思う。そして耳の円環は切羽台よりも高い(厚い)。鉄の板(切羽台と同じ面)から加工したとすると、耳の円環は叩いて盛り上げたのであろうか。逆に耳の厚さが基礎の鉄板から、耳を円環状に削って加工し、引き両と切羽台はさらに低く平板状に削ったのであろうか。あるいは耳の円環を後から溶接したのであろうか。 2017/4/8 光沢は表面を磨き抜かれて出ているわけではない。もちろんザラザラでもない。部分的に光沢がでているのでもなく、全体に出ている。円弧、引き両に丸みはあるが、それで光沢が出ているわけではない。 2017/4/5 この鐔はいい鐔だ。肥後金工録記載の「澤(沢)あり」の光沢は独特で美しい。枯れていないぞ、彦三は。 2017/1/10 「漲る(みなぎる)彦三」という言葉が、観ている内に浮かんできた。茶道の美の彦三とは違う姿で、私はこの感覚が好きだ。 2016/12/11 円形だが、やや横に広がり加減である。二本の引き両(引き両の紋と違って、面を丸みを感じるから棒のような感じ)で、横を突っ張っているから、横に広がり加減が丁度良いのか。これが力感の一つの理由なのだろう。 2016/12/8 ”黒”が実に美しい鐔だ。”黒の持つ華やかさ”と書くと、違和感を持つ人がいるかもしれないが、実に華やかな感じなのだ。金の散らし紙象嵌の意味も、黒の美しさを際立たせる効果を狙ったのかもしれないと感じてきた。楽長次郎の”かせた黒”ではなく、照り輝く黒楽茶碗だ。 2016/12/6 良い鐔だ。派手ではないが、華やかな感じもする。華やかだけど、浮ついていない。力強いが武骨ではない。洗練されているが、かよわさは感じない。 2016/11/7 この鐔は実際の直径も大きいが、印象として本当に雄大(雄壮で規模の大きいこと)な印象である。雄渾(雄大で勢いのよいこと、力強くよどみのないこと)と称する方がいいのかなと感じる。ただし、雄渾と言っても武骨ではない。 この鐔は『平田・志水』(伊藤満著)に所載で、そこに細川刑部家伝来とあるが、こういうのが彦三の本当の姿なのだろう。 2016/11/6 このように何度も鐔を観るのは、①芸術的感興に浸ること、②観ている内に新しい視点の美が発見できること、③魅力的な作品なのだが、その魅力をどのように言葉で伝えられるのかと迷うことなどからである。 鉄という素材は魅力的だ。鍛えて鉄錆が黒く付いても、それが美しい。鍛錬して日本刀になり、焼き入れ温度の違いで刃と地がわかれ、そのそれぞれに今度は磨いた美しさが生まれる。 この彦三の鉄鐔は造形と言い、黒錆の照りなどが美しく、①芸術的感興に耽ることができるものだ。③の作者の芸術的意図を伴った魅力の伝達には、まだわからないところもある。僅かにある金散らし紙象嵌の意図、引き両の一本に付けた欠けの意図など何だろうと思う。 2016/7/12 彦三というと、何となく枯れて、芸を極めた長老のようなイメージがあるが、この鐔は若々しい。長屋重名氏秘蔵の鐔も、この鐔と同様に若々しい感じだ。これも彦三と言うか、こちらの方が本当の彦三に近いのではなかろうか。 2016/7/10 抽象的な模様を透かすのは、尾張・金山にもあるが、この造形-円筒を大きく輪にして輪郭を造り、その間を切羽台を挟んで、二本の面取り角でつなぐーは近世(=安土桃山の新感覚)の発想だろう。そして、この造形は次の江戸時代には受け継がれていない。 彦三というと色金鐔が多く、名高く、金工と鐔工の間の名工の位置づけだが、鉄鐔のジャンルに入れて比較しても、この鐔などは尾張、金山の名品や信家、そして時代は下がるが又七、勘四郎とは別種の高峰であることがわかる。 色金鐔には茶道的感覚、南蛮風感覚があるが、この鐔は明るいが重厚、大らかだが緊張感があるような気がする。 2016/7/9 散らし紙象嵌は一体何なのであろうか。遠目には、鐔に何か輝いている箇所が見える程度だろう。接近して観ても「何だろう」「何かの模様が剥げた跡だろうか」と思う程度だろう。 二引き両透かしとしているが、本当の二引き両紋の姿とはほど遠い。 引き両の一部に削いだような箇所をわざと作っている。これはキズなのかと思う。 今朝、思いついた。観る人に「何だろう?」と考えさすことが抽象画の狙いだと。具象的な模様、絵であれば「二引き両紋だ」とか「桜だ」とかと認識されて、それで終わりだ。後は、観た人が持っている二引き両紋のイメージ、桜のイメージに収斂されてしまう。しかし、抽象的な模様だと、見過ごされずに観る人の頭に残る。これが一つの狙いなのだ。抽象的な模様は彦三以前の尾張透かし、金山、古正阿弥にもある。では、これらと彦三の違いは何かが、次のテーマとなる。 2016/7/7 『肥後金工録』にある「地鉄強くかつ澤(沢)あり」の沢=光沢だが、油を塗ったような輝きは不思議である。普通は地鉄を磨いて滑らかにすれば、ある程度の光沢は出るが、この鐔の地鉄は、そんなに磨かれていないのに、この奥深い光沢である。 そこに、ほんのわずかに散らし紙金象嵌。この感覚は、他の金工、鐔師ではマネができないだろう。 2016/7/5 この鐔は最近は鐔立てに飾っていたのだが、蚊取りの殺虫剤を使うにあたり、引き上げてきた。独特の迫力、口では言い表せないのだが、張りというか、緊張感がある。強さがあるのだが、うまく言えない。本当に魅力があるのだが、言葉で伝えにくい。英語で言うと、beyond my appreciative power だ。 |
2024/5/15 製作された当時は茶道を好む武士の需要に合致したのであろうが、後の世になると、地味過ぎて、老武士の差料に使われるようになったのであろうか。鞘も黒呂色には合わない感じである。この鐔に限らず、刀装は時代のファッションに左右されるものだ。 2024/5/10 丸線鑢は、その密度と、鑢(鏨)の深浅で変化を付け、丸く抉(えぐ)った箇所なども含めて、工夫している。その色金の色合いも焼いているのか、漆をかけているのかは不明だが、独特の色にしている。また鐔の形状そのものも工夫している。 2024/5/7 彦三と極められている色金鐔の色金は、銅がベースになっていて、配合によって素銅に近く見えたり、山銅風に感じたりする。黄銅(真鍮)系も同様に少しずつ色合いが違う。こういう配合を意識して造っていたのではなかろうか。、 2024/5/3 光の強さ、光の色(外光、室内のいくつかの光、影等)で印象が変わるが、今朝は光沢が消えて、丸線鑢の幅の違いによる色合いの違いなどが面白い。 2024/4/29 魅力の一つは赤銅の縄目覆輪である。覆輪の幅が狭く、目立たないが、それ故に、細く、キリッとした覆輪加工の技術の高さが光る。横の縄目も狂い無く、細かく彫られている。 2024/4/25 色金鐔は周りの明るさによって印象が変わる。そういう面白さも作者、及び佩刀に使用する者は感じたのだと思う。 2023/4/19 何本もの丸線鑢、特に耳際の密な丸線鑢や、随所の丸く抉った加工に、耳の覆輪の加工など、結構、手間のかかった作業をしている鐔である。こういうことで地の変化を出しているのだ。 2023/4/17 この色金の色、丸線鑢は、ともに茶陶を意識しているのだと思う。 2023/4/15 この鐔の工芸技術としての見所は、耳の赤銅縄目覆輪である。鐔全体の撫で形の形状に合わせて、細く、均一の幅で、ゆるむことなくキチンとはめている。覆輪の高さも、わずかに地より高く、バランスも良い。地に施された丸線鑢(まるせんやすり)の紋様と赤銅覆輪の線が一体化して、しかも、それら鑢目を締めているようだ。横から観ると斜めの均等の筋(縄目)が全体に入っていて美しい。 2023/4/13 この鐔は、拝見する環境によって色合いも変わって見えるし、印象も異なる。それが彦三の狙いなのだと思うが、奥深いものだ。丸線鑢の広狭、深さなども、上記効果を高めている。 2022/4/11 茶道を嗜む武人が、脇差用に装着した鐔であろう。こういう武人が肥後細川藩には多かったのだろう。細川三斎も、名家老の松井康之も茶人として名高い。上が茶道を嗜むならば、下も当然に嗜んだことだろう。 2022/4/9 彦三の作とされているものには腕貫き孔が開けられているものが多い。戦闘の場面で、刀を取り落とさないように手首とこの孔を結んだとか、薩摩の士風では刀を抜いたら、相手を倒すか、倒しても切腹ということから簡単に抜くのを抑える為とされ、もしも咄嗟の場合は鞘ごと抜いて(帯から外れやすい返角の形状)戦ったと聞いているが、本当は何なのであろうか。改めて考えてみるとわからないこともある。 2022/4/7 鐔を観る位置、角度、光の具合で、丸線鑢の一本づつが見えることがある。もちろん抉ったところも見え、賑やかな感じで、また風情が違う。 2022/4/5 覆輪をかける技術も見事なものだ。がたつきもない。どこが始点・終点かもわからない。耳に、細く、均一な黒(赤銅)で締め、わずかに盛り上げて地の変化の続きを演出する。 2022/4/3 周りの光の具合で変化するのだが、今日は黒っぽく見える。実に細かい丸線鑢の線だ。軽く抉(えぐ)った円を2つ間に入れて変化を出している。丸線鑢だが、形は丸形ではなく、あおり形で。ここでも変化を出している。 2021/3/18 彦三の色金鐔の写真を色々と拝見しているが、彦三は色々なことを試行していると思う。銅の合金比率を変えて、色合いの変化を見たのだろう。色金を焼いたり、梅酢で腐らかすこともやった。この鐔のように丸線鑢を密度、深浅を変えて効果を見た。日足鑢もかけてみた。朽ち込みのようなキズを付けた。鐔の周りの覆輪に色々の種類を試行した。 彦三の試行の狙いは、想像でしかないが、一つは茶陶の味わいを鐔の金属でということはあったと思う。 2021/3/17 この鐔は証書では地を、山銅(やまがね:不純物が多い銅)とされているが、私は銅の分量が多い素銅(すあか)の方がふさわしいと思う。ただし素銅(すあか)を純粋な銅と定義する書もある。そこまで純粋な銅だとは断言できない。今の10円銅貨でも、銅95%で他は亜鉛、すずが混入されている。 私が言う素銅(すあか)とは”不純物が比較的少ない銅”と言う意味で銅らしい色が見えるという意味である。 2021/3/16 写真でもわかるが、丸線鑢でなく、広く円形に抉(えぐ)っているところが2箇所だ。外側の抉りの方が広い。その2つの抉りの間に深めの丸線鑢が小柄櫃、笄櫃の外側に沿うようにある。そして耳に近い外側の丸線鑢の間は狭く、密だ。密のところが暗く見える。では広く抉っている箇所は明るいかというと、その谷には何か黒いっぽい感じになっている。こういう色の変化は意識して出していると思う。 2021/3/15 渋い鐔であり、隠居した茶道愛好の武士の平常差に良いものだ。 2021/3/13 赤銅縄目覆輪は継ぎ目がわからない状況は続く。それだけ技術レベルが高いのだ。また横から見る耳の縄目(2~3条ほどの斜めの縄の彫りが重なる)の美しさ、正面から見た時は赤銅の細い線だが、その線が均一の細さで締めている。 2020/6/18 茶映りは、茶碗に緑茶を入れた時に、茶碗の色が緑茶の色を更に引き立てるような見え方を言う。お茶の種類によって色は異なるが、柔らかい黄緑色が黒楽や赤楽、あるいは黄色の強い土色などの茶碗の色との対比で引き立つさまである。 私がこの鐔に見る光映りとは朝の日陰では褐色が強まり、強い陽射しの元では茶色が強くなるような色の変化が見られることにある。 色は光の反射によっても変化するが、それを丸線鑢の太さ、彫りの深さなどで変化させる。 2020/6/17 形は大きくは「あおり形」になるのだろうが、あおり形はもう少し下部が広い。だから「撫角丸形」とでも言うのだろうか。いずれにしても安土桃山時代の鐔らしく造形に自由がある。 2020/6/16 茶道の陶磁器、特に赤楽茶碗系の趣きを狙い、その茶映り(茶を入れることで引き立つ趣き)とは違って、周りの光によっての地色の変化(光映りとでも呼ぼうか)の面白さを狙った鐔であろう。 2020/6/13 耳は赤銅の縄目覆輪なのだが、この縄目の彫りもしっかりと彫っている。斜めの線を表面的に彫ったのではなく、抉る(えぐる)ように彫っている。そして不思議なのは耳に覆輪の継ぎ目が無いことである。手で耳の外周を触っていって、ひっかかるところは傷であって継ぎ目ではない。そしてルーペで丹念に耳の周囲を観ていっても継ぎ目が見つからない。一体、どういう技法なのであろうか。 耳を付けた後に熱に入れて、継ぎ目を溶かしたのであろうか。 2020/6/12 丸線鑢をルーペで観ると、しっかりと彫り込んでいることがわかる。またルーペは拡大するから逞しさも感じる。深い線、浅い線、細い線、太い線、重ねた線、途中から円弧を描く線、わずかに円でない線も交じる。自然に付いた傷か、作者が故意につけた傷かわからないものもある。 2020/6/10 丸線鑢などは、そんなに神経を使っての作業と思えない(実際は神経を使っているが、そのように見せていない)のだが、小柄、笄の櫃孔や、下の腕貫孔の細工などは丁寧で、行き届いた仕事である。 2020/2/19 室内で差す差料に付けられていると、室内の光の変化で色合いが微妙に変化し、楽しい鐔だろう。 2020/2/18 製作に時間がかかり、神経もつかっている鐔と思う。丸線鑢の間隔は内側が広く、耳に近い外側は密にしていたり、密の中でも間隔を広めにしたり、深浅をつけたりしている。彦三の感覚で、そんなに神経をつかわずに、どんどん作業しているのかもしれないか。 2020/2/16 この鐔は南蛮風覆輪(刀剣界では小田原覆輪)ではなく、縄目覆輪だが、縄目は耳を横から観た時のことで、上記写真のように表裏からは丸線鑢の一つのように見える。作者はこのように(丸線鑢を締める円弧の狙い)考えて制作したのではなかろうか。 2020/2/15 この鐔というよりは色金鐔に当てはまるのだと思うが、光線の具合、光量の具合、観る角度などで色合いが異なる。全体には渋い印象だが。 2018/11/1 赤銅の縄目覆輪が引き締めている。鐔の表裏から見える覆輪は細い。耳の縄目の傾斜は浅く、大胆だ。それでいて縄目の太さなどは整っていて美しい。 2018/10/31 彦三の色金鐔で、丸線鑢のものはいくつかあるが、皆、外周の丸線鑢の密度が濃い。一つの見所だ。 2018/10/30 彦三も茶道は嗜んでいたと思う。赤楽茶碗の肌の味を鐔で狙ったのだと思う。茶碗→轆轤(ろくろ)→丸線鑢と発想したのだろう。光線で色合いが変わる地金だが、赤銅覆輪の黒色で締めている。この幅は狭く、きりりとした感を与える。 2017/12/26 耳には赤銅の覆輪がかかっているが、この覆輪には斜めに縄目を彫っている。線で彫っているのでなく、彫り込んでいるように深く刻まれている。丁寧な細工であり、改めて感嘆する。私は南蛮風覆輪(これは私の造語であり、世間では小田原覆輪と呼ぶ)よりも、この鐔には合っていると思う。 2017/12/22 『刀装具鑑賞画題事典』(福士繁雄著)の画題として「翁鑢」(おきなやすり)が項立てされていた。私は翁鑢をつかわずに『肥後金工録』にある丸線鑢を使用しているが、この項でも「だれの命名かは定かではない。江戸時代にそのような名称はなかったようで、おそらくは明治、大正時代の識者が名付けたものであろう。その状態がまるで翁の髭のようだということから名づけられたというが」と記し、福士氏もとまどっておられる。おかしな名称だと思う。 2017/12/7 冬の朝の光の元では本当に渋い色合いだ。また、小ぶりな鐔であり、茶を嗜む老武士が腰刀(脇差、短刀)として愛好したものであろう。 2017/12/4 今は冬の暗い朝に観ているから全体に渋いが、色の変化も面白い鐔である。丸線鑢の凹んだ箇所が黒く見えるのは、長年の汚れもあるのかもしれないが、一度黒漆を全面に塗って、それを簡単に落とす。凹んだところには黒漆が残ったということだろうか。もちろん、味をつける為に作者自身が行ったのであろう。 あと、光は面の湾曲によって反射が違うことで色の微妙な変化が生じるのだろうか。 茶映りとは、茶碗にお茶の緑が入ることで変化する焼き物の色合いの変化を愛でる言葉だが、この鐔は拵でも感じが変化するのかもしれない。 2017/12/2 この鐔は寝床に持ち込んでも、身体から離れたところに置いて寝るが、じっくりと丸線鑢を観ると複雑さに驚嘆する。浅い線から深い線まで深浅の変化、そして線の間隔もごく狭いものからやや広めまでの広狭の変化、そして外側のように線の密度が高いところと比較的に粗なところという密度の変化、丸線のつながりも全部が繋がっているいると言うより、ところどころ断線しているようだし、その断線を生かして楕円のようにしてたり、形状の変化もある。 2016/10/17 先日、東美特別展で古染付(諸説があるようだが、明末に日本人の注文で作られた)を拝見。中国陶磁器なのに絵付けの線がラフであることに驚くと同時に、そのラフさに何とも言えない安らぎを感じる。こういうものだから今、盛んに日本から買い戻している中国人は好まないらしい。 江戸時代初期の作品だが古田織部の豪放な歪みと小堀遠州の綺麗さびの間のような美意識である。 この美意識は、同時代の彦三とも共通すると感じる。丸線鑢の線には深浅があるし、全て繋がっているわけではない。丸線の延長に正円があるわけではない。整っているのは目立たない縄目覆輪だけだ。 2016/10/16 何でも、その場の光で印象は変わると思うが、この鐔は仄暗いところでは実に渋い。銅の地鉄が山銅(やまがね:不純物が多い銅)に近いのだろうか。時代を経ての落ち着きだろうか。線の中や凹んでいる所への漆の残存のせいであろうか。よくわからない。 茶道=渋好みという単純な見方は取らないが、「渋い」色合いは精神の安らぎを求める心から来ているのだと思う。 2016/10/15 この鐔には赤銅の覆輪がかかっている。この覆輪は横から観ると、斜めで力強い線が刻まれていて見事である。刻まれているというよりは、丸い線を斜めにおいているような覆輪(縄目覆輪)である。 鐔の表面の丸線鑢は円形は円形だが、線のつながりが途中で切れたり、無造作に見えるような深浅を付けている。 無造作のようで、意図的な仕事である。 2016/10/14 彦三の色金鐔である。私が現時点で感じている彦三の美の要素は、「茶道的感覚」、「南蛮風感覚」(南蛮には中国も含まれる)、それに伸びやかさ(近代的創造力、明るく力強い感覚)=「安土桃山的感覚」である。 この鐔は「茶道的感覚」である。もう一枚所有している鉄鐔の引き両透かし鐔は「安土桃山的感覚」である。ただ地鉄は光沢があって黒楽茶碗の肌であり、「茶道的感覚」もある。 この鐔は赤楽茶碗のイメージである。陶器の肌を金属で出す為に、色金の素材の調合で色合いを、丸線鑢と軽く円形のえぐりを入れて肌合いを出す。そこに漆をかけることで、お茶碗を使い込んだ雰囲気を出す。肌合いに関して、一度火にかけて崩れを出すこともやっているようだ。 |
2024/10/12 錆色にしても、他の鐔と違うと言っても紙一重の差なのだと思うが、その紙一重が常人には埋められないほどの差なのだと思う。超一流との差は。 2024/10/8 鉄色が違う。真っ黒で光沢があるのは多くの鐔にも見られるが、この黒の透明感のある深みは何だろう。輝きもしっとりとしていて、他の鐔とは別種のものだ。 2024/10/4 この鐔の形(八つ花形)は又七が好んだ形なのであろう。たまたまだが、私が所有している又七の鐔3枚は、全てこの形である。 2024/9/30 スケールの大きさ、なんでこのように感じるのだろうか。作者の力と言ってしまえば、その通りなのだが。 2024/9/26 この鐔は金象嵌は無く、鉄だけだが、その分、深みのある潤いがある地鉄でもの凄い存在感がある。 2023/12/4 この鐔には潤い(うるおい)を感じる。耳は角耳小肉で丸味はあるが、切羽台、両方の櫃孔も含めて、透かしの切り立て部分に丸味は無いが、全体に豊潤な感じがする。鉄色に潤いがあることが最たる要因だと思うが、暖かい気持ちになる。。 2023/11/30 置縄枯木象嵌の鐔もいいが、こちらは鉄一色だが、その鉄色は深く麗しい。そして堂々としている。 2023/3/8 八つに仕切っている耳側から切羽台にかけての線の彫り、耳側から徐々に細くなっているのだが、これが何とも言えない良い味だ。 2023/3/6 研ぎ澄まして正確に製作したところ、ゆったりと、手のむくままに造ったところの融合。 2023/3/4 大らかな豊かさ、こういう感覚を出せるのは本当に名人なのだと思う。 2023/3/2 この「ゆったり感」がいい。これは長く所持して観ていないとわからないかもしれない。 2023/2/28 錆色の豊潤さ。ただ照りがあって美しいだけではなく、暖かみというか包容力がある感じだ。 2023/2/26 この鐔を拝見していると、鐔の肉取りということに、先人がうるさく言っていたことが理解できる。この鐔のような肉置きが理想なのだろう。 2023/2/24 本当に堂々としている鐔である。具体的にどこがどうと書くことはできるが、そういうことよりも、全体の印象としての力である。 2022/10/1 私も長く鉄鐔を集め、愛玩してきたが、最高の鐔工は、やはり林又七だと思う。もっとも、この評価は私に限らず、先人から現代の愛好家に限らず同じだと思う。 個人的な好みは志水仁兵衛だが。 2022/9/29 眼福の一言に尽きる。 2022/9/27 この鐔は『透し鐔』(小窪、笹野、益本、柴田共著)において、当時の御所蔵者の小窪健一氏の評だと思うが「深みのある紫錆と、わずかに中高に仕上げた平肉の働き、又七の風格を充分表した一枚である。」と記されているが、「わすかに中高」と言うより、耳にだけ平肉がわずかに付いている感じで、切羽台やその他の部位は中高というより普通の平面と感じる。ただ小窪氏のおっしゃるように、耳の平肉の調子は実に味がある。 2022/9/25 切羽台の形状、左右の櫃孔の形状、これは本当に精巧というか整っている。そして堅さがない。 2022/9/23 おおらかさを感じさせるところが名工の証左なのだろう。 2022/9/21 鉄の黒錆の色、特に又七の磨き地の錆色は何とも言えない奥深さがある。 2021/11/30 印象として、わずかに中高な感じがする。実際に計測すると0.3㎜ほど耳よりも切羽台側が厚い。先人(『透し鐔』)はこの鐔を観ての評に「深みのある紫錆と、わずかに中高に仕上げた平肉の働き、又七の風格を充分に表した一枚である」と記している。法量は切羽台5.8㎜、耳5.8㎜と同じ厚さを記しているのだが。(私が計測すると、耳厚は6㎜) 2021/11/28 存在感が違う。私も多くの透かし鐔を所有しているが、その中に置いてあっても、ちょっと違うよなという感じを与えてくれる。「王者又七」と名付けている所以(ゆえん)である。 2021/6/9 この鐔の厚さ(6㎜)も、堂々たるところの一つなのだと思う。 2021/6/7 素晴らしい鉄錆の色艶だ。私の鉄鐔コレクションはどれも一級品と自負しているが、この又七の澄んだ感じもする豊かで艶やかな錆色は群を抜いている。 2021/6/5 本当に堂々とした鐔だ。8㎝ほどの大きさ、切羽台も4.4㎝と大きいという物理的な大きさもあるが、強さも感じる。 2020/11/10 この鐔と林又平の鐔を一緒に並べて鑑賞する。やはり「堂々たる」感じが王者又七からは発せられている。鐔の大きさも、耳の幅、切羽台の大きさも王者又七の方が大きいこともあるが、やはり芸術の力なのだろう。(同文を林又平「茗荷蕨手透かし鐔」の項にも記す) 2020/8/1 肥後金工はそれぞれに個性的で素晴らしいが、又七はもう一つ次元が違うような気がする。この鐔を私はいみじくも王者又七と称しているが。まさにそんな感じで、ぐたぐたと観賞用の言葉を述べるのが嫌になるほどだ。 2020/7/28 晩年作だと思うが、若々しい感じもする。若々しさも20/2/25に「艶めかしい」の字義にある。 2020/7/26 「よっ!名人」と掛け声が出る。 2020/7/23 ゆったりという表現がいいのか、鷹揚という表現がいいのかわからないが、そういう雰囲気である。 2020/7/22 クルス透かしにヒントを得て、この図柄を着想し、製鐔したのだと思うが、又七の円熟の為か、一格どころか数格上がる感じである。艶めく錆色で色気も感じる。 2020/5/11 スケールの大きさを感じさせる。これは何からくるのだろうか。的確な言葉が思い浮かばない。澄んで、輝く鉄錆の色も奥深さを感じさせるが、平面ではない奥深さという三次元のスケールの広がりを感じさせるのだろう。 2020/3/14 切羽台の形状、櫃孔の形状は正確に整っているが、堅苦しさは無く、むしろ穏やかで柔らかい。余裕がある感じである。 2020/3/12 多くの鐔工が技術を研鑽しても追いつけないところがあると感じる。それを観て表現したいと思っているが、やはり天才なのだと思う。 2020/2/25 「艶(なま)めかしい」という印象も持つ。広辞苑でひくと①若々しい。ういういしい。②しっとりと上品である。何気ないようで優雅である。③奥ゆかしく、しみじみとした趣きがある。④つやっぽく美しい。あだっぽい。色っぽい。と語義の解説があるが、②と④に近い。 2020/2/24 この頃は「骨太」という印象を持つ。透かしの線が太いというより、何か全体の印象である。 2019/10/17 先人が羊羹色と称した地鉄の輝きと、切羽台、櫃孔、形状の正確だがゆとりを感じさせる透かしの技術。 2019/7/26 この図柄は、若い時に作鐔した「クルス透かし」からヒントを得たと思うが(これも京透かしなどの先人のデザインであるが)、細川家の紋所の九曜紋を意識したのではなかろうか。 真ん中の星は切羽台に替わり、周りの八曜は円弧で繋ぎ、八つに区切った部屋に納められているが、九曜紋のイメージと言えないことはない。大事な紋でもデフォルメするのは勘四郎も行っている。 2019/6/21 ここしばらく観て、触って、撫でて、寝床に持ち込んだり、机上横の鐔立てを時々観ている。感想は下記に言い尽くしているが、周りの光によって輝く鉄色は変化するが、今は文字通りに漆黒だ。漆を塗った艶が黒光りしている。 2019/4/8 豊潤とは「ゆたかにうるおいのあること」だが、このキーワードに尽きる。 2019/3/24 肥後春日派の又七はキチンとしているのが基本だが、これは円熟期の作なのだろうが、ゆとりを感じる。名作である。 2018/12/2 観ているだけで気持ちが豊かなになってくる。包み込むような暖かみも感じる。 2018/7/25 「寝るときはエアコンをつけて熱中症にかからないようにしましょう」との呼びかけ。つまらん呼びかけだ。「寝るときに鉄鐔を持って寝るほど熱中しましょう」が日本男子への正しいアナウンスだ。 2018/7/4 このところ、肥後鐔を観ている。活力を感じる鐔である。はじけるような活力ではなく、充ちているような活力である。 2018/5/16 ホッとする気持ちが生ずるところもある鐔だ。立派な鐔なのだが撥ね付けるようなところはなく、包み込むようなところがある。 2018/3/7 又七の鉄と言えば羊羹色と称して、古人は激賞してきたが、本当に、底に赤を沈めての黒色で、ねっとりと湿って固まったような鉄味は無類である。 2018/1/4 小柄・笄櫃は、どの鐔においても、実用の為のものとして、デザイン・形状に大差は無いが、この王者又七の櫃は形状が整い、優美でありながら強く感じる。切羽台に突き刺さるように彫られているのは又七の特徴だ。笄櫃も同様に優雅で洲浜はそれほど強くつけずに、全体の透かし彫りと調和しながら存在感を出している。切羽台の左右に、夫婦のように存在している。 2018/1/2 地鉄の光が強いと、冷たい感じを与える鐔が多いが、これは包み込んでくれるような温かみがある。 2017/11/28 底から輝いてくるような鉄色は温かみがある。寒い朝に目覚めた時には何よりだ。 2017/11/27 「冷え枯るる」室町古鐔を観た後は、この豊潤な又七だ。気分が明るく、豊かなに満たされる。 2017/11/13 切羽台の形状と櫃孔の形状、切羽台に刺さるがごとき様は狂いがない。それでいて堅苦しい感じはしない。こういうのが又七。 2017/11/3 存在感が圧倒的である。別種の存在感で、こういうのが芸術の力なのかとも思う。 2017/10/31 赤坂忠正の歳寒三友図透かし鐔の鑑賞記において、切羽台の長さが43ミリと記したが、この又七の切羽台の長さを計ると44ミリだ。寛永~寛文の頃はこれぐらいと言うことも可能だが、桃山時代以降は作者と時代が判明している鐔工がいるから、もう少し体系的に検討すべきである。ただし無銘が多い点、大小の式制が決まり、小の脇指用があることも考慮しないといけないだろう。 2017/10/24 観ていると至福の時間が流れる。切羽台の形も堂々。小柄櫃・笄櫃の形状も整いながらも張りのある形状でしっかりと切羽台に食い込んでいる。 2017/9/7 鑑賞記の「3.名人の遊び-余裕、自信」において「初見の折に、この鐔の円弧にある玉の中に、切り立て部分が斜めになっているのが下部左にあるのを発見した。この遊びを観た時に、急にこの鐔が欲しくなったのは何故だろうか。」と書いたが、細川護貞氏が永青文庫の季刊誌NO17(昭和61年発行)の中で寄稿された「肥後の金工」という一文において「又七の透し彫りは、決してプレスで抜いた様に垂直ではなく、部分的に傾斜しており、表裏の透しに微妙なズレがあり、それが何とも云えぬ味をもたらしている。この様な技法は、故意が目立ってはイヤ味になる。あくまで自然に、あたかも真直ぐに打抜こうとしたのが手の加減で少し乱れ、却って味が出たと云う感じに仕上げたのがミソである。無作意の作意と云うか、凡手の及ぶところではない。又七の名人と云われる所以である。」と記している。 この時の展示に、この鐔は出品されていないと思うが、まるで、この鐔を観ての感想のようだ。他の又七の鐔にも、このようなところがあるのだろうか。 2017/6/7 眺める時、至福の時。造った又七も凄いが、その価値を見出し大切にしてきた人々の思いが入っている感じだ。 2017/5/9 刀の世界の鑑定においては、同時代の国に入札されると「能(よく)」であり、確かに作風に共通点はあるが、肥後の林(春日)、平田、西垣、志水の初代は個性的である(勘四郎が又七として所載されているのも見かけるが)。こんなことを考えていると、刀工の大和五派は違うよなとの感も持つ。江戸石堂と虎徹(間違う人はいないが)も違う。「能」は鑑定会用のサービスの用語なのだろう。 2017/4/16 黒光りとか、照り輝くとかの鉄錆の輝きとは別に、造形の雰囲気も明るい感じがする。このような明るさも万人に好まれる要素の一つなのだろう。 2017/4/13 昨夜は、この鐔を掌上で観ていると「豊潤」という印象が浮かんできた。豊潤とは「ゆたかにうるおいがある」という意だ。書いてから、過去の鑑賞記を読むと2016/6/20にも同じようなことを書いている。 2017/1/2 重要刀装具に指定されているから高価だった。でも手に入れて良かったと心底思う。作者又七の美意識というか想いが、高い技術を超越して表現されている。緊張感もあるのだが、同時にゆとりがある暖かみも感じる。 2016/12/9 この鐔は鑑賞記の段階から、図柄の名称は書かずに「王者又七」と書いてきたが、あなたも御覧になるとわかると思うが、図柄がどうのこうのということはどうでもよくなる。本当に堂々たる鐔で、ご縁があってありがたいことであった。 2016/11/1 昨夜、寝る前に鐔掛けにある又七を見たら、一箇所の灯りを消して、たまたま鐔掛けの角度によるのだろうが、又七の鐔が全体に黒光り(厳密に言うと、光沢をある程度消しての黒光り)しているのを発見した。 改めて堂々として美しいことを発見した。 2016/10/19 この鐔は整っているが堅くない。きちんとしているが懐の深さというか暖かみを感じる。大したものだと改めて思う。 2016/6/23 鉄色は鑑賞記に「照り輝く羊羹色」、「清澄感と表現したくなる透明感」、「晴朗とでも言うべき輝く黒」と書いたが、塩野七生の文章の中に「セレーノ」と言うイタリア語を男の褒め言葉として使っていたことを思い出す。静かに晴れて澄み切った空のような意味だと思う。黒錆に覆われた鐔に「晴れて澄み切った」と言うのもどうかとも思うが、深みのある澄んだ明るさを感じる鐔だ。 2016/6/20 鑑賞記の冒頭にも書いたが、この鐔は本当に豊かな気分にしてくれる。鑑賞記に記した「豊穣」の本来の語義は「穀物が豊かに実ること」であり、同音の言葉に「豊饒」「豊壌」があるが、いずれも「穀物が実る豊かな土地」に関係している。だから鐔に「豊壌」はおかしいのかもしれないが、観て、触っていると私の心の大地が豊かな気分になってくるのである。だから覇者ではなく王者なのだが、これが芸術の力なのかもしれない。 2016/6/18 肥後鐔は何故、このように流派も多く、優れ、その結果、残存している作品数も多いのだろうか。肥後藩の武士に、何枚も鐔を取替える文化があったのであろうか。 肥前刀と同様に、他国へ輸出していたのではなかろうか。しかし、輸出品であれば、当然に鐔にも銘を入れさせると思う。銘=ブランドが大切になるのは、肥後細川藩の要路の者もわかると思う。だから無銘が大半という意味で輸出品説も疑問が出る。むしろ長州藩の長州鐔の方が輸出品であろう。 肥後鐔が優れているから、結果として多く遺されているのであろうか。 あるいは、優れていることが知れ渡り、もてはやされて来た時(明治期以降)に坪井地区で多くの上手な写し物が生まれたのであろうか。 2016/6/17 この鐔は、本当に堂々たるものだ。スケールの大きさが違うが、一体なぜなのだろうと思う。信家の豪放な感じとはまったく違う。磨き地で美しいが、美しさが持つ弱さはない。では強さかと思うが、強さが際立つわけでもない。なんとも言えない安心感がある |
2024/10/28 一緒に製作された大の方の鐔は『林・神吉』だけでなく、『鐔・刀装具100選』(飯田一雄・蛭田道子著)にも所載されている。 2024/10/24 この鐔も、『林・神吉』(伊藤満著)所載のこの鐔の大の方の鐔も、小柄櫃も、笄櫃と同様に州浜形である。特別の注文の大小鐔だったのだろう。 2024/10/20 深信の切羽台はこのように大きくて整っているが、この大きさを覆うような縁は、私は実見していない。『林・神吉』(伊藤満著)に深信の縁頭は掲載されておらず、楽寿は2点掲載されている。楽寿のも、これはど大きい縁ではない。 2024/10/16 この鐔の地鉄は何か異種の鉄のように感じる。透明感のある青黒く澄んで輝く錆色である。巷で見る深信の地鉄とも違う感じである。在銘品の大小(この鐔は小)であり、特別な注文で特別に材料を吟味して作鐔したのであろう。 2023/12/20 深信や楽寿は茎孔の鏨で、正真と判定されることが大半であり、後からの加工もあり、真価が損なわれていることもある。この深信の鉄色は無銘の鏨だけの深信では見ないものである。もちろん多くの深信鐔を見ている私ではないから、別の鉄色の深信が存在することは否定しない。 2023/12/16 又七、春日派を高く評価する人にとっては、深信よりも楽寿の方が優れていると思うだろうが、鐔工の個性発揮、革新性を評価すれば深信。ただ深信は真面目過ぎると感じさせる要素がある。 2023/12/12 前回も書いたが、深信の革新に対して楽寿の伝統の再評価ということで、楽寿は親の深信と不和だったという言い伝えはわかる気がする。 2023/12/8 深信は林家の伝統を引き継いだわけだが、林家とは別という新味を出していると思う。むしろ、次の楽寿が林家の伝統に回帰していると思う。深信の新味とは鉄味というか、錆付けが違うところが一番の違いである。そして肉取りが平面的になっている。切羽台も大きい。図柄も独自のものも案出している。 2022/10/7 この図柄、パッと観るだけでは違和感はないのだが、下部の桐の葉と、上部のやや左側にある桐の葉2枚をデザインしたのだと思う。下部の桐の葉の花穂は全て切羽台に隠れていると思うのだが、上部右側に切羽台にかかる花穂が1本ある。これは下部の桐の葉からでもなく、上部やや左側の桐の葉でもない。そのような不思議なところもある。もっとも花穂が長い桐は西垣にも、神吉にもあるから、下部からの花穂の可能性もある。このように詳細に観ると変なところもあるが、全体としては収まった絵柄になっている。この鐔は大小鐔で小の方であるが、大の方も同様の絵である。 2022/10/5 今、改めて思うのだが、神吉深信の切羽台は整っていることに加えて、少し大きい。幕末で長大な刀が誕生し、柄前も頑丈なのが要求されたと言うのなら、より幕末に近い楽寿の方に、この特色が出るべきだと思うのだが。 2022/10/3 鉄の質が密だからか、重たい感じがする。気のせいかもしれないが。いずれにしても巷(ちまた)で観る深信の鉄とは違う感じである。 2021/11/2 真面目な深信が、華やかな鐔を求められた結果としての作品である。この鐔を観ていると、深信は謹直だけに、華美に憧れがあったような気もしてくる。 2021/10/31 この鐔は在銘作でもあり、隅から隅まで、キチンとした彫りである。各透かしの切り立て部分も滑らかに仕上げている。毛彫りまで整然と丁寧である。先日は鉄地の仕立てにも言及したが、錆び付けも完璧で漆黒に輝いている。 2021/10/29 この鐔は磨地というよりは鏡地とでも言うような仕立てである。鉄の肌理(きめ)は細かいし、細かい凹凸もまったくない地で、つるつるしている。地の仕上げだけでも時間を要したと思う。特別な道具があったのであろうか。 2020/1/7 中国の西安において、桐の薄紫色の花が咲いているのを見たことがある。4月後半で弘法大師が修業したことがあるという青龍寺である。巷にある桐の文様は家紋も含めて花ではなく花穂がついており、もう少し前の季節であろうか。花札の桐は12月だから雪輪に桐花でもいいのだろうか。 聖なる王が現れる時に鳳凰が出現し、その鳳凰は桐の枝にとまるとの伝説から、皇室や将軍家で大事にされ、今でも日本政府の紋章に使用されている。ちなみに私の家の女紋が「七三の桐」である。 「投げ桐」というのがわからない。どういう意味があるのだろうか。 2020/1/6 水心子正秀が実用刀=復古刀を完成したと言うのが寛政12年(1800)である。それまでの新々刀は正秀自身もそうだが華美な助広、真改の写しであった。深信が盛んに製鐔したのは、文政~天保(1818~1843)であり、正秀の動き=作刀界の動向は理解していたと思うが、刀装具はファッションの要素が強い。 この鐔も注文主の意向を受けて肥後林(春日)派の錆付け、肥後西垣派の図案を取り入れた華実兼備を目指したものになっている。 2019/2/11 桐の葉先は尖って鋭角にしているが、桐の花穂の先は丸く彫っている。丸く彫った花穂は切り立て部分も微かに丸くしている。葉は平面だが、花穂は立体感を意識している。 2019/2/10 切り立て部分も丁寧に鏨の跡を消している。そこには約180年分の錆が付いている。 2019/2/9 この鐔を初見した時、こんなにも鉄色が綺麗な鐔があるのかと感嘆したことを思い出す。透かし鐔というよりは金工鐔のような感じだ。綺麗な分だけ、面白みとか、雅味に欠けると感じてくるのが人間の眼の面白いところだ。 2019/2/8 この鐔はスキが無いという感じだ。何から何まで計算されている。キチンと完璧に造りましたという感じだ。 2017/9/17 肥後の新々刀期の鐔を観ている。この鉄と錆色は別種の鉄という感がある。透明感のあるような、あるいは洋鉄のようなもので異彩を放っている。赤錆を寄せ付けないような鉄である。在銘だし、大小で納められたものであり、特別な注文作なのだろう。 2016/10/12 切羽台は大きい。深信は天明6年(1786)ー嘉永4年(1851)の生涯である。在銘年紀作に天保14年(1843)(58歳)がある。文政(1818-1829)と天保(1830-1843)が盛んに製作していた時期である。 同時代の志水家では、4代志水が延享3年(1746)-文政6年(1823)であり、5代志水茂永は2人扶持を得たのが文化10年(1813)で逝去したのが嘉永7年(1854)である。5代茂永にも切羽台の大きな鐔がある。所蔵していた雨竜の鐔も大きい方である。時代の嗜好なのであろう。 ちなみに天保の頃の新々刀は長大な刀も多い。 2016/10/11 この鐔は在銘であり、同図で同じ銘の切り方の大きめの鐔が現存している(『林・神吉』伊藤満著に所載)。この鐔と大小となっていて、この鐔が小のものだろう。 特別の注文作であり、鉄の質も特に密度が高いような感じで、錆色も独特であって、常に観る深信の作品とは違っている。 柔らかい図柄を堅く彫ったような違和感を感じるところが、深信の個性なのであろうか。あるいは特別な注文作だからなのであろうか。 2016/10/9 2代勘四郎の桐を観てきたから、深信の桐を透かした鐔を持ち出してきた。昨夜、気がついたのは深信は桐の毛彫りにおける葉脈の先をほとんど閉じていないことだ。左右からの毛彫りの線を閉じないで、密に接して2本の線のままにしていることだ。何か意味があるのであろうか。 |
2024/7/3 小ぶりなこと、厚さも薄めなことから、元禄以降の作品と思う。そして華やかさが求められて、このような桐の花穂、桐の葉になったのであろうか。 2024/6/29 また、ここまでのデフォルメをするということは、かなり自分に自信があったのだと思う。自信が無ければ下手と思われないように写実的に造形するはずである。 2024/6/25 桐の葉を、ここまでデフォルメして、桐の花穂をここまで伸ばすのは、どういう心境なのであろうか。華やかさを重視する文化が生まれていたことも一つだと思うが、個人的な心境の変化(これは華やかさというより苛立ちか)もあったのではなかろうか。 2023/10/5 時代の潮流に合わせて、桐の花穂を華やかにして、やや抽象画の世界に入り込んでいる。ここまでデフォルメできたのは二代勘四郎の自負、自信なのだと思う。普通は先代のをそのまま踏襲することが多い。 ただ抽象化した結果が成功したかは、現代の私に言わせると、うまくいっていないと評価せざるをえない。 2023/10/1 二代勘四郎在世時の時代潮流は「鐔は小型化して、厚みも薄くなり、華やか」ということが理解できる鐔である。時代潮流に適したものは、その時代が変わると、時代遅れとなる宿命もある。さらに、今でも時代の潮流とは別の生き方、嗜好を持つ人が一定数いるように、従来通りの武張ったものを好む人もいただろう。 2023/9/28 二代勘四郎は、伝統を踏襲するだけの職人では無く、そこに新味を入れようと苦心した金工だと思う。新味の一つは時代の嗜好だと思うが、伝統を時代に合わせて変化させようとする苦闘を、この鐔を観ていると感じる。 2022/8/24 上からの巴の重みが、爆発する桐を抑えている。この時の二代勘四郎の気持ちを表しているようだ。 2022/8/22 肥後鐔の筋の良いものは、櫃孔の埋金や、櫃孔の当金などが丁寧である。これは見所として覚えておくとよいと思います。もちろん、生ぶのものに限定した話ですけれど。 2022/8/20 2代勘四郎は在銘(西垣永久)の田毎月(たごとのつき…重美)があることで名高い。後藤家に学んだという伝承が首肯できる作品である。この裏面には草木が彫られているが大胆な構図というか、イラつきというか激情のようなところを感じる。 別の視点だが、この田毎月鐔は素銅地だが、各種の色金(赤銅、四分一、金、朱銅)の多用に、師とされる顕乗小柄の裏の削金との共通性もみられることを記しておきたい。 2022/8/18 勘四郎の一派は、桐、巴、桜、引き両という細川家の紋をアレンジしたデザインが圧倒的に多い。これも考えてみれば特異な一派だと思う。家の方針として、デザインの掟のようなものがあったのであろうか。この鐔から感じられるイラつきのようなものは、こういう掟に対する反発であろうか。 2021/10/8 この鐔を差料に付けて歩いた時、他人の目から、この鐔の模様は何に見えるだろうか。肥後藩内の者ならばわかるかもしれないが、他藩の者には見当がつかないのではなかろうか。 2021/10/6 作者は「自分を出す」という意識が強かった人物だと感じる。肯定的な側面を述べると、独創的で芸術家タイプである。 2021/10/4 何度か、この鐔における桐の花と葉の形状に「いらつき」感を感じると書いたが、同時に巴紋に「落ち着き」も感じる。不思議な感覚を感じる鐔である。 2021/6/28 勘四郎の一つの特徴と言うべき、「歪(ゆが)み」は耳の形状に出ている。「歪み」を「雅味」ととらえるのが日本人と言うか茶人と言うべきか。 2021/6/26 二代勘四郎は初代(元禄6年(1693)81歳没)と同様に、当時としては長命で、享保2年(1717)79歳まで生きている。初代が没した元禄6年は55歳である。長生きしたからと言って、その歳まで制作していたわけではない。自分の身で省みても目は不自由になるし、根気も失われてくる。この作品などは元禄期のものだろう。薄手だし、「美なる方にて初代より密なり」とあるように華やかさが加味される。 2021/6/24 磨き地なのだが、耳の右側には槌目地のようなところもある。また透かしの切り立て部分に入る際を全体に面取りしている。 2020/4/5 この鐔の桐を観ていると、具象から抽象へという動きがわかる。桐紋の場合を丁寧にたどると次のような動きになる。「自然界の桐の葉(具象)」→「家の桐紋」(一つの抽象)→初代勘四郎の「桐紋デフォルメ(歪みや崩し)」→二代勘四郎の「アメーバのような桐紋(抽象)」 2020/4/4 時代の風潮=当時の武士の嗜好に合わせた鉄鐔を作りたく、「美なる方にて初代より密なり」と後世に評されるように製鐔したが、それほど華麗な雰囲気にならないことへの「いらつき」なのかもしれない。縁頭などの金工製品では、それなりの元禄文化の雰囲気は取り込めたが、鉄鐔では苦心したのではなかろうか。 2020/4/3 桐の具象から離れて、二代勘四郎の心を表現する抽象の桐に変化した。この心が色々と想像でき、以前に記した「いらつき」とか「何かに対する爆発」みたいな感情を感じる。 2020/4/2 この人は後藤家にも学んでおり、金工(金具師)の方が本業だったのだろう。 2019/10/30 「放埒」な感じもする。先代を踏襲だけでは終わらず、弾けさせたところが二代を継いだ勘四郎の自負なのだろうか。 2019/10/15 西垣派は桐紋と巴紋との「かけ合い」が行われているような文様が多いのだ。 2019/10/14 拳骨(巴文)で桐の塊を殴ったら、桐の中に潜んでいたものが拡散(花桐の花穂)したような図柄である。 2019/10/9 ここにおける以前の鑑賞に「生々しさ」「いらつき」を感じると書いたが、何か動物的な感覚を感じる。 2019/4/11 改めて観ると、耳の歪み(デフォルメ)が強い感じである。透かした後に歪めたのではなく、当初の図採り(下絵)の時からだと思うが、意外に神経を使うのではなかろうかと考えるようになった。茶碗の作陶では粘土状の陶土だから、歪めるのも簡単だろうが。 2019/1/24 小柄櫃は赤銅で丁寧に埋められているが、形状は整っていて美しい。また櫃の外側は丸く面取りがしてある。笄櫃側の赤銅の当金も赤銅で丁寧に入れてあり、これらも生ぶで勘四郎の作業だろう。 2019/1/23 なかなかいい鐔である。元禄、宝永、正徳という時代、すなわち刀工では小林伊勢守国輝、一竿子忠綱の時代、綱吉将軍によって武家諸法度の冒頭が「文武弓馬の道、専ら相嗜むべきこと」から「文武忠孝を励し礼儀を正すべきこと」に変更され武道が廃れていく時代、諸藩でも財政事情が逼迫して藩士の知行が削られていく時代を迎え、鐔の需要も減少する時代への模索が出ている。 2018/7/27 先日、国立博で「縄文」展を観に行った時、縄文土器にすでに巴のような図が彫られており、それを雲形文と説明してあった。 巴は水流とも聞いたことがあるが、縄文からの紋様なのだ。 2018/7/20 絵としては巴に押されて、花桐が爆発したのだ。そういう点が下記した「何か心のいらつきがあった」と感じるところなのだろうか。 2018/7/15 これを作鐔した時の二代勘四郎は何か心のいらつきがあったように感じる。時代(元禄後半以降)の風潮に対するものか、家庭的なものかはわからないが。 数日、寝床で観ている感じである。 2017/12/31 勘四郎永久が抽象化してきたから、観る方も図柄を放れると、巴の密集軍が押し寄せて桐軍を圧迫する。その中から桐軍の花穂部隊が分かれて包囲に向かうような図にも見える。 2017/12/29 初代勘四郎が亡くなり、武張った将軍吉宗が出る享保までの時期、すなわち元禄、宝永、正徳頃の時代を反映しているのだろうか。 2017/12/28 初代が作った巴と桐の紋の一部を組合わせた図であるが、この図自体も現代の我々から見ると変な図である。藩主の紋といっても、どうして肥後藩士に喜ばれたのかと不思議に思う。肥後藩の一部組織の合い印のようにしたのであろうか。 そして、二代のこの鐔は、さらにデフォルメをして、抽象化にも踏み出している。抽象化と同時に装飾化も図っているところに違和感を感じる。 2017/7/8 この鐔は、何か生々しい感じを抱かせる鐔である。 2017/7/7 あるところで勘四郎の良い鐔を拝見。それは初代作と思うが、鉄味はこの鐔とよく似ている。また形状も、この鐔同様に、少し歪んでいる。この歪みの感覚が勘四郎なのだろう。 2017/2/12 この鐔は、花桐のところは切り立て部(透かしの際)に入るところを全体にわずかに面取りをしている。林二代は初代の図をデフォルメしているところがあるが、西垣二代はより以上に華やかにしている。時代の影響だけでなく作者の個性の違いだろうか。 2016/10/8 この鐔は小柄の櫃孔を赤銅で埋めている。また笄櫃の内側に当て金として赤銅を付けている。拵の都合で後世の人が埋めることが多いが、この鐔は2代勘四郎自身で埋めているように感じる。小柄の埋金は、少し膨らみを付けるような肉取りで実に上手である。笄櫃の当て金も真ん中辺りを膨らませて上手なカーブである。 作者本人が行ったかどうかは確証はえられないが、このようなところの加工も丁寧に行っているものは、良いものが多い。昔の人だって、当然に良いものを識別し、それは大事にしたのだ。 2016/10/5 「西垣の鉄味は黒い」と読んだことがある。鉄味は私の所蔵している鐔、全てで若干異なるように、難しいものと認識している。保存の状態で異なる。その伝来の過程で、江戸時代には鍔屋があり、それぞれの家に秘伝の錆付けをして、改めて販売していたことは、このHPで紹介している。 ちなみに所蔵していた初代勘四郎の「海鼠透かし鐔」はやや赤味がある柔らかみを感じる鉄であった。雁金屋彦兵衛と極められていたが、実は2代勘四郎と考えられる「雪輪雁金透かし」の黒い錆とも少し違っている感じである。 この2代勘四郎の鉄味は黒い。そして、茎孔の周りの責めタガネも同様に黒く錆付けされている。責めタガネは、後に自分の刀に合わせて調整する時に孔を小さくする時に使う。こう考えると鐔製作時点とは後順位であり、錆の状況が変化が当然なのだが。 一方、赤坂鐔にも、同様な茎孔周りの責めタガネがあり、鐔の作者自身が、銘代わりに打ち込んだものもあると考える。 この鐔における責めタガネが2代のものかは、他の2代作と比較する必要はある。鉄鐔ではないが、初代彦三の色金鐔には、茎孔の周りに丸い責めタガネが打たれている。 2016/10/4 この鐔は鑑賞記に、2代と極める経緯を書いた。肥後金工録における「美なる方にて初代より密なり」の評の通りである。この鐔における桐の花穂は密がやや過ぎて、うるさいところがある。櫃孔から出している桐の花穂はいらないと思う。 だけど、2代勘四郎がさすがと思うのは、少し華やかに作っても、弱さが出ないところである(改めて鑑賞記を読むと、この時にも2代の強さに触れており、伊藤さんはよく観ている)。 華やかなところは、製作した時代が元禄に入り、時代の好みを取り入れた為であろう(初代勘四郎も元禄6年まで生き、この時、2代勘四郎は55歳であるから、晩年に工夫して製作した鐔であろう)。 |
2024/11/6 細かく密な透かしなのだが、息苦しさや、緊張感を感じさせないのが重光の良さだ。 2024/11/1 安心感のある鐔だ。こせこせと神経質に作っていないし、細かい透かしの作品なのだが、鷹揚な感じを醸し出している。 2023/10/17 先に”ゆるい”という印象を記したが、穏やかな印象を感じさせる鐔である。 2023/10/13 密なデザインで、彫りに神経を使う図柄だが、重光は伸び伸びに造っている。網目の大きさ、位置などは、例えば神吉深信が作成した同図に比較すると”ゆるい”。これが個性で、良さでもある。 2023/10/9 綺麗な照りのある地鉄だ。細工としては手間のかかるデザインである。そして万人受けするものであり、どのような場においても着用しても問題は無い図柄である。ただし、その分、自分の個性を出そうと考えている武士にとっては物足らないのかもしれない。 2022/11/12 相変わらず、この図を「三つ浦」と称する理由がわからない。どんな言われがあるのだろうか? 2022/11/10 鐔立ての場所にもよるが、今の場所で、ある時間になると、この鐔の全面が柔らかな照りで覆われて美しい。柔らかい光に包まれている感じだ。そして切羽台の形状が見事である。 2022/11/8 地鉄の黒錆の光沢を、「輝き」「照り」「艶」などと表現できるが、この鐔の場合は「照り」という言葉がふさわしいと感じる。この「照り」が良い雰囲気を醸し出している。 2022/11/6 この図柄はフォーマルな場でも使えるものであり、きちんと造られているが、堅苦しさは無く、余裕と言うか、のんびりした空気も感じる。これが2代重光の個性なのだと思う。 2022/11/4 又七のクルス透かし鐔(若い時代の作)と違って、小柄櫃、笄櫃の肩は張っていない。時代の違いだと思う。 2021/12/6 肥後春日派、林家の作品の良さの一つは、地鉄の光沢感だろう。照り、澄んだ感じの光沢感は、所蔵の又七(加えて黒の深みがある)、5代又平(やや赤みがある)にも共通する。 2021/12/4 この鐔における網は、左右対称ではない。左側と右側の耳や切羽台近くの網目を見ると理解できる。加えて網目が左に下がり加減で”たわみ”があるところなどに、重光らしさが出ている。ただし、そのように崩しても、全体の印象は崩れておらず、さすがに林家二代と思う。 2021/12/2 網は魚を獲るものである。武士は敵を絡め獲るという意味で網文様の鐔を求めたのであろうか。それともデザイン・意匠の面白さから身に付けたのであろうか。意匠の面白さと書いたが、現代の私は、それほどの面白みは感じない。一方、製作する鐔工としては、結構手間のかかるデザインだと思う。不思議である。 2021/7/24 昨夜、気がついたが、耳の周りを削いで丸くしているが、この削ぐ面積が少し広いから、耳が細く感じられる。これが、このデザインに軽みを与えている。 2021/7/22 隣国肥前では藩が自国の製品である肥前刀を他藩に宣伝して輸出に努めたとの伝承があるが、肥後鐔では、そのような話は聞かない。しかし当然、優れた肥後鐔を特産物として他藩に輸出したのではなかろうか。肥後鐔の図柄の赤坂鐔の取り込み例などからも傍証できると思う。この林家・春日派の鐔はもっとも喜ばれたのではなかろうか。他藩では越前藩、長州藩、因州藩などが輸出していたのであろうか。 2021/7/20 これは微妙な感覚で言うのだが、この鐔はほんのわずかに中高(耳側より切羽台の方が厚い)の肉取りをしているように思える。耳の側面を丸耳仕立てにしていて、その丸味が錯覚させているのかもしれないが、昨夜はそんな感じがした。もちろん肯定的にとらえている。 2021/7/18 偉大な父とどうしても比較されただろうが、この鐔には伝統を受け継ぎつつも、そういう重みを脱したようなところを感じる。 2021/7/16 余裕、ゆとりと同意味でもあるが穏やかさも感じる。張り詰めていない作品であり、この境地はこの境地でなかなかのものだと思う。 2021/7/14 規則性のある文様で、どうしても固くなりがちであるが、重光の個性だと思うが、余裕というか”ゆとり”を感じさせる。良い鐔である。 2020/11/6 王者又七と櫃孔の形状はよく似ている。小柄櫃はそんなに肩が張らず、しかし十分な膨らみがある。笄櫃は下部の横に膨らみ加減で上部はなだらかな円弧を描いている。切羽台は鐔全体の大きさによるためか、王者又七の方が大きいが、穏やかな整った楕円形である。気持ち、上部の方が尖り気味だが、本当にわずかの違いである。 2020/11/3 今回、「週刊日本刀」に「中国大陸と日本刀輸出」を書いたが、この中で倭寇を調べている時に、高麗が倭寇対策も兼ねて倭人の入港地として3箇所の港(釜山浦、薺浦、塩浦)を許可したことを知る。そこに倭人の居住者が増加し、それに制限を加え、押さえ込もうとする高麗の間で、1510年に倭人が高麗政府によって殺害されたことをきっかけに、対馬の援軍も得た倭人が争ったのが三浦(さんぽ)の乱である。その後、対馬宗氏と和解と争いが続く。 この朝鮮半島の三つの港の風景として干された網があり、それが「三つ浦」の語源かとも考えている。 2020/10/31 穏やかな感じを懐かせる鐔である。 2020/10/28 鉄板を網目ごとに打ち抜き、その周り(=網目の形状)を一つずつを整えていくわけだから、手間のかかったものだと改めて思う。 2020/10/27 春日派(林派)らしい輝きが強い清澄な感じがする鉄色だ。単調と思われる網目だが、重光らしく網目の形状が微妙に異なるものが交じっているのが堅さを和らげている。 2019/1/16 網が少したわみが有るためか、この鐔全体が柔らかい感を抱かせる効果もあることに昨夜気づく。 2019/1/15 網の太さも、たわみ具合もよく考えられていると思う。細いと弱くなるし、太いと野暮ったくなる。たわみがないと単調となり、固い印象となる。網のたわみを彫るのは神経を使う作業だったと思う。 2019/1/14 この鐔は、このような図柄でも堅苦しいところはないし、良い鐔である。鉄色は黒く輝き澄んでいる感じがして感じがいい。厚さも頃合い、わずかに長丸形の形も穏やかである。 2019/1/13 切羽台の長さは41.6ミリである。金山鐔の松皮菱透かしと同じ長さで、王者又七、赤坂初二代の歳寒三友透かしより短いが、赤坂初二代の四方松皮菱透かしよりは大きい。また形状は整った小判型である。 2018/10/28 オタクらしい視点のコメントであるが、この鐔は透かしの切り立て部分を観ると楽しい。重光が鏨で鉄板を打ち抜いて、整えた跡がたくさん(網目の数だけ)見える。もちろん、そこには350年以上の錆が付いているのだが、しばらく寝床で見入っていた。 2018/10/26 肥後春日派の作品はキチンとして折り目正しい。登城などの正式な場でも違和感はなかったと思う。西垣、志水、平田との違いだ。この鐔はそういう面でも安心感がある。 2018/10/24 鉄色がもう一段明るく清澄な感じがする。清澄(せいちょう)とは字義の通り「清く澄んでいること」だが、この鐔はそんな感じがし、それでいて暖かみを感じる。 2018/10/23 昨日「写しもの的な弱さもなく」と書いたが、それは網目模様というものがあって、それを彫ったという感じではなく、網を広げたのを描いて彫ったような感じ、あるいは網模様を楽しんで彫ったような感じがするという意味である。 2018/10/22 穏やかな良い鐔と思う。作家意識を強くだして気負うところもないし、写しもの的な弱さもなく、自信を持って作鐔している。 2018/5/3 赤坂鐔のことを調べている中で『赤坂鍔』(丸山栄一著)を紐解く。その142頁に7代忠時が「三ツ浦」を写した作品が掲載されていた。写真を掲載すれば誰でもわかるが、網目の大きさの不揃いは是認するとしても、網目の形状の不揃い、網目の線の太さも統一が取れていないのはいただけない。ただし掲載されている他の7代忠時作品は赤坂らしいそれなりの作品であり、この肥後写しだけの問題なのだろう。 なお『赤坂鍔』には「三ツ浦」に似た「桜川」(網と、そこに桜の花を透かした文様)の作品も掲載されている ともかく、肥後鐔の優秀さを再認識する。 2018/4/24 春日派の透かしは手が混んだものが多いが、この網目の透かしは手間がかかると思う。網目の一つずつに膨らみをもたせて、しかも網目の線は一定の細さで、しかもムラなく彫る必要がある。4/22でも紹介した西垣勘平の透かしと比較して欲しい。技量の違いが明白である。 2018/4/23 なお、「三ツ浦」の図は、林家代々が製作しており、その違いについて「肥後鐔工・春日派・林三代の苦心と個性-「三ツ浦図」透鐔を例に-」として取りまとめている。参考にして欲しい。在銘品があれば、もっと明確なのだが、そこは仕方が無い。 敢えてラフな感じで作鐔し、特にこの鐔での”歪み”の面白さがわかる。もっとも、私はこの”歪み”を伊藤満氏と、その著作『林・神吉』で教わるまで、長く、三代の特徴と思ってきたのだが。 2018/4/22 同時期に如竹の「八駿馬」の鐔を鑑賞しているが、そこに「群馬」とされていた画題を「八駿馬」とした経緯を書いたが、この図は肥後では「三ツ浦」と称している。これは同様な図を彫った西垣勘平七十歳在銘の鐔に「根元三ツ浦」(「手元においての鑑賞」における当該鐔の「5.画題の「三ツ浦」について」参照)とあるから、画題の方は正しいことは言うまでもない。 しかし、地名なのか、何なのかがわからない。こういう点からも画題は難しい。 2018/4/21 以前に書いたような気がするが、偉大な父又七の跡を継いだわけであり、重圧は大変なものだったと思う。伊藤満氏が、父・又七の完成度の高い端正さに対して、敢えてラフな感じに作鐔したと書かれているが、「なるほど」と感じる。 2018/4/20 鉄味を文章で表現するのは難しいが、又平の輝く地鉄よりも、少し落ち着きのある輝く地鉄である。堅くなりがちな図だが、ホッとするような感もいだく鐔である。 2017/8/21 肥後春日派・林の透かしは、手間がかかっていると思う。この網目の透かしもそうだし、王者又七やクルス透かしの又七も内側にもう一つの円環を彫っている。林又平の茗荷蕨手透かしも手間のかかる彫りだ。 2017/8/18 櫃孔の切羽台側に入れてある責金(せきがね…当金(あてがね)の方が正しいか?)は質の良い赤銅で丁寧に造って嵌めている。もちろん後世の人が自分の拵に応じて入れたのかもしれないが、良い鐔は、このようなところでもわかる。誰だって良いものは大事に使うものだ。 この鐔の網目のたわみ(歪み)は大胆である。これを「肥後鐔工・春日派:林三代の苦心と個性」で分析したが、この鐔は二代の特色が顕著である。”ゆとり””やわらかさ”が表現されて、しかも破綻しておらず、大したものだと思う。 2017/8/15 地鉄の”照り”がいいのだろうか。明るい感じもする鐔である。 2017/8/14 今朝起きたら、この鐔は私の身体の下にあった。長丸形の形は自然であり、切羽台の形は整っている。やすらぎを感じる鐔である。錆色も黒の輝きは穏やかに存在感を示し、模様の網も堅苦しいところはなく、やわらかい感じでいい。 2016/9/23 網目文様はデザイン的にとらえられやすい。縦型の菱形を基本とした網目が続く。左右から斜めの線を等間隔に引いてできた菱形をアレンジすれば書ける。この時に線を一部ズラすのは統一が取れなくなり難しい。林重光が敢えて、このような下絵を書いたのは網目をデザインではなく、実際の網を干したような情景として描きたかったのではなかろうか。これが、網の目を歪めたりした重光の工夫だ。この結果、暖かみを醸し出している。 狂いのない、破綻が感じられないデザイン的な網目文様は、それはそれで美しい。芸術は難しいが面白いものだ。 2016/9/21 透かし鐔製作の技法に詳しくないが、このような透かしは、鉄の板に、下絵を貼付(あるいは下絵を線書き)し、透かす箇所ごとに鉄に孔を開け、その周りをヤスリで整えていくのだろうか。いずれにしても、透かす箇所が多く、細かいと手間のかかる作業だ。 昔の鐔の価格の付け方もわからないが、手間が多い透かしが高価だったのだろうか。 2016/9/20 肥後春日派の鐔の錆色は照りが強く、かつ透明感もあるような錆で美しい。羊羹色と世に喧伝されるだけのことはある。 2016/9/19 この鐔は長く持っている鐔で、好きな鐔である。網が少したるんだようなところが三代藤八と思っていたが、伊藤満氏の指摘により、それが二代の特色と教わり、納得したことは鑑賞記に記した。襟を正すような品格もあると同時に、何か暖かみというかホッとするところも感じられる。 鉄鐔に本当に良いものは少なく、一時、鉄鐔収集を諦め処分したが、この時に残した一枚である。その後、京透かし、金山のいいものが手に入り、そこから鉄鐔運が上昇したが、ご縁のものだと思う。 |
2024/7/23 この鐔から出てくる迫力は作者の力だろう。志水仁兵衛自身も禅を修行していた人物なのであろうか。 2024/7/19 裏地の荒しは、どのような作鐔意図があるのだろうか。 2024/7/15 この鐔の形状は優しい。撫肩型に分類されるが、女性的とか、御茶碗を手で包み込んだような感じもする。 2024/7/11 禅の境地に立ったからと言っても、これだけの力のある作品はできない。これは志水初代仁兵衛の力だろう。 2024/7/7 今日は七夕だ。牽牛ではないが、牛図の鐔だ。この鐔から感じる独立独歩の境地は禅の境地と共通すると思う。 2023/7/13 以前にも同じようなことを書いたが、「自由と孤高」だ。この鐔は。これが”騎牛帰家”だ。そして梟図鐔も”帰家穏坐”だ。禅の高僧の解釈は別かもしれないが、何度も何度も、この鐔を観て、触ってきた私の印象だ。志水仁兵衛は「少しはわかってきたか」と言っくれるだろう。 2023/7/11 櫃孔の形状、志水仁兵衛には、このように変わった形状のものが多い。江戸期の禅僧仙厓義梵に○△□を描いた画があるが、やはり禅に関係するのかとも感じる。ただ私如きには真意はわからないが。 2023/7/9 切羽台に縁がのり、柄が入ると、牛の顔の右目部分は外部からは見えなくなる。そんなことは構わないで彫り上げている。またそもそも切羽台という鐔の部位そのものを設けていない。変わった鐔工だ。 2023/7/7 牛の顔が擬人化されているから、独特な迫力も生まれている。本来の動物の牛には眉毛はない。目は横に付いている。髪の毛のようなものもない。 2023/7/5 人間の礼儀としての社交は必要だが、心の中では「群れない」「つるまない」「追随しない」の精神だ。 2023/7/3 以前にも書いたかもしれないが、志水仁兵衛の鐔は何か考えさせられる。工芸の技を見せ、その結果として「うまい」「上手」「美しい」とかの感想を引き出すものではない。 2023/7/1 鐔の形状、志水仁兵衛独特である。彫り上げた図(絵)にマッチしている。この鐔では牛の尻の方の鐔の形状がやや狭くなっていることがわかるだろう。意識したのか無意識なのかはわからないが「遠くのもの(頭部よりも尻の方が遠い)は小さく見える」という遠近感が表現されていると感じる。 2023/6/29 裏の荒し地はどのような意図があるのだろうか。不定形な打ち込み痕は、笛の銀象嵌を施した後になされていると思う。裏の右上部には大きな打ち込み跡がある。また裏の左上部は何か特殊な釉薬を撒いたような跡があるが、よくわからない。いずれにしても意図的なものだと感じる。 2023/6/27 組織のしがらみ、人間関係のしがらみ、そういうしがらみにおける葛藤を経た後の「天地に我一人」の境地なのかと感じる。 2023/6/25 志水初代仁兵衛は凄いと思う。日本の江戸初期に、このような作品を創る金工がいたことに誇りを持つ。同時に、このような金工を活躍させた肥後細川家、八代松井家の武士の美意識も敬服に値する。私自身は背景に鎌倉時代~室町時代に受け継がれてきた禅文化があったと思っている。 ともかく「他人は知らず、我が道を往く」という精神が感じられて私自身の指針としている。 2022/9/19 銀布目象嵌は裏面は笛に施され、表は上の写真では左側の牛の肩、背中がはっきりと目立つが、牛の臀部、後ろ脚にも施されている。作者がここに銀布目象嵌を施した意図はわからないが、存在することで、注目が集まる効果がある。銀で目立たないだけに「何だろう」と注目がいく。 2022/9/17 自由を得ようと思えば、孤独に耐えないといけない。そんなことを思わせる孤高の作者であり、鐔だ。 2022/9/15 そして、この牛の顔。Going My Wayだ。刀剣・刀装具という変わった趣味、36歳で独立と、振り返ると私自身もこうして生きてきた。この牛の顔ほど強烈ではないが。 自分勝手という意味はまったくないが、このように生きてきて良かったと思う。時代も付いてくるとも感じる。 2022/9/13 背中の線の力強さに対して、後ろ脚の心許ない感じ。このアンバランスも不思議である。 2022/9/11 この牛の背中の線、なんとも言えずに良い。力強い。 2022/9/9 この鐔を拝見していると、世の中に迎合することなく、自分は自分で生きればいいんだと言うことを後押ししてくれる気がする。私は昔から他人と違うことをやっていくのに何の不安も感じない男であり、高校時代も弓道部を創部し、趣味も刀剣・刀装具収集なんて変わったことにのめり込み、当時、それほど注目を浴びていなかった「名所江戸百景」の初摺りの素晴らしさに惚れ込み、仕事でも12年ほどの会社勤め後に独立して社員も養ってきた。今は自治会長、地区自治連の会長にされていて、地域に恩返ししているが、市役所とは是々非々だ。 2021/11/26 私はこの鐔や同作の梟の鐔に惹かれる。この鐔に「自由だが孤独だ」の精神を感じる人は少ないだろう。普通のお城勤めをしている武士、今で言う普通のサラリーマンなどには敬遠される鐔なのかもしれない。逆に憧れ的に好まれる可能性もあるだろう。 2021/11/22 初見ではゲルニカの牛を想起したが、ともかく強烈な印象を与える。今は禅の境地を顕した図と思っているが、禅も別の意味の強烈さがある。竜安寺の石庭も、別種の強烈さがあるし、絵でも雪舟の達磨(慧可断臂ーえかだんび)の絵も迫力がある。 2021/11/20 以前 (2016/8/7)に書いたが、ブラームスの曲でヴァイオリニストのヨ-ゼフ・ヨアヒムに献呈されたという「F.A.E.ソナタ 第3楽章」のF.A.E(「自由だが孤独に」の頭文字でヨアヒムの座右の銘)と言う「自由だが孤独に」を、この鐔を拝見しながら思うし、私は共感する。 2021/11/14 この鐔の牛の顔は好きだ。そう、周りを気にせずに、自分の内なる声に随って我が道を行けばいいのだ。 2021/11/10 両脇に、志水初代仁兵衛の梟図(帰家穏坐)の鐔と、同じく放れ牛図(帰牛帰家)の鐔を置いている。鉄鐔収集家冥利に尽きる(これ以上の幸せはない)。強烈な個性を発揮する作品の中における一種の穏やかさがわかってきた感じがする。 2021/5/28 この牛の鐔と梟の鐔を、それぞれの鐔立てに掛けて並べている。地鉄の質、色艶、形、厚さなど同一で、同時期の同作者のものと理解される。牛も梟も、ともに迫力があり、また考えさせられるもので、眼福の世界である。 2021/5/26 牛の頭部に髪の毛のような5本の縦筋があるのは何なのだろうか。擬人化しているのだろうか。角が両方から長方形の櫃穴を支えているようにも思える。特異な発想だ。 2021/5/24 同時代の画家に岩佐又兵衛(荒木村重の子で、狂気を持つ松平忠直に仕え、どぎつく、生々しい絵も描く)、海北友松(浅井家の武将で三将とまで言われた海北綱親の子で、作風は多岐に渡るが迫力のある水墨画もある)がいる。志水仁兵衛も明智家家老の志水丹左衛門の縁者と伝わり、何か共通するところを感じる。ちなみに海北友松は明智家家老齋藤利三の遺骸を盗みだして埋葬したようで、利三の娘春日局から友松の息子友雪が御礼を受けているそうだ。 2021/5/22 伊藤若冲ブームで脚光を浴びた辻氏の造語「奇想の画家」を「奇想の芸術家」と範囲を広げてもらうと、志水仁兵衛は当然に含まれるだろう。刀装具の分野では他に強いて挙げると柳生連也(本業ではないが)、遅塚久則などか。大月光興も含めると、私はこの手の作品が好きなのかもしれない。 2021/5/20 ともかく強烈な印象を受ける。こういう鐔を好む人は身分秩序が完成された時代には生きづらかったと思う。江戸時代初期に各大名家で御家騒動が頻発したが、このような時代の鐔なのだと改めて思う。 2021/5/18 裏は「地が荒れた」のであろうか、それとも「地を荒らした」のであろうか。笛を銀象嵌で表しているところの朽ち込みは後天的なものかと思うが、右上の3つの大きな穴などは、意図的なものだと思う。もっとも、こちらが意図的だとすると、その対角線上の下部左の朽ち込みも意図的なのだろうか。そうする笛の周りの朽ち込みも意図的と考えた方がよくなる。同種の朽ち込みである。 左上部の地に湧いたような粒々は何だろう。これも意図的なものを感じる。 2021/1/13 気の現れの一つが、牛の背中の線だ。印象的な線だ。 2021/1/11 志水初代の作技は「うまい」・「下手」などの技術論でどうのこうのと言うものではなく、籠めた気のようなものを感じるかどうかなのだろう。鐔裏面の打ち込みなどにも、それは現される。 2021/1/10 安土桃山時代は日本の伝統文化に、室町時代からの禅文化や、新たに入り込んだ南蛮文化、キリスト教文化も入り込み、面白い時代だったのだと思う。その中で江戸初期の志水仁兵衛は禅文化を強く出したのだろう。師の平田彦三は南蛮文化の匂いがし、西垣勘四郎は神官の出らしく乾いた和風文化かな。 そして熊本の本藩の方では又七、遠山だ。面白い地方だ。 2021/1/8 細川三斎が在世の頃、三斎の隠居所の八代と本藩熊本藩(三斎の息子忠利が藩主)とは仲が悪かった。熊本藩は参勤交代をはじめ、幕府のお手伝い普請などの負担が多いが、八代はそれらを免れていたことなどもある。忠利は三斎に先立って逝去し、5年後に三斎が逝去。この時、平田家と西垣家は本藩の熊本に戻されるが、志水家だけが八代に残る。 八代異風者(”いひゅうもん”)という性格はいつ形成されたのかは不明だが、志水仁兵衛は八代異風者(”いひゅうもん”)として残されたのであろうか。 2021/1/5 銀布目象嵌は牛の身体の外側に施しているが、肥後の赤牛ではなく、斑(まだら)模様の牛もいたのであろう。 2021/1/4 志水仁兵衛が禅の影響を受けていたなどの説は私が思い込んでいるだけで通説になっていない。ただ禅が庭園芸術において枯山水を生み出して、後世に訳が分からんが「いい」と絶賛されているように、刀装具の初代仁兵衛の作も評価されているのだ。 2021/1/1 2021年は丑年である。この鐔を拝見すると”自由”という印象を持つ。この鑑賞記でもヨーロッパの「自由だが孤独に」とか、「自分は自分」「世間に迎合不要」「孤高」「誰にも頼らず一人で生き抜け」「「孤独」「自由」「going my way」「我が信じる道を行け」「人は人、己は己だ」などの印象を記してきたが、今朝は禅宗の「放下(ほうげ)」が当時の言葉としてはふさわしいのかと思う。 「放下」とは”一切を捨て去ること”とか”一切の執着と取り去ること”だ。そんな心境に達したのか、あるいは、その心境を目指したのかわからないが、こんなことだろうと感じる。 2020/5/8 牛の顔は強烈だが、牛の蹄(ひづめ)の彫り、牛の尻尾(しっぽ)の彫り、牛の背中の線も印象に残る。 2020/5/3 この鐔や、梟の鐔を作った時に、何か厭世観のようなものが萌(きざ)していたのかもしれない。 2020/5/2 うまく表現できないが、昨夜、観ていて、この鐔や梟の鐔からは肯定的な心情、前向きな気持ちが湧いてこないことを感じる。今のコロナウィルス騒動下の気分なのか、あるいは作者の心境なのか。 2020/2/2 画題を知ることは大事だ。購入者、注文主は画題を意識すると思う。しかし鐔工、金工は画題から対象物をとりあげ、それを彫っているだけなのかなとも言う感じがしてきた。この場合も自分の牛を彫りたかったのかもしれない。 2020/1/31 『新版 鐔・小道具画題事典』(沼田鎌次著)に「牧童」という画題項目があり、それは牧童が牛に跨がり、笠を負い、笛を吹く図で表現されるとある。そして『三国志』の中の物語を説明する。それは劉備が檀渓を飛び越え、そのまま南に進むうち、日の暮れがた、牛に跨がり笛を吹いて来る牧童に遇う。この牧童が劉備を知っていて、進んでその師の司馬徽、号を水鏡先生という隠士に紹介する。それから単福というすぐれた軍師を得、なお色々の人物に会ったり、別れたり複雑な物語りがあり、これらの経過ののちに諸葛孔明を知り、これを草慮に三度訪ねてついに軍師として迎えることになる。画題は「劉備遇司馬徽」図となるのか。この書では「騎牛帰家」のことは一切触れていない。牛に笛を吹く牧童はつきものなのだろうか? 2019/11/22 この鐔の左上の耳と耳際には塊状鉄骨がある。全体に地が荒れているから目立たないが。 2019/11/20 忙しい日々が続いた。大したことはないのだが決断を迫られる立場にあることもある。この牛のように「自分の判断は自分で」だ。 2019/8/5 普通の工芸品(鐔も含めて)は「製作技術の優れた点」「デザインの良さ」「意匠の良さ」などに目が向くのだが、志水初代仁兵衛のは、それ以上に作者の意図にも関心が向くというか、関心を向けざるを得ないような作品である。意図は作者の声が伝わっていない現在では観る人の想像とならざるを得ない。観る人の想像とは観る人の感性、審美眼に依存する。感性は生き様(育った環境、生きてきた経験・実績など)から生じてくる。だから「もどかしさ」を常に感じる。それ故に手元に置いて何度も観ることになるのだが。 2019/8/3 志水初代仁兵衛の鐔は、自分の生き様というか精神に響いてくる。この鐔は「自分は自分」「世間に迎合不要」「孤高」「誰にも頼らず一人で生き抜け」「「孤独」「自由」「going my way」「我が信じる道を行け」「人は人、己は己だ」「自由だが孤独に」だし、梟の鐔は「見守り」という面もあるが、「もっとよく観ろ」「お前の審美眼がそれだけか」と投げかけられる。 2019/8/2 人様との付き合いを絶つとか、世間に迎合しない決断をする時など、この鐔を拝見すると力になる。自分は自分なのだとなる。 2019/6/23 鐔も当時の武士のファッション・アイテムの一つだったと思うが、この鐔にしても、梟の鐔もそうだが、志水初代の鐔は他人に見せる鐔とは思えない。差した時に身体側に来る側にメインの牛の顔がある。しかも下側だ。だから、この鐔を愛好した武士は、自分自身の満足の為に装着したのだと思う。このような鐔は他に無いのではなかろうか。 2019/6/5 この鐔と梟の鐔を鐔立てにセットして、机の両脇に置くと、これでいいという感じになる。これが私そのものだ。 2019/5/13 この鐔は細川本家の伝来だが、肥後金工の中で志水家のものは細川本家に伝来したのは少ないと言われている。「刀装具の鑑賞・鑑定ノート」で肥後藩の細川忠利と三斎の対立と、肥後金工への影響を考察したが、志水家だけが八代に残ったことが、この理由の一つであろう。 2019/3/8 世の中に迎合することは不要。こう言い切れる強さがある。 2019/2/27 「厳しさ」という言葉には色々なニュアンスがあるが、何か厳しさを感じる鐔である。 2019/2/24 「寂寥感」もある鐔だ。これまでの鑑賞記を読むと「孤高」を感じるとあるが、同様なところから生まれてくるものだろう。哀しみとかではなく、ものさびしく、ひっそりとしているような感じだ。 2018/8/9 斜めから観ると、この牛は立体感を帯びてくることに気が付いた。頭部の出っ張りと、臀部・尻尾のへっこみだ。 2018/8/7 絵風の鐔の多くは鐔面の右側の一部に彫刻を施すものが多い。鐔面はその為の背景であり、キャンパスである。だが志水初代と安親と清寿などは鐔全体を使って絵を作り、鐔面も絵の一部にしている。 2018/8/2 梟の鐔では狩野山雪の画風との共通性にも触れたが、志水初代は岩佐又兵衛の画風とも共通性があるように感じる。又兵衛の人物画はたくましい肉体を持ち、極端な動きを強調する。そして描く場面は劇的なタッチとエネルギッシュな表現に溢れる。 それぞれの画風の共通性というより、江戸初期の個性的な画家(他にも鋭く力の籠もった描線と省略の多い画法の海北友松がいる)の一人なのだろうか。いずれも武士に出自を持つ点が共通する。 2018/8/1 ”誰にも頼らず、一人で生き抜け”という気概を感じる。いい鐔だと思う。 2018/5/29 色々な感想は、この鐔における牛の彫り(形態、表情)に起因しているが、この牛の顔が無くても、この鐔の形状から来る鉄塊としての迫力、見事な地鉄の色(照り輝く黒錆の美しさ)だけでも魅力的である。光線の関係で牛の表情が見えない時に、そう感じる。 2018/5/26 誰にも頼らず一人になっても生き抜くという強い精神が基本にあるから、私が寝床で愛玩しながら感じる「孤独」「孤高」「自由」「going my way」「生き抜くんだ」「いひゅうもん(異風者)、我が信じる道を行け、人は人、己は己だ」という感想を持つのだろう。 2018/5/24 戦場で愛刀に付けられたこの鐔を見る。「生き抜くんだ」という思いが湧いてくるに違いない。「孤独」、「孤高」、「自由」、「我が道を行く」という感想を述べてきたが、これらの感想は平時の感想だ。戦時では上記のような思いを抱くに違いない。そんな鐔だ。 2018/5/22 「孤高」というと「ひとりかけ離れて高い境地にいること」、「ひとり超然としていること」だが、本人は”高い境地”という意識はなかったと感じる。だけど作品は”高い境地”だ。 2018/5/20 背中の横にたわんだ線、尻からのほぼ直線的に下に引いた線、牛の角の曲線は強く、作者の自信が出ている感じだ。 2018/5/19 GOING MY WAYだ。自分勝手ではないぞ。人は人、自分は自分だ。独りよがりではないぞ。 2017/12/20 厳しい鐔だなと、つくづく思う。禅の精神なのだろう。これが志水初代なのだろう。 2017/12/16 銀の象嵌が施されているが、銀は空気中で変色する。この鐔でも、意識しないとわからないほどになっている箇所もある。銀というより鉄色の変化の一つに溶け込んでいる。 2017/12/14 バロック美術とはルネサンスの次ぎに生まれた様式だが、原語は「ゆがんだ真珠」。調和のルネサンスから破格であり、動的であり、志水初代などが生み出したものと共通する。 2017/8/13 この「放れ牛」が「騎牛帰家」ならば、志水初代の真鍮象眼で大胆に鷹を据えた鐔は「英雄独立」という画題にすべきなのでしょうね。 美術品の解釈は人様々でいいのだと思いますし、名品というものは、観る人に色々な感情を引き起こすものだと思います。 2017/8/11 今朝は不思議なことに気が付いた。ここ最近の鑑賞において、この鐔から「孤独」と「自由」を感じて書いてきたが、これは、この鐔本来の画題「騎牛帰家」図の精神に通じるのではないかと言うことにだ。 鑑賞記において、「作者:志水仁兵衛(初代甚五)は、牛を彫っている最中に、「騎牛帰家」の意味するところの「平穏・無事泰平の心となり、自由に操れるようになった牛と一体になって笛を吹きながら家に帰る」などという心境は忘れた。忘れたと言うよりはハナから無視をしている。この牛を観ていると、無事泰平の心を持って、平穏に家に帰っていくような牛には見えない。」と断言した。 当初の浅薄な見方を恥じる。禅の修業段階の6番目で「牛も手慣れ、幸せが心の中に定着した。心の中も平穏。無事泰平の心となり、自由に繰れるようになった牛と一体になって笛を吹きながら家に帰っていく心境」を志水仁兵衛なりに表していたのだ。 私が感じている「孤独」が「平穏、無事泰平の心」と一致するかだが、「孤独」は寂しい境地ではないのだ。他人の意見、思惑に左右されない状態とすれば、まさに仁兵衛の意図通りなのだ。 2017/8/7 これまで、この鐔を観て感じて来たことと同じだが、「孤独」に向かわないと真の「自由」は得られないのかとも思う。 私は、もう歳だから、今更「孤独」も「自由」もどうでもいいのだが、若い人は考えた方がいい。人恋しく、仲間を大事にする人は気を遣って生きねばならない。このような生き方の方が楽である。志水初代は覚悟が違うのだ。 2017/8/2 朝方、起きて観ると、「孤独」、「自由」という言葉が浮かぶ。この日記の中でも2016/12/27に記した感覚だ。 2017/7/26 何度、観ても不思議な鐔工である。この鐔は鑑賞記に書いたように細川本家の千葉館山の別荘にあって、そこから出たものだが、一度でも拵に使われたことはないのではなかろうか。 牛の肩から背中、尻尾にかけて斜めに直線を引くと、なだらかな山並みのように見える。暑さが続いておかしくなってきたのであろうか。 2017/4/27 いひゅうもん(異風者)、我が信じる道を行け、人は人、己は己だ。時代があなたを追いかける。周りがあなたをほっと置かない。 2017/2/27 鐔の方から「いいでしょう。凄いでしょう。」と、観る方(購入した人)へ媚びてくる所はなく、「オレの造りたいものはこれだ。」という感じだ。絵で「売り絵」という言葉があるが、この鐔は対極にあるものだ。寄ってきてくれない面、愛好家には冷たい鐔である。 2017/2/24 浮世絵の祖とも言われる岩佐又兵衛は荒木村重の子、人物表現において、野卑な表情、たくましい肉体を持ち、バランスを失する(ゆがみ)動きを強調した作品を遺す。海北友松も浅井家の武士の子である。雲龍図のような迫力のある絵を書く。志水仁兵衛は一幸と名乗り、平田彦三の甥で、明智家の家老志水丹左衛門に縁がある。職業絵師・鐔工ではなく、武士の出自からの絵師・鐔工の桃山から江戸初期の3人は共通するものがあるのではなかろうか。 2016/12/27 これまでも書いているが、「”我が道を行く”という強さを持った孤独感」が、志水初代仁兵衛の個性なのだろう。 2016/12/13 梟図鐔に存在する何種類かの毛彫だが、この鐔でも牛の後ろ脚の先端・裏側にやや深く、太い毛彫があり、蹄に接した部分には細かい毛彫がある。 そして牛の耳の周り、顔の左側部分の輪郭、大きな角の付け根に細かい毛彫がある。もちろん、牛の顔における目とか鼻、鼻筋には太い輪郭線の毛彫がある。 こういう毛彫が、真偽鑑定・代別鑑定の鍵になるのかもしれない。 2016/12/7 梟だと、鉄地が闇夜に見えるが、この牛では、鉄地の輝きが暑い時期の日中のように見える。梟は夜、牛の活動するのは日中という先入観が、眼をそのように仕向けるのだろうか。 2016/12/3 (八代異風者(”いひゅうもん”)のことを、梟図鐔に記載。参照) 2016/8/7 昨日、ブラームスの曲でヴァイオリニストのヨ-ゼフ・ヨアヒムに献呈されたという「F.A.E.ソナタ 第3楽章」を聴いた。そのF.A.E.とはヨアヒムの座右の銘である「自由だが孤独に」の頭文字と言う。「自由だが孤独に」とは、この志水初代の作品の印象だと思い至る。自由を放埒と把握している馬鹿には理解できないだろうが、厳しいものなのだ。 2016/8/6 細部を観て、どうのこうのと言うよりは、ともかく力がある鐔である。鉄色も、その印象を強めているのだろうが、照り輝いて美しい。地は鎚目地で、そこにレリーフなのだが、レリーフの周りは照りの無い地鉄が輪郭を廻らせているが、それがレリーフをさらに浮かび上がらせている感じもする。 2016/8/5 よく観ると、牛の頭部が身体に比べて大きいことがわかる。頭部の大きさは左側の中でもアンバランスだ。頭部が前脚、首、肩より前にあることを志水初代なりの遠近感(近景大、遠景小)で表現しようとしたのであろうか。そこに大きな立派な角だ。結果として、これらの点も、この鐔に迫力を感じる理由であろうか。 2016/8/4 この鐔は鑑賞記において、切羽台=茎孔を利用したキュビズム的な感覚を指摘したが、いつ観ても不思議な感覚である。左側の牛の顔と前部の絵に「動」を感じ、右側の牛の尻と後ろ脚、尻尾の絵に「静」を感じるようにもなる。 |
2024/8/9 ベツレヘムの星に金象嵌が残っていた時は、さぞや華やかな鐔だったのだろう。 2024/8/4 切羽台に突き刺さるような櫃孔。鉄砲の用心金(ようじんがね…西部劇だと、ここに指を掛けて銃をくるくる回すが、本来の役目は引き金の暴発を守る)の面影がある。 2024/7/31 透かしの各部は正確に彫られており、神への畏敬の念は感じる。ただし、堅苦しい印象は無い。華やかであるが、派手ではない。 2023/8/26 去年の11/2(下欄)に「「刀和」で触れてみたい」と書いたが、「刀和」(令和5年7月通巻399号)に「林又七「クルス透かし」鐔ー「十字架とベツレヘムの星」ー」とまとめて発表しています。こういう小論も書くとなると、時間がかかります。そして多くの資料に当たっても、まとめる時には、それらを捨象して、小論にするわけです。 捨象した中から、一部を紹介いたします。 ドミニコ会の紋章にある八芒星(はちぼうせい)=ベツレヘムの星だが、これは日本のキリスト教系の学校法人の校章にも使用されている。そこで、当該校の2校ほどに「これは何か?」と尋ねるが「わからない」との答え。自校の校章も説明できないとはとあきれたが、仕方が無い。国会図書館のキリスト教関係の資料をいくつか当たって、やっと判明する。こういう時はささやかな喜びだ。 2022/11/2 この図について、今、連載している「刀和」で触れてみたいと思う。それはさておき、華やかだけれど強さも感じられる。その強さは、整って堂々とした切羽台と肩の張った小柄櫃、笄櫃から生まれている。 2022/10/31 華のある几帳面さ。 2022/10/29 これは、やはりキリスト教関係の図だと思う。耳と切羽台をつなぐ棒における十字架文様、各十字架文様をつなぐ円の間の上下に各4本の放射状で先が尖った文様も日本の文様には無いものだと思う。そして、この文様は製作当時は金象嵌されて輝いていたのだ。 2022/10/27 この切羽台は本当にフラットな感じである。 2022/10/25 一昨日に述べた緊張感を感じさせる点であるが、小柄櫃、笄櫃の肩が張った造形にも観られる。これらの枠も正確である。 2022/10/23 華やかであるが、浮ついてはおらず、襟を正させるような緊張感がある鐔である。 2021/10/21 櫃孔の張り具合がいい。技術的に巧みであることに加えて、緊張感と強さ(それも外見の強さでなく内面の強さ)を感じる。 2021/10/19 清らかで、端正な鐔で、金象嵌が残っている時は華やかな印象も醸し出していただろう。 2021/10/17 耳の幅と8つの仕切りの幅は上から見ると、ほぼ同じである。ただし耳は角を丸く落とした結果の幅である。太くはないが細くもない。そして中の円環の幅は極細い。櫃孔を構成する線の幅は中の円環よりは少し太い。このバランスや、特に中の円環の均一な線の細さの仕上げは名人芸だ。 2021/10/15 磨地なのだがツルンとした地ではなく、ネットリ感もある中に、おだやかな輝きがある地鉄である。隙の無い造形である。又七の若い時代の作品だと思う。 2020/7/16 この鐔には耳側面に目立つものではないが鉄骨が見える。表から見て右上一つ目の木瓜輪に塊状鉄骨が摺られているものの残っている。また左下(右上から数えて5つ目)の木瓜輪には側面ではなく表面に塊状鉄骨を摺った跡がある。 また裏の右上一つ目の木瓜輪には耳表面の塊状鉄骨を摺った跡が残る。 2020/7/14 角耳小丸だが、この仕立てが実に丁寧である。八木瓜の切れ込みのところの加工など狂いなく精密。 2020/7/11 手間のかかっている作品だ。内側の円にはクルスの太さにして両端をクルスらしく膨らませる。間に置いた日輪のようなものは上下4本ずつの突起を彫っている。これだけでも緻密な作業に驚く。 2020/7/9 清らかさと華やかさがある鐔だ。 2020/7/8 この櫃孔を観ていると、鉄砲鍛冶時代に鉄砲の用心金(ようじんがね…引き金の暴発を守る)を感じる。もちろん火縄銃の用心金とは形状が全然違うが、又七は懐かしかったのではなかろうか。機能的で美しい。 2019/8/29 この鐔と王者又七と称している鐔を並べて比較する。笄櫃が切羽台に接しているところのカーブと太さは同じである。 2019/8/27 金の布目象嵌が施されていた時の姿も想像することが必要だ。豪華という感じではないと思うが、もう少し観て、感じてみたい。 2019/8/25 透かしの線の太さ、形状が様々であり、こういう点にも神経を使っていることがわかる。外側の耳は、角耳小肉で、この中では一番太い。次いで太いのは8つに区切って耳と切羽台を結んでいる枠の線、そこに十字架を両端を膨らますように、少し細く作る。それらを結ぶ中の円弧は細い線だ。線上に日輪の円と、光の筋。斜めに細く彫る。そして小柄櫃、笄櫃の線が、8つの枠線の太さと、内側の円弧の線の太さとの間の太さで切羽台に突き刺さる。 2019/8/24 図柄をクルス透かしと考えているからとも言えるが、敬虔な感を抱かせる鐔である。敬虔とは神仏に帰依して、それを敬って謹むことである。細川ガラシャ以来のキリスト教信仰が肥後細川藩にあったと言え、キリスト教が圧迫を受けている時期=又七の20歳代に、キリスト教信仰を持っていた人物からの注文品として製作したものであろう。このような図柄の先行する見本(京透かしと分類されるような同種の鐔がある)を参考にしながら得意の象嵌技法も駆使したのである。 キリスト教を信じていた注文主のその後の人生はどうなったであろうか。 鐔の方は金布目象嵌が目立たないように加工(と言っても、剥がすだけ)したのだろうが大事に保存されて現在に伝わっている。 そして又七は、このデザインを元に晩年に、私は王者又七と呼んでいるが、「唐太鼓」とか「首つなぎ」と後世に呼ばれる透かし模様を考案している。 2018/10/10 地の仕立てはフラットな感じなのだが、それが実に丁寧にフラットに磨き上げているという感じである。鑢で均しているという感じでもなく、一体、どのようにして鏡面仕上げをしているのか不思議である。 2018/10/7 切羽台の長さは42ミリ程度で、美しい小判型の造形だ。ここに突き刺さるような小柄櫃、笄櫃、見事である。耳厚は5ミリ程度である。細かい透かしであるが、技巧的で煩瑣という感じはしない。 2018/10/6 この鐔には金象嵌の跡が残り、寝床に持ち込めないが、寝床脇での拝見だ。「清香匂うが如く」という雰囲気を醸しだし、いかにも君子の風格があるという又七である。 2017/8/24 内輪にある星形の金布目象嵌の跡を精査。番号は右上から時計回りにつけている。表1:金残る、斜めの鑢目立つ、表2:真ん中布目、先斜め鑢、表3:全体に痕跡微か、表4:痕跡判別できず、表5:金残る、布目鑢の痕跡あり、表6:布目鑢の痕跡明確、先は横鑢、表7:金残る、痕跡ある、表8:痕跡ある。 裏1:痕跡あり、裏2:痕跡無し、裏3:金残る、痕跡ある、斜め鑢、裏4:痕跡無し、裏5:痕跡ある、裏6:痕跡無し、裏7:金残る、痕跡微か、裏8:痕跡判別できず。 以上から、布目象嵌の痕跡が見つからないところもあるので部分的な象嵌の可能性もあるが、全てに同様に金布目象嵌を施したが、年月で摩耗したか、あるいはキリスト教関係の痕跡を消す為に削いだ可能性もあるということを現時点の結論にしておきたい。なお、布目(檜垣)鑢が基調だが、横あるいは斜めの鑢だけが目立つところもある。ただし、これも痕跡を削る過程で生まれたことかもしれない。各星形には横を貫いている内輪にも星と同じ長さだけ金布目象嵌の痕跡はある。 2017/8/23 光のような星形の一部に、金の布目象嵌の跡がある。残っているのは剥げた跡だと認識していたが、昨夜は、はじめから、このように一部分だけにわずかに金象嵌させたのではなかろうかと思い始めている。彦三の金散らし紙象嵌と同じ趣向である。 まだルーペで拡大して痕跡を確認していないから、今日、じっくり観てみよう。 2017/8/22 丁寧に造られた鐔である。いつ見ても頭が下がる。狂いがあっては駄目な鉄炮鍛冶という出自が肯定される作品だ。この切羽台の形状、そこに正確に突き刺すような櫃孔の型枠。これが又七。 2017/4/19 端正・精巧な鐔である。隙が無い感じであるが、堅苦しいという感じはしない。 2016/7/19 又七のクルス透かしは「敬虔」な感じがするのに対して、信家の題目生者必滅の鐔は、賑やかな感じもする。題目は祈り、生者必滅は諦観から来る覚悟を示しているが、南妙法蓮華経の声は力強く、外に対して攻撃的な感じである。南無阿弥陀仏、ナンマイダーの声は陰に籠もるような静かな祈りに感じるが何だろう。各宗教の性格によるのだろうか。 2016/7/17 「まじめ、清澄な明るさ」という印象は、この通りなのだが、昨晩は寝ながら「この鐔は敬虔さの現れなのだ」とも思うようになる。又七の信仰はわからないが、この作品はキリストに帰依して、敬い、慎む人の思いに応える作品なのだ。寝床で拝見してはいけないか。 2016/7/15 又七のクルス透かし、この鐔を拝見していると、「人生、まじめが一番、特に若い内は」という感を持つ。今の就職において、エントリーシートなるものを書かせ、「学生時代に何をやってきたか」、「会社で何をやりたいか」などを聞く。こんな方法をとるから、日本の会社の業績が悪くなるのだ。まじめな学生が一番だ。小、中、高の時代に皆勤賞と取ったとか、体育会系クラブで4年間過ごしたとかも大事だ。学生時代にやったことは勉強が一番、それは学歴なのだ。遠慮することなく学歴も重視すればよい。会社でやりたいことなど聞くな。どうせ、採用した学生にやりたいことなどさせないのだから。 まじめさに加えて、この鐔のような清澄な明るさを備えていれば大成するのだ。 |
2024/12/21 この鐔の魅力は肉取りの妙(地全体、それぞれの透かしの際(きわ))にもある。 2024/12/16 ガマ肌であるが、独特の光沢はある。そして地景のような肌模様もある。 2024/12/12 古びた侘びた鐔の趣きを出しているが、これは注文作だと思う。こんな作品で、後世の私のような人間に「良いなー」と思わせるのは大したものだと思う。 2024/12/8 遠山の無文の鐔に続いて、地味なこの鐔だ。地はガマ肌であり、磨き地とは別の魅力がある。この鐔も地の表面のなだらかなの曲面に見どころがある。 2024/2/21 本当に変哲も無い鐔だが、いい鐔だなと思わせる不思議な魅力がある鐔である。 2024/2/17 下の円(腕抜孔)であるが、この孔の開け方(加工方法)は独特だと感じる。何か絞り込んで開けているような感じである。孔の周りが圧されて、孔が開いたような感じである。 2024/2/13 楽寿の人柄について長屋重名は激賞しているが、この変哲も無い鐔を観ていても、何か感じてくるものがある。人柄が作品にどのように影響してくるのかは明確に言えないが、林三代や神吉深信とは違うと感じる。 2024/2/6 耳際の銀線象嵌の一部が剥がれた感じや、地肌のガマ肌は古い鐔のように意識したのだと思う。復古主義だ。 2024/2/2 この鐔は幕末という時代の中で生まれたのだと感じる。古い良いものがある肥後鐔の中で、古びた味わいを出すことを行い、各藩内で佐幕、勤皇の争いがあり、治安が乱れてきた中で、実用も考慮したものだろう。ただ、そこは名工楽寿であり、鐔全体の肉置き、各透かしの際の丁寧さなど大したものである。 2023/4/11 下の円は、雨粒の象徴として彫ったのであろうか(実用上は腕抜き孔か)。この孔は鏨で打ち抜いて作成したのだろうが、円の周りは、絞り込んで抜いたように孔のように見える。これが吸い込まれるような雰囲気を醸し出しているのだが。 2023/4/9 目立たないのだが、表の上部の地には細かい斜めの線がいくつも見える。表の左側の笠と耳際の間にはウネウネした線、その下部の方には上部と同様の細かい線があり、下部左側には地景のような板目状の肌を観る。その上には少し波打つ線があり、鐔の右側の笠の外側には沿って流れた板目がある。 2023/4/7 各透かし(左右の笠、下部の円)の際を絞り込むように肉を削いでいるところが、吸い込まれるような奥行きを感じさせて妙味がある。 2023/4/5 地肌に刀で言うと板目肌のように肌目も見られ、地景のようなものが出ている。それで芸術的感興が高まるものではないが、一つの手癖である。 2023/4/3 遠山と同様に、耳際に行くに従って僅かに地を薄くしている碁石形の鐔である。この鐔の肉置きも好きだ。私にはこのような肉置きを好む癖があるのかもしれないが、作者の力もあると考える。遠山ほど耳際を薄くしているのではなく、僅かである。そして笠透かしの際もわずかに落としている。下部の円はより大きく肉を落としている。 2022/6/18 なんの変哲も無い鐔と言えば、そうなのだが、こういうものを愛でる自分は変わり者なのだと、改めて思う。目を惹くような彫り、感動するデザイン、手の込んだ細工、各種色金の使用など一切無い。 2022/6/16 地と切羽台の境が無い造り込みだ。わずかに下部の地に縁が接していて痕跡が感じられるが、幕末期の鐔であり、早いうちに刀身(拵)とは分離されて保存されたのだと思う。茎孔も責め鏨で調整した跡も無い。だから、耳側に2重線の銀象嵌が、一部剥がれたようになっているのは、使用による摩耗ではなく、当初から古びて見せる為の意図的な細工である。 2022/6/14 腕貫孔は、吸い込まれるような肉置きだ。地鉄を絞り込んだように孔を開けている。 2022/6/12 肉取りの見事さに、目がいく。簡単な透かしだが、狂いのない透かし。鐔職人としての誇りを感じさせる仕事である。 2021/7/2 この変哲もない鐔を通してだが、楽寿という人物は偉大だと感じる。長屋重名は肥後金工のことを楽寿を通して教わるという、いわば師にあたるので褒めるのは当然なのかもしれないが、『肥後金工録』の中で「楽寿姓質(原文ママ、性質の誤字)極めて温厚品行固り方正色白く身高し齢古稀(原文ママ、古希)に近くして五十前後の人を見る如し平生神佛を信仰し嘗(”かつ”と読むか)祈願ありて若干年間肉食を禁ぜり然共(しかれども)敢てこれを人に告げずー中略ー其謹厳かくの如し人皆服すといふ」と評している。 2021/6/30 この鐔の魅力は、この欄でも何度か言及しているが、平肉の微妙な付け方、関連することだが透かしの切り立て面の面取りの巧みさにある。 その平肉を微妙につけた地鉄がガマ肌(蒲の穂と私は解釈しているが)の仕立てになっており、そこの一部にひっかいたような線をかすかに入れている。この線の意図・狙いはよくわからないのだが。 2020/7/3 この鐔は注文を受けて製鐔したものと思う。売る為に造るのであれば、象嵌が取れて古びた感じまで出さないと思う。このような大の鐔があり、その小の鐔として注文されたのかと思う。 2020/6/29 笠の上端が、左と右では膨らみが違うのに気が付く。左の方は脹れている。笠らしいのは右であるが、楽寿が意図したのだろうか、それとも狂ったのであろうか。 2020/6/28 触感が楽しい鐔である。面取りの妙(平肉仕立ての巧みさ)と、地肌に出る微かな凹凸(ガマ肌)の妙なのだろうか。 2019/12/12 昨夜、この鐔の透かしの線の柔らかさに気づく。透かしの際を丁寧に面取りしている為と考えられる。 2019/12/9 地の肉取りの巧みさというか、神経の使い方には感服する。どういう道具を使用したのだろうか。どれほどの長い時間をかけて仕上げたのであろうか。 2019/12/8 周りの銀象嵌をあえて剥がれたように仕立てのは注文品だからであろう。 2019/12/5 以前にも書いたが、皮革のような印象が強い。既視感があるが、昔、持っていた鞄の皮とよく似ている。 2019/1/7 よくわからないが魅力のある鐔だ。 2018/11/9 薄い鐔なのだが、このように触って存在感がある。これで平肉の妙と昨日述べたのだが、作者の力である。 2018/11/8 平肉の妙、これが魅力。 2018/8/17 何度も木綿布で擦っていると、皮革の艶も出てくる。机上に皮のマウスパッドがあるが、引っ掻き傷などの感じも似ているし、光沢の調子も良く似ている。 2018/8/14 表の地鉄上部に、右肩下がりに引っ掻いたような細かい線が幾筋か見える。右笠の縁(へり)の上部に形に添った流れ肌が見える。このような肌は左笠の縁の巾子形(こじかた)にも見られる。透かしを上から押しつけて開けた結果とも見える。また下部の左側にも地景のような肌が流れたところが見える。 2018/8/13 この左右の透かしは笠、それも市女笠をイメージしたのであろう。中央の尖ったところは巾子形(こじがた)と呼ぶようだ。当初は市での物売り女が被ったことから来ているが、後には貴人女性も被ったようだ。また男子も雨天時には被るとの説明もある。 そして茎孔下の丸い透かしは、腕抜き孔(刀剣に付けて脱落を防ぐ皮緒を通す穴)になると思うが、雨粒を暗示しているのだろうか。 周りの銀線象嵌が雨なのであろうか。 2018/4/2 この腕抜き孔は丸く開けて、周りの面を取ったのだと思うが、何かを上から押しつけていって孔を貫通させたような感じもする。周りの鉄が絞り込まれているようだ。 2018/4/1 耳際の銀の線象嵌を、敢えて古びた味を出すために、一部を欠落させて象嵌しているが、こういうのは勇気が必要だ。注文だったと思うが、自分のセンスに自信が無いとできないと思う。 2018/3/31 昨日はボランティアの神社参道の清掃で、右腰を痛める。同じ方向の掃き掃除を続けたからか。この鐔は薄く、わずかに中高の肉取りだが、触れていると安らぐ。地鉄は俗に言うガマ肌で艶があるが控え目である。どうと言うことの無い鐔なのだが、不思議である。 2017/9/30 笠のてっぺんの先、笠のへりの先なども、鋭角にならずになるめているが、これも際を柔らかく、感じよく仕上げるのに生きているようだ。 2017/9/24 昨夜は「楽寿」とは”楽しい老後”とも解釈できることに気が付く。東龍斎「清寿」は”清らかな老後”だが、自治会長にされたり、自宅が関与する再開発の話が出てきたり、楽しく、清らかにはいかないなと思いながら眠りにつく。 2017/9/21 皮革の味わいもそうだが、蒲(がま)の穂の表面のような味わいもある。言葉での表現はこれまでも書いた通りだが、寝床に持ち込んで掌中で愛玩すると、特に楽しい鐔である。 2017/9/19 又平、深信と観てきたが、昨夜は楽寿。この3枚の中では一番地味であるが、趣きは一番ある。皮革の肌合いに、大透かしにおける際(きわ)の面取りの妙など飽きない。 2017/1/29 この鐔を観ていると、楽寿は穏やかな性格だが、内に秘めた金工としての自負は強く、自分の技量に自信を持っていた人と思える。 またガマ肌の地鉄は愛玩すればするほど味が出てくるような気もする。伊藤満氏は「楽寿はガマ肌の作品に傑作が多い」と言われていたが、そうなのかもしれない。もっとも私は楽寿の磨地の作品は入手していないから何も言えないが。 2017/1/25 ガマ肌ではなく、革(カワ)肌だとの思いは益々強くなる。そしてこの鐔の魅力=楽寿の技術は面取りの妙にあると感じる。地全体のやや中高の面取りだけでなく、透かしの際の面取りも見事だ。下の腕抜き孔のような丸い孔は面取りの妙で、吸い込まれるような感じである。 2017/1/24 どうと言うことはない鐔だが、良い鐔である。地鉄は黒錆が見事なわけではなく、ガマ肌である。透かしも凝った文様でも、特に優れたデザインでもない。鐔の厚みは薄い。象嵌も鐔の廻りを2重に銀で入れて、しかも一部はわざと欠落させている。肉置きはかすかに中高である。 こういうものだが、手に持って愛玩しても、鐔掛けにかけて眺めてもいいのである。作者の力なのであろうか。 2016/6/3 楽寿と父の深信の間には溝があったようだ。鐔工としての神吉家初代は寿平正忠、次が寿平深信(前名:国平)、そして甚左衛門正康(前名:寿平次楽寿)(以上は『林・神吉』(伊藤満著)より)と続く。 楽寿は寿平次とあるが、寿平の通称は続く。正忠と正康は「正」が通字(とおりじ)であるが、深信や前名の国平には含まれない。何か事情があったのではなかろうか。こういうことも楽寿と深信の溝の一つかとも思うが、不明である。(しばらく、日記は休み) 2016/6/1 この楽寿は『神吉鐔絵本』には掲載されていない。『神吉鐔絵本』は神吉家の下絵帳と言われているが、これは注文を受ける時に使うものではないかと考えるようになった。 「鐔を作ってもらいたい」「かしこまりました。図柄はどういたしましょうか。この中からお選び下さい」……(『神吉鐔絵本』をめくりながら)「これこれ、花桐の図柄で大小鐔を作ってほしい」「かしこまりました。大きさはこの大きさで良いですか」と会話が続く。 図柄によって、透かしの手間のかかり具合や、象嵌の有無で代金も違ったのであろう。 だから『神吉鐔絵本』に無い図は特殊な注文、あるいは作者の試作品なのではなかろうか。ちなみに所蔵品の神吉深信の雪輪投桐は所載である さて、この鐔。「このような図は志水家が得意ですね」「そうだが、そちに作ってもらいたい。少し古びた味を出してくれ」「古びた味…うーん」…「象嵌を一部落としますか」→今朝も妄想は続く。 2016/5/31 『肥後金工録』の中において、著者の長屋重名がガマ肌について、「此の作、鐔及び縁頭等の地鉄に一種のハダものを見る。其の状、雲の如く、又或いは蝦蟇の肌の如く、或いは芋根の如し。蓋し此の法、やはり又七より伝来のものならん。妙趣他人の夢でも見るあたわざる所とする」と書いている。 これから、ガマ肌の語源は「蝦蟇の肌の如く」と信じられてきた。私も語源は蝦蟇蛙の肌と思ってきた。しかし違うのではなかろうか。蝦蟇蛙の肌には全然似ていない。 熊本の方言で、革をガマとでも言えば、私の触って観た感じの通りでうれしいのだが、あるいは訛って聞こえれば納得するのだが、これは地元の方に確認したい。 昨日、浮かんだのは「蒲の穂(がまのほ)のような肌」が語源ではなかろうかと言うことだ。蒲の穂は、円柱状で茶色のモコモコした部分である。大黒様の歌「♪蒲の穂綿に包まれて~♪」のイメージから柔らかくフワフワと思うが、円柱の表面の感じである。 私の説は思い付きであるが、所蔵品にして寝床で何度も観ていると、こんな発想が浮かぶ。発想ではなく妄想だとまずいが。 2016/5/30 鑑賞記でガマ肌は皮革をイメージしたのではと書いたが、鉄において皮革の味を意識したように感じる。林又七のガマ肌は、所有していないから何も言えないが、楽寿のこの鐔は皮革の味であり、地肌の模様は天然の皮革にあっても良い模様だ、そして地鉄の艶も革に出る艶だ。 2016/5/29 今日は薄手の楽寿「笠透かし」だ。この薄い鐔における平肉の微妙な変化には、いつも感心する。どこにもムラなく耳にかけて肉を落としている。透かしの際にかけて肉と落としてきている。笠の透かしは上部における肉の落とし方に対して、切羽台側の落とし方は少なくしているが、感じがいい。下の腕抜き孔は吸い込まれるように落としている。 |
2024/5/24 この鐔の正確で丁寧な象嵌技術が、今に伝わる肥後象嵌に繋がっているのだろう。写真だと表面の耳側だけしかわからないが、側面も全て同様な正確が象嵌で埋め尽くされているのだ。 2024/5/19 この鐔は鐔箱ではなく、信長拵(写し)にかかっている。堂々とした鐔である。周りの雷文の銀象嵌も巧み、地鉄の色つやも良い。拵の良さを高めている。 2023/7/27 この雷文は、ラーメンの丼にも描かれているが、中国で3000年前の殷周の時代から見られるようだ。本歌の信長拵が生まれた安土桃山~江戸時代初期には日本でも定着していて日本の文様になっていたと思うが、肥後鐔、特に彦三には南蛮(広義に中国も含める)の影響を感じる。 2023/7/25 当然に、耳際の象嵌をしている箇所は磨いて平滑にしている筈である。その他の表面は一昨日にも書いたようにツルツルではない。何か故意にそのようにしなかったようにも感じる。もちろんザラザラではない。こういう点にも手が込んでいるのかもしれないと思い始めている。 2023/7/23 地鉄はやや赤みを帯びて、艶のあるものである。磨き地には大別されるが、ツルツルに磨いたものではない。自分の所有している鐔では、林五代又平が近い。神吉深信(私のは特別だが9、楽寿(これは俗にガマ肌)とは違う。中根平八郎に共通するかは、多くを拝見していないからわからない。 肥後、各派とも違うとなると、地鉄の鍛え、錆付けから中根平八郎自身が手がけているのであろうか。 2023/7/21 確かに、耳際と耳(側面)の銀彫り込み象嵌は実に巧である。形、大きさ、線の太さに狂いは無い。 2023/7/19 『林・神吉』(伊藤満著)に中根市十郎家400石の六代目・平八郎(文化3年~明治3年:1805~1870)の家から熊本県立美術館に寄贈された鐔が数点所載されているが、切羽台の形状、中心孔など、これらには共通の手癖は無い。 この鐔の銀彫り込み象嵌は、この本に所載の中根平八郎の鐔に比して手が込んでいる。 2023/7/17 武士の余技と伝わるが、どこまで手がけたのであろう。透かしと、銀の象嵌だけで、地鉄造り(鍛えと錆付け)は神吉家などの鐔工に任せたのであろうか。ただ、地鉄は神吉深信や楽寿のものとも違う感じであるが、地鉄は同じ深信でも種々あるから断言はできない。 2023/7/15 この鐔は御家拵の写しに装着されているが、存在感のある鐔である。物理的にも大きいが、堂々とした感じを与える。耳の雷文つなぎは正確で巧みであり、銀であるだけに鉄色に溶け込むような感じにもなり、感じの良いものである。 2022/6/26 この鐔は御家拵に付属の鐔だが、刀屋さんに出向いた時に、はじめはこの鐔だけで見せられた。肥後鐔で江戸後期~幕末のものであることはわかるが、個銘までは思いつかない。「いい鐔ですね。誰の作ですか?」と聞いたのだろう。すると証書を見せられたと記憶している。「いくらなの?」と聞くと、はじめて「この鐔は拵に付いているものなんですよ」と言われて、御家拵を見せられたと記憶している。この拵が実に魅力的で、購入したわけだが、なんで刀屋さんは、この鐔だけを外して観ていたのだろう。不思議な感じであった。この頃、遠山とか三角などの作品を「マイナー肥後」と勝手に名付けて称揚していたから、この鐔の方から「オレも」と来てくれたのではなかろうか。 2022/6/24 御家拵に使われたこのデザインだけを作り続けたという中根平八郎の執念も感じる。以前に「これでいいんだ」という気持ちだったのではと推論したことがあるが、本当に気合いを感じる。 2022/6/22 この写真だと、銀の象嵌がはっきりと見えるが、実際は溶け込んでいる感じである。それにしても非常に繊細で精巧な銀象嵌である。名人である。 2022/6/20 この鐔だけが、現役(拵に装着)である。本歌の信長拵が同様の古正阿弥の鐔であり、よく似合っているのは言うまでもないが、拵全体のバランスの中にある鐔としては、この程度の透かし(大模様)で、耳際の銀象嵌(金と違って、それほど存在を主張しない)が丁度良いと思う。殺風景ではなく、それなりに目立つ。 2021/9/14 パッと見は目立たないが、よく見ると華やかで緻密な銀象嵌に驚くという鐔だ。やや赤みを帯びてねっとりと輝く錆色だ。 2021/9/12 銀には燻(いぶ)し銀という言葉もある。転じて見た目に華やかさがないが、実力のある人などの形容にもつかわれる。この鐔の雷紋の銀象嵌は表裏の耳側と、耳の側面に細かく、規則的に丁寧に施されているが、拵に付いているとそれほど目立たないが、趣(おもむき)のあるものである。 それにしても、正確で丁寧な細工であり、中根平八郎の武士の余技として高く評価されるのも理解できる。 神吉深信にも同種の象嵌はあるが、作るだけで疲れる作品であろう。それに特化して何枚も作る中根の根気も凄いものだと思う。、 2021/9/10 御家拵の本歌は現在行方不明だが、歌仙拵に付いている影蝶透かしの鐔は81×79㎜と『肥後金工大鑑』にある。同じく細川三斎の差料である信長拵の鐔も、大きさは同様だったと考えられる。『肥後金工大鑑』には信長拵写しが4本掲載されているが、写真で見る限り、特段と大きな鐔ではない。 だから中根平八郎が造る大きな鐔は、新々刀期特有の長い刀(2尺4寸超)の拵用だったのだろう。 2021/9/8 この鐔は御家拵写しに付いているから、単独で寝床に持ち込むことは少ない。物理的にも大きい鐔(82㎜×80㎜)だが、スケールの大きさを感じて好きな鐔である。このスケール感は作者の力だと感じる。ちなみに左右大透かしの図の中根平八郎鐔にはもっと大きな鐔も多く『林・神吉』には86㎜程度の鐔が6枚も掲載されている。『肥後金工大鑑』にも85㎜超えが3枚所載されている。私の肥後御家拵ではこの大きさが丁度良いと感じる。 2020/12/30 この鐔が付いた信長拵写しを観ているが、この鐔が拵の魅力をアップさせていることは間違いがない。実戦感覚の中の品の良いお洒落アイテムとなっている。 2020/2/11 江戸時代後期になると、絵画でも刀装具でも”家の芸”とでも言うような特技で喧伝される作家が出る。森狙仙の”狙仙の猿”、荒木東明の”粟穂の東明”などだ。今では他の作品も知られているが”伊藤若冲の鶏”も、”石黒政常の鷹”もそうだ。世人にもて囃され、同種の作品を求められるようになり、また作品にする。そこで腕も上がるという良い循環が生まれてくる。 もちろん、作家とその得意とする画題は江戸時代後期以前にもある。室町時代に画を愛好した美濃の守護:土岐頼芸の”土岐の鷹”などもそうである。自分の画きたいものを描いているだけに、”中根平八郎の古正阿弥写しの銀彫り込み象嵌”はこちらに近いか。 2020/2/8 昨夜はこの鐔に品の良さを感じた。耳際の整った銀の雷文象嵌の為だと思うが、良い鐔である。 2020/2/6 武士の余技らしいのは、裏面の切羽台に地を整えた時の鑢目が少し残っているところくらいである。象嵌技術などは銀で、このように雷文を基本とした象嵌ということはあるが、神吉深信と遜色は無い。 なお『林・神吉』の神吉深信作品図版193に同種の雷文象嵌が、こちらは金で施されたものが掲載されている。八木瓜形に合わせた象嵌だが名作である。 2020/2/5 象嵌している銀線の太さが丁度いい感じである。こういう点も「最もたくみ」と先人が評したところなのだろう。 2020/2/4 左右の大透かしを真ん中で分けている切羽台を通る直線。この太さも丁度良い太さと感じる。計算し尽くしたような配慮を感じる。好きな鐔である。 2019/10/6 作者中根平八郎は、①江戸時代後期の人、②専門の鐔工でなく武士の余技、③このような同種の鐔だけを作っていると言うことから、銀の彫り込み象嵌の名手として名は知られていても、それほど高くは評価されていないが、このスケールの大きさ、格調は大したものだと私は思う。 2019/10/3 雷文の銀の彫り込み象嵌を斜めから観ると、少し浮いて見える。もちろん触って見ると、浮いたようなところはなく地と同じ面で平滑に彫り込められている。だから明るい銀が膨張して見える目の錯覚なのだが、なんとなく豊かな気分になる。 2019/4/1 この鐔は大透かしの耳側切り立て部分の面を少し取っている。これは柄を握った時に、右手拳の上部が接すると、当たりが穏やかになって「なるほど」と思わせる工夫である。 2019/3/29 この鐔は肥後御家拵写しに、現在、使用しているものである。私の他の鐔は桐箱の中であり、現役は貴重である。 2019/3/28 銀の彫込み象嵌に目が奪われがちだが、地鉄も味のあるものだ。少し柔らかみも感じる。彫込み象嵌の為に柔らかめなのであろうか。錆色は赤みを帯びた艶のあるものだ。磨き地だが、完全に磨き終わる前のような肌目が見えるところもある。この写真でも右下の箇所に流れている肌目が見られる。そのような鉄を意識して使って彫込み象嵌をしたのである。 2019/3/27 拵を鑑賞している中で、この鐔を拝見するが、スケールの大きさを感じる鐔である。改めて、この鑑賞記を読むと2018/2/9にも同種の感想を記しているが、幕末に登場し、このような同種の写し物だけを作っている素人の作者だが、今に喧伝されるだけの力を持っているのが中根平八郎だ。 2018/2/19 昨日、『林・神吉』の東肥親信(釘谷洞石ー本名信次)の項を見ていたら「釘谷洞石の図案集」の図版が掲載されおり、そこに、この鐔と同図が所載されていた。この図案集は本人作の覚えでもある下絵帳ではなく、彼が眼にした作品の図を書き留めたものと言う。 2018/2/18 『肥後金工録』に記されている「其の銀ホリ込み象嵌のごときは、最工(もっともたくみ)にて」を私なりに具体的に説明すると、①彫りの範囲が広く、彫りが細かいこと、②それらの形の乱れが無いこと、③彫り込んだ銀線の太さが均一で精密なこと、④できあがった銀彫り込み象嵌がうるさく無く、適度に派手な面もあって品位があること(むかしから銀には「いぶし銀」=見た目の派手さはないが、よく見ると人目を惹く魅力があること=という言葉もある)、⑤拵に使用し、150年以上経ているが、耳には象嵌が落ちているところもあるが、表裏の銀象嵌には無く、堅牢性もあることなどである。 2018/2/13 この鐔を刀屋さんで見せられた時に「肥後ですね」と言ったが、中根は思い浮かばなかった。それまで現物を観たことがないから当然だ。そして保存の証書を見せられた。「いい鐔ですね。いくらなの?」と聞いたら、実は拵に付属の鐔だと言う。それで見せてもらったものが所蔵品となった肥後御家拵写しの写しであった。 刀屋さんが鐔だけを観ている時に、私が訪問したのであろうが、不思議な経験だった。 2018/2/11 この鐔には茎孔の周囲に特徴的な鏨を打ち込んでいる。中根の隠鏨については『肥後金工録』には記載されていないのに、『肥後金工大鑑』には切羽台の茎櫃の周囲に細かい点のようなタガネを26個も打った絵を載せて、「家伝には、上図のように茎櫃のまわりに隠鏨のあるものが、その正作であるという。しかし必ずしも、無いからといって、中根の作でないと言い切ることも難しいであろう。」と述べている。そして写真図譜の347に、茎孔上部の周りに5個、下部の周りに9個(判別しにくいので不正確)な鐔を1枚所載して、本文の図とは違うのに、「茎櫃上下に見る鏨が中根平八郎のかくし鏨として家伝のものである。」と短評している。ただし同書所載の348、349、350は何も無い切羽台の鐔である。 『林・神吉』(伊藤満著)においては隠鏨の件は一切触れていない。そして中根家から熊本県立美術館に寄贈された鐔3枚の写真が掲載されているが、その切羽台(1枚は責金がある)をルーペで確認しても、鏨の痕跡は見つからない。 だから中根家家伝というのは誤伝であろう。 なお同書には、この3枚も含めて15枚が掲載されているが、所蔵品のような鏨が茎孔の周りに打たれているものはない。 2018/2/9 格調が高いとも言える。別の言葉で言えば、キチンと容儀が整っていて、それでいて堅苦しさよりものびのびとして雄大な感じがする鐔である。 2018/2/7 耳の横側の凸凹は、やはり63×2=126個だった。7×9=63だが、どうして模様を描いているのだろうか。円の360度を9で除すると40度になるが、こうして区切っても、ここに7つを描くわけだ。表裏の16組32個の雷文は4等分、8等分として枠が作れるが。 2018/2/5 この鐔の魅力は、耳にある雷文繋ぎ(2つで一組)銀象嵌の見事さにある。金と違ってそれほど派手でないし、銀特有の変色もあるが、オシャレなものである。『肥後金工録』に「其の銀ホリ込み象嵌のごときは、最工にて、中には真に迫る」(読み下しや仮名遣いは修正)と記されている通りである。 デザイン等は本歌(信長拵にかかっている古正阿弥鐔)に準拠しただけだが、表裏にそれぞれ16組(32個)あり、象嵌の欠落も無い。鑑賞記では、耳の横側に凸凹繋ぎの銀象嵌が合計で126個(ここは数カ所の銀象嵌の剥落がある)と書いたが、再度、数え直すか。 2018/2/4 中根平八郎の左右大透かし雷文繋ぎ銀象嵌鐔である。雷文繋ぎを銀で実に丁寧に象嵌している。もちろん耳にも銀象嵌してある。鉄味も肥後の錆付けで見事である。 この鐔は実に堂々としている。専門の鐔工ではなく、肥後藩士で四百石の武士の余技と伝わる。この堂々としたところが、作者の素性の良さを出しているように思うし、専門の金工でもないのに、金工史に名前が残っているところだと思う。。 売ろうとしたのではなく、自分の作りたいものを丁寧に作ったものである。 |
2024/3/20 勘四郎の図柄は限定されている。御紋と総称される桐、巴、引き両、桜、松などの細川家の紋に因んだものが大半である。後は菊、泥波と称される波などだ。他の肥後金工と共通する図柄も少ないながら存在する。細川家関係の注文が多かったのか、勘四郎本人も細川家への帰属意識が強かったのであろうか。 2024/3/16 この写真で観ると優しい感じだが、今、鐔立てに掛けてあるのを観ると武張った感じである。背景で違うのかもしれないが、そもそも初代勘四郎には、この2つの側面があるのではなかろうか。 2024/3/12 「歪(ゆが)み」とか「動的」、その結果から生まれる「軽み」「カジュアル感」もある金工・鐔工だ。 2024/3/8 鐔立てに掛けて観ていると、「大らか」という表現が適切かはわからないが、大きい感じがする。 2024/3/4 図柄の動きが勘四郎の面白さだ。巴は上と下から切羽台を包むように図取りする。桐は上部と下部のそれぞれの中心にある花穂が右側に向かう。左右にある小さな花穂は自然な向きだ。同時に桐の葉は上部の真ん中の大きな葉は花穂とは逆に左側(内側・切羽台側)に向かい、下部の桐の葉は花穂と同様に切羽台を包むように曲がる。 2023/4/29 巴紋の頭部というか○の部分を小さくするとか、桐紋を思い切り変形するとか、面白い発想を持っている人物だ。西垣勘四郎は自分のデザイン感覚に自信を持っている。 2023/4/27 一種独特の品の良さもある。 2023/4/25 軽みと言うべきか、軽快感と言うべきか、あるいは躍動感と言うべきか。 2023/4/23 丸耳だが、その耳の幅は比較的狭く、そして耳の内側は丸味もつけずに削ぐような形で仕立てている。これがゆったりしている中での緊張感を高めて効果的である。 2023/4/21 ゆったり、まったり、あか抜けしている。 2022/9/7 茶碗の井戸茶碗に通じるような魅力なのだと思う。 2022/9/5 『肥後金工大鑑』の199頁に所載されていて、伊勢寅彦氏蔵として、短評欄に「地がねがよく、丸形の形も優れている」と記載されているものだが、全体のわずかに長丸形の形状は感じがいい。優雅、雅という感じがする。 2022/9/3 ゆったりしているが、力強い。こういうのも初代勘四郎の持ち味なのだろう。 2022/9/1 巴の頭を小さくし、桐を屈曲させてのデフォルメ。不思議なセンスだと思う。不完全さを敢えて造りだし、そこに調和を求めている。 2022/8/30 茶道の侘び、さびの感覚にも近い美意識があると思う。そこに勘四郎独特の優美さが入る。 2022/8/28 切羽台横の当金は素銅で嵌めている。これも後世の工作ではなく、勘四郎の仕事と感じる。材質も赤銅でなく素銅であり、それほど神経を使った仕事ではないが、雑でもなく、何となく勘四郎の加工と感じる。 2022/8/26 勘四郎は、これみよがしのところはなく、何となくのんびりと鑑賞できる鐔である。ほんのわずかに長丸形なのだが、こういう形を造れるのも非凡なところだと思う。全体に雅びな感じが漂(ただよ)うのがいい。 2021/12/24 勘四郎の全てが詰まって鐔である。この鐔と、同じく所蔵品の御紋図縁頭で初代勘四郎の良さがわかる。民芸的な良さとも言えるし、武と雅の融合とも言えるし、揺らぎ、穏やかなダイナミズム、優雅な躍動感とも言えるし、巧まざる崩し、デフォルメの良さでもあるし、緊張の中の緩みの良さでもある。 2021/12/22 鉄鐔の写真は難しいが(鉄鐔に限らず、そのものの良さを浮きだたせる写真は難しい)。自分が撮ったものだが、この写真は中心部が光り過ぎているが、全体に良い写真だと思う。これが初代西垣勘四郎だ。 2021/12/20 勘四郎の作品は、優雅というか雅(みやび)な感覚が残っている。 2021/12/18 勘四郎を久しぶりに鑑賞。ゆったりした感覚が心地良い。 2021/3/11 桐の花穂の歪み(思い切り左に曲げ、それを戻す)に、製作当時の勘四郎の強い意思を感じる。勘四郎の美意識に基づくバランス感覚なのか、勘四郎の心境から生じた意思なのかはわからないが、動的な印象を強めている。 2021/3/10 この写真ではゆったりと優美な感じが強いが、武張った感じもする。 2021/3/9 この鐔が西垣勘四郎の本質なのかと思う。注文ではなく、自分の考えとして、御紋の桐と巴を透かそうとしている。鐔としての機能を頭に入れながら、自分の美意識に則って桐と巴をバランスを見て配置する。そして、ことさらではなく桐紋を自然にデフォルメして、その形態に則して毛彫を施す。鐔の大きさ、形状は万人に好まれる形に加工し、耳を丸くする加工も特に丁寧にしたのではなく、いつもの自分のペースだ。錆び付けも、いつもながらの方法で行ったのが、この鐔ということだ。 2021/3/8 ゆったりとした感を抱く鐔である。 2021/3/6 御紋のデフォルメ工人だが、面白い発想だと思うし、一つの独創的な才能だと思う。 2020/8/23 毛彫の細かさ、柔らかさは、この鐔の魅力の一つ。 2020/8/19 右上の桐は花穂の先から中央の葉の先端まで、左に脹れて右に曲げるS字カーブでデザインし、左下の桐は花穂の先から中央の葉の先端まで左に脹れて右に流れるC字カーブにしている。 2020/8/17 こせついたところの無い、大らかな鐔だ。 2020/3/31 勘四郎はラフな感じを与えるが、彼の技術の真価は丸耳の仕上げ方に出ている。実に巧みである。 2020/3/30 後代の人が創りあげられたデザインを写すのは簡単。それは芸術でも自然科学でも同じ。だからこそ独創が高く評価されるし、また高く評価すべきものだと思う。勘四郎以前に、京透かしなどにおいても、このようなデザインがあったであろうか。 2020/3/29 はじめて、巴紋を分解して、このようなデザインを創りあげたセンス、それに桐紋をデフォルメして、このような位置に配したセンス。凄いと思う。 2020/3/27 耳の幅が細めの丸耳であるが、この趣向が桐紋と巴紋が舞っているような感じに効果を高めている。 2019/10/31 昨夜は毛彫の面白さに目が向いた。無造作に見えるが、彫りに深浅を付けて、また彫り口に広狭を付けている。桐の葉の葉脈は、各葉の真ん中には太めの2本線を葉先まで掻き通す。左右の葉脈は細かい線を彫り、植物の葉脈ではない柔らかさである。細かいが、間隔や長さなどはフリーハンドで適当である。桐の花穂は一つずつ、花穂の形に合わせて、丸く毛彫しているのだが、上部の丸いところはわずかに深く彫っていて立体感を出している。 2019/10/23 ここ数日は、この鐔から穏やかさを感じる。 2019/10/19 昨日、ある刀屋さんで、この図柄に葛菱象嵌を施した鐔を拝見。いいものだが、全体としての巴桐のデザインを写している感じだ。この鐔は巴と桐をそれぞれ別のものと意識して組合わせている。後代の写し物との差である。 2019/7/28 ここ一連、金山鐔の山道紋(福島家軍旗)、王者又七(九曜紋のデフォルメか)と書いてきたが、勘四郎の桐紋、巴紋も細川家及び有力家臣(ex沼田家)などの紋であり、武器の付属品に軍団の印を附けるというのは自然なことだったのだろうと思うようになる。 2019/6/16 それにしても勘四郎は桐紋、巴紋へのこだわりが強い。これでもか、これでもかと取り上げてデフォルメしている。デザインしている。勘四郎のこだわりか、あるいは藩命か、あるいは藩の武士の好みなのか、一体何故なのだろうか。 2019/6/7 この写真ではわからないが、桐の葉の毛彫は実に細かい。各毛彫の間が均等なところと、間が不揃いなところもある。また毛彫の深さも浅いところから、少し深めのところまで様々だ。もっとも深浅は保存状態での差の可能性もある。 この毛彫の細かい線は、志水初代梟図鐔の梟腹側の毛彫と共通することに気が付いた。ともに彦三系だ。 2019/6/6 これまでも「堂々」「スケールが大きい」の”堂々感”の感想と、「巫女が舞っている」「躍動感」、「優雅な躍動」などの”躍動感”の感想を記してきたが、日によって感じ方にフレが出ていたが、今朝は前者の感を強く持つ。二代勘四郎は後者の感覚に共感し、それに華やかさを加味していったのかなとも感じるようになる。それは二代が生きた時代の求めたものだろう。 2019/5/15 これまでにも「堂々としている」と書いているが、スケールの大きさを感じる。個性なのか、西垣派の初代だからか、あるいは時代の空気なのか。 2019/5/12 大らかな優しさも感じる。こういう感覚的なものをマネするのは難しいだろう。 2019/2/23 笹野大行氏が勘四郎の作風を評した言葉に「風雅」がある。風雅を辞書で引くと「みやびたこと、俗でないこと」との語意である。そして「みやび」とは「宮廷風であること、都会風であること、優美で上品なこと、洗練された感覚を持ち、恋愛の情緒や人情などによく通じていること」などとある。私が2018/11/19で記した”神官に縁のある家系の出身者らしく、巫女が舞っているように見える”という感想は、この範疇に入るものである。 2019/1/22 桐紋のデフォルメに関する発見について、勘四郎「御紋図縁頭」に記したが、この鐔の上の桐の主穂は強めに左に曲げてから、ゆるく右上に曲げている。 勘四郎の嗜好なのだろう。 2019/1/21 面(平肉)が、ほんのわずかに中高(切羽台にかけて高く、耳側が低く)に見える。 2019/1/20 堂々としているが、作者の造形、デザイン、地造りなどの自信から来るものだろう。 2018/11/19 「躍動感」、「優雅な躍動」、「踊っているようだ」と書いてきたが、昨夜、「舞っている」と表現した方がいいと感じる。勘四郎は神官に縁のある家系の出身であり、「巫女が舞っている」ような作意なのではなかろうか。 2018/11/18 王者又七のような輝きは無いが、ねっとりした照りのある良い地鉄である。色は同一条件の光で比較しないとわかりにくく、寝床では言えないが、黒みを感じる。2018大刀剣市で各店のショーケースの鐔をザッと観てきたが、私個人の嗜好なのかわからないが、やはり肥後の水準が高いと感じる。 2018/11/16 この長丸形、単なる形なのだが観ていると、この形しかないよなという感じもしてくる。作者の力なのであろう。丸耳にした形状とも合致しているからなのであろうが、名人の仕事を言葉で説き明かすのは難しい。 2018/11/13 昔の鐔職人を今の職業分類にあてはめると、初代勘四郎はデザイナー的なセンスが高い人だったと感じる。なかなかデフォルメ、崩すというのは難しいものだ。その点、勘四郎は見事である。 2018/11/12 躍動感があるが、優雅な躍動だ。それでいて強い感も与える。 2018/10/5 花桐が布をたなびかせて踊っているようだ。 2018/10/4 切羽台は巴文と一緒になっていて、切羽台の長さを正確には求められないが、約44ミリほどある。これは王者又七とも同じである。耳の厚さが約5.5ミリほどである。肥後金工大鑑で記された値と異なるから修正した。 2018/10/3 散々に拝見して、鑑賞記をまとめたばかりだが、好きな鐔であり寝床に持ち込んでいる。長閑(のどか)な感じもするし、ゆったりした感じもするが、桐文の透かし彫や、それに施した毛彫などは意欲的に生々しく彫っている。 |
2024/9/22 四方に開けられたハート型の「猪目」。魔除けの説があるが、定説は無いようだ。しかし、多くの建物装飾や美術品に見られる。 2024/9/18 凄い存在感である。相当に上位の武家の凝った拵に装着されていたのだろう。櫃孔の松紋の形状から細川家に縁のある武士のものであろう。 2024/9/14 こういうデザイン感覚は指導者、あるいは助言する数寄者がいたのであろうか。他の美術品にもあるのだろうかと、折に触れて美術書に当たっているが、いまだ見つからない。。 2023/11/26 枯木象嵌の線の肥痩、線の屈曲、線の長短など、非の打ち所の無い象嵌である。加えて優れた金性で、その輝きは美しい。 2023/11/22 又七の象嵌技術は鉄炮鍛冶時代に身に付けたものだと思う。そしてこのデザインも鉄炮鍛冶時代に何かヒントを得たのだろうか。置縄=火縄、枯木=火と火の粉、なんて考えている。 2023/11/18 枯木も凄いが、置縄象嵌も凄い技術だ。くり抜いた円弧の中を、細かく整った縄目状に金象嵌しているのだ。どうしたら、こんなことができるのかと不思議である。鉄炮鍛冶らしく正確な技術だ。 2023/11/14 感心するばかりで、又七の狙いなどはわからない。天才の仕事を凡才が観てもわからないのは当然だが、感じたことなどをもう少し的確な言葉で表現できたらと思うのだが、まだまだ観ることが不足しているのだろう。 2023/11/10 これらの枯木象嵌、多すぎることもなく、本当に頃合いの象嵌で、素晴らしいセンスだと感心する。観るたびに感心するだけだが、見飽きない。 2023/11/6 この金性は美しい。暗所にあって、輝くさまは何とも形容しがたい。派手でもなく、品があり、整っていないのだが、何かひとつの考え方に統一されているような気もする。それが何かはまだわからない。 2023/11/2 後代、神吉の同種のものを拝見するが、枯木の幹の太さ、配置など、この又七の鐔とは雲泥の差である。私も拝見するたびに、”凄いな”との感想が頭に浮かんでくるだけで、それ以外の褒め言葉が出てこない。天才の仕事を凡才が論じるのは不可能なのかと思う。 2023/2/12 その金の魅力を十分に発揮させているのは、鉄の鍛え、錆び色である。「王者又七」鐔のような強い輝きは無いが、落ち着いた光沢を持つ鉄色だ。 2023/2/10 この鐔を拝見していると、金(きん)の価値、金(きん)の魅力を改めて再認識する。金無垢目貫も所有しているが、それらを拝見しても感じない金(きん)に対する畏敬の念が自然に生まれてくる。枯木象嵌として、部分的に使用しているだけなのだが。 2023/2/8 枯木象嵌の一つ一つが、人間の動作のような感じもしてきた。躍動している、生き生きした動作が多いが、たたずむ動作もある。急ぐ動作もあれば、ゆったりもある。不思議な感覚だ。 2023/2/6 凄い鐔だと改めて思う。この枯木象嵌の感覚。又七の前に、このような感覚はどこに存在したのであろうか。私の日本美術に対する勉強が不十分なのだと思うが、日本人として、日本人の美意識を誇りを持つ。 2022/8/16 櫃孔の松紋の彫りも正確で美しい。この彫りだけでもただ者ではないという感じである。また華やかで、枯木象嵌、置縄象嵌に合っている。櫃孔としての大きさもちょうどいい。 2022/8/14 又七には重要文化財に指定されている破扇図鐔がある。この破扇を写した破調の金象嵌と同じ調子、同じ趣向である。天才は破れた扇でも、枯れ枝でも絵にでき、しかもその絵で感動させることができるのだ。 2022/8/12 蠢く(うごめく)枯木の意図・狙いはわからないが、拝見すればするほど心の琴線は高鳴り、惹きつけられる。 2022/8/10 枯木のそれぞれは、つながっているわけではなく、切れ切れになっているものもある。また枯木の一本ごとに肥痩があり、実に細い枯れ木もある。本当に不思議で、どういう意図なのであろうか。鐔の右側(差した時に外側に出る側)に模様を多くしていることは理解できるが、蠢く(うごめく)枯木の意図・狙いは凡人にはさっぱりわからない。 2022/8/8 四隅のハート型の猪目(いのめ)は、古代からある文様だが、意味ははっきりしていないようだ。魔除け、火災除けと言われている。古代の刀剣の装具の文様にあるから火災除けというよりは魔除けなのだろう。 実際の猪の目はハート型ではない。個人的には心臓の形状から来たのかなと思うが、謎である。 2022/8/6 又七の持つ”華”。この”華”の正体が、わたしごときには、なかなかわからない。わからなくても感じることはできる。 2022/8/4 地金がフラットに見えるが、わずかに肉置きがふんわりとあるように見える。意外と、こういう肉置きが名人の技の証拠なのかもしれない。 2022/8/2 じっくり拝見したり、鐔立て上にあるのをチラッと拝見。いずれにしても心が何かで揺さぶられ、満たされていく感じだ。まさに眼福というのだろう。 2022/7/31 昨夜も、光の加減か、枯木象嵌の金の輝きが強く、改めて感銘を覚える。この時に気が付いたのだが、置縄の金の輝きは枯木とは違う。こちらは埋め込んである為かとも思えるが、金性が違うのかもしれない。いずれにしても、置縄象嵌が鐔全体を締めている。 2022/7/29 天才の仕事を凡才があーだ、こーだと言葉にしようと思うのが、無理なのかと思う。日本の誇りだ。 2022/7/27 枯れ木の線の肥痩(ひそう)、連続・非連続の使い分け、枯れ木を象嵌する位置、枯れ木の長さ、枯れ木の向きなど、天才の仕事だ。 2022/7/25 枯れ木が、逆に生き物のように動き回る。生命力を感じる。 2022/7/23 抽象画の定義の一つが、実際に存在し無いものを描いたものである。こんな枯れ木はあるだろうか。こんな枝ぶりの木はあるだろうか。こういう点から、これは抽象画である。 ともかく華やかなのである。絢爛豪華という華やかさではなく、何なのだろうと常に思う。金(きん)は純度の高い金で美しい。だけど、それほど多くを使用しているわけでもない。でも華やか。地の鉄錆との対比効果もあるのだろう。 2022/3/22 左右同型の櫃孔。松紋のイメージと思うが、実に正確な透かしである。そして、切り立て部分を一段下げて彫っているが、この幅も正確無比だ。切羽台を掘り込んで赤銅の厚めの当金を嵌めている。謹作である。茎孔の責金は目に付かないから素銅である。拵に付けられたことは無かったのではなかろうか。 2022/3/20 四方に開けられている小さな猪目(いのめ…ハート型)の透かしは何なのだろう。小さ過ぎて、実用の腕貫紐を架ける孔にはならないし。『肥後金工大鑑』に所載の藤井学氏旧蔵のものは、この鐔と違って十六木瓜形だが、同様な位置に、同じ程度の大きさの猪目を4つ透かしているから、思いつきで透かしたものではなく、何らかの意図があったことは間違いが無いのだが。 2022/3/18 厚い金象嵌で盛り上がっている。枯木象嵌が施された鐔は他にもあるが、このように全面に枯木象嵌を施し、破調を絵にしているのは、有名な重要文化財:桜破扇図鐔に見られる。恐ろしいセンスである。華美・華麗なのだが、これだけでは言い尽くせないハッとする所がある。何か作者の精神の深いところから出てくるものであろうか。 2022/3/16 裏側の右横よりも少し上部の耳よりに、勾玉のような鉄骨が出ているのに気が付いた。この地鉄は透かし鐔の鉄味とは違うのだが、皮革のように表面が柔らかい感じで、艶のあるものだ。 2022/3/14 置縄象嵌は、細い溝の中に細かい縄目の象嵌を行うわけであり、大変高度な、また非常に根気のいる作業である。凄いものだと思う。 2022/3/12 このデザインは、何度観ても凄いなと感じる。私に大した鑑賞眼があるわけではないが、理解しがたい凄さである。どうしてここにこんな形状の金象嵌を配置したのだろうとか、この金象嵌の形は何なのだろう、この線の太さ、細さ、曲がり具合などどうして決めたのであろう。そして、この配置、勝手に出来てしまったのだろうか。それとも何らかの意図があるのであろうか。 2021/9/29 言葉を換えて、何度か書いているが、枯木象嵌という言葉とは真逆な生命力がほとばしる鐔だ。 2021/9/27 枯木象嵌、置き縄象嵌に目が行くが、櫃孔の形状も凝ったもので松でもイメージしているのだろうか。そして、その左右の櫃孔の外周を一段と下げた彫なども精密・丁寧でなんとも言えない装飾性に満ちている。 2021/9/25 この写真は鐔の表側であり、枯木象嵌は右側(差した時に身体の外側)に多い。他人の目を意識したものだ。裏は全体に同じような感じで、枯木象嵌の数は少ない。志水初代仁兵衛と違ってオーソドックスである。 2021/9/23 我が心の琴線を鳴らす鐔。鳴らされた琴線の音は騒がしくはないし、静かで穏やかでもない。色々と我が心を探っているが、的確な表現が浮かばない。「生きろ」という感じが今の気持ちだ。 2021/9/21 盛り上がりと、埋め込みの対比もおもしろい。盛り上がりとは枯木象嵌だ。金が盛り上がっている。埋め込みは置き縄の象嵌だ。これまた細い溝の中に象嵌するのだから、凄い技術だ。この対比は見事。 2021/9/19 昨夜、しばらくの間、凝視。生命力というべきものがほとばしる。押しつけてくるような感じや、あくの強さはない。ではおだやかかと言うと違う。何かわからない力が出ていて、私の心を波立たせる。 2021/9/17 華やかさと同時に、強さを感じる。ほとばしる勢いが強さとして感じるのであろうか。 2021/6/22 枯木象嵌は、奔放、自在に動き回る。飛び跳ねる。ほとばしる。弾ける。一方、置縄象嵌は動かない。埋め込まれている。整っている。 2021/6/20 この鐔のように象眼のある鐔はさすがに寝床には持ち込まない。机の脇の鐔立てで見守ってくれている。華やかさの奥に精巧さがあると同時に、ゆったりまではいかないが余裕があり、安らかにさせてくれる。厳しさまではいかないが、隙がない感じである。 2021/6/18 又七の持つ華やかさは何なのだろうかと思う。天才の感性を、私ごときが推し量ることの限界を感じる。 2021/6/16 何か艶(なま)めかしい感じもする鐔である。 2021/6/14 透かし鐔の王者又七の地鉄とは違うが、別種の良い地鉄である。王者又七の方は清澄感のあるような羊羹色だが、こちらはフワッとしたソフトな感じもある中での照りがある。 2021/6/12 枯木象眼は盛り上がっているのだが、これが躍動感、生命力を感じさせるのに役立っているのだろう。 2021/3/4 枯木象嵌は生きている感じで、不思議である。 2021/3/3 置縄象嵌は鉄の平地に埋め込まれて象嵌されている。一方、枯木象嵌は鉄の平地の上に盛り上げて象嵌されている。この僅かな高低差も、この鐔をふくよかに見せている。 2021/3/2 全体の形、櫃孔の松の形状と仕立て、四方の猪目の透かしや置縄の象嵌などは正確無比に仕上げている。その結果としての堂々とした風情。本当に位が高い鐔工だ。 2021/3/1 このように意識して破調の美を創り出すという才能は、凄いものだと思う。焼き物や鐔の焼きなましで自然にできる景色とは違うのだ。 2021/2/27 この置縄枯木象嵌鐔を刀屋さんで初見して1年になる。この時の、まさに魂消た思いは記憶に残る。「いいものですね」「上手ですね」と感心する刀装具はあるが、この鐔のように心が揺さぶられるものはほとんど無い。この歳になって、このような経験が得られたことに感謝している。 |
2024/7/27 この鐔は、一度も使用されたことはないのではなかろうか。肥後鐔工の名門春日派林家の当主の作品として大事にされたのであろう。伝統工芸的な位置づけだろう。 2023/10/29 当時の世評「又七の再来」という言葉も、長岡重厚の「大かた姿よく造りたるも、ただ足らざる所は精神に在り。今試しに画を借りて評せんか かの古法眼の彩色に倣いたる末狩野の筆における如し、徒にその家法墨守ゆえに先ず形似を勉め人物花鳥一見皆よく模したるを認むも如何せん仮病を免れがたし」と評するのも理解できる。 2023/10/25 写しものの欠点というか特徴の一つは、図柄全体を写すが、個々の図、例えば竹と葉と幹のそれぞれを写しているわけでないことだ。だから個々の図柄に込めた思いのようなものは入らない。 2023/10/21 端正で美しい鐔だ。林家三代の真価を発揮している。 2022/12/14 品があるところ、すっきりとした清爽感があるところ、細工が丁寧なところなどが良い点である。又七のお手本は観たと思うが、実際の笹竹の様子は見ていないと思われる点、そしてお手本通りと言うことで独創性が無い点が欠点なのであろう。実際の笹竹の様子を見ていないところが表面だけの印象をもたらすのだろう。 2022/12/12 『肥後金工録』で長屋重名は、三代藤八は二代より勝れるとかの世評に対して「多くは町人好みに入る」と酷評している。象嵌物への批評が主と思うが、前日に私が記した「遠目にはいいが、詳細に観ると今一つとの思いも出る」の評とも共通するところがある。 もっとも大半が無銘のものを観ての評(長屋重名でも同様だろう)だから、意味の無い評であるが。 2022/12/10 この鐔は拵に付けて、行き交う人にチラッと見てもらうと、大いに褒められ、感心される鐔だろう。この鐔だけを詳細に観ると、「こうすれば」とかの思いも出てくる。これが藤八の作風なのかとも思う。 2022/12/8 『肥後金工大鑑』に又七の「枝折り竹」として、図版55、56、57とあり、重光として88、藤八として124(笹蟹)が所載されている。全てが又七の作とは思えないものもあるが、それらに比べると、この鐔は端正である。耳の竹輪に、その印象が強い。もっとも『透鐔 武士道の美』(笹野大行著)の図版172は、この鐔以上に端正で品格を感じる。この笹野氏愛蔵の鐔に比べると、耳の竹輪が細い。そして笹の葉が堅い感じがする。 2022/12/6 この鐔の鉄味は皮革のような艶が出ている感じで、所蔵している又七や重光、又平とも違う。鉄、特に黒錆の鉄味は不思議なものだと改めて思う。 2022/12/4 この写真ではわからないが、切羽台の茎孔の周りはなだらかに肉を落としている。平面的ではないので味がある。また、これは肥後の上手のものに共通しているが、櫃孔の外側は丁寧に面を取っている。こういう細かい細工も大事であり、品格を高めている。 2022/12/2 この鐔が醸し出している雰囲気が「三代藤八が又七の再来」と言われたことに繋がっているのだと、最近、気が付く。細部の比較で観るものではないのだと思うようになる。 2022/11/30 林2代重光、5代又平と観てきたから、この3代藤八の鐔を取り出す。これも初代以来の林家の写し物だが、丁寧に作られ、保存状態も完全な作品である。写し物は細部の例えば葉の1枚づつを写すというものではなく、全体を写すことに主眼があり、その意味で、よく雰囲気を写している。清澄で格調の高い作品になっている。 2022/4/25 この小柄櫃の形状は、謹直な作風の藤八には珍しく、少し上部が広がるような形状である。そして、この形状が初代又七の「枝折竹透かし鐔」(笹野氏が旧蔵で『透鐔』など諸書に所載されている有名なもの)と非常に良く似ているのである。だから本当に、又七の本歌をキチンとマネた作品なのだと思う。 2022/4/23 こういう鐔があると、藤八が「又七の再来」とか「二代に勝る」とかの評を得たというのもわかる。もっとも『肥後金工録』では、「その実、二代より劣る。其象嵌ものを多く造り時好に適するゆえに此の評ある」とか「町人好みに入るべき」と酷評している。 藤八の活躍した時代は、武士そのものが軟弱となっているわけであり、それを町人好みと評するのは酷である。ただ、藤八と極められている鐔、特に象嵌のあるものは、長屋重名氏の言も一理あると思う。 2022/4/21 非常に出来の良い鐔なのだが、同図の又七の鐔があるので、それとの比較、違いなどに、目の関心が向いてしまう。特にデザインは「又七の写し」と言うことに帰着してしまう。 しかし、同図の写しを作っている神吉深信の鐔の写真などと比べると、こちらの方が一日の長があると感じる。特に切羽台とその周りの肉置きは、特にこの鐔は優れている。また鉄味は写真では想像がつかないが、自分の所蔵品の深信の地鉄に比べると、こちらの方が上である。 2022/4/19 地鉄の黒錆は真っ黒で輝いており、また鉄自体も密に詰んだ鉄で、肌理が美しい。 2022/4/17 すっきりと爽やかな感じがする。そして地鉄の輝きは生気溢れる。 2022/4/15 笹の葉の長さの違いというか、左側(小柄櫃の上)にある左下に流れる長い笹の葉が伸びやかさをうまく表現している。流れる向きも下過ぎず、上過ぎず、適切な位置と思う。 2022/4/13 この鐔は、購入してまもないから、鐔掛けに掛けていたが、最近に気が付いたことがある。それはこの図柄(デザイン)は「枝折竹」として、林又七の創出とされているが、肥後藩の家老職で八代城主の家系である松井家の家紋「竹輪に九枚笹」にヒントを受けたのではなかろうか。肥後金工は林家にしても西垣家にしても、藩主の家紋の九曜、桜、引き両、桐、松などをデザインしたものを作成している。 |
2024/6/21 鮫皮(実際はエイ)を研ぎ出し、漆をかけて鞘に使用するということを考えた先人は偉いと思う。美的な面だけでなく、耐久性、耐水性でも優れるわけだ。この歴史は改めて調べていないが、興味深い。柄の滑り止めに鮫皮を巻いたことからの発想であろうか。 2024/6/17 この拵が近くにゴロッと置いてあると、楽しい。黒呂色の裃指だと改まった感じになるし、町彫の鐔、縁頭に凝った細工があると、眼はそちらに行くし、鞘の塗りが凝ったものだと、慎重に扱う必要がある。肥後拵は「照り、振り知らず、墓場刀」とも称されるように、丈夫で安心感がある。また非常に美しい。 2024/6/13 この鹿のふすべ皮の柄巻きの汚れ具合もいい。手垢も美になるのだ。 2024/6/9 どこかで書いた記憶もあるが、この拵を入手した経緯(いきさつ)は、まず鐔だけを見せられたことによる。中根平八郎の作で鐔だけの証書もあり、この鐔を販売するのかと思い、価格を聞く。すると「この鐔は拵に付いているもの」として、この拵を見せられる。いいものだなあと観ていると、店主が「買っていきなさいよ」と声をかけ、「●●万円でいいよ」と言う。 2024/6/5 戦前の数寄者は、拵の中では美しさで最右翼である御家拵の写しものを作っている。『肥後金工大鑑』はそれらが4振所載されているが、金具の質で「小柄櫃が無いこと」「蛸の目貫を使っていないこと」などは、これら4振に劣るが、全体の美しさでは遜色無いと思う。、 2024/6/1 拵が機能を果たす為に重要な部位に鐺(こじり)がある。式制で、腰に差したままで、刀を地面に置かない前提であれば漆のもので良いが、実戦に使うことも想定すれば鉄など金属が不可欠である。この拵の鐺は鉄で真ん中に縦の線状の凸があり舟形と呼ばれるものなのだろうか。鞘に接合している箇所は一重の筋状の窪みで廻らせている。肥後鐔・肥後拵に詳しい伊藤満氏は、この鐺は林又七作と褒められているが、私は肥後の鐺など、ほとんど拝見していないから、判断のしようも無い。艶のある良い鉄味である。拵全体を締めている。 2024/5/28 中根平八郎の鐔を鑑賞するとは、この拵を鑑賞することになる。信長拵を写したものだから、当たり前なのだが、実に感じの良い拵である。ファッションはすべからくトータルでの調和である。今日は鞘に焦点を当てる。古い時代の鮫鞘だから、鮫の白い部分が少し飴色風になっていて、落ち着きもある。新しいと白と黒の差が際立ってしまう。白と黒の鮫肌の粒も、仔細に観ていくと、自然のものだけに、少し飴色になったもの、周りに輪ができたもの、粒の大小も自然であり、観ているとあきない。 2023/9/25 良い拵は、もっと高く評価されるべきと思う。黒呂色鞘は当たり前過ぎて見向きもされないが、黒呂の深み、艶など昔の数寄者はうるさく観たものである。畏友のH氏もうるさい人だ。要は鑑賞力が無くなっているから、評価できないのである。自分の不勉強を恥じるべきである。朱鞘でも同様であろう。朱漆の根来塗などが評価されているが、朱の下地の黒が諸処に出たところなどが趣きがあるとされているが、朱鞘では下地が出るような細工は下手とされるであろう。(今の根来の趣きを否定はしない) 2023/9/21 「侘び、寂び」と一語で言うことが多いが、「わび」は”閑寂な風趣”と思う。枯山水の庭もそうなのだと感じる。先日に、この柄巻きの時代による汚れに関して「さび」に言及したが、この拵は全体には「侘び・寂び」ではなく、桃山時代の華やかさを品良くおさめたものである。 2023/9/17 先日、時代による褪色・汚れによる感じの良さについて記したが、この美が「さび」の美意識につながっているのだと思う。この柄巻きや下げ緒は本当に感じがよい。 2023/9/13 昨日、新作の拵を拝見。柄糸の色が今一つである。色は同じ色名でも、人によってイメージに違いがあるから難しい。柄糸の色だけで、拵の価値が下がってしまい、こんな拵なら白鞘の方がましとなる。この拵の柄のふすべ皮は、時代による褪色・汚れも相俟って感じが良いが、難しいものである。 2023/9/8 昨日、東京駅近くのオアゾというビル内の丸善で、鮫皮(もちろんエイ皮と正しく表記)を使った文具小物(ペンケースなど)が売られているのを発見。小さいもので3万円超の価格で、海外のメーカーの製品(?)のようでした。もちろん、この拵の鞘の方が美しいです。 2023/9/2 去年(令和4(2022)年9月)の「刀和」に発表した「肥後拵・慶長拵の山道文」を、改めて、このページにリンクいたしました。この小論の「おわりに」に書きましたが、「波に山道」はおかしいから「大航海時代航跡文」に改めるのが良いと考えます。 2023/4/28 鞘に鮫皮(実際はエイ)を貼るという発想は、鞘割れの防止、鞘当たりの傷防ぎ、雨天時対策などの実用が先だと思うが、皮を鞣(なめ)したり、加工(粒を研ぎ出して平滑にし、漆で保護など)したりと手間のかかる作業だろう。その結果としての美しさ、天然のモノ故に同一のものが無いという希少性に気が付くのは時を置かないだろう。 2023/4/26 拵はファッションの一部だから、制服的な刀装(黒呂色鞘の紋金具や獅子、龍の金具)は面白味に欠けるし、安っぽい衣装の刀装は観るに堪えない。こうなると、豪華な衣装のような刀装と、この拵のようなセンスの良い拵が鑑賞価値を持つ。そして、このような拵は高価であるが、センスの良い拵は美しいし、楽しい。 2023/4/24 この羽箒の目貫、赤銅ではなくて四分一で縁の材質と一緒であるが、下地の鮫に黒漆をかけているから、赤銅よりも目立つ。そして大きさと言い、形と言い、この柄に合っている。羽箒の柄の金色絵も目立つものである。西垣勘四郎の作かもしれないと思う。 2023/4/22 所蔵の黒四分一九曜紋を摩耗させた頭(かしら)だが、多くの天正拵の頭(かしら)は角(つの)に黒漆を掛けた無地のものである。そう考えると黒四分一の頭との組み合わせは突飛な考えではなくなる。 2023/4/20 西垣勘四郎の御紋透かし縁頭の鑑賞記において、肥後拵の場合は縁と頭の調和ではなく、縁と頭の間にある柄(ふすべ革巻き、鮫皮は黒漆で染め、そこに目貫)との調和が大事と書いた。そこで、この拵を拝見する。縁は四分一地で、真ん中に凹の線を入れて、全体に斜めの鑢を入れているだけのものである。頭は四分一地に慶長時代にどういうわけか流行した波地に山道文の彫り込みである。他の部分の邪魔をしない何の変哲も無いものである。ここに所蔵の西垣勘四郎の縁(鉄地に真鍮で御紋を据えたもの)だと少し改まった感じになると思う。汚れたふすべ革よりも新しいふすべ革にしたくなる。また頭は真っ黒であり、ふすべ革をより濃く、黒っぽくく染めたものにすると迫力が増すのかななどと考える。 2022/7/3 この拵にも、差表の鞘の中程に、大きめの鮫粒を出している(上記の写真ではわかりにくい)。鮫鞘自慢の一つなのだろう。『肥後金工大鑑』の写真での確認だと、歌仙拵は途中まで刻鞘の為か、観られない。堀部直臣が作ったという御家拵の写しでは、親粒が点々と14個ほど並んだ鮫鞘にしている。米野氏、畑島氏の写しでは親粒が3連星のようなところが観られる。伊勢氏の写しだと親粒が沢山連なっている。「の」の字拵と私が名付けた脇差拵は、松井家が作らせたから、凝った鮫を使っている。 2022/7/1 当たり前のことだが、拵の場合は柄巻きの締まりが印象を左右する。手垢で汚れたふすべ革で、お見せするのが恥ずかしいが、糸巻以上に、きつく、きちんと巻かれている印象が出る。加えて、手垢の濃淡、こすれ具合がアクセントも与えてくれている。見ただけで、手強そうな印象を与える。 2022/6/29 安土桃山時代に隆盛となった茶道では、お茶席の各種道具の取り合わせに神経を使って、客をもてなす。そこに亭主のセンスが出る。同じく桃山時代の武将の腰を飾った肥後拵・慶長拵・天正拵も。取り合わせの妙なのであろう。全ての金具が同じ作者の統一されたテーマという一作金具は、金工の作品としては評価されるが面白味に欠ける。 2022/6/27 刀剣、刀装具の愛好家に比べると、拵の愛好家は少ない。それは多く残されているのは黒呂鞘の献上拵(登城拵、裃指、番指)であり、面白くないからである。ファッションで言えば背広なのだ。だから付けられている金具だけの違いとなる。そして金具だけの違いならば、金具(刀装具)を集める方が鑑賞もしやすい。黒呂鞘も、通になると塗りの巧拙などもわかるのだが、わかるようになるには何本も集めなくてはならない。加えて黒呂鞘は傷付きやすい。 2022/6/25 下げ緒も適度に古びて調和が取れている。下げ緒は柄糸と同様に劣化しやすく取り替えられて、バランスを欠くことが多いが、この拵の下げ緒は感じがいい。 2022/6/23 この欄で、以前にも書いたと思うが、黒の色目、階調の違いなどが面白い。ふすべ革の手垢で汚れた黒光りも、その一つになっている感じだ。黒漆塗の栗形、返り角、裏の一文字が冴えた黒で、縁頭の四分一が灰色に近い黒だ。また中根の鐔は茶色味を帯びた黒だ。もちろん鮫鞘の中の黒は千差万別だ。 2022/6/21 この鮫鞘は、白いところが、やや黄色味を帯びて、しっとりしている。時代があるので、太陽に照らされて変化していると識者は言う。いずれにしても古びた感じがして落ち着いている。柄前も手垢でふすべ革が黒ずんだところ、も艶が出たところ、擦れて色が変わったところなど、ともかく全体に古びたところが感じがいい。そして古びていながら、しっかりしているところが貴重である。柄下の鮫は黒漆がかけられているが、鮫の粒の間に埃もみられる。それも味である。 2022/6/19 地元の行事に協賛して、美術展をやるので何か出品してくれと頼まれる。刀装具は小さいから、わかりやすいものでは拵はどうかと提案して、これらの肥後拵を考えた。しかし、そのような美術展なので、警備は出品者の中の有志が担当し、保険等もかけないと言うことであり、万が一の場合を考えてお断りする。 魅力的な拵である。細川三斎の信長拵を本歌として、御家拵として模倣されて、数寄者がそれぞれに製作したのもよく理解できる。一つの完成形である。 2021/9/28 この手垢で汚れたふすべ革の柄巻きも、この拵の魅力だ。昔の藩士(藩士と言っても鮫鞘だから、単なる上士=馬乗り身分でも所持できない)ならば、汚れ=士道不覚悟になるかもしれないが、汚れによる古色がなんとも言えない良い感じを醸し出している。 2021/9/26 鮫鞘の白く見える無数の点は、まったくの白は無く、薄黄、薄橙、薄灰色、薄青などの色が入る。また大きさもごく小さいものや4㎜程度の大きなものまである。また形状も純粋の円形は無く、少しずつ歪(いびつ)である。そして親粒が鞘の一番目立つところにある。これは真ん中が白く、周りが薄青灰色である。自然素材であるから、一粒ずつ微妙に違うのが面白味であり、風情があるところだ。 2021/9/24 中根平八郎の鐔は耳にも簡素な雷文(凸凹模様)があるが、鮫鞘の自然で乱雑な白黒模様を、この鉄地(黒)に銀(白)の規則的な凸凹文が締めている感もする。 2021/9/22 「週刊日本刀」に「打刀拵の流行と時代」を書いたが、江戸時代になると拵は武士の大事なファッション・アイテムとなる。今はラフになっているが、サラリーマンの仕事着は背広。それに該当するのが登城時、儀礼の拵(献上拵、裃指、番指、御城指、登城指)。個性が薄れ、面白くない。 この時代の普段着の拵も、今でもオシャレでない人が多いようにつまらんものが大半。もちろん、良い金具を使用したり、鞘に蒔絵を施した贅沢なものも残っているが、装飾が全面に出て、自己アピールも財力があるとか風流だという側面が強い。 天正拵は武器としての刀装の面が強いが、慶長拵(肥後拵も含む)は武器に自分自身の個性、考え方を自己アピール-個性の主張-するファッションになる。これがいい。 2021/9/20 この薄紫・畝打ちの下緒は好きである。年月を経ている為か、柔らかくなり、鞘に馴染み、色もわずかに褪色しているのか、鮫鞘の焼け加減(白い部分がわずかに飴色ぽい)と柄巻のふすべ革の汚れなどとも調和していて、全体に落ち着いた色調になって品が良い。 2021/9/18 この拵は戦場、あるいは戦場往来が日常茶飯事だった侍が差していたという感じがするのがいい。もちろん写しものであるが、本歌がそういう時代の慶長拵の一種である。武器としての迫力というか、武器の持つ緊張感も感じる。そして柄巻きの汚れ、鮫鞘も時代を経て、白い部分が少し焼けているような感じも、その印象を強めている。 2021/9/15 鞘に鮫皮(実際はエイ)を貼るという発想は細川三斎の独創ではないが、よく思いついたものだ。堅牢性が本来の目的だろうが、美観上も優れていることがわかり、次には鮫皮の文様にも拘るようになったのだろう。ともかく自然の造形であり、他に同じものが無いわけである。鮫鞘の中でも感じの良いものと自負しているのは、所有者の贔屓目(ひいきめ)だろうか? 2021/9/13 革巻きの柄は、手垢の汚れが味となる。糸巻きだと、汚らしいとの印象が勝ってくる。登城用の大小の柄巻きなどは、毎年の暮れに巻き直したのも当然だろう。 2021/9/11 中根平八郎の鐔を鑑賞すれば、自ずからこの拵を鑑賞することになる。好きな拵である。この拵の中で金色は柄(つか)に巻き込まれた羽箒(はねほうき)の柄(え)である。あとは切羽(せっぱ)が金である。羽箒の柄のわずかな金が、柄下地の黒漆をかけられた鮫皮と、手垢もついたふすべ皮の色に映えて、効果的である。 2021/5/19 頭(かしら)の波地山道文と称されている模様は「大海原航跡文」(おおうなばらこうせきもん)で良いと思う。この欄における2017/9/9の項で細川三斎が親交のあった伊達政宗のデザインを借りたという細川護立氏の記述を紹介し、2020/2/2の項で、波の航跡ではないかとの思い付きを書いたが、この通りで大海原における航跡をイメージしたことで良いと思う。波に山道などはどう考えてもおかしいし、大航海時代(日本では室町期の勘合貿易、倭寇、戦国期の南蛮貿易、朝鮮出兵、朱印船貿易)に生きた当時の人は、波の上の航跡であることは容易に理解したと思う。 2021/5/17 拵は総合芸術であることは何度か述べているが、この拵の場合は下げ緒が実によく調和している。色と言い、時代のつき方と言い、申し分の無い取り合わせである。下げ緒は拵との調和ということよりも、役職、身分の識別に使用されたとも言われており、拵全体の中での調和という視点はふさわしくないのかもしれないが、述べておきたい。 拵の写真や解説が各種本に掲載されていても、下げ緒のことまでは言及されていないことがほとんどである。『肥後金工大鑑』では歌仙拵の本歌はカラー図版だが、下げ緒は柄巻きのふすべ革と同様の薄茶である。 信長拵の本歌は現在不明だが、『図鑑 刀装のすべて』(小窪健一著)には「下げ緒は法橋茶の畝打ち」との記述がある。信長拵の模造では『肥後金工大鑑』に所載の岡野多郎松氏のは「紫、畝打」とある。米野健一氏のには記述がない。畑島正氏のには「紫畝打」、伊勢寅彦氏のには記述がない。(色は種々の種類があり、茶色でも厳密には法橋茶というのだろうか) 2021/5/15 鮫鞘の模様における各種色の階調を記したが、拵全体における黒色の変化も見応えがある。漆黒は鯉口と栗形と返角、裏の一文字で締めている。同じ黒漆でも柄下地の鮫を染めた黒はチャコールグレーの粒が揃う。次ぎに目貫の黒四分一、羽箒だから細かい毛彫が施されている。縁頭は少し黒が薄い黒四分一で、頭は波の彫りが深い。縁は真ん中に凹んでいる溝を付けているが斜めの細かい線彫りである。そして中根の鐔が光を当てると赤茶が強くなる黒錆だ。識者は又七作ではないかという泥摺鐺の輝きも見事な黒錆だ。そこに鮫鞘の粒状の多量と多様な各種の黒が一面を覆う。黒のカラフルなのだ。 2021/5/13 格好が良く、色合いの調和が実に良い拵である。三斎公の信長拵を写したものだから当然なのだが。写真は明るい光で撮っているから中根平八郎の鐔も茶色っぽく写っているように全体が明るいが、普通の光の元では全体に黒っぽく、落ち着いている。鮫鞘は時代が古い為か白い部分も、黒い部分(実際は黒だけでなく、2020/1/31に記したように各種階調の茶や薄い青や濃淡様々なグレーなどが混じる)も落ち着いた色になっている。 2020/12/31 28日に拵の各部位の黒の変化について記したが、鐺(こじり)の泥摺(どろすり)は記載しなかったが、光沢があって、やや赤みを帯びた良い鉄味のものだ。又七作ではとされているのも理解できる。舟型で真ん中に山があり、周りは鞘なりの形になっているが、この造形の変化が光にも変化を与えて味がある。今は鐺側から光が当たる位置に拵を置いているから、鐺部分が照っている。 2020/12/30 付けられている中根平八郎の鐔も実戦感覚の中のお洒落アイテムとして、この拵にマッチしている。本歌の信長拵も同様な鐔であり、マッチするのが当然なのだが。ちなみに歌仙拵も左右に大きく影蝶を透かしたものだし、宮本武蔵の差料も左右海鼠透かしであり、こういう鐔が合うのかなとも思う。 2020/12/29 黒の栗形、返角、一文字、鯉口が締めて緊張感を高めている感じがするが、これも関係し、加えて縁頭に余計な装飾が無く、柄巻きが燻べ革であることなどの実戦感覚が出ているところも、この拵の魅力なのだ。 2020/12/28 黒の変化も面白い。真っ黒なのは栗形、その裏の一文字、それに鯉口だ。鞘の鮫皮の黒は、様々な色合いの黒で白っぽい丸を形取っていると同時に黒が帯状になって変化している。 それから柄下の鮫に塗った黒漆だ。目貫の羽箒は赤銅ではなく黒四分一ではないかと思う。その色と同じなのが縁と頭だ。同じ黒四分一でも、目貫は凸の部分がある形態、縁は真ん中に凹の線があり、斜めの鑢、頭は波地の彫りに山道文の彫り込みと形が違うから微妙に印象は変わる。それから中根平八郎の鐔の黒錆だが、これらの黒の中に入ると濃い焦げ茶色に見える。 ここにおいて光っているのは、目貫の羽箒の柄の金象嵌と、切羽の金着せ部分だ。中根の鐔の耳の銀象嵌は強く主張はしないが、やはり一つのアクセントとして生きている。 2020/10/16 「の」の字拵と違って、こちらの鮫鞘の鮫には水色っぽく見える粒は見えないが、灰色の各種階調や薄茶の様々な色合いが見られる粒が覆っている。「の」の字拵より古い時代の鮫鞘であり、日照や経年変化による褪色もあるのかもしれない。 上記写真では見えないが、「の」の字文ではないが、親粒的な大きい粒が、差表の中程(栗形の下15㎝ほどのところ)にある。親粒をこの位置(=目立つ位置)に据えて巻くのが掟なのだろう。 2020/10/15 『肥後金工大鑑』に信長拵の模造が4本所載されている。これらは本当に模造だから、小柄・笄が付いていること、縁はシボ皮で包んでいることなどが、私のと違う。小柄・笄の図柄や目貫の図柄などは本歌と異なっているのもある。 ただ戦前は人気がある拵で、何人もの愛刀家が造らしたことが理解できる。 2020/10/11 華やかだけれど渋い。美しいけれど実戦的。オシャレで遊び心もあるけれど周りを引かせるような格式もある。 2020/10/9 誰が考えたのかわからないが、鮫皮を鞘に貼り、それを研ぎ出して滑らかにするなんてことを、よく思いついたものだ。鮫皮は輸入品であり、高価なものだった。 そして、この拵では柄糸の下の鮫皮は黒漆をかけているが、白いままよりも風情が出る。 2020/10/8 存在感が違う。ゴロリと置いておくだけでも”御刀”という畏怖の念が湧き起こってくる。 2020/2/2 頭(かしら)の波地山道文は2017/9/9に書いたように伊達政宗の創案らしいが、波地にあるから、船の航跡ような感じである。折しも大航海時代で、日本でも朱印船貿易が盛んな時代だ。伊達政宗は独自に支倉常長を欧州に送っている。 2020/2/1 石のような丸模様の形も真円は少なく、歪になっていたり、角があったり、大きかったり、点のように小さかったり様々で、その並びも千差万別であり、自然が造り出した面白さである。 2020/1/31 鮫鞘の石のように見える小さな丸い模様の一つ、一つを見ると、色合いが一つずつ微妙に異なり、薄いグレーの丸、薄い茶色の丸、薄い青色の丸まであり、面白い。自然の材料を生かしたことによる楽しさだ。全体は白っぽい丸なのだが。 2020/1/29 この鮫鞘、城の石垣のようにも見える。古い時代の石垣の積み方の野面積み(のづらづみ…自然の石を加工せずにそのまま積む)だ。そして外観は、石に見立てた鮫の形状が丸だから「玉石積み」(たまいしづみ)だ。 2019/10/10 天正拵も頭は水牛などの角、縁は材質は山銅、鉄などで装飾の無い腰の低いものである。桃山拵も肥後拵と同様に頭は金属のものが多くなるが、波に山道文のように地味なもので、縁は金属の装飾の無い腰の低いものである。こんな縁と頭でも、天正拵、桃山拵を愛好する人多い。 縁頭に金工の作品が多くなるのは鞘、柄などが式制で定められてきて個性が出せなくなった時代からなのであろう。 3019/10/8 この縁(ふち)は、材質は黒四分一だと思うが、斜めの鑢(やすり)をかけ、真ん中に樋を彫っている。樋の中の鑢は消えている。どうと言うことは無いのだが、拵全体の調和に合っていると感じる。この縁の材質が鐺(こじり)のような鉄色や、真っ黒な赤銅では浮いてしまう。真ん中に樋が無い場合を想像すると、今より単調である。 2019/10/7 鐺(こじり)についている泥摺は、肥後金工録に舟型と称されている形状である。真ん中に舟の底のような山型がある。そして鞘と接する部分は軽く柔らかく婉曲していて、そこに樋を一周させている。樋の幅は一定で、しかも湾曲させており、実に巧みな技である。鉄色は少し赤味を帯びた鉄色で輝いている。伊藤満氏が「又七の作品かもしれない」と褒めただけのことはある。 2019/10/6 刀装具・小道具は拵の部品であるとも言える。完成品として構成された拵の中で鑑賞するのが本来の姿と言えないことはない。もっとも後藤家や名工に注文した刀装具は、それはそれで評価されていたから、折紙なども発行されていたわけであり、また作者自身が箱書きしているわけであり、刀装具だけの鑑賞もありだと思う。名工の刀装具でも下手な拵に付いていれば台無しとの意見も一理あると思う。 難しい課題だが、完成品の拵に目を向ける姿勢は大事にすべきだと思う。 2019/10/4 肥後拵は昔は「照り降り知らず墓場刀」と言われているとの伝承がある。この意味は陽射しが強い時にも、雨が降っている時にも大丈夫で、しかも墓場のような石がある場所で鞘が少々当たっても傷がつかないと、実用性の高さを讃えたものとされる。今は指して歩くわけではなく、検証はできないが、確かに丈夫そうな拵である。 2019/9/30 柄の下に巻いている鮫に黒漆をかけている。この鮫は研ぎ出していないから、鮫の粒の凸の部分の黒漆はテカって白っぽく見え、凹の部分は黒漆の沈澱で黒くなる。すなわち鮫鞘の白黒と、調子は違うけど同様に白黒である。また鐔の耳の銀象嵌の雷文が白で、鐔の鉄地が茶味がある黒である。こういうのも全体に感じよく見せている一因だろうか。 2019/9/28 この拵を拝見していると、縁頭などはこのようなシンプルなものでいいのだと思う。それが西垣勘四郎の縁であり、頭なのだろう。目貫については、柄糸で巻き込むものであれば、それほど凝った上作は不要と考える。ただし出し目貫の短刀(合口)拵は目貫が重要な装飾になると思う。すなわち三所物とは短刀(合口)拵用の金具であり、それを主に製作した後藤家は鐔を作る必要は無かったのだと考えている。 2019/9/26 先日、江戸時代後期の肥後拵の良いものを拝見した。縁、頭、鐔などは華やかなもので、鞘も紋を散らして凝ったものである。それを拝見すると、自然の模様である鮫皮を使用した鞘の魅力を改めて認識する。 2019/4/3 2年前に地元の神社の三十三年に一度の式年大祭があり、地元の自治会長とのことで、裃・袴を着用されて祭に参加。その折、自宅で肥後拵の大小を差す。この時感じたのは一人の武士の必要面積の大きさだ。左右は肩幅+裃の長さが必要となり、前後は大刀を斜めにした長さが必要となるのだ。加えて、すれ違う人とぶつかって鞘当てでもしたら大変だ。 また、佩刀してみると、いざという時に刀を抜く必要がある。だから手荷物は持てない。当然に武士は小者を連れて荷物を持ってもらわないと外出ができない。小禄でも武士であれば、外出には小者が必要なのだ。時代劇の映画で、このあたりのことをしっかりと踏まえているのは私の記憶の範囲では『たそがれ清兵衛』だ。 2019/3/30 「黒の魅力」も、この拵の特徴だ。一番鮮やかで濃い黒は鯉口、栗形、返り角と、裏の一文字の黒漆だ。それから鮫鞘の白を浮きだたせる様々な色調の黒の模様、柄巻きの下の黒く染めた鮫皮は渋い黒だ。それに目貫の羽箒の黒、そして縁頭の黒、これらは黒四分一という材質なのか、少しグレー調だ。それから鉄錆の黒だ。茶色がかった黒錆で鐔、鐺が締める。 2019/3/26 昔は下げ緒に重きを置かなかったが、この拵を入手して、下げ緒の大切さを改めて認識した。この薄紫で、少し柔らかめの下げ緒が、拵に実に似合っていると感じる。もちろん他の下げ緒を装着したわけでもなく、見慣れてしまったからとも言えないことはないのだが。 旧幕時代は身分によって下げ緒の色が決められていた(全ての藩で同じように決まっていたかは知らない)と聞くから、似合うとか好みに合うからと言った理由では選択できなかったのだろう。 2019/3/25 この拵の鑑賞記の「2.少ない拵の愛好家」の6で記したが、打刀拵の鞘の多くは黒呂色鞘であり、違いが金具(鐔・刀装小道具)中心になる。金具中心であれば、金具だけで見る方が見やすいから拵から外される。拵をあつらえた人の取り合わせの妙などは失われてしまう。 2019/3/24 御家拵(信長拵)の本歌は現在行方不明である。戦前あるいは江戸時代からの数寄者が苦心して写した作品が残っているだけである。この拵も、その一つであるが、本歌と違って笄、小柄が無いから、厳密には御家拵を写したものとは言えない。ただし、江戸時代の大小では脇差に小柄、笄が付いていて、刀の方には付いていないのが多いから、これで良いと感じる。より実戦的な雰囲気が出ている。鮫鞘、柄の皮巻き、柄下の鮫を黒くしていること、縁頭の形状、それに鐔などが本歌に似ている。 2018/8/5 この拵は実用を感じさせながらも美しい。それが肥後拵の魅力だと言われれば「そうですか」とうなずくしかない。鹿皮の柄巻きにある汚れの使用感まで愛着を感じる。巻き込んでいる鮫は黒漆で染めているが研ぎ出していないから漆の光沢はない。それが汚れの使用感を落ち着かせているようだ。目貫は大きく長めの羽箒である。羽部分は黒四分一なのか、あるいは赤銅の質が劣るのかわからないが、落ち着いた黒で、下の黒く染めた鮫とも違う色で存在感を出している。羽箒の持ち手の金象嵌も映える。 柄の形も中程がわずかに狭まる形で握り易さを感じさせる。縁は黒四分一のくすんだ黒で真ん中を凹ませて、ナナメの直線だけの鑢だ。頭は波に山道文でこちらは曲線の彫り込みだ。巻き込まれて一体となって、存在を消している。 鐔は武用に適した大きなものだが、大きな透かしを入れて重厚感を和らげている。真っ黒ではなく、やや赤茶に輝く鉄地に綺麗な線の雷文。華やかさ、緻密さを感じさせるが、派手さや、緻密な彫りによる堅苦しさを感じさせない。装飾よりも実用感が出ている。 下げ緒の色が実に良い。薄紫でふっくらと織り上げている。褪色しているのかわからないが華やかさを出している。 鞘の鯉口、栗形と返り角は拵全体の中にあって、真っ黒な漆塗りで締めている。黒の中で、この黒だけが研ぎ出した漆黒の輝きで拵全体を締めている。この色の面積割合も調度いい。 鞘に張った鮫皮は自然の紋様として細かい○文が一面を覆っているが、その大きさ、形状、色合いが微妙に変化している。白が濃くなったところ、逆に黒が濃いところと変化してが調和している。時代を経て鮫の色も落ち着きが出ている。 もちろん、鞘は日本刀の反りに合わせてた形状であり、曲線も美しい。 鐺(こじり)は羊羹色に輝く鉄の鐺である。黒漆ではないから堅苦しさはない。 2018/4/10 慶長、江戸時代前期に鮫皮(実際はエイの一種)は南蛮船や朱印船で多く輸入された。そして高価なものであった。こういう鞘を観ていると、当時の武将が愛好したのも理解できる。堅牢という実用もあるのに加えて、黒と白の斑点の織りなす模様の美しさ、しかも自然の模様であり、色目であり、同じものが一つと無く、他の武将の鞘とも差別化もできるのである。 2018/4/7 桃山時代のこの手の拵が一番良い。肥後拵の信長拵、歌仙拵ももちろん、江雪左文字が入っている拵も、同様である。柄は黒塗鮫に燻皮で巻き、鞘は研出鮫である。 桃山時代の拵には、この手のもの以外にも次のような拵があるが、豪華過ぎて佩用するのに気が引けるところもある。山鳥毛一文字の合口スタイルの拵もいいが、鐔が無く特異過ぎる。黒田如水の安宅切りや圧し切り長谷部の拵のように、金霰鮫青漆打刀は豪華だが、金を張っており、豪華過ぎる。前田利家の犬千代拵ともいわれる雲龍蒔絵朱漆大小拵は朱塗りであるので恥ずかしい。太閤秀吉→溝口家の朱塗金蛭巻大小拵も同様に派手過ぎる。 この点、革巻きの柄に、研出鮫は実用性と適度なオシャレ感がいい。 2018/4/6 私の拵は格好が良くて好きなものだ。色の調和もいい。時代を経て白が増した鮫鞘の色だが、黒地に小さく不規則な斑が一面だ。自然の鮫皮だから適度に色ムラがある。鐺(こじり)は見事な錆色(羊羹色)の鉄地だ。栗形と返り角に鯉口は黒漆で締めている。 下げ緒は感じの良い薄紫色である。目立たない派手さのある色だ。 鐔は中根平八郎の輝きの強い鉄で、耳には銀雷文象嵌だ。 縁は黒四分一に斜めの鑢、間に一巻き抉(えぐ)っている。シンプルなものだ。 柄巻きは鹿皮に手垢が所々に付いていい味だ。 その中の鮫は黒く染められているが埃がたまっているのか、艶は少ない。柄巻きの皮の間から覗く。 目貫は大きめの赤銅と思っていたが、今日、明るい昼の光で見ると黒四分一と思える。羽箒の図で、箒の柄の部分は金色絵だ。 頭も四分一だが、縁よりも光が強い。 2017/11/11 根津美術館で光村利藻氏が作らせた拵の名品を拝見する。鞘の蒔絵、拵の金具は確かに素晴らしいが、装飾面が強く出過ぎていると感じる。最近、いくつかの刀屋さんで某大名家伝来という拵や、新作の天正拵、時代は下がるが肥後拵の良いものを拝見。やはり肥後拵が好みに合う。 所蔵の御家拵(写し)は、鞘の鮫が古く、焼けて白っぽくなっていて感じがいいと改めて思う。 2017/10/12 先日、『戦国武将の合戦図』という本で福島正則の旗が山道文であることを知る。古い時代の関ヶ原合戦屏風には、縦棒がクネクネとなる山道文の旗が描かれており、時代が新しい関ヶ原合戦屏風には、横にギザギザの山道文の旗である。縦棒がクネクネの方が正しいようだ。 縁頭の頭の山道文とは違う形だが、この時代に山道文は旗印に使うほど、流行していたことがわかる。 2017/9/10 波山道紋が伊達政宗の好みという細川護貞氏の文に関して、伊藤満氏に確認すると、長岡恒喜氏の『仙臺金工之研究』(1935年刊)にも同様の記事があると教えていただく。長岡氏は熊本で生まれ、熊本五高で夏目漱石に学び、東大でも漱石が移った哲学科・美学を一期生として習った人物である。以降は教育者として福島、広島、山形で旧制中学の校長を勤め、刀剣、刀装具に詳しく、『荘内金工之研究』(1933年刊)も上梓された。細川護立氏にも講釈されているので、細川護貞氏の文の根拠は、ここにあろうとのことであった。 長岡姓であり、細川家の一門の生まれとも推測できる。 2017/9/9 細川護貞氏が永青文庫の季刊誌NO17(昭和61年発行)の中で寄稿された「肥後の金工」から、これまで「王者又七の2017/9/8」や「小道具の楽しみ記」の「彦三・二引き両透かし2017/9/2」などで引用・紹介したが、ここには、この御家拵(写し)にも付けられている波山道紋の頭について、次のような興味深い内容を紹介したい。 「(千利休と)更に三斎は仙台の伊達政宗公とも交渉があった。ー中略ー刀装の金具に於いて、肥後と仙台に区別しがたい程にかよったものがあるのは二人の友情がしからしめたものと云ってよいのではなかろうか。特に縁頭に於て然りで、一例を挙げれば、三斎の佩刀として有名な信長拵の波に山道の頭は、伊達政宗考案のデザインであり、三斎によってその形が肥後に定着したものである。つまり利休の「わび・さび」と仙台物の小粋な華やかさ、いわゆる「伊達さ」とが三斎を通じて、渾然と一体化したもの、それが肥後物の良さである。」 この拵の鑑賞記における「6.慶長期の拵と肥後拵えの共通性(波山道紋の不思議)」で、私はこの模様の起源について疑問を呈しておいたが、「伊達好み」という伝承もあるのですね。でも何で波に山道なのだろう? 2016/10/2 拵の話になっているから書くが、昔は識者が語るところの「肥後拵には関物があう」とかの話を信じていたが、この歳になって思うと、中身の刀と拵は関係しないと言うことだ。 要は本歌の歌仙拵の中身が之定、信長拵の中身が加州信長の末古刀だから言っているだけだ。もちろん、中心が極端に長い幕末の刀を歌仙拵や、信長拵にすると、柄を長くし、その結果、ふずべ皮の巻きを多くするかで対処せざるをえずに、全体のバランスが崩れるだけだが、別に寛文新刀を入れようが、大磨上げの古刀を入れようが関係はない。 伯耆流居合術に適した刀はあるかもしれないが、居合は短めの刀を抜くだけではない。むしろ長い刀を抜くことに習練の結果も出る。 宮本武蔵の武蔵拵も肥後拵だ。 昔の識者の話には傾聴すべきものもあるが、適当な話も多い。 2016/10/1 自分は拵は好きだが、拵のパーツの中で一番魅力的なのは鞘だと思う。鮫鞘は鮫の模様が自然のものであるだけに千変万化して、魅力的である。あと自分の好みの明智拵は春慶塗が古びたような色の鞘が魅力だ。結城秀康の拵の鞘は朱鞘だが、色が少し淡くなっているのが感じがいい。黒田如水のは金板をあられ状に打ち込み、それを下部に貼って豪華である。秀吉の朱鞘にナナメに金を太いのと細いのを蛭巻きにしているのも華やかである。鳥居元忠の朱鞘に銀で藤の花穂を大きく入れているのも凄いと思う。遠山友政のは青漆で濃い緑色だ。それに銀を水流のように貼っていて、見事な色彩感覚だと思う。 全部、天正・桃山時代に本歌があり、容易なことでは入手できない。現代の写しもあるが、それは写しものらしく、しかも意外と高価である。 糸巻太刀拵は儀式用だから古いのが残っているが、儀式用だけに形状は同じで、金具も紋が多い。特に欲しいと思わない。黒呂塗の鞘は、その塗りを鑑賞できる素養もないから金具の魅力になるが、それだけなら拵など無い方が鑑賞しやすいとなる。もちろん変わり塗りの鞘もあり、それはそれで技術に感心する。 こういう中で、気に入った拵えが入手できたのは幸運であった。 2016/9/30 拵というものは、総合の芸術だから美術品としての鑑賞も全体を観て判断する必要がある。もっとも昔の人も、全体のバランスを考えて拵に組んでいるから、ある金具だけが拵全体の中で群を抜いて良いと言うことは少ない。 廉乗の良い三所物が付いている短刀の出し目貫の合口拵を拝見した時、柄の鮫皮も親粒が見事なもので、鞘の塗りも美しいもので「なるほど」と思ったことがある。 後藤の品物を拝見すると、三所物では目貫が一番見事である。その目貫を短刀用の出し目貫にして使うのは理解できるが、柄糸の下に巻き込んでしまうのは普通の感覚だったのであろうか。柄糸の下から所々に見えるところに、奥床しい美があるのだと唱えることもできる。繁華街を”目貫通り”と言う言葉は、巻き込んでも目立つから出来た言葉なのだろうか。 私は、出し目貫の拵ならばともかくとして、柄糸で巻き込んでしまう目貫に、それほどのものを使わなくてもいいのではと、思ってしまう。 貧しい感覚なのであろうか。 所蔵の御家拵の目貫(羽箒)、「の」の字拵の目貫(牛)は、赤銅地に金象嵌があり、後藤風だが赤銅の色はそれほどでもない。しかし巻き込んでいるために汚れているとも言える。いずれにしても、どこの誰の作かがわからないのが正直なところである。 2016/9/28 今、拵と鐔の相性を考えはじめている。御家拵に、この中根平八郎の鐔が実にマッチしていると思うからだ。もっとも中根は本歌の信長拵についた同様な古正阿弥の鐔を写したわけであり、合うのも当然なのだが。 よく「信家はどんな拵にもかかる」と言うが、この御家拵には「戦争と平和」の太字銘信家よりも、中根の方がいい。 2016/9/26 この鐔の大透かしの内側の切り立て部分は、左右、表裏ともに面を取っている。その面の取り方は上下の方はあまり面取りをせずに、左右の一番横に広がった部分を広め-と言ってもわずかに広い程度だが-に取っている。柄を握った時の拳の上部と鐔面との当たりを和らげているのだろうか。美的には、このことで光の反射も微妙に変化しているような感じがする。ただし、これが中根平八郎だけの工夫かはわからない。 また、中根の鐔は銀象嵌の雷文が、線が細く、一定で見事である。耳は銀象嵌が落ちているところもあるが、表裏の面の銀象嵌は落ちておらず、美観を損なってはいない。 鮫鞘は面白い。自然の生き物の皮だから、全面が同じ調子の文様だが、その模様は規則的ではない。細かく観ていくと、円の大きさなど微妙に違っていて飽きない。もちろん円の色合いも変化している。エイの皮を鞘に貼って、それに漆をかけて研ぎ出しているが、昔の日本人の発想は素晴らしい。 2016/9/24 中根の鐔は肥後御家拵に付いている。大きさを感じさせる鐔である。物理的にも82ミリ×80ミリと大きい方だが、それ以上にスケールの大きさを感じさせる。これはやはり作者の力なのかと思う。 この鐔が付いた御家拵は実に感じがいい。時代を経た鮫鞘も一因である。そこの薄めの紫の下げ緒も色の調和がいい。そして締まった小ぶりの柄はふすべ皮の手摺れも良い感じである。柄に巻いた鮫は黒く染めてあるが、それも時代を経て照りも少なくなり渋い。 そこに、この中根の鐔だ。私が好きな拵だ。 |
2024/11/22 鮫鞘の鮫は、江戸時代にはうるさいものであり、その模様で花カイラギ(梅花皮)、豆カイラギ、背カイラギ、パッパ鮫、、縮緬鮫、海子鮫、藍鮫、蝶鮫、菊綴じ鮫、柳鮫、白押し鮫などがあり、産地や加工地で広東皮、長崎皮、台湾皮、琉球皮、薩摩皮、土佐皮、江戸皮、大坂皮、水府皮、尾州皮、紀州皮、前田皮などがあり、価格も非常に高価なものもあった。安政頃で鮫鞘で金五両から二十両という。柄下の鮫は加工の方法が違うが、これも高価なものがあった。 この鞘は豆カイラギの一種だと思う。 2024/11/18 鐔も、同様に密な彫があるものでも良いし、耳に細かい象嵌が施された中根平八郎のような鐔でも合うと思う。、 2024/11/14 縁頭の東肥親信(明治後は釘谷洞石)の幕末~明治期らしい緻密な「押し合い菊」の彫に、江戸時代前期の後藤宗家の密に見える菱(蔓に葉、菱の実、花、浮き袋)図の小柄を合わせた趣向はさすがと思う。どんな笄(馬針)が入っていたのだろうか。 2024/11/10 自然に出来た鮫(エイ)皮における模様(「の」字状の文様、腰元に用いた黒の縞模様)を生かす発想も楽しい。人工の鞘塗りとは違った面白さである。 2024/1/9 縁頭の押し合い菊図は、東肥親信(釘谷洞石)の作だが、明治金工の超絶技巧の流れに入るのであろう。天保14(1843)年生まれであるから、明治維新時(1863)は21歳である。 2024/1/5 鐔と笄は後補だが、鐔は色金鐔の方がふさわしいだろう。縁頭に合わせて東肥親信の小鐔でも良いだろう。笄も小柄に合わせて、後藤の古いところの植物の図柄のものが良いと感じる。赤銅の一色でも、少しの色金があっても良いかな。若ければ、熱心に探したいところだが、今は御縁があればという感じだ。 2024/1/1 この鮫皮は面白く、貴重である。差した時に目立つ差表の「の」字の模様となった黒地の集積、それに腰刻み鞘のような模様が自然に浮き出たところなどは不思議である。裏千家十五代家元千宗室氏(現在は家元を十六代に譲り千玄室氏)が「の」の関係の大事さを述べられていたが、「私とあなた」の「と」は、関係を隔てるが、「私のあなた」の「の」の関係になれば、あなたと私が一体となるような関係になると言うが、その通りである。 2022/11/1 ソウルで群衆による圧死事件があったが、釘谷洞石の「押し合い菊」は地が見えないように、菊の花びらで埋め尽くされている。なんで、このような図柄を選んだのであろうか。これが好まれる土壌が肥後にあったわけであるが。 2022/10/30 この小柄の左右に菱の蔓が彫られているが、この蔓は末端に行くほど、細くしている。写実に徹すれば当たり前と思われるかもしれないが、徐々に細くしていく細工は見事である。ただの写実ではなく、絵としての構成として左右対称に配置しながら、葉を配置し、そこに菱の実と花、浮き袋をバランスをとりながらまとめているのも見事である。注文があっても、それは「菱」と言うことまでであろう。どのように菱を描く(彫る)かは作者の裁量だろう。 2022/10/28 小柄の赤銅一色の混みいったと言えるような後藤の菱図と同時に、これも無銘ながら肥後の釘谷洞石(東肥親信)の赤銅一色の混み入ることを表現した「押し合い菊」と称される縁頭。これらは生ぶであり、拵製作者の意図が感じられる。笄(馬針)も鐔も同様の趣向で揃えられていたのであろうか。鮫鞘に散らばる無数の黒点、それを引き締める栗形、鯉口、裏の一文字の黒漆。”黒の魅力”拵である。 2022/10/26 植物の菱を写実的に彫っているが、どうして「菱形」という形状が作られて、名付けられているのだろうか。真ん中の上部に三角形の尖った菱の実がある。忍者の使うという撒き菱の元である。7枚のつながった葉は、菱形というよりはハート型である。真ん中に先が膨らんだしゃもじのようなものが斜めに2つ配置されているが、水草である菱の浮き袋である。菱の実にはデンプンがあり、食糧にもなり、また薬効もあるという。 2022/10/24 この小柄の文様を観ると、赤銅の美しさ、烏の濡れ羽色の美しさを実感できる。赤銅の美しさは、ここにある蔓(つる)のような曲線を彫り上げた時に、より一層に理解できる。 2022/10/22 後藤顕乗の小柄を観ていたが、この拵の小柄を思い出した。私は 「鑑賞記」では「無銘は一格下げて極める」の言葉もあり、10代廉乗あたりかなと考えたが、ご覧のように出来は良く、赤銅の色も抜群である。古色もあるが、古色は拵に使用されていたことも加味する必要があるが、顕乗・程乗も考えられると思う。 縁頭が無銘だが東肥親信(明治後は釘谷洞石)の作で、「押し合い菊」という、赤銅一色で緻密な彫である。そして小柄が同様に赤銅一色の緻密な彫、そう考えると、笄(馬針)も、密な唐草模様を彫ったものだった可能性もあると思う。 2021/11/13 この拵を造った人は、鮫皮模様の面白さ、美しさを引き出すことを第一に考えたと思う。もう一つは赤銅の密な彫物の美を見せることだったのであろうか。もっとも今は縁頭と小柄にしか、赤銅の密な彫物は残っていないが。(鐔と笄は後補) 2021/11/11 鮫鞘の鯉口から栗形まで間に、黒い筋のような文様が出て、腰刻鞘風になっているが、写真でもわかるように5本である。5本目(栗形に近い方)は笄部分から下部は縞が判然とはしてこない。このように自然の模様だから、この鞘の裏側(小柄のある方)は全体に縞模様がぼやけてくる。言い換えれば、目立つ黒縞模様の方を差表側に加工したのである。 そして「の」の字模様の箇所を、鞘で一番目立つ差表の中程に来るようにしているのだ。 2021/11/9 小尻の方の鮫は粒が細かく美しい。その細かい粒が、色では薄い水色、薄い茶色、薄いクリーム色、薄い灰色などが混じり、形も丸形だけでなく、三角形、四角形、菱形、五角形、もちろん不定形もある。自然の妙なのだが、こういう魚皮を使用するという日本人の発想は凄い。 2021/11/7 深信の鐔を合わせてみた。良い取り合わせなのだが、この拵の長さに比しては少し大き過ぎる。中の「つなぎ」を見ると1尺3寸から4寸程度であり、深信の鐔は脇差用だが、それでも大きい。応永備前か永享時代の脇差が入っていたのだろう。 2021/5/29 縁頭は無銘だが東肥親信(明治後は釘谷洞石)の作である。松井家(八代藩主)が発注した拵に使われるほどの作品だけに丁寧な力作である。緻密に濃厚な彫りは得てして品格が下がるが、この作品は格調も保っている。幕末~明治期の超絶技巧の流れに乗っての作品だが、作者の人間性や力量は名人である。この欄の2019/2/13の記述で、熊谷義次の同図と比較した印象を記しているが、この通りである。 2021/5/27 鞘を加工して、表裏に小柄と笄を入れるという発想も凄いと思う。鞘の中には鯉口の内側に一朱銀などを隠しす工夫をしているものもあるが、このようなことは日本人の創意なのだろう。 手紙の封を切ったりするためのペーパーナイフの柄に凝った彫金を施す発想も日本人だ。 2021/5/25 拵に装着されている小柄は無銘であるが、後藤本家の名品で品格と技量が際立つ。図は菱の図で、写実的かつ装飾的で品が良い。鑑賞記では廉乗と極めたが、この欄の2019/2月末から3月にかけても言及しているように顕乗、程乗、即乗、廉乗のいずれかは間違いがないと思う。無銘は一格下げて極めるということで廉乗にしているだけだ。私が廉乗を好きであることにもよる。 2021/5/23 下げ緒は柄巻きの色と同系色の薄茶色で合わせている。「高麗」という組み方なのであろうか。柔らかく、平たいものだ。信長拵の「畝打ち」(柔らかいが、厚ぼったく、特に中が一段と高くなる)とは別のものである。こんな下げ緒の編み方なども鑑賞する側の目が衰えると、作る人の技量も低下し、日本文化の一つが廃れてしまうのだろう。鞘の塗りと同じだ。刀剣女子の中に、こういうものに対するオタク的人物の出現が望まれる。 ちなみにこれは短刀用で短いもので、脇差だと本来はもう少し長い方が良い。 2021/5/21 この拵における鮫鞘の鮫は、信長拵写の鮫より、高級な感じがする。腰元に刻み鞘風に黒い筋が現れている点と、返角下の鞘の中心部の鮫が「の」の字を書くように黒く浮き出ている点で、そう思うだけなのだが。また鮫の一粒ずつがより細かい。鮫の種類が違うのだろう。この鮫の粒の色合いは、下(20/10/13)に詳しく述べている。 2020/10/13 鮫鞘において、一粒ずつを観ていくと、白く丸く見える粒が大きさも異なり、形状も完全な丸は無く、歪(いびつ)だったりと様々である。またその色合いも、白が映えるものから、黄色味を帯びたもの、水色のもの、灰色のもの、橙色を帯びるものまで色々である。密度も密なところとそうでない所もあり、面白い。鞘の先(小尻の部分)にかけて、粒が小さくなっている。 2020/10/12 何度観ても、面白い鮫鞘である。鮫皮(実際はエイ)は自然のものだから個体差がある。たまたま黒い縞模様が目立つ鮫皮を、腰刻鞘を模して使用するのに面白いとして使用し、「の」のような文様が目立つ部分を鞘の表側の目立つ部分したわけだが、職人としては改心の作だったのではなかろうか。 2020/2/8 縁頭の彫りは、幕末~明治金工の俗に言われる超絶技巧の作品だが、この時代に何故、このような作風が流行したのだろうか。外国人が驚嘆して購買したからか。刺激を求めるような風潮だったのだろうか(浮世絵では血みどろ画と呼ばれるものも多くなる)。このようなことも気にかかる。 2020/2/6 縁頭の「押し合い菊」の菊、小柄の「菱」の菱、ともに生命力の強い植物である。このようなことを考えて取り合わせた可能性もある。そうであれば笄は小柄と揃いの二所物の「菱」か、菊や別の生命力の強い植物の図だった可能性もある。 2020/2/4 生ぶの縁頭と小柄の文様が黒一色で曲線の彫りが目立つものである。だから当初に付けられていた笄も後藤のこのように曲線が多い図柄だったのかなとも思う。小柄の菱と揃い金具だった可能性もある。 2019/10/29 この小柄は後藤廉乗あたりの作と考えているが、菱の蔓がかたどる曲線は巧みである。縁頭に赤銅一色で彫りのメリハリのある押し合い菊を選んだから、同じように赤銅一色で曲線が多く、彫りがシャープな小柄を合わせたのであろうか。 2019/10/27 小柄小刀はペーパーナイフ的な使い方、笄は耳掻きが付いているが、その用途に使用したと言うよりは髪の毛のほつれなどを直したり、単なる装飾として使用されたと言う。いずれにしても、このような使用目的であるから室内で指す短刀拵や脇差拵に使用されるようになるのが江戸時代である。 天正拵や桃山拵には大刀に小刀櫃と笄櫃が付けられているものもある。本歌の信長拵もそうである。この時代は長い刀も脇差として使ったとの説もあるが、長い刀を日常的に使用する戦乱の世であるからではなかろうか。 2019/10/21 歌仙拵のような長脇差は別だが、このくらいの長さの脇差拵では柄糸は皮巻きにしない方がいいと感じる。脇差=室内のイメージがあり、室内=儀礼の場だと皮巻きはそぐわない気もする。もちろん各人の好みだが。 2019/10/17 この鮫鞘の文様は改めて凄いものだと思う。小柄・笄を付ける栗型から鯉口までの黒い筋が表れた鮫皮の文様。歌仙拵は鞘の形状を腰刻みにしているが、この「の」の字拵は自然の鮫皮から選択して使用しているのだ。そして目立つ表側鞘の真ん中辺りに印象的な「の」の字になる鮫皮を配置している。 2019/3/5 笄櫃に肥後特有の馬針もどうかと思ったが、鉄地に金象嵌のようなものは似合わないような気がしている。今、仮に入っている銀地でシンプルな割笄も悪くはない。あるいは小柄と同様の赤銅魚子地に質の良い赤銅で密に彫った後藤物でもいいのかと思うようになる。 2019/3/3 鐔と笄は後補と聞く。目貫は牛で赤銅色絵のものだが、巻き込まれていて詳しくはわからない。巻き込む目貫はどうしても目立たない。所蔵の柳川直光の狗児大小目貫は虎徹の大小が入っていた拵がボロボロになっており、故青山氏が柴田光男氏に断って柄から外して作者銘が判明したものだ。青山氏は「巻き込まれていた時に”ただもの”ではないと思った」と言っていたが、基本的に巻き込まれている目貫の鑑定は無理である。巻き込まれていると汚れも付着しているし。(また目貫の鑑定に裏の状態の確認は不可欠である) だから、良い目貫=自慢したい目貫は柄糸で巻き込まない出鮫の拵に使用したことが多いのだと思う。もちろん、見えにくい所に良い物を使うのが本当のオシャレと言う説も否定はしないが。 2019/3/1 小柄を廉乗ではないかと書いているが、確信があるわけではない。顕乗、程乗、即乗、廉乗の時代の後藤物。そして御覧のように上手(じょうて)のもの、加えて乗真の廉乗極めの同図があることから廉乗としているだけだ。両脇の蔓状の彫物と同じ形態はどこかで見た記憶もある。 また菱の図などを好む需要層がいたことも不思議である。菱紋の一族であろうか。菱は繁殖力が強く子孫繁栄、また生命力の強さから無病息災(実際に血圧を下げる効能があるとも聞く)を願ったのであろうか。もうすぐ桃の節句。菱餅も食される。 2019/2/27 小柄をよく見ると、真ん中左上に菱の実、真ん中の右上と左下に水に浮く為の空気が入った葉柄、そして真ん中右下が菱の花だと気が付いた。ただしネット上で検索すると出てくる菱の花とは違う。 また真ん中の左右にある葉も丸かハート形で6~7枚が輪生しているが、ネット上では葉は菱形として、そのような葉の絵もある。 上部と左右に彫られた水中に伸びる茎が装飾化された図になっているように、全体に装飾化しているのだろうか。 2019/2/26 小柄は菱図である。『刀装金工後藤家十七代』の乗真の廉乗極めの菱図小柄が掲載されているが、廉乗が乗真の作品にヒントを得て、後に自身でも彫った作品と想像している。 菱の実も菱も、今では見かけない植物になっているが、「まるごと青森」のサイトで小川原湖に菱があったとの記事が掲載されている。水草であり、浮きのようなもの(小柄では真ん中に位置し、先が丸く柄が付いたようなもの(栗形に似ている))があり、葉は小柄には小さく6~7枚が星形に生えて彫られている。そして菱の実は真ん中に浮き輪の上に一つだけキノコのように彫られている。一辺が欠けた菱形である。小柄の絵の両脇は別種の蔓ではなく、菱の水中の茎なのだろう。 2019/2/24 『日本刀大百科事典』の「肥後拵え」の項に「鮫皮は長いものがないため、鞘も長くは作れない。当然、刀身も長いものは入っていない。」との記述がある。本当であろうか。 2019/2/23 頭(かしら)の形状は深丸形、縁(ふち)の形状は太鼓形と言えなくはないが、肥後らしさは薄れ、一般の形状である。押し合い菊の図によく似た作品は『林・神吉』の「坪井諸工その他」所載の小原久方の「波に菊」図鐔がある。土手耳に波が毛彫されていて、中の地には押し合い菊である。解説に江戸肥後の熊谷義次にこれとよく似た縁頭の作品があると記されている。そして『刀装小道具講座3江戸金工編(上)』の269頁に熊谷義次の押し合い菊の縁頭が所載されている。この写真での比較だが、釘谷洞石の方が丁寧・上品と感じる(義次のは鉄地とあり、素材の違いでもあるが)。幕末に肥後拵が江戸でも流行したが、時流に合致した金工が熊谷一派である。 2019/2/21 鮫皮という自然の産物に出た表現を生かす工夫は日本人的だと思う。柄糸で巻き込まれた鮫では親粒と称される大きな粒を柄表上部の柄糸の間から見せている。そして鞘の方では「の」の字に黒く浮き出た模様を表側の”さぐり”の下の目立つ所に持ってくる。そして黒い縞が表れている部分を栗形と鐔・鯉口の間の笄櫃のところに持ってきて刻鞘のイメージを出している。 2019/2/20 今まで、御家拵と一緒にしてきたが、別に分けて記述していく。この拵には無銘であるが釘谷洞石の縁頭が付いている。この拵の元の所有者が釘谷洞石の息子の聴石から父の作だと直接に聞いたと伝わる。幕末の肥後金工の作品らしいものである。「押し合い菊」という画題で、赤銅の色も良い。 釘谷洞石は肥後金工らしく無銘の作品が多く、当初の銘は「東肥親信」銘だが、明治14年から釘谷洞石と銘を切り、飾り置き物や装身具、文房具を製作し、明治26年にシカゴで開催されたコロンブス世界博覧会で銅賞を受賞している。 「押し合い菊」の図柄は緻密な彫であり、幕末金工らしい超絶技巧を施した作品である。こういう緻密な細工・模様が好まれた時代なのだろう。 2018/7/1 「の」の字拵の方だが、これは鐔と笄が後補である。鐔については2016/9/28に金象嵌がある華やかな方がいいのかなと書いたが、肥後の小ぶりな色金鐔でもいいかなとも感じる。また笄は肥後象嵌のある馬針のものがいいだろう。 2018/4/6 「の」の字拵は、新しい分、鮫鞘の鮫が黒っぽい。笄と鐔は後補であるが、現在の四分一樋定規の割笄を、金象嵌の馬針(楽寿がいい)にしてみたい。縁頭も細かい彫りの釘谷洞石の押し菊だから、鐔は肥後の色金鐔の小鐔に替えて、松井家が造ったものらしくにしてみたい。 2016/9/30 私は、出し目貫の拵ならばともかくとして、柄糸で巻き込んでしまう目貫に、それほどのものを使わなくてもいいのではと、思ってしまう。貧しい感覚なのであろうか。 所蔵の御家拵の目貫(羽箒)、「の」の字拵の目貫(牛)は、赤銅地に金象嵌があり、後藤風だが赤銅の色はそれほどでもない。しかし巻き込んでいるために汚れているとも言える。いずれにしても、どこの誰の作かがわからないのが正直なところである。 2016/9/28 「の」の字拵も引っ張りだして見ているが、縁頭が釘谷洞石の「押し合い菊」の緻密なものだけに、派手な鐔(金象嵌をしているような)がいいのかなとも思う。 もっとも、拵に合う、合わないを感じるセンスが、万人と一致するかも大事であり、私のセンスに自信を持っているわけではない。 |
2024/4/5 侘びているが華やかな縁だ。鉄の錆色も良い。槌目地も味がある。腰が低い緩やかな台形も何とも言えない。 2024/4/1 『肥後金工録』に「最も縁頭に工(たくみ)にして、世に勘四郎縁の称あり(今 存在の作 縁多く 割合に頭少なし 故に縁の称あるにや 其の頭は通例長ナツメ形にて 時効に合わず故に捨てたるもあるべし 縁の式も他家よりは長目なり 後世は直して用ゆるなり」(仮名遣い等修正)とある。 この通りと思う。 2024/3/28 縁と頭は取り合わせだが、縁の御紋象嵌に合わせて、縁には無い九曜紋を彫り、それを摩耗したように加工している。地も鉄地ではなく、黒四分一である。私の好みとしては鉄地でほっそりしたものが望ましいが、これはこれで一つの趣向である。 2024/3/24 この鉄地の縁は”勘四郎の縁”と喧伝されるにふさわしい名作だと思う。槌目地の鉄で錆色が輝きながらも深みがあり、そこに据えた細川家ゆかりの桐、桜、引き両の紋も味わいがある。桐、桜は軽くデフォルメしているが、引き両はキチンと彫るなどの対比も見事である。 2023/4/18 古田織部がお茶碗など器の形をデフォルメして”ひょうげもの”と、その作風を表されたが、勘四郎は御紋をデフォルメしている。共通する精神があるのだろうか。 2023/4/16 頭(かしら)は黒四分一の地金で、縁との調和を考えると、頭も鉄地がしっくりくるが、それは縁頭(ふちがしら)という組み合わせで考えた場合である。実際の拵においては、頭と縁との間には柄が入るのである。だから調和ということを考えるならば、頭と柄と縁、さらには鞘までのトータルで観る必要がある。こう考えると、この材質の組み合わせでも良く、むしろ図柄を御紋と統一しながらも、あまり目立たせて堅苦しくしないように摩耗したような九曜紋を同じ黒四分一で浮かび上がらせたのだろう。 2023/4/14 「のんびり」と「こせつかず」、「大らか」で「ゆったり」と「のびやか」で「余裕のある」そして「暖かみのある」作風である。縁の裏の二引き両はキチンと彫っているが、引き両の幅を変化させることで堅苦しさを除外している。 2023/4/12 この縁は名作である。勘四郎の全てが表現されている。勘四郎の桐だ。勘四郎の桜だ。勘四郎の引き両だ。地鉄は槌目地だが、光沢の強い良い地鉄である。桜の横の大きめの凹みも面白い。 2022/4/4 それにしても肥後細川家は、藩主の紋を崩したり、ゆがめたり、摺り減らしたりをすること認めていたことは、面白い藩風だと思う。他の藩は、神聖なものとして、使用を禁じ、紋の形をデフォルメすることなど許されなかったのではなかろうか。 2022/4/2 頭(かしら)は黒四分一だが、赤銅に劣らず真っ黒だ。こうして鉄地の縁と併せて鑑賞すると、違和感もある。縁と同じ鉄地で無地の方が似合っているとも感じる。しかし、拵に装着すると、おかしくないのかなと思う。古いところの拵は、頭(かしら)は角で、縁だけ細工が施してあるものがほとんどである。実用を考えると、その方が良いのだろう。 紋散らしの一環として、九曜紋を上下に彫り、それをわざわざなるめている。味のあるもので、これまた勘四郎のセンスである。 2022/3/31 勘四郎独特の緩み、まったりの良さもわかると非常に良いものである。馴れ馴れしいようなところはない。 2022/3/29 この縁は、地鉄は槌目を均して整えた造形で、柔らかみがある中で、黒錆の光沢も強い味があり、しかも美しい。そこにおける真鍮象嵌は御紋を据えただけであるが、桐は歪みも巧まざる造形で味がある。桜も同様に完全な形ではなく敢えて隙を作って余裕を出している。一方、裏の引き両はきちんとして、狂い無く象嵌している。斜めにしているところが歪みと言えば歪みである。勘四郎の縁の中では最右翼のものと思う。 2021/4/30 縁の高さが約7㎜と低いが、細川三斎の歌仙拵の縁も7~8㎜程度だ。奈良利寿や宗珉の縁も低いから、慶長から元禄頃まではこの程度に低く、宗與や多士済々の町彫金工が出現する享保頃から縁は高くなるのだろう。 もちろん、私の御家拵写しの縁も7~8㎜程度である。 2021/4/28 頭(かしら)は黒四分一の材質で、上下に九曜紋を浮彫りして、それを摩耗したようにしている。桐紋をゆらめかせているのと同じような発想である。縁(ふち)の材質感とはまったく違う。勘四郎自身による取り合わせなのか、別の趣味人の取り合わせかはわからないが、面白い発想であり、私には思い浮かばない。 2021/4/25 鉄地が革のような質感を感じさせる。 2021/4/23 この縁は名作である。鎚目地の地鉄が実に味わい深い。鎚目地なのに黒錆の輝きが強い。文様は紋所なのだが、ゆったりと余裕があり、堂々とした桐紋と桜紋と、広狭のバランスが良いキリリとした引き両紋を真鍮象眼している。金で象嵌するより柔らかく、少し寂びの要素も出ている。 2020/5/21 縁は鉄地で「さび」た感じだが、頭は黒四分一の輝きが「生々しい」感じを持つ。昆虫の殻のような感じである。私が縁と頭を取り合わせるのであれば、頭は無地の鉄地で、形は細長い棗(なつめ)形のものを選ぶと思う。 2020/5/19 引き両は崩すことなく、厳しく表現しているが、勘四郎は斜めに入れること、引き両の線の幅を変えることで勘四郎らしさを出している。 2020/5/18 真鍮の桐紋、桜紋の何とも言えない柔らかさがいい。その柔らかさを引き立てる引き両の厳しさ。 2020/5/17 この縁は地鉄は磨地でも槌目地でもなく、自然な感じの地造りで柔らかみを感じる。それを覆っている黒錆も深部から湧き出るように輝きがあり、実に感じがいい。 2019/1/22 桐紋のデフォルメは勘四郎が嚆矢と考えていたが、鐔書に掲載されている後藤徳乗(無銘)とされている金地の大小透かし鐔(秀吉の拵に付いていたのか)の桐がやはりこのようにデフォルメされているのに気が付いた。 2018/11/13 縁の地鉄も見事なのだが、初代勘四郎「巴桐透かし」の地鉄と比較すると違う。鐔の方は表面を磨き(平らにして)、錆付けを施していると思う。一方、この縁は鍛鉄の表面をそれほど磨かず、焼き手をかけての錆付けなのだろうか。 2018/6/24 ゆったり、のんびりしている。頭の九曜紋はなるめてあるが大胆な感じもする。もちろんなるめてあることで、その印象はやわらいでいるが底に緊張感を持つ。縁も表の桐と桜はゆったり、のんびり感が強いが、裏の二引き両の緊張感を忘れていけない。 2017/9/14 この縁における桐文は、鐔のデザインにされて大きく透かされると、「投げ桐」と言われる。この言葉も慣用的に使用しているが、何なのだろう。今回、この縁における桐文を観ていると、これは旗指物の旗に描かれた桐文が、旗がたなびくに応じて姿を変じているのを写したのかなとも感じるようになった。 2017/9/13 頭の九曜紋について、昨日はあのように書いたが、頭は擦れたりしやすい場所であり、頭の真ん中に高彫を入れるようなことは、当時は慣習として存在しなかった可能性もある。そこで『西垣』で他の勘四郎の縁頭を調べると波山道のように模様を彫っているものが多く、高く彫り挙げているものは糸巻きを真鍮象眼にして少し下部に据えている頭と、桜を銀で高彫りして据えているものがある程度である。皆無では無いから、上記のように言い切れないが、実用を意識した中での頭(かしら)として考えることが、この時代には必要だろう。(他国の金工作品でも縁(ふち)だけで、頭(かしら)は角というものもよく見かける) 2017/9/12 頭は黒四分一の地金である。九曜紋を上下に彫り、それをなるめるようにして九曜紋を目立たないようにしている。頭と縁は材質も違い、彫りの調子も異なるから、「取り合わせ」とも思えるが、”細川家の紋尽くし”と考えると一作金具となる。 当初は縁の作風の調子と異なるから別人の作かと思ったこともあるが、なるめた九曜紋を真ん中ではなく、上下に据えた趣向は、初代勘四郎の作品と感じさせる。他の作者ならば、もう少し九曜紋を目立たせて、自分の技術をアピールするのではなかろうか。そして、じっと観ていると、この塊は力強さを発していることに気が付く。 2017/9/11 桜も桐紋と同様の調子で、花弁の一枚ごとの面積の大小などには頓着していない。真鍮地の上の毛彫の深浅も花弁によって違う。一方で、縁の裏の引き両の据え紋はきちんとした直線である。直線で無いと絵にならないからだ。ただ二引き両の幅に広狭をつけて変化を付けているの勘四郎だ。 何とも言えない作者勘四郎の自信を感じる。作者の自信は観る人に安心感を与え、余裕というか安らぎを感じさせる。ゆとりとも言える。 2017/9/10 この縁における桐紋、いかにも勘四郎らしく、柔らかく、かすかに湾曲していて、感じがいい。縁は江戸時代後期以降は高さが出るが、江戸時代の前期は奈良三作、宗珉にしても低い。だから縁の面積は狭く、そこにおける文様は小さい。上記写真は拡大しているだけだが、その小さな桐紋だけで勘四郎の魅力が全て出ている。 2017/9/8 華やかな金工作品ばかりだと、このような勘四郎の縁頭も観たくなる。「鑑賞記」も参照していただきたいが、写真でもわかると思うが、”勘四郎の縁”と騒がれるのも納得できる。頭は黒四分一の地金だが、縁は鉄地である。この鉄色はねっとりとした黒色で槌目地というより自然地とでも称する肌だ。桜の象嵌の横には窪みもある。自然な地造りだ。でも、このような肌にも関わらず、鉄味は物凄くよく、輝きも強い。かせた初代の黒楽茶碗の肌ではないが、照りのある黒楽茶碗の肌と同様だ。勘四郎の縁でも、ここまで鉄味がいいのはほとんどない。 |